2025年6月15日の礼拝宣教から

「走り寄る父の愛」 ルカによる福音書15章11-24節

津村春英牧師

 「見失った羊」、「なくなった銀貨」のたとえに続く「いなくなった息子」のたとえは、「放蕩息子」のたとえとしてよく知られています。前二者に比べ、意識的にあるべきところから外れたケースです。生存している父から遺産をもらい(後代のミシュナやタルムードから、生前贈与はあり得たと推察)、換金して遠い国に旅に出、放蕩の限りを尽くして散財し、落ちぶれて、行きついたところはユダヤ人の嫌悪する豚の飼育でした。その飼料のいなご豆(モロッコインゲンの短いものに似ている)のさやを食べたいほどだったと書かれています。そこでやっと気づき、父のもとに帰ります。父は彼を見つけるやいなや、走り寄って抱きしめたというのです。さらに、服、指輪、履物などを与えて息子の復権を図り、宴会を僕たちに指示しました。これは「愛の神のたとえ」です。

 肉親の父に抱かれたことは、「覚えていないだけ」(cf.映画「武士の家計簿」の終わりのシーンの父のことば)かもしれません。霊の父(ヘブライ12:10)は、私たちが本来いるべきところに帰ることを望んでおられます。この父のもとに帰りましょう!父なる神は走り寄って迎えてくださいます。そして、ギュッと抱きしめてくださいます。

2025年6月8日の礼拝宣教から    

「喜びを分かち合う」 ルカによる福音書15章1-10節

津村春英牧師

「記録より記憶に残る選手になりたい」と言ったミスタープロ野球、伝説の人が亡くなられました。人々の心に残されたものがあることでしょう。主イエスは弟子たちに約束を残されました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である」(ヨハネ14:6)。そして、「この方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(同16:8)と、弁護者と表現される聖霊の降臨の約束をされ、ペンテコステの日にそれは起こりました。

 ルカ福音書15章の三つの失われたものの救い(1-7; 8-10; 11-32)には、「悔い改める一人の罪人」がクローズアップされています。旧約聖書ヘブライ語の「罪を犯す」ハッターは「的を外す」という意味があり、目標を見失っているということです。「罪の悔い改め」とは、本来の目標に向かうことです。見失った一匹の羊、なくした一枚の銀貨が本来のところに戻るなら、天で大きな喜びがあると主は言われました。自分の「罪」に気づかせてくださるのが聖霊で、本来のところに戻してくださるのが主イエスの十字架なのです。主に見いだされ、的を射た人生へと導かれているその喜びを分かち合いましょう。

2025年6月1日の礼拝宣教から    

「主イエスの弟子であること」 ルカによる福音書14章25-35節

津村春英牧師

 戦後、進駐軍の政策もあり、多くの人がキリスト教会に何かを求めてやってきました。得られなかったのか、期待外れだったのか、多くの人が去って行きました。一体、どれだけの人が残ったのでしょうか。

 押し寄せる大群衆を前にして、主イエスは「弟子であること」を説かれました。家族を捨て、自分の命までも惜しまず、後に続くようでなければ、弟子になることはできないと言われました。確かに、エルサレムへの旅の目的は十字架でしたので、その従者として当然の覚悟が求められたのです。そこまで言われて、果たしてどれだけの人が残ったのでしょうか。ウイリアム・バークレーは、「教会の中には、イエスに何となく従っている者が多いが、真の弟子は少ない」と書いています(『ルカ福音書』柳生望訳、ヨルダン社、1979, p.218)。

 さらに主は、弟子を塩にたとえられました、塩は、防腐剤、調味料、畑の肥料として用いられました(同pp.219-220)。塩は自分をなくして周りに影響を与えるものです。まさに、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)という生き方です。天に宝を積む生き方です。最後の審判の時に、各自の天国銀行の通帳の貯金額がチェックされます。大丈夫でしょうか。

2025年5月25日の礼拝宣教から

「招かれて食事をする者」 ルカによる福音書14章12-24節

津村春英牧師

 主イエスがファリサイ派の議員に食事に招かれた際、客の一人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(14:15)と言ったので、主イエスは神の国の宴会について、次の話をされました。ある主人(神)が、宴会の時刻(最後の審判)になったので、すでに招待状を送っていた人々のところに僕を遣わしたところ、畑を買ったので、妻をめとったので、牛を買ったのでなどと弁解し、招待を断ったと僕から報告を受けました。それで主人は、再度、再々度、町中や町の外れまでも出て行って、本来招かれる予定のない人々をかき集めて席を埋めるよう、僕に命じました。これは、招待状を受けていたのに断わったのがファリサイ派の人々を含む選民ユダヤ人であり、他方、かき集められて食事の席に着くのは、悔い改めた罪人たちになるというたとえでした。

 牧師も洗礼証書という、神の国の食事への招待状を発行しますが、その人が食事の席に着くことができるかどうかは、その後の、その人の生き方にかかっています。どれだけ、神様に喜ばれることをしたのか、どのように生きてきたのか、それが問われるのです。来るべき日、神の国の食事を味わう(喜びを分かち合う)ことのできる人は誰でしょうか。

2025年5月18日の礼拝宣教から

「むしろ末席に」 ルカによる福音書14章1-11節

津村春英牧師

安息日は十戒に定められ、文字通り安息の日であって労働が禁じられました。それは神さまの愛のご配慮でした。しかし、後に細則が加えられていき、安息ではなく窮屈な制度になり、いつしか律法の専門家やファリサイ派の人々がそれを監視するようになっていました。そんな中、主イエスは、安息日に招かれた食事の席で、水腫を患う人を癒されました。これは労働とみなされますが、規則より愛が優先されることをお示しになるためでした。

 続いて、招かれた客が上席を選ぶ様子をご覧になり、婚宴の席に例えて、「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14:10, 11)と言われました。これは単なる道徳訓ではなく、やはり愛の問題なのです。主イエスは、天の父のところ、つまり上席におられたのに、地に下られ、実に十字架の死という末席に座られたのです。「キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして/僕の形をとり…/人間の姿で現れへりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました」(フィリピ2:6-9・聖書協会共同訳)。模範を示された主イエス・キリストに続きましょう!