2025年9月28日の礼拝宣教から

「平和への道」 ルカによる福音書19章41-48節

牧師 津村春英

 集中豪雨、雷雨、竜巻、冠水などの災害が頻繁に起こるようになりました。都市部でも下水があふれ出す現象が発生しています。最新の気象情報をチェックする習慣をつけ、避難方法を常に考えておかねばなりません。そうしないと命を失うことになりかねません。

 主イエスはエルサレムを目前にして涙を流されました(41)。それは、人々が神の裁きの時(救いの時)を理解(原語は、経験を通して知る)せず、滅んでいくのが目に浮かんでおられたからでしょう。今までに、神から多くの預言者が派遣され、神の裁きを語りました。そして最後は主イエスでした。平和への道(42節直訳:平和に至ることがら・複数形)を説かれたのに、人々は耳を貸そうともせず、悔い改めず、ついに40年後の紀元70年に、ローマ軍がエルサレムに攻め入り、神殿は破壊されてしまうのです。

 最後の審判の時はもっと深刻です!そのために、神殿は祈りの家でなければなりませんでした(46)。私たちも、その時を知り、そのために何をしなければならないか、よく考えておかねばなりません。そして教会は、人々の救いのための祈りの家でなければなりません。

2025年9月21日の礼拝宣教から

「主がお入り用なのです」 ルカによる福音書19章28-40節

牧師 津村春英

 13日から開催されているTokyo2025世界陸上も今日が最終日です。一連の競技の中で、観客によっては、感動した競技、競技者は様々だと思います。

 主イエスが、目的地のエルサレムが間近に迫り、子ろばに乗って向かわれるとき、弟子の群れが感極まって(cf.ルカ19:11)、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように(詩編118:26)。天には平和、いと高きところには栄光(cf.ルカ2:14)。」(ルカ19:38)と、あたかも王の都への入場のように、声高らかに賛美しました。群衆の中にいたファリサイ派のある人々は、これに耐えかねて、主に制止するよう求めますが、主は、「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」(同40)と言われました。石(複数形)は彼らが足で踏みしめているものや周りのものを指すと思われますが、このシーンで忘れてならないのは、行進の一役を担う、子ろばです。

 イエス・キリストの福音宣教は、教会を通してなされています。この働きのために、あなたは今、必要とされているのです。主があなたをご入り用なのです。黙っていれば、献堂100周年の会堂が、床が、椅子が叫びだします。あなたは、どのような役割を担いますか。

2025年9月14日の礼拝宣教から

「決算の時」 ルカによる福音書19章11-27節

牧師 津村春英

 明日は敬老の日です。長寿化が進み、高齢者と呼ばれる期間が長くなりました。要介護前で、加齢によって心身が衰える状態をフレイル(frailty:弱さ、もろさ)というそうですが、これには可逆性があり、適切な介入により改善が可能だと言われます。私たちは、信仰のフレイル状態に陥っていませんか。

 人々に、何かが起こると思わせたエルサレムに主イエス一行が近づいたとき、主は一つのたとえを話されました。ある人が王位を得るために遠国に旅立つに際して(ヘロデ大王の死後、息子アルケラオスがローマに赴いたように)、10人の僕に1ムナずつ与え、帰ってくるまでにそれを用いて商売をするよう命じました。帰国するやいなや、それぞれに決算を求め、その成果に応じて報酬を与えましたが、ある者は、主人の思いを理解せず、布に包んでおいて、銀行にも預けず、何もしなかったので、取り上げられてしまう結果になりました。

 このたとえの主人は神様を暗示していて、人には決算の時があることを教えられます。それは人生を終える時であり、何よりも最後の審判の時です。厳しい現実の中にあっても希望を失わず、神さまは愛のお方であると信じて疑わず、主イエス・キリストが開いてくださった救いの道を歩み続けましょう。

2025年9月7日の礼拝宣教から

「救いがこの家に」 ルカによる福音書19章1-10節

牧師 津村春英

 新約聖書時代のローマ帝国の経済は、属州からの税収に大きく依存していました。それは直接税(土地税や人頭税(ルカ2:2の人口調査))と間接税(関税、通行税)で、その徴収を任せられていたのが「徴税人」でした。

 ザアカイはエルサレムへの東の入り口の町エリコの徴税人の長で、たっぷりと私腹を肥やしていたのか、大金持ちでした。しかし、人生、これで終わっていいのかと悩んでいたようです(19:10失われていた)。主イエスが町に来られたと聞くと、背が低かったのでいちじく桑の木の上で待ちました。するとイエスが上を見上げ、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日はあなたの家に泊まらなければならないから。」(同5直訳)と言われたのです。ザアカイは喜んでイエスを家に迎え、人々の非難をよそに、悔い改めと法外な感謝を示すと、イエスは、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」(同9)と言われました。家(オイコス)は建物でなく、家族を表し、アブラハムの子(ルカ1:55;13:16など参照)は救われなければならない存在を意味しました。キリスト者のすべての家にも、主の救いは届いているのです。信仰の襟を正し、家族の救いのために祈り励みましょう。

2025年8月31日の礼拝宣教から

「見えるようになりなさい」 ルカ福音書18章31-43節

牧師 津村春英

 エリコに住むある盲人は、主イエスが自分の前を通り過ぎることを知らされ、千載一遇のチャンスとばかりに叫び続け、「主よ、目が見えるようになりたいのです」(41)と懇願しました。下線部の原語アナブレポーは「もう一度見る」の意で、この人は以前見えていたのかもしれません。何が原因で見えなくなったのかはわかりませんが、今は物乞い以外に収入の道はなく、また、目が見えないことで、どれほど宗教的に(ヨハネ9:2など参照)、社会的に(ヨハネ5:3参照)見下げられてきたことでしょうか。

 しかし主が、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」(42)とお言葉をかけてくださり、彼は癒されたのです。つまり、この盲人が癒されたのは彼の信仰に拠ったのです(7:50; 8:48; 17:19も参照)。目が見えるようになったことにより、彼にはいくつかの選択肢が生じましたが、彼は人生の真の目的を見いだしたかのように、主イエスに従って行った(43)というのです。

 先週、召されたI姉は、56歳のときに急性骨髄性白血病を宣告されますが、自らの信仰を見直し、神さまに全幅の信頼を置いて、癒され、その後、日曜礼拝とボランティア活動に励み、100歳の齢を与えらました。