2026年10月25日の礼拝宣教から

「信仰による義」 ローマの信徒への手紙3章21-26節

津村春英牧師

 今日は宗教改革記念として礼拝を献げています。宗教改革は、1507年、マルティン・ルターが時のローマ・カトリック教会が発行した免罪符(贖宥状)に反対して、ヴィッテンベルク城教会の門扉に95箇条の論題を張り付けたことに始まると言われています。そして、ローマ3:28「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(新共同訳)の下線部は、ルターが訳したドイツ語訳聖書では、「信仰のみによる」、と「のみ」alleinが付けられているのが特徴的です(Luther 1945 German Bible)。

 では、「信仰のみ」と言っても何を信じるのでしょうか。新共同訳の「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」(3:22)の下線部は、聖書協会共同訳(2019初版)では、「イエス・キリストの真実によって」と訳されています。さらに、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」(3:25)とありますが、私なら、下線部の原語は、「その血による真実さを通して」と訳します。なぜなら、宗教改革の精神は、次のルターの言葉にあるからです。「義認について語る時には…キリストはどなたであり、キリストがわれわれのために何をしてくださったかが問題なのである」(WA40.1.241.)。

2026年10月18日の礼拝宣教から       

「私たちにふさわしい大祭司」 ヘブライ人への手紙7章20-28節 

津村春英牧師

 私は和歌山出身で、「ザ行」は意識しないと発音できません。AI技術が字幕を自動的に作成してくれますが、忠実に(?)「ダ行」に変換します。和歌山弁の私に「ふさわしい」システムにはなっていません。私が矯正すべきですが…。

 イエス・キリストは、レビ系列の祭司たちとは違って、「あなたこそ、永遠に祭司である。」(詩編110:4からの引用)という「神の誓い」によって大祭司になられたと繰り返し説明され(ヘブライ6:17;7:21,28)、「このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。」(7:22)とあります。下線部は新約聖書中この箇所にだけ出てくるギリシア語ですが、「保証人」とも訳せます。それは、現代日本の民法の「連帯保証人」のようで、旧約聖書続編シラ書の「保証人の恩を忘れるな。お前のために自分の命を献げてくれたからだ」(29:15)のようです。つまり、イエス・キリストが大祭司として、自らの十字架の血をもって私たちの罪を贖ってくださったので、私たちは例外なく、神に近づくことができるようになったのです。まさに、「私たちにふさわしい方なのです。」(ヘブライ7:26・聖書協会共同訳)。♪「この世の波風さわぎ、いざないしげき時も、悲しみ嘆きの嵐、胸にすさぶ時にも、御前に集い祈れば、悩み去り憂きは消ゆ、いざ共にたたえ歌わん、恵み深き主の御名」(讃美歌第二篇157)。

2026年10月11日の礼拝宣教から

「希望によって神に近づく」 ヘブライ人への手紙7章11-19節 

津村春英牧師

 私の郷里近くの秋の七草フジバカマの茂る谷で、シニアのボランティアが周辺の草抜きをして、アサギマダラ蝶の飛来を、希望をもって待ち望んでいるというニュースを見ました(『日高日報』2026.9.30)。キリスト者は主の再臨と主にまみえること、そして御国に入ることを待ち望む者です。

 ヘブライ書には、「律法が何一つ完全なものにしなかったからです・・しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです」(7:19)とあります。この「希望」は、大祭司イエス・キリストに導かれて、「至聖所の垂れ幕の内側に入って行く」(6:19)ことであり、ここの「律法」とは、アロンの子孫とレビ族の祭司制度を指しますが、もともとモーセもその兄アロンもレビ族です(出エジプト6:20他)。他方、大祭司イエス・キリストはユダ族であってレビ族ではなく、律法によらないメルキゼデクのような祭司であると説明され(同14,15)、「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(9:12)とあります。それゆえに、困難の中にあっても、「希望を持ち続ける」よう繰り返し勧められているのです(3:6; 6:11,18,19)。私たちも厳しい現実に直面しても希望を持ち続け、神に近づくように励みたいものです。

2026年10月4日の礼拝宣教から       

「義と平和の王」  ヘブライ人への手紙7章1-10節

津村春英牧師

 今日は、アブラハムとメルキゼデクが登場します。隠れてはいますが、イエス・キリストが主役です。メルキゼデクは創世記14:18、詩編110:4、そしてこのヘブライ書だけに登場します。なぜ、ヘブライ書がメルキゼデクにこだわるのでしょうか。それは「祭司」に関連します。「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず『義の王』、次に『サレムの王』、つまり『平和の王』です」(6:20;7:1,2)とあります。あのアブラハムでさえ、最上のものを贈ったメルキゼデクは、後のレビ族の祭司制度にとらわれない永遠の祭司であり、その名と地名が意味する、メレク:王、ツェデク:義、サレム(シャローム):平和だというのです。

 他方、イエス・キリストこそ、十字架の死と復活を通して、「義」(神との正しい関係:救い)と平和(神との平和の関係)を私たちに与えてくださいました。アブラハムが戦いを終えてメルキゼデクに感謝を捧げたように、私たちも一週間の戦いを終えてイエス・キリストに心からの感謝を捧げましょう!