2023年9月17日の礼拝宣教から

「愛には恐れがない」 ヨハネの手紙一4章16b~21節

津村春英牧師

 今年のプロ野球セントラルリーグ優勝チームの監督の口癖は、「普通にやるだけ」だそうです。ところが私たちには、日常、「恐れ」があります。昔のことばに、地震、雷、火事、親父(強風説も)とあるように、恐れるものが存在します。昨今は線状降水帯による大雨や洪水もそうでしょうか。

 今日の聖書の箇所には、「こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(4:17, 18)とあります。裁きの日は厳粛ですが、主イエスは、敵意や危険に囲まれながらも、父なる神との愛の交流により、神を信頼して歩まれました。そのように、イエス・キリストがなしてくださった愛が自分たちの内に全うされているなら、将来への恐れはないというのです。

 「世界が明日滅びることが分かっていたとしても、私は今日リンゴの木を植えるだろう」はマルティン・ルターのものとされますが、どんなことがあっても、「普通にやる」ということです。確信があるからです。恐れがないからです。神の愛の内にあるなら恐れはありません。希望を持って、進みましょう。

2023年9月10日の礼拝宣教から

「神の愛の内にとどまる」 ヨハネの手紙一4章11~16a節

津村春英牧師

 先週、二つの大きな謝罪会見がありました。ひとつは、ある芸能プロダクション創業者による性加害に関する会社側からの会見、もうひとつは、事故車の修理時にさらに傷を追加して保険金を増額し不正請求した業者と結託した保険会社の会見でした。聖書には、「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブの手紙1:15)とあります。これは他人事ではありません。すべての人に適用されることばです。今、私たちが読んでいるヨハネの手紙一には、「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(ヨハネの手紙一1:7-9)とあります。

 人は自分の罪を告白し、主イエス・キリストの十字架によって、罪を赦されなければなりません。生まれ変わらなければなりません。そして、罪に陥らないように、神の愛(神が人類の罪の贖いとして御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった)の内にとどまり続けるよう勧められています。ここに救いがあり、希望があるのです。

2023年9月3日の礼拝宣教から

「愛の源」 ヨハネの手紙一4章7~10節

津村春英牧師

 100年前の9月1日に関東大震災が発生し、推定10万5千人という死者、行方不明者を出しました。今年の新聞各社が異口同音に言っていることが気になりました。震災のどさくさに紛れ、各地で朝鮮人の虐殺があったというのです。各地にある慰霊碑がその事実を物語っています。デマに踊らされた自己中心の人間の恐ろしい行状です。この自己中心は誰もが持っている性質です。聖書ではこれを罪と言います。

 ところで、「神は愛である」ということばは、聖書のどこにありますか…。ヨハネの手紙一の4章8節、16節の2か所にあります。「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(4:8)。そして、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(同10)とあります。愛の源は神にあり、私たち人間の方からでなく、神の方からその独り子をこの世に遣わしてくださり、私たちの罪を償ういけにえとしてその御子を十字架におかけになりました。これが愛なのです。ここまでしないと人間の罪は赦されないのです。まことの愛は痛みをともなっています。私たちは、この愛にどのように応えたらよいのでしょうか。

2023年8月27日の礼拝宣教から

「真理を見分ける試金石」 ヨハネの手紙一4章1~6節 

津村春英牧師

 熱戦が繰り広げられた夏の全国高校野球選手権大会は、慶應義塾高校の優勝で幕を閉じました。プロ野球のスカウトたちは将来の逸材をどのようにして見分けるのでしょうか。 

 ヨハネの手紙一に関連する教会は、御子の受肉を否定する異端思想との戦いの中にあり、既に出て行った者たちもあり、真理の霊と偽りの霊とを見分けるよう警告されています。ここでいう「霊」とは人の内に入り、その人に影響を及ぼすものであり、その人そのものを指すこともあります。そこで、「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」(4:1)と勧められます。下線部の原語は「試験する」という意味合いです。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。」(同2)「神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。」(同6)とあるように、真理の霊(神の霊)を見分ける試金石は、現代の私たちにとっても、「御子イエス・キリストの受肉(贖罪の十字架)」の告白と、「み言葉に聞く」ということです。

2023年8月20日の礼拝宣教から

「心の安らぎはどこから」 ヨハネの手紙一3章19~24節

津村春英牧師

 人は、いつの時代も不安にさいなまれてきました。それは古代から現代まで変わらない事実です。予測できない未来の災いに対して、少しでも安心できるよう、「お守り」などを身に着けます。キリスト者はどうでしょうか。

 今日の聖書のみことばを見てみましょう。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」(3:18-20)とあります。「神の御前」とは最後の審判のイメージです。後半部分を原 文から直訳すると、たとえ私たちの心が自分を責めたとしても、神(のお心)は私たちの心よりも大きく、神はすべてをご存じだから、私たちは自分の心を説得する(安んじる)のです、となります。

 過去を振り返って、私たちはいったい誰にゆるしを請いますか…。主イエス・キリストの十字架によって罪は赦されているのです。新聖歌465の4番、「その日を望みて 互いに励まし 十字架を喜び 負いて進まん 嘆きも悩みも しばしの忍びぞ 楽しきたたえの 歌と変らん」のように、安心して、揺るがぬ信仰をもって進みましょう。