2026年5月31日の礼拝宣教から
「主にあっていつも喜びなさい」 フィリピ書4章4-9節
津村春英牧師
「喜び」の書簡といわれるパウロのフィリピ書の最終章の4章には、「主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(4・聖書協会共同訳)とあり、また、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(同6)と奨めています。そして、「そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。」(同7・聖書協会共同訳)と結んでいます。下線の語は軍事用語で、「見守る、監視する」の意味があり、当時の人々は、時のパックス・ロマーナ(ローマ帝国による平和)を連想するかも知れませんが、パウロはローマ帝国でなく、神から来る、イエス・キリストの真実によってなしとげられた平和が、信じる者の心と考えを守ってくださるのだと書いています。だから、思い煩うのはやめ、求めているものを神に打ち明けなさいとあるのです。
将棋の藤井聡太六冠は、「将棋は唯一解を探すゲームではない」(朝日新聞、2025年6月30日)と言われたそうですが、人生も同じではないでしょうか。いろいろな局面があり、未知の展開があります。しかし、見守っていてくださる方がいるのですから、主にあっていつも喜んでいることができるのです。
2026年5月24日の礼拝宣教から
「目標を目指して」 フィリピ信徒への手紙3章12-4章1節
津村春英牧師
ペンテコステの出来事は皆が一つになって祈っていたときに聖霊が降ったということが重要です(使徒2:1)。現代のキリスト者も、一つとなるように洗礼を受け、聖霊が与えられたのです(コリント一12:13)。
使徒パウロは、親しいフィリピの教会の人々に獄中から手紙を送りました。パウロは、自分自身はまだ信仰の途上にある者であって、なすべきことは、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:14)と言っています。ここでいう「賞」とは、上に召されるという賞よりも、召されてから与えられる賞を意味すると考えられ、「救いの完成」とする解釈があります(佐竹明『ピリピ人への手紙』新教出版、1970、p.225)。確かに、「自分の救いを達成するように努めなさい」(同2:12)と先に書いています。なお、「目標を目指してひたすら走る」は、「目標に向かってどんどん進む」が直訳で、「走る」という語はありません(2:16は文字通り「走る」)。
パウロとフィリピの教会の関係のように、信仰の戦いは、個人でなく、皆で一つとなって、目標を目指して進むことではないでしょうか。互いに祈り合い、一つとなって前進する教会でありたいと思います。
2026年5月17日の礼拝宣教から
「キリストを信じるとは」 フィリピ信徒への手紙3章1-11節
津村春英牧師
新刊の『キリスト教ナショナリズム 不穏なアメリカの変貌』(森本あんり、 渡辺靖、朝日新書、2026)では、現代のアメリカの国家主義は、アメリカ福音派のProsperity Gospel(繁栄の福音)が、個人から国家のレベルに移ったようなもので、信仰なきキリスト教ナショナリズムだと揶揄しています。
キリスト者が、「キリストを信じて救われている」と言うとき、キリストの何を信じて救われているのでしょうか…。フィリピ書3章9節の「わたしには、…キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」は、聖書協会共同訳では、「私には、…キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。」と訳されています。「キリストの真実」とは、神の契約の計画に忠実に従ったこと(フィリピ2:8)であり、「義」とは、そのイエス・キリストの真実を通して、神の新しい契約の民とされることだとN.T.ライトは書いています(N.T.ライト『新しいパウロ』前川裕訳、新教出版、2025、206-210頁参照)。そこではユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、皆、キリスト・イエスにあって一つであり(ガラテヤ3:28他)、死者の中からの復活、キリストの再臨を待ち望むのです(フィリピ3:10-11,20)。これが、キリストを信じて救われているということではないでしょうか。
2026年5月10日の礼拝宣教から
「私はあなたを忘れない」」 イザヤ書 49章14-21節
津村春英牧師
まどみちおの「ぞうさん ぞうさん お鼻が長いのね」は、悪口でありつつ、「お母さんもそうよ。お母さん大好き!」という評価があるようです。今日は母の日、母に感謝し、母を与えてくださった神さまに感謝したいと思います。
紀元前598年、バビロンのネブカドネツァル王の軍隊がエルサレム(シオン)に侵攻し、都を包囲して、指導者層の多くや有用な人々をバビロンに捕囚として連行します。さらに587年に再度やって来て、「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた。」(イザヤ49:14)と嘆くように、都は焼かれ、城壁も破壊されます。しかし、約束の民である古代イスラエルの人々は、捕囚の地から無事にエルサレムに帰還し、荒れ果てた都を再建するという預言があります。その根拠は、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。」(同15)とあります。民が絶望的な暗闇の中を歩むことがあっても、神さまは、決してお見捨てにならないと、初期教会以来、キリスト者はこの預言を自分たちの状況に重ね合わせて読んできました。
キリスト者が「神の子」(ローマ8:14,15)として神に覚えられているなら、「この親にしてこの子あり」のように、歩みたいものです。
2026年5月3日の礼拝宣教から
「幸いな人とは誰か」 詩編94篇12-19節
津村春英牧師
白川静『常用字解』によると、「幸」という字は象形文字から作られていて、手枷をはめられている形で、手枷だけの刑罰で済むので、幸いだということです。これは他と比較した相対的な幸いです。他と比べないで幸いはありますか。
今日の聖書の箇所に、「いかに幸いなことでしょう。主よ、あなたに諭され、あなたの律法を教えていただく人」(94:12)とあり、幸いな人とは、神の言葉によって教えられる人であり、その人が苦難に遭うときにも、安らぎと喜びが与えられるとあります(同13,18-19)。その理由は、神はご自分の民をお見捨てにならず(同14)、正しい裁きを行われる(同15-16)からだとあり、また、「足がよろめく」ときには、主の慈しみが支え、「思い煩いが占める」ときには、主の慰めが喜びを与える(同18-19)とあります。
イザヤ書の、「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする」(42:3)や、主イエスの、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で、謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:28,29)と響きあっています。あらためて問います。幸いな人とは誰でしょうか。