『誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。』
(Ⅱコリント5章17節・聖書協会共同訳)
(Ⅱコリント5章17節・聖書協会共同訳)
津村春英牧師
第97回選抜高校野球大会で、市立和歌山高校の生徒が宣誓しました。「みなさん、高校野球が好きですか。私たちは高校野球が大好きです。」では、私はこう言いましょう。「皆さん、大阪日本橋キリスト教会が好きですか」。
主イエスは弟子たちに言われました。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」(12:49)と。「火」は審判を表します(ルカ17:29; ユダ7など)。「しかし、わたしには受けなければならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」(12:50)と言われました。それは十字架の死の苦しみですが、弟子たちにはわかっていませんでした。他方、群衆にも、「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」(同56)さらに、「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。」(同57)と言われました。
この主イエスの熱意のこもったお言葉を受けて、私たちも自分の生き方を考えてみましょう。自分にとって今はどんな時でしょうか。今、成すべきことは何でしょうか。神様はいつも私たちを見ておられます。決して孤独ではありません。信じて歩みましょう。
津村春英牧師
「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」
(12:37a)「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(同40)と主は言われました。これは主の再臨される時に、目を覚まして見張っているキリスト者は幸いであるという意味です。そして、「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。」(同47)とも言われました(下線部:御心)。
マタイの福音書25章14~30節の「タラントンのたとえ」も同様の話です。ここでは、ある人が旅行に出かけるとき、僕たちにその能力に応じて自分の財産を預けた結果、能力に応じて商売をして倍増させた僕は、「忠実で良い僕」とほめられますが、何もしないで地の中に隠しておいて僕は「怠け者の悪い僕」と叱責され、預けたものをすべて取り上げられたとあります。ルカでは前者を「忠実で賢い管理人」(ルカ12:42)と呼んでいます。
広辞苑によると「自覚」は、「自己自身の置かれている一定の状況を媒介として、そこにおける自己の位置・能力・価値・義務・使命などを知ること。」とあります。私たちは目覚めていますか。神様から与えられている自分の使命(御心)を自覚していますか。「忠実で賢い管理人」と言われるよう励みましょう!
津村春英牧師
少子高齢化対策の一環として、4月から高校の授業料が無償になります。ただし、経済学者のいうマタイの法則(富める者がますます富み、貧しい者がますます貧しくなる)のように、かえって二極化が進むという負の面を危惧する声もあります。なお、このマタイ13:12の前半は、弟子たちが、「天(神)の国を求め続けるなら、さらに霊的に豊かになっていく」という意味であって、そうであるからこそ、人々が何とか神の国を受け入れるように、主イエスが「たとえ」をもってわかりやすく話されるという文脈にあります。
イエスは、人々の貪欲に関して、「ある金持ちの畑が豊作になった」で始まる「たとえ」をもって、「自分のために富」を積むよりも、「神の前に豊かになるように」と戒められました(cf.12:21)。また、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」(同22)、「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(同31, 32)と言われました。
「主の祈り」の「御国を来たらせてください」は、「あまねく、神の愛で満たしてください」と言い換えることができます。そうです。神の愛が、私たちの心の目を開き、人生に必要なものが何であるかを教えてくれるのです。
津村春英牧師
米国とウクライナの両国首脳の対談は物別れに終わりました。ウクライナのゼレンスキー大統領は大国のトランプ大統領の激しい口調にもたじろぐことがありませんでした。好ましい結果ではありませんが、恐れることなく、毅然として対峙するゼレンスキー大統領が印象的でした。
主イエスは弟子たちにファリサイ派の偽善に注意しなさいと言われました。偽善(ヒュポクリシス)は古代ギリシア劇で仮面をかぶって演じる俳優(ヒュポクリテース)と同根で、前回の内側と外側の話(11:39)に通じています。彼らや、ユダヤ当局者たち、さらにローマ帝国を恐れることなく、「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。言っておくが、この方を恐れなさい。」(12:5)と主は言われました。
人生、いつも自分の思い通りになるわけではありません。いろいろな心配事があり、問題が生じ、悩んだり、恐れたりします。現在のウクライナが舞台と言われるミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の主人公の敬虔なユダヤ人は、家族や民族の悲哀の中にあって、屋根の上で、神に向かってヴァイオリンを弾くのです。私たちも声高らかに歌いましょう。♪「一羽の雀さえ主は守りたもう」(新聖歌285, cf.12:6)と。
津村春英牧師
聖書の中には、主イエスに対峙する主流派として、サドカイ派(ダビデの時代の祭司ツァドクが祖)とファリサイ派(前2世紀のマカベヤ戦争のハシディーム(敬虔な人々)に起源)が登場します。歴史家はさらにエッセネ派を加えます。大まかに言えば、サドカイ派は神殿に執着し、貴族階級を構成したのに対し、ファリサイ派(律法学者や律法の専門家も含む)は律法に関心があり、細部にわたる規定を設け、先祖の言い伝えを守り、祭儀的清めを求めました。
イエスは、ファリサイ派の人に食事に招かれた席上で、「39実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。…41ただ、器に中にあるものを人に施せ、そうすればあなたたちにはすべてのものが清くなる。」(11:39-41)と言われました。まず、人の内側を清くすれば、おのずから外側も清くなるというのです。41節をN.T.ライトは、「心の中にあるものを神に差し出しなさい。そうすれば、あなたがたにとって、すべてが清いものとなる。」(N.T.ライト『新約聖書講解4 すべての人のためのルカ福音書』津村春英訳、教文館、2025、p.217)と意訳しています。
私たちはどうでしょうか。心の中にあるものをすべて神の前に差し出して、清めていただき、どんなことにも動じない平安を与えていただきたいものです。