2025年2月16日の礼拝宣教から     

「今の時代に対するしるし」 ルカによる福音書11章29-36節

津村春英牧師

 聖書で「しるし」と訳されている原語は「セーメイオン」で、神が行われる奇跡を指します。主イエスの当時の人々はとかく「しるし」を求めました。それに対して主は、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。」(11:29-30)「また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」(同32、下線部は「復活する」の意味もある)と言われました。預言者ヨナによって異邦の国のニネベの人々が悔い改めるという奇跡が起こったように、今、ヨナにまさる「人の子」(バル・ナーシャー:アラム語でメシア称号)、つまり、主ご自身が、人々の前に立って、悔い改めを迫っておられるのです。

 人は死んで、霊だけ(Ⅰテサロニケ5:23、人は霊と魂と体で構成される)になって眠り、復活つまり、裁きの時を待ちます。その時には悔い改めたニネベの人々も、「なぜ悔い改めなかったのか」と声を上げるというのです。今、罪によって心の光を暗くしているなら、私たちには悔い改めという「しるし」が必要です。そうすれば、全身が輝くのです(同36)。

2025年2月9日の礼拝宣教から     

「悪霊と聖霊」 ルカによる福音書11章14-28節

津村春英牧師

 私事ですが、昨年末から歯科医院に通っています。歯を削って虫歯菌を除去しますが、その後、空洞のまま放置しておけないので詰め物やかぶせ物をして治療が完成します。私たちの心はどうでしょうか。心が悪しきものによって蝕まれている場合はどうしたらよいのでしょうか。

 悪霊(ダイモニオン)とは悪魔(サタン、ここではベルゼブル)の支配下にある諸霊ですが、主イエスの時代には、悪霊に憑りつかれていると表現される多くの人がました。イエスが、口をきけなくする悪霊を追い出されたのを見て、ある人は、イエスは悪霊の頭(かしら・ベルゼブル)の力で追い出していると非難しました。しかし、イエスは彼らの心を見抜いて、悪霊ではなく、「神の指」(出エジプト8:15など)で悪霊を追い出していて、神の国はもうあなたたちのところに来ていると言われました。それから、次の譬えを話されました。「汚れた霊(悪霊)が人から出ていくが、また戻ってくると、その人の心は空いたままだったので、さらに自分以上の悪霊を連れてきて中に入り込んで住み着いた」と。

 滑稽な話ですが、笑えません。救われたにもかかわらず、どれだけ多くの人が教会から去って行ったでしょうか。心の罪を赦していただいたなら、その後、心を聖霊に支配していただいて(聖霊に満たされて)、イエス・キリストの十字架の愛、神の愛で心が満たされていなければなりません。私たちはどうでしょうか。

2025年2月2日の礼拝宣教から

「祈るときには」 ルカによる福音書11章1-13節

津村春英牧師

 インターネットのあるサイトに、神社仏閣での祈り方について書かれてありました。大勢の参拝者がいるので、まず、自分の住所氏名をしっかり伝えること。次に日頃の感謝を伝えること。そして、願い事を伝えることとありました。

 キリスト者の祈りはどのようでしょうか。勿論、住所氏名は不要ですね。願う前に感謝することを忘れていませんか。祈り方を尋ねた弟子たちに対し、主イエスは次のようにお教えになりました。まず、天の父の御名が聖とされるように、その御支配が地上に行きわたるように、それから、自分の日毎の糧を毎日与えてください、自分の罪を赦してください、試みに会わせないでくださいと、しかも熱心に求めなさいと言われました。そうすれば、神は必ず良い物をお与えになり、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(11:13)と言われました。

 私たちは、洗礼を受けて聖霊を与えられますが、聖霊がその人の心を支配しているかどうかが問題です。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)とあるように、聖霊が教えてくださるのです。聖霊によらなければわからないのです。聖霊に満たされるよう祈りましょう。

2025年1月26日の礼拝宣教から

「良いほうを選ぶ」 ルカによる福音書10章38-42節

津村春英牧師

 わが国における女性の地位向上は時代の流れですが、主イエスの時代は違っていました。教師の足下に坐って話を聞くのは男性のすることでした。マルタとマリアの姉妹の話で、接待に忙しくしているマルタは、何もしないでただイエスの傍で話に聞き入っているマリアを見て憤慨し、ついに口に出してしまいました。それに対してイエスは、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(10:41, 42)とお答えになりました。イエスが繰り返してマルタの名前を呼ばれることは愛情の現れで、マルタの心中を十分に察しておられたと思います。優先順位はTPO(時、場所、場合)によって異なります。ここは、み言葉を聞くべき時だったのでしょう。きっとマルタにも、座って聞くようになされたと推測します。

 この話の直前の「善いサマリア人の譬え」の結語では「実行すること」が求められ、それとバランスをとるように、「み言葉を聞くこと」が奨められたという解釈もあります。そして女性にスポットを当てているところがルカ的なのかもしれません。私たちも、その時の選択を間違えないように、いつも神さまの御心を求めつつ歩みたいものです。

2025年1月19日の礼拝宣教から     

「善いサマリア人」 ルカ福音書10章25-37節

津村春英牧師

 ある律法の専門家がイエスに、永遠の命を得る方法を尋ねたところ、神を愛し、またあなたの隣人を愛せよと告げられました。彼は、では隣人とは誰かと問い返すと、イエスは、かの有名な「善いサマリア人」の譬え話をされました。サマリア人とは、紀元前722年に北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、民族的純潔を守れなかった人々で、それゆえに南ユダ王国の人々から軽蔑され嫌われました。それは主イエスの時代にも及んでいました。

 エルサレムの神殿に仕える祭司、レビ人がそれぞれ家路につく途上で、盗賊に襲われて服をはぎ取られ半殺しにされたユダヤ人に遭遇しますが、見て見ぬふりをして通り過ぎました(死人に触れるのは祭儀的に汚れるゆえか?)。他方、旅をしていたサマリア人は傷(ギリシア語・トラウマ)を負った人を、あわれに思って(内臓の派生語)、助けます(思いやりを示すという意味の語)。イエスは傷ついた人の隣人になったのは、ユダヤ人が嫌悪するサマリア人だと、律法の専門家に気づかせ、「行ってあなたも同じようにしなさい」(10:37)とお命じになりました。

 パウロの「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)という言葉が響きます。み言葉を行うことができるように努めましょう。ただし、時には、自分自身が傷ついた旅人になり得ます。その場合は、善いサマリア人であるイエス(19世紀までの主な解釈)が思いやりを示してくださることでしょう。