2024年4月14日の礼拝宣教から

「神の言葉を聞く」 ルカによる福音書 5章1-11節

津村春英牧師

 主イエスはシモンの舟に乗り込み、少し漕ぎ出させ、岸にいる群衆に向かって話し始められた。話し終えると、シモンに、沖に漕ぎ出し、網を降ろして漁をするよう命じました。実は、彼らは一晩中、漁をしたが何も捕れず、疲労困憊でした。しかも、時は漁にふさわしくない日中でした。この最悪と思える条件下でシモンが、イエスの言葉を聞いて(8節「私は罪人です」から察するとネガティヴかもしれないが)、行動に移すと(cf.6:47)、おびただしい数の魚が網にかかり、岸にいる仲間に加勢を頼まねばならないほどでした。「仲間」は7節メトコス・一緒に働く人、10節コイノーノス・共有者の訳ですが、大漁の収穫は仲間との共同作業の結果であったことも見落としてはなりません。シモンは、友と文字通り、恵みを共有して、「あなたは、人間を漁(すなど)るようになる」とのイエスの言葉を聞き、そこから再出発するのです。

 JAXA宇宙飛行士候補者の米田あゆさんは、母校の東大入学式でSteve Jobs のConnecting the dotsを引用し、新入生一人ひとりは一点であるが、いろいろな点と結び合って繋がることによって新たな価値を生み出すと語っておられた。キリスト者も同様です。あなたも一点のままで終わってはなりません。御言葉を聞いて、ネットワークを形成し、広がっていくことが期待されているのです。

2024年4月7日の礼拝宣教から 

「悪霊との戦い」 ルカによる福音書 4章31-44節

津村春英牧師

 悪霊は旧約聖書より新約聖書の方に多く見られます。また、悪霊と悪魔の区別は明確ではなく、同一と考えられます。医学が未発達のイエスの時代に、人々は、多くの病気は悪霊の仕業と考えました。しかし、現代社会に生きる多くの人は、「魔がさした」などという言葉を使いつつも、悪霊の存在を信じません。

 イエスが、ガリラヤ湖畔のカファルナウムで安息日に会堂に入られると、汚れた悪霊にとりつかれた男に出会い、「黙れ、この人から出て行け」と言われると、悪霊はその人から出て行きました。さらに、高熱で苦しんでいたシモンの姑に対し、イエスが熱を叱ると、熱は去ったとあります。まるで何かが入っていたかのようです。またいろいろな病気で苦しむ人に、イエスが手を置いて癒されると、悪霊が「お前は神の子だ」と言いながら出て行ったとあります。すべての病気の原因が、悪霊だとは言えませんが、現代医学ではどうしても説明がつかない病もあります。

 悪霊が、私たちに向かって、私たちの心の弱さ、体の弱さ、経済的な問題などをもって、「お前はダメな子だ」と私たちを責めることがあるかもしれません。そんな時には、み言葉の剣によって身を守るように勧められています(エフェソ6:13-17)。悪霊に負けてはなりません。

2024年3月31日の礼拝宣教から

「死は勝利にのみ込まれた」 コリント一15章50-58節

津村春英牧師

 違法賭博疑惑で、アメリカ大リーグに激震が走りました。「真実」の早期解明が求められています。国内では、自民党派閥の政治資金パーティー裏金事件を巡り、野党は追及の手を緩めず、「真実」を引き出そうとしています。

 さて今日は、主イエス・キリストの復活を祝うイースターです。主の復活は「真実」なのか。マタイ福音書28章には、主の復活直後に、祭司長たちは賄賂を使って兵士たちに嘘の証言をさせているシーンが見られます。しかし、パウロは言います。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(コリント一15:17)と。そして、「死は勝利にのみ込まれた、…わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(同54-57)と続けています。こうして、「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(同58)と励ましています。 

 罪から来る死(ローマ6:23)は、私たちの最強にして最後の敵であるが、主の復活による勝利にのみ込まれたというのです。心から感謝し、将来を憂えることなく、それぞれ与えられている主の業に励みましょう!

2024年3月24日の礼拝宣教から

「キリストの愛を知る」  エフェソ3章14-19節

津村春英牧師

 植物は同じ仲間同志で会話をしているそうです。木が虫に食べられ、腐り始めると、ある物質を放出して危険を隣の木に知らせ、それを受けた隣の木は、虫が嫌がるものを表面に造り出すことによって、虫はやってこないそうです。

 今日から受難週に入ります。ゴルゴダの丘で一体、何があったのでしょうか。私たちをむしばむ罪に勝利したゴルゴダの丘の十字架から発せられるメッセージを聞き取り、私たちはサタンに対してバリヤーを造っているでしょうか。

 エフェソ書3章14-19節は、ギリシア語原文ではたった一つの長い文で、二つの「とりなしの祈り」で構成されています。まず、16-17節に、父なる神がキリスト者の「内なる人」を強め、キリストを心の内に住まわせ、その愛に根差し、愛の内に自己が確立されるようにと祈っています。次に18-19節で、「キリストの愛」(原語は18節にはなく、19節にのみ出てくる)の広さ、長さ、高さ、深さをよく理解し、この人知を超えた愛を知って、神の満ち溢れる豊かさに満たされるようにと祈っています。

 「キリストの愛」が現わされたゴルゴダの十字架からメッセージが聞こえますか。信仰の耳をもって聞くのです。信仰の目をもって十字架を見るのです。祈りましょう!

2024年3月17日の礼拝宣教から

「恵みの御言葉」  ルカによる福音書4章14-30節

津村春英牧師

 主イエスはヨハネが捕らえられた後(cf.マルコ1:14)、ガリラヤに帰られ、諸会堂で教えて好評を博し、故郷のナザレに来て会堂に入られました。そこで預言者イザヤの巻物(ビブリオン:バイブルの語源)の、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(4:18-19)を読み、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(同21)と話されました。人々は、イエスを賞賛し、その恵みの御言葉に驚きます。ただし、「驚く」の原語には感嘆と反対の両方の意味があります。上記の言葉に関連して、預言者エリヤが飢饉の後に遣わされた先はユダヤ人ではなく異邦人のやもめであり、また、エリシャもツァラアトを患う異邦の将軍ナアマンに遣わされたとイエスが話されると、聞いた人々は怒り心頭に発し、イエスを崖から突き落とそうとしました。つまり、彼らが聞いた言葉は彼らにとっては恵みの御言葉にならなかったのです。

 では、私たちにとってはどうですか。どんな試練の中にあっても、神の愛が注がれていることを信じるなら、それは恵みの御言葉になるのです。