2025年8月10日の礼拝宣教から

「やもめと裁判官のたとえ」 ルカ福音書18章1-8節

牧師 津村春英

 主イエスは弟子たちに継続して祈ることの大切さを教えるため、次のたとえを話されました。神を畏れず、人を人とも思わない裁判官のところに、弱者のやもめ(『総説・ユダヤ人の歴史 中』新地書房、1991、158頁など)が、自分の正当性を証明してくれるよう、何度もやってきて懇願しました。当時は民事だけでなくすべての訴訟がこのように行われたようです(N.T.ライト『すべての人のためのルカ福音書』教文館、2025、318頁)。この裁判官は、際限なくやってくるやもめに根負けして、裁きを行ったというのです。

 不正な裁判官でもそうなら、ましてや正しいお方である神は、「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」(7)と言われました。これは最後の審判の裁きを意味しています。それは、主の再臨の時に起こります。続いて、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(8)と加えられました。「人の子」バルナシャ(アラム語)はダニエル書7章に登場する救い主で、主イエスはご自分を指して言われたのですが、この信仰は忍耐強い祈りを意味しています。他人事ではありません。私たちに尋ねておられるのです。

2025年8月3日の礼拝宣教から

「人の子が現れる日」 ルカ福音書17章20-37節

牧師 津村春英

 先週、カムチャッカ半島沖で発生したマグニチュード8.7という大地震により発生した津波のために、日本列島の沿岸地域の住民は、危険な暑さの中、高台への避難を余儀なくされました。テレビでは、後ろを振り返らないでひたすら逃げるようにとのアナウンスが繰り返されました。

 ファリサイ派の人々の関心は、神の国の到来でした。しかし主イエスは、神の国は観察できるような仕方ではなく、あなたがた間(語義は「心の中」)にあると言われました。さらに主イエスは、「人の子が現れる日」には、ノアの時代にあったようなことが起こり、また、ロトの時代にあったようなことが起こると言われました。それは厳粛な裁きの日です。その日には、屋上にいる者は、家財道具を取りに家の中に降りてはならず(階段は外にあった)、畑にいる者も帰ってはならないと言われたのは、振り向いて塩の柱になったロトの妻のように、この世の富に執着することなく、ひたすら神のもとに逃れるようにとの勧めなのです。私たちの人生は、ラヴェルのボレロのように必ずしもクレシェンドではありませんが、心の中にあると言われる神の国は、日々成長するように求められているのです。

2025年7月27日の礼拝宣教から    

「神を賛美するために戻ってきた者」 ルカ福音書17章11-19節

牧師 津村春英

 主イエスによって、10人の重い皮膚病(ヘブライ語でツァラアト、ギリシア語でレプラ、聖書協会共同訳では「規定の病」)の人が清められ、癒されました。そのうちのたった一人、しかもサマリア人が大声で神を賛美しながら主イエスの所に戻ってきて、足元にひれ伏し、感謝しました。そこで、主イエスから、「あなたの信仰があなたを救った」(17:19)とのお言葉をいただきました。

 この話は「善いサマリア人」(10:25-37)の話とともにルカ福音書の特有の記事です。ユダヤ人はサマリア人を、その歴史的な背景(紀元前8世紀、サマリアの北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、宗教的混交に陥った)から嫌悪し、軽蔑していましたが、そのサマリア人の信仰が称賛されたのです。

 主イエスは、誰に向かってこの話をされたのでしょうか。弟子たちに対して、ほかの誰よりも神様に感謝しなければならないのは、あなたたち自身ではないかと言われたのでしょうか(ユダヤの語源ユダは神をほめたたえる意。創世記29:35)。あるいは、次にも出てくるファリサイ派の人々に対してでしょうか。では、私たちはどうでしょうか。この教会に毎週、神を賛美するために、感謝をささげるために戻って来る者は誰でしょうか。

2025年7月20日の礼拝宣教から    

「キリストの弟子として」 ルカ福音書17章1-10節

牧師 津村春英

 キリスト教は、小乗仏教の「悟り」や大乗仏教の「拝み」に比べ「啓示宗教」と言われます(司馬遼太郎、他『日本とは何かということ-宗教・歴史・文明』、日本放送出版協会、2003.63頁参照)。キリストの弟子であるキリスト者なら、ただ信じるだけでなく、啓示されたキリストの言葉を学ばねばなりません。

 主イエスは、弟子たちに対して、まず、罪に誘うもの(つまずき)をなくすことはできないが、それを仕掛ける者は災いだと言われ、弟子自身も気をつけるとともに、罪犯した者を戒めなさいと言われました。ただし、悔い改めるなら赦しなさいとも言われました(17:1-3)。次に「信仰を増してください」と言う使徒たちに対して、信仰は大きさでなく、小さくても力を秘めた「からし種一粒ほどの信仰」(同6)の必要性を説かれました。さらに、主の僕として、命じられたことをみな果たした上で、「『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(同10)と諭されました…。

 J.ウェスレーは、人間創造の目的は、「創造者を知り、愛し、楽しみ、そして仕えるため」(BE Works 117)だと書いています。ますます主に仕え、「善かつ忠なる僕よ」(マタイ25:21,23文語訳)と評される人生を歩みたいものです。

2025年7月13日の礼拝宣教から

「モーセと預言者たちがいる」 ルカ福音書16章19-31節

牧師 津村春英

 ルカ16:19-31は、前段落に続くたとえ話で、聞き手は、金に執着するファリサイ派の人々です(14)。ある金持ちとその門前にいる貧乏人ラザロとが登場します。たとえ話に人名が出てくるのは特別ですが、ラザロ(旧約のエルアザルに相当するなら、「神は助け」の意)の地上の人生は恵まれませんでした。死後、この金持ちとラザロの状況は逆転します。陰府(よみ・死者が集められる場所)で苦しみもだえる金持ちは、自分の家族には同じ目に合わないように、はるかかなたのアブラハムの傍らに座するラザロを遣わしてほしいとアブラハムに願いますが、「モーセと預言者(律法の書と預言書:みことば)に耳を傾ける」(31)ようにとの返答があったのです。

 ファリサイ派の人々は、誰よりも律法の書と預言書を重んじていたはずですが、その聞き方に問題があったようです。それを福音(人を幸福にする)として聞き取っていなかったのではないでしょうか。だから、当時のラザロのような人や、徴税人や罪人(15:1)を見下し、顧みることがなかったことが非難されたのでしょう。キリスト者も苦境の時に奇跡を求めるよりもまず、みことばに聞く必要があります(ヤコブ1:21)。