2025年4月27日の礼拝宣教から  

「神の国での宴会」 ルカ福音書13章22-30節

津村春英牧師

 開幕した大阪・関西万博の入場には電子チケットが導入され、個人IDや券種、日時、入場ゲート、予約パビリオンなどの情報が入ったQRコードを、スマホか印刷したものを認証してもらって入るようです。天の御国への入場はどうでしょうか。

 主イエスは、私たちが神の国に入り食卓につく(原語に宴会の語はない)ためには、狭い戸口から入るので、奮闘しなさいと言われました(13:24)。そして、「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」(同30)とも言われました。直訳すると、「最後の者がいる。彼らは最初の者になるであろう。そして、最初の者がいる。彼らは最後の者になるであろう。」となります。ルカ福音書や使徒言行録では、後の人(最後の者)とは悔い改める罪人や異邦人であり、他方、先の人(最初の者)とは悔い改めない選民ユダヤ人を指しています。

 その戸口に立った時に、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」(同27)と言われないように、聖霊(御国を受け継ぐための保証:エフェソ1:13,14)に満たされ、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き」(ローマ12:15)、神に喜ばれるように歩んでいきましょう。

2025年4月20日の礼拝宣教から    

「復活の望みに生きる」 ヘブライ人への手紙13章1-8節

津村春英牧師

 Happy Easter!今日は主の復活を記念する日です。主の十字架により私たちの罪は赦され、主の復活により私たちに希望が与えられました。人は皆、時間と共に老いて行き、肉体は最後に焼かれて骨になります。しかし、霊で存在し、主の再臨の時、最後の晩餐の時を待つのです。このプランの中で、信仰者はどうあるべきでしょうか。今日はヘブライ書に聞きましょう。13章の始めの箇所に6つの勧めを見つけます。

 1.兄弟姉妹の愛(フィラデルフィア)を継続すること。2.旅人をもてなす(フィロクセノス)こと。3.困難の中にいる人を思いやること(レフ・トルストイの民話『愛のあるところには神がある』(靴屋のマルティン)のように)。4.結婚を尊ぶこと(結婚は契約。横行する有名人の不品行や不倫はいかがなものか)。5.金銭に執着しないこと(主が助けてくださる。ローマ8:28)。6.指導者たち(過去と現在の)を思い起こし、その信仰に倣うことです。

 これらの背後に、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(13:8)というみことばがあります。厳しい現実の中にも希望をもって進みましょう。ハレルヤ!

2025年4月13日の礼拝宣教から    

「私たちが生きるために」 ヨハネの手紙一4章7-12節

津村春英牧師

 東京大学総長の入学式の言葉が印象的です。他者に対するより深い理解や配慮に基づく新たなリテラシーを育むことが求められると話されました。これはネット社会における愛の欠如に警鐘を鳴らしておられるのだと思います。

 人は、命の息を吹き入れられて生きるようになったのですが(創2:7)、罪を犯し堕落してしまいました。しかし、「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」(4:9)とあります。イエス・キリストの十字架の御受難を通して再生されるのです。そして、「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(同11)と続きます。この手紙の共同体は危機的な状況にあり(2:19, 22参照)、お互いが愛し合って一つになる必要がありました。

 加工しない自然石だけで積み上げられる野面積(のづらづみ)の石垣の石は、どれ一つとっても同じ石はありませんが、無駄な石など一つもなく、それぞれが役割を果たして、一つの見事な石垣が出来上がると言われます。いろいろな人が集まる教会も同じです。神の愛、イエス・キリストの愛によって生かされ、互いに愛し合う教会でありたいと思います。

2025年4月6日の礼拝宣教から    

「アブラハムの娘だから」 ルカによる福音書13章10-21節

津村春英牧師

 安息日に、18年間もの間、腰が曲がったまま伸ばすことができない女性がある会堂にやってきました。18年といえば、誕生から高校卒業までの年数です。主イエスは彼女をご覧になり、呼び寄せて、「婦人よ、病気は治った」(13:12)と言われ、彼女に両手を置いて癒されました。それを見た会堂長は立腹し、安息日にそのようなことをしてはいけないと群衆に告げました。それに対して、イエスは、この女性も、「アブラハムの娘」だから、祝福を受ける対象であると、反対者たちを叱責されました。さらに、このことは、神の国がもう近づいていることの現れであって、パン種とからし種のたとえをもって説明されました。

 極小のからし種からやがて数メートルもの大きな木になるように、また、粉に混ざって隠れているパン種が時間と共に周りを徐々に膨らませるように、この腰の曲がった女性にも救いが及び、神の国が近づいていると言われたのです。

 主イエス・キリストの十字架が、自分の罪の身代わりの贖いであると信じる人も「アブラハムの娘」なのです。あなたの神の国は信じた時より大きく見えるようになっていますか。もし、そうでないとしたら、何が問題なのでしょうか。悔い改めて、父なる神のもとに帰り、日々、成長させていただきましょう。

2025年3月30日の礼拝宣教から    

「いちじくの木のたとえ」 ルカによる福音書13章1-9節

津村春英牧師

 世界各地で発生した大規模な森林火災がついに日本列島でも発生しました。人為的なもの以外に、極端な乾燥と強風が原因だと言われています。

 主イエスは、何人かの者たちにお尋ねになりました。彼らが報告したピラトによる虐殺の犠牲者について、また、塔が倒れるという事故により死んだ者たちについて、他の人々より罪深かったからかと。イエスの答えは「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(13:3, 5)でありました。これは因果応報でなく、人の滅び(12:4参照)そのものについて言われたのであって、悔い改めることの重要性を説かれたのです。それは、続く「実のならないいちじくの木」のたとえにおいて顕著です。

 十分な年数が経過しているのに、実を結ばないいちじくの木を切り倒せと命じられた園丁の願い、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」(同8, 9)は、悔い改めの実を求める主イエスの思いでもあって、ルカ福音書の随所に見られる箇所(15, 16, 17, 19, 24章など)と響き合います。ただし、悔い改めとは自分を責めることではなく、主イエスを通して父なる神のもとに帰ることなのです(上記下線部13:3, 5のヘブライ語訳)。