2025年4月13日の礼拝宣教から    

「私たちが生きるために」 ヨハネの手紙一4章7-12節

津村春英牧師

 東京大学総長の入学式の言葉が印象的です。他者に対するより深い理解や配慮に基づく新たなリテラシーを育むことが求められると話されました。これはネット社会における愛の欠如に警鐘を鳴らしておられるのだと思います。

 人は、命の息を吹き入れられて生きるようになったのですが(創2:7)、罪を犯し堕落してしまいました。しかし、「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」(4:9)とあります。イエス・キリストの十字架の御受難を通して再生されるのです。そして、「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(同11)と続きます。この手紙の共同体は危機的な状況にあり(2:19, 22参照)、お互いが愛し合って一つになる必要がありました。

 加工しない自然石だけで積み上げられる野面積(のづらづみ)の石垣の石は、どれ一つとっても同じ石はありませんが、無駄な石など一つもなく、それぞれが役割を果たして、一つの見事な石垣が出来上がると言われます。いろいろな人が集まる教会も同じです。神の愛、イエス・キリストの愛によって生かされ、互いに愛し合う教会でありたいと思います。

2025年4月6日の礼拝宣教から    

「アブラハムの娘だから」 ルカによる福音書13章10-21節

津村春英牧師

 安息日に、18年間もの間、腰が曲がったまま伸ばすことができない女性がある会堂にやってきました。18年といえば、誕生から高校卒業までの年数です。主イエスは彼女をご覧になり、呼び寄せて、「婦人よ、病気は治った」(13:12)と言われ、彼女に両手を置いて癒されました。それを見た会堂長は立腹し、安息日にそのようなことをしてはいけないと群衆に告げました。それに対して、イエスは、この女性も、「アブラハムの娘」だから、祝福を受ける対象であると、反対者たちを叱責されました。さらに、このことは、神の国がもう近づいていることの現れであって、パン種とからし種のたとえをもって説明されました。

 極小のからし種からやがて数メートルもの大きな木になるように、また、粉に混ざって隠れているパン種が時間と共に周りを徐々に膨らませるように、この腰の曲がった女性にも救いが及び、神の国が近づいていると言われたのです。

 主イエス・キリストの十字架が、自分の罪の身代わりの贖いであると信じる人も「アブラハムの娘」なのです。あなたの神の国は信じた時より大きく見えるようになっていますか。もし、そうでないとしたら、何が問題なのでしょうか。悔い改めて、父なる神のもとに帰り、日々、成長させていただきましょう。

2025年3月30日の礼拝宣教から    

「いちじくの木のたとえ」 ルカによる福音書13章1-9節

津村春英牧師

 世界各地で発生した大規模な森林火災がついに日本列島でも発生しました。人為的なもの以外に、極端な乾燥と強風が原因だと言われています。

 主イエスは、何人かの者たちにお尋ねになりました。彼らが報告したピラトによる虐殺の犠牲者について、また、塔が倒れるという事故により死んだ者たちについて、他の人々より罪深かったからかと。イエスの答えは「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(13:3, 5)でありました。これは因果応報でなく、人の滅び(12:4参照)そのものについて言われたのであって、悔い改めることの重要性を説かれたのです。それは、続く「実のならないいちじくの木」のたとえにおいて顕著です。

 十分な年数が経過しているのに、実を結ばないいちじくの木を切り倒せと命じられた園丁の願い、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」(同8, 9)は、悔い改めの実を求める主イエスの思いでもあって、ルカ福音書の随所に見られる箇所(15, 16, 17, 19, 24章など)と響き合います。ただし、悔い改めとは自分を責めることではなく、主イエスを通して父なる神のもとに帰ることなのです(上記下線部13:3, 5のヘブライ語訳)。

2025年3月23日の礼拝宣教から     

「今、成すべきことは?」 ルカによる福音書12章49-59節

津村春英牧師

 第97回選抜高校野球大会で、市立和歌山高校の生徒が宣誓しました。「みなさん、高校野球が好きですか。私たちは高校野球が大好きです。」では、私はこう言いましょう。「皆さん、大阪日本橋キリスト教会が好きですか」。

 主イエスは弟子たちに言われました。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」(12:49)と。「火」は審判を表します(ルカ17:29; ユダ7など)。「しかし、わたしには受けなければならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」(12:50)と言われました。それは十字架の死の苦しみですが、弟子たちにはわかっていませんでした。他方、群衆にも、「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」(同56)さらに、「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。」(同57)と言われました。

 この主イエスの熱意のこもったお言葉を受けて、私たちも自分の生き方を考えてみましょう。自分にとって今はどんな時でしょうか。今、成すべきことは何でしょうか。神様はいつも私たちを見ておられます。決して孤独ではありません。信じて歩みましょう。

2025年3月16日の礼拝宣教から     

「目を覚ましていなさい」 ルカによる福音書12章35-48節

津村春英牧師

 「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」

(12:37a)「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(同40)と主は言われました。これは主の再臨される時に、目を覚まして見張っているキリスト者は幸いであるという意味です。そして、「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。」(同47)とも言われました(下線部:御心)。

 マタイの福音書25章14~30節の「タラントンのたとえ」も同様の話です。ここでは、ある人が旅行に出かけるとき、僕たちにその能力に応じて自分の財産を預けた結果、能力に応じて商売をして倍増させた僕は、「忠実で良い僕」とほめられますが、何もしないで地の中に隠しておいて僕は「怠け者の悪い僕」と叱責され、預けたものをすべて取り上げられたとあります。ルカでは前者を「忠実で賢い管理人」(ルカ12:42)と呼んでいます。

 広辞苑によると「自覚」は、「自己自身の置かれている一定の状況を媒介として、そこにおける自己の位置・能力・価値・義務・使命などを知ること。」とあります。私たちは目覚めていますか。神様から与えられている自分の使命(御心)を自覚していますか。「忠実で賢い管理人」と言われるよう励みましょう!