2026年8月9日の礼拝宣教から

「今日という日のうちに」 ヘブライ人への手紙3章7-19節

津村春英牧師

 原子爆弾が広島と長崎に投下されて81年を数えますが、「歴史から学ぶことができるただ一つのことは、人間は歴史から何も学ばないということだ」(18-19世紀のドイツの哲学者、G.W.F. ヘーゲルHegel)は、今の時代の人々こそ、聞かねばならない言葉だと思います。

 ヘブライ書には、「『今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。』いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。」(3:15-17)とあります。彼らは歴史から学ばねばならなかったのです。「ヘブライ人」と呼ばれるキリスト者の読者は、自らの民族のアイデンティティを形成する偉大な出来事、出エジプトから学ぶ必要がありました。聖書の対象はすべての人です。「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい。」(同13)とあります。下線部の原語は「乾く」の意味があり、水を必要としているのです。命の水はイエス・キリストから与えられます(ヨハネ4:14)。そして、ポイントは「今日」なのです!

2026年8月2日の礼拝宣教から

「私たちは神の家か」 ヘブライ人への手紙3章1-6節

津村春英牧師

 7月28日に熊本で発生した大地震で多くの犠牲者が出ています。猛暑の中、被災地の皆さんの健康が支えられ、必要が満たされ、復旧が進むよう祈らねばなりません。人は病気だけでなく、災害も避けることはできません。その道の専門家は予知や予防の研究にいそしんでいますが、やはり限界があります。もし遭遇しても、希望を失わないことです。

 ヘブライ書には、「大祭司であるイエスのことを考えなさい」(3:1)とあります。下線部は「よく考えなさい」が正確な意味で、私たちの罪を贖うために、ご自分の十字架の血をもって大祭司の務めを成し遂げられました。また、「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」(3:6)とあります。この「神の家」は「神の家族」を意味し、罪を贖われた私たちこそ神の家族であり、この家族をキリストが治めていてくださっているというのです。ただし、条件があります。私たちが、「救われているという確信」と「誇ることのできる希望」(上記下線部の解釈)を持ち続けるということです。あなたはどうでしょうか。信仰の先達はどうだったでしょうか。「彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(13:7)。

2026年7月26日の礼拝宣教から

「憐れみ深い、忠実な大祭司」 ヘブライ人への手紙2章10-18節

津村春英牧師

 後期高齢者の健康診断のために、ある医院に行きました。人は病(やまい)を避けて通れません。ギリシア語アスセネイアは、「病」と「弱さ」を意味する語で、ヘブライ書には、イエス・キリストについて、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(4:15)とあります。

 大祭司の務めについては、旧約聖書で、アロンとその子らが、年に一度、贖罪の日に、聖なる場所で、雄牛と雄山羊の血を振りまいて贖罪の儀式を行ったことが書かれてあります(レビ記16章)。ヘブライ書では前記のように、イエス・キリストがこの大祭司であって、「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(9:12)とあります。また、「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」(2:17)とあります。「憐れむ」とは、「その人の必要に応じること」で、「忠実」とは「真実」とも訳せ、主イエスは、父である神のためにはその御旨を忠実に実行され、私たちのためには真実をもって、十字架の死によって罪を贖ってくださったのです。あふれる感謝を心からささげましょう。

2026年7月19日の礼拝宣教から

「すべての人のために」ヘブライ書2章 5-9節

津村春英牧師

 京都の夏の風物詩、祇園祭が行われています。9世紀にまん延した疫病退散祈願が始まりだそうです。使徒パウロは「疫病のような人間」と非難されました(使徒24:5)。それは、当時の地中海世界で、主イエス・キリストによる救いを宣教してやまなかったからです。

 ヘブライ書には、「イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。」(2:9)とあります。主イエスの死の苦しみ、十字架は、「すべての人のため」であって、例外の人はいません。しかも、それは神の恵みとして、つまり神から無償で贈られていると告げているのです。そして、下線部は原文では、そのお方を「私たちは(今も)見ています」(現在形)となっています。

 『人文知は武器になる』(山口周・深井龍之介対談、文春新書、2026)に、AIの進歩によって価値観が変わりつつある時代を生き抜くためには、「人文科学」の知見が必要であり、「すべての出来事は過去に起きている」(p.79以降)とあります。私たちキリスト者には、厳しい現実の中にあっても信仰に堅く立って希望を持ち続けた、信仰の先達がいます(ヘブライ11章; 12:1; 13:7なども参照)。私たちも、いつも主イエスを見つめつつ、希望を失わずに歩みましょう。

2026年7月12日の礼拝宣教から

「聞いたことに注意を払いなさい」 ヘブライ書2章 1-4節

津村春英牧師

  最近、耳が遠くなりました。聞こえにくくなって初めて、聞こえることは当たり前でなく、本当に幸せなことだと思います。

  ヘブライ書では、聞くこと、しかも神の声を聞くことが一つのキーワードです(3:7,15,16; 4:2,7)。2章には、「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。」(2:1)とあります。「聞いたこと」とは、「御子によって語られてこと」(1:2)を受けています。「注意を払う」の原語は、例えば、現代社会で、病気をかかえた患者さんが、自分の話すことを、医師や看護師さんが、どれだけ真剣に耳を傾けて聞いてくれるかどうかと同じような意味です。「押し流されてしまう」のは、御子である主イエス・キリストの救いから離れて押し流されてしまうという意味で、「これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。」(2:3)と続いています。

  サッカー試合ではルールの違反者にはイエローカードとレッドカードが出されます。聞く耳を持たず、ファウルを繰り返すと、ついに退場になってしまいます。聖霊の導きにより、イエス・キリスト救いのみことばにしっかり耳を傾け、押し流されてしまわないように、救いを確実に自分のものとしましょう。