2026年8月23日の礼拝宣教から

「私を求めよ、そして生きよ」 アモス書5章1-6節

安 喆寓信徒伝道師

 アモスが活動した時期は、北イスラエル王ヤロブアムの時代で、アッシリアからの威勢が弱く、むしろ北イスラエル王国は、力を強くし安泰な生活ができました。人々はまさか自分の国が滅ぶとは考えられず、盛大な祭儀の中で献げ物をすれば、神様が自分たちを守られると形骸化した礼拝を続けていました。

 それに対して神様の厳しいメッセージがアモスに託されます。「おとめイスラエルは倒れて 再び起き上がらず 地に捨てられて 助け起こす者はいない。」(5:2)と。しかし、生きるための方法を神様が示されます。「まことに、主はイスラエル家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。」(5:4)と。自分たちの行為で満足を得られることではなく、神様は、悔い改めて神様の方に方向を向けて、共に歩むことを望んでおられるのです。ベテル、ギルガル、ベエル・シェバでの礼拝は、心から主を礼拝するのではなく、自分の好みで礼拝をしただけでした。生きるとは、人間の意志、願望ではなく、神様との交わりを通して神様を求めることのほかはありません。アモスが単に祭儀を否定したわけではありません。神様の恵みの中で生きようとしない姿勢から神様のもとに戻り、真心をもってささげる礼拝が望まれるのです。「主を求めよ、そして生きよ」(5:6a)。そのように、今日、私たちにも神様が語っておられます。

2026年8月16日の礼拝宣教から

「神の安息に入る約束があるうちに」 ヘブライ人への手紙4章1-13節

津村春英牧師

 人類は産業革命以降の工業化とともに、世界的な大戦を経てもなお戦争を続け、無節操に大気中にCO2を放出しては、地球温暖化を進めています。世界の異常気象や、我が国の先週の豪雨による災害も例外ではないと思われます。私たちの在り方が問われています。

 ヘブライ書に、「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。」(4:1)とあります。下線部は、「恐れようではないか」が直訳です。こうして、人生の荒れ野で滅びてしまうことなく、「神の安息」つまり、「天の御国」に入ることが勧められています。ただし、それは先のことではありますが、約束を信じ受け入れて、現在のように生きることも可能です。さらに、「わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。」(同11)とあります。確かに、信仰生活に努力は必要です。また、「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(13)とあります。「最後の審判」は厳粛です。それは、現在の在り方にかかっているのです。

2026年8月9日の礼拝宣教から

「今日という日のうちに」 ヘブライ人への手紙3章7-19節

津村春英牧師

 原子爆弾が広島と長崎に投下されて81年を数えますが、「歴史から学ぶことができるただ一つのことは、人間は歴史から何も学ばないということだ」(18-19世紀のドイツの哲学者、G.W.F. ヘーゲルHegel)は、今の時代の人々こそ、聞かねばならない言葉だと思います。

 ヘブライ書には、「『今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。』いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。」(3:15-17)とあります。彼らは歴史から学ばねばならなかったのです。「ヘブライ人」と呼ばれるキリスト者の読者は、自らの民族のアイデンティティを形成する偉大な出来事、出エジプトから学ぶ必要がありました。聖書の対象はすべての人です。「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい。」(同13)とあります。下線部の原語は「乾く」の意味があり、水を必要としているのです。命の水はイエス・キリストから与えられます(ヨハネ4:14)。そして、ポイントは「今日」なのです!

2026年8月2日の礼拝宣教から

「私たちは神の家か」 ヘブライ人への手紙3章1-6節

津村春英牧師

 7月28日に熊本で発生した大地震で多くの犠牲者が出ています。猛暑の中、被災地の皆さんの健康が支えられ、必要が満たされ、復旧が進むよう祈らねばなりません。人は病気だけでなく、災害も避けることはできません。その道の専門家は予知や予防の研究にいそしんでいますが、やはり限界があります。もし遭遇しても、希望を失わないことです。

 ヘブライ書には、「大祭司であるイエスのことを考えなさい」(3:1)とあります。下線部は「よく考えなさい」が正確な意味で、私たちの罪を贖うために、ご自分の十字架の血をもって大祭司の務めを成し遂げられました。また、「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」(3:6)とあります。この「神の家」は「神の家族」を意味し、罪を贖われた私たちこそ神の家族であり、この家族をキリストが治めていてくださっているというのです。ただし、条件があります。私たちが、「救われているという確信」と「誇ることのできる希望」(上記下線部の解釈)を持ち続けるということです。あなたはどうでしょうか。信仰の先達はどうだったでしょうか。「彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(13:7)。

2026年7月26日の礼拝宣教から

「憐れみ深い、忠実な大祭司」 ヘブライ人への手紙2章10-18節

津村春英牧師

 後期高齢者の健康診断のために、ある医院に行きました。人は病(やまい)を避けて通れません。ギリシア語アスセネイアは、「病」と「弱さ」を意味する語で、ヘブライ書には、イエス・キリストについて、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(4:15)とあります。

 大祭司の務めについては、旧約聖書で、アロンとその子らが、年に一度、贖罪の日に、聖なる場所で、雄牛と雄山羊の血を振りまいて贖罪の儀式を行ったことが書かれてあります(レビ記16章)。ヘブライ書では前記のように、イエス・キリストがこの大祭司であって、「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(9:12)とあります。また、「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」(2:17)とあります。「憐れむ」とは、「その人の必要に応じること」で、「忠実」とは「真実」とも訳せ、主イエスは、父である神のためにはその御旨を忠実に実行され、私たちのためには真実をもって、十字架の死によって罪を贖ってくださったのです。あふれる感謝を心からささげましょう。