2025年3月15日の礼拝宣教から

「罪なきお方」 ルカによる福音書23章13-25節

津村春英牧師

 東日本大震災から15年が経過しました。亡くなられた人々は、なにゆえに命を奪われなければなかったのでしょうか。命の尊さを考えるときでもあります。

 ローマから遣わされていた総督ピラトは、エルサレム当局者たちの、民衆を巻き込んだ「その男を十字架につけろ」という要求に負け、彼らの意向どおりに、犯罪人のバラバを釈放し、イエスを引き渡します(24)。このやり取りで、ピラトが、「この男には、何の犯罪も、死刑に当たるようなことも見いだせない」(14,15,22)と三度、断言するところが特徴的です(なお、16節の「鞭」は原語になく、23節「声はますます強くなった」は、「声がまさった」、25節「好きなようにさせた」は、「彼らの意向どおりに(引き渡した)」が妥当な訳)。

 N.T.ライトは、「イエスは、暴力的な反逆者が受けるべき死を死んでゆくことになるのです。…ローマの不当な裁判と、すべての人間のシステムを覆すところの神の不思議な裁判のもとに、人間の慈愛が届かなかったところに神の慈愛が届くのです。」と書いています(『すべての人のためのルカ福音書』pp.412-413)。「罪なきお方」が、バラバのような暴力的な反逆者が受けるべき死を見事に死にきることによって、それが自分の身代わりであると信じる人々を救うのです。この愛、あなたに届いていますか。

2025年3月8日の礼拝宣教から

「ヘロデとピラト」 ルカによる福音書23章1-12節

津村春英牧師

 先月末、米国とイスラエルがイランを空襲し、全権の最高指導者が殺害されました。紀元前2世紀のユダヤにも大祭司と国家元首と軍司令官を一人で占める時代がありました。主イエスの時代になると、実質的には大祭司を頂点とする最高法院が治めていたものの、エルサレムはローマ帝国の直轄地となり、総督が遣わされていました。死刑執行はローマの手によらねばなりませんでした。最高法院から送られたイエスを総督ピラト(聖書外の記述では悪代官)は尋問しますが、イエスがガリラヤ出身者であると聞くと、過越の祭でエルサレムに来ていたガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスのもとに送り、責任を回避しようとします。イエスから狐と呼ばれたヘロデ(ルカ13:32)も、自分の兵士らと共にイエスを侮辱したあげく、王のようなきらきらと輝く衣を着せ、ピラトのもとに送り返しました。この日、ヘロデとピラトは仲良くなったとあります。

 この二人は、イエスと出会いながら全く変えられませんでした。聖書には書かれていませんが、後にピラトは解任され(A.D.36)、ヘロデも流刑になります(A.D.39)。他方、後年、パウロは、復活された主と出会い、迫害者から宣教者へと大きく変えられ、今日の世界の教会の礎を築きました。では、私たちは、イエス・キリストと出会って変えられましたか。また日々変えられていますか。

2025年3月1日の礼拝宣教から

「二つの回答」 ルカによる福音書22章54-71節

津村 春英牧師

 42年前、滋賀県日野町で起きた強盗殺人事件では、強要された自白にもとづき犯人とされた人物の無期懲役が確定し、その人は服役中に死亡しました。ところが、先週、最高裁がその裁判のやり直しを認める決定を出したそうです。

 主イエスは、ゲッセマネの園でユダヤ当局者の手によって捕えられ、大祭司の家に連行されました(およそ上六の交差点から当教会までの距離)。こっそり後をつけていたペトロは、その中庭で、傍にいた者たちから主イエスとの関係を追及され、恐怖心から、「まったく面識がない、そうではない、あなたの言っていることが分からない」と答えてしまいます。それは、イエスが予告されたことが現実となった瞬間です。ペトロがそう言い終わらないうちに、イエスが振り向いてペトロを注視されると、ペトロは外に出て、泣き崩れたとあります。

 次にイエスは、最高法院に連れ出され(cf.マルコ15:1)、「お前は神の子か」と自白を求められますが、イエスは、「わたしがそうだとは、あなたがたが言っている。」とお答えになりました(70)。決して逃げ出さず、権力に屈することもなく、弟子たちのために、そして私たちのために、十字架への道を進まれたのです。私たちは、キリスト者(語義は、キリストに従う者)として、どこまでも、主イエス・キリストについて行くことができますか。

2025年2月22日の礼拝宣教から

「試みに陥らないように祈りなさい」 ルカによる福音書22章39-53節

津村 春英牧師

 主イエスご自身だけが知っておられた十字架刑を前にして、主の苦悩はクレッシェンドのように高まって行き、その極みが「ゲツセマネの祈り」です(cf.マルコ14:32)。ルカ福音書では、「誘惑に陥らないで祈っていなさい」の主の言葉が二度繰り返されています(40, 46)。「誘惑」の原語「ペイラスモス」は試練と誘惑の両方の意味があります(cf.ヤコブ1:12試練, 13誘惑はその名詞形と動詞形)。多くの邦訳や英訳では「誘惑」temptationと訳していますが、弟子たちにとって、「誘惑」とは具体的にどういうことなのでしょうか。その場で眠ってしまったことでしょうか(45)。この場に及んで一般論を言われたのでしょうか。そうではなく、十字架刑という出来事による苦難が、彼らの信仰を揺さぶる試練となるからではないでしょうか(他のものに頼ろうとする誘惑?)。

 ガリラヤからエルサレムへと進む途上で、日毎に増大していったおびただしい数の追随者、弟子群は、主イエスの十字架刑の前後で四散し、圧倒的に少数になってしまいます。つまり残った弟子たちに、今までに経験したことのない大きな試練がやってくるのです。ですから、主イエスは、「試み」に陥らないように(原語は「入り込む」、そこから抜け出せなくならないように)、祈っていなさいと教えられたのではないでしょうか。私たちの場合はどうでしょうか。

2025年2月15日の礼拝宣教から

主イエスのみ心」  ルカ福音書22章24-38節

津村 春英牧師

 第49回日本アカデミー賞受賞の映画『国宝』に「二人道成寺」の舞が出ているようですが、それは私の故郷の近くの道成寺にまつわる伝承が起源です。裏切れたと思う女性の恐ろしい怨念のストーリーです。主イエスも、愛する弟子たちに裏切られます。そのみ心はいかがだったでしょうか。

 十字架刑が間近に迫った主イエスは、「誰が一番か」と論争する弟子たちに対して、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」(26, 27)と言われました。それは、すべての人の罪を贖うために十字架にかけられることを暗示しています。さらに、弟子たちの代表格であるペトロには、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(32)とまで言われました。間もなく、ユダは裏切りの行為に走り、他の弟子たちも最後は逃げてしまいます。私たちも、自分の身に危険が迫ったとき、厳しい試練に直面するとき、どうするでしょうか…。どんなことがあっても、愛し続けてくださる主イエスのみ心にどのように応答しますか。