2025年3月9日の礼拝宣教から     

「人生に必要なもの」  ルカによる福音書12章13-34節

津村春英牧師

 少子高齢化対策の一環として、4月から高校の授業料が無償になります。ただし、経済学者のいうマタイの法則(富める者がますます富み、貧しい者がますます貧しくなる)のように、かえって二極化が進むという負の面を危惧する声もあります。なお、このマタイ13:12の前半は、弟子たちが、「天(神)の国を求め続けるなら、さらに霊的に豊かになっていく」という意味であって、そうであるからこそ、人々が何とか神の国を受け入れるように、主イエスが「たとえ」をもってわかりやすく話されるという文脈にあります。

 イエスは、人々の貪欲に関して、「ある金持ちの畑が豊作になった」で始まる「たとえ」をもって、「自分のために富」を積むよりも、「神の前に豊かになるように」と戒められました(cf.12:21)。また、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」(同22)、「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(同31, 32)と言われました。

「主の祈り」の「御国を来たらせてください」は、「あまねく、神の愛で満たしてください」と言い換えることができます。そうです。神の愛が、私たちの心の目を開き、人生に必要なものが何であるかを教えてくれるのです。

2025年3月2日の礼拝宣教から     

「誰を恐れるべきか」 ルカによる福音書12章1-12節

津村春英牧師

 米国とウクライナの両国首脳の対談は物別れに終わりました。ウクライナのゼレンスキー大統領は大国のトランプ大統領の激しい口調にもたじろぐことがありませんでした。好ましい結果ではありませんが、恐れることなく、毅然として対峙するゼレンスキー大統領が印象的でした。

 主イエスは弟子たちにファリサイ派の偽善に注意しなさいと言われました。偽善(ヒュポクリシス)は古代ギリシア劇で仮面をかぶって演じる俳優(ヒュポクリテース)と同根で、前回の内側と外側の話(11:39)に通じています。彼らや、ユダヤ当局者たち、さらにローマ帝国を恐れることなく、「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。言っておくが、この方を恐れなさい。」(12:5)と主は言われました。

 人生、いつも自分の思い通りになるわけではありません。いろいろな心配事があり、問題が生じ、悩んだり、恐れたりします。現在のウクライナが舞台と言われるミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の主人公の敬虔なユダヤ人は、家族や民族の悲哀の中にあって、屋根の上で、神に向かってヴァイオリンを弾くのです。私たちも声高らかに歌いましょう。♪「一羽の雀さえ主は守りたもう」(新聖歌285, cf.12:6)と。

2025年2月23日の礼拝宣教から     

「外側と内側」 ルカによる福音書11章37-54節

津村春英牧師

 聖書の中には、主イエスに対峙する主流派として、サドカイ派(ダビデの時代の祭司ツァドクが祖)とファリサイ派(前2世紀のマカベヤ戦争のハシディーム(敬虔な人々)に起源)が登場します。歴史家はさらにエッセネ派を加えます。大まかに言えば、サドカイ派は神殿に執着し、貴族階級を構成したのに対し、ファリサイ派(律法学者や律法の専門家も含む)は律法に関心があり、細部にわたる規定を設け、先祖の言い伝えを守り、祭儀的清めを求めました。

 イエスは、ファリサイ派の人に食事に招かれた席上で、「39実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。…41ただ、器に中にあるものを人に施せ、そうすればあなたたちにはすべてのものが清くなる。」(11:39-41)と言われました。まず、人の内側を清くすれば、おのずから外側も清くなるというのです。41節をN.T.ライトは、「心の中にあるものを神に差し出しなさい。そうすれば、あなたがたにとって、すべてが清いものとなる。」(N.T.ライト『新約聖書講解4 すべての人のためのルカ福音書』津村春英訳、教文館、2025、p.217)と意訳しています。

 私たちはどうでしょうか。心の中にあるものをすべて神の前に差し出して、清めていただき、どんなことにも動じない平安を与えていただきたいものです。

2025年2月16日の礼拝宣教から     

「今の時代に対するしるし」 ルカによる福音書11章29-36節

津村春英牧師

 聖書で「しるし」と訳されている原語は「セーメイオン」で、神が行われる奇跡を指します。主イエスの当時の人々はとかく「しるし」を求めました。それに対して主は、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。」(11:29-30)「また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」(同32、下線部は「復活する」の意味もある)と言われました。預言者ヨナによって異邦の国のニネベの人々が悔い改めるという奇跡が起こったように、今、ヨナにまさる「人の子」(バル・ナーシャー:アラム語でメシア称号)、つまり、主ご自身が、人々の前に立って、悔い改めを迫っておられるのです。

 人は死んで、霊だけ(Ⅰテサロニケ5:23、人は霊と魂と体で構成される)になって眠り、復活つまり、裁きの時を待ちます。その時には悔い改めたニネベの人々も、「なぜ悔い改めなかったのか」と声を上げるというのです。今、罪によって心の光を暗くしているなら、私たちには悔い改めという「しるし」が必要です。そうすれば、全身が輝くのです(同36)。

2025年2月9日の礼拝宣教から     

「悪霊と聖霊」 ルカによる福音書11章14-28節

津村春英牧師

 私事ですが、昨年末から歯科医院に通っています。歯を削って虫歯菌を除去しますが、その後、空洞のまま放置しておけないので詰め物やかぶせ物をして治療が完成します。私たちの心はどうでしょうか。心が悪しきものによって蝕まれている場合はどうしたらよいのでしょうか。

 悪霊(ダイモニオン)とは悪魔(サタン、ここではベルゼブル)の支配下にある諸霊ですが、主イエスの時代には、悪霊に憑りつかれていると表現される多くの人がました。イエスが、口をきけなくする悪霊を追い出されたのを見て、ある人は、イエスは悪霊の頭(かしら・ベルゼブル)の力で追い出していると非難しました。しかし、イエスは彼らの心を見抜いて、悪霊ではなく、「神の指」(出エジプト8:15など)で悪霊を追い出していて、神の国はもうあなたたちのところに来ていると言われました。それから、次の譬えを話されました。「汚れた霊(悪霊)が人から出ていくが、また戻ってくると、その人の心は空いたままだったので、さらに自分以上の悪霊を連れてきて中に入り込んで住み着いた」と。

 滑稽な話ですが、笑えません。救われたにもかかわらず、どれだけ多くの人が教会から去って行ったでしょうか。心の罪を赦していただいたなら、その後、心を聖霊に支配していただいて(聖霊に満たされて)、イエス・キリストの十字架の愛、神の愛で心が満たされていなければなりません。私たちはどうでしょうか。