2025年1月25日の礼拝宣教から
「時を悟る」 ルカ福音書21章20-33節
津村 春英牧師
聖書にある預言は難解です。その預言は近未来だけでなく、もっと先の出来事について語っていることが多くあります。主イエスは、エルサレムの崩壊と共に、裁きの日(主の日、人の子の来臨)について預言されました。それは既に旧約聖書にあった預言(例えば、ホセア9:7、ヨエル2:10、ダニエル7:13、イザヤ40:8など)であり、「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」(21:28)と言われました。下線部の原語は「贖い」を意味しています。また、「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」(同31)と言われました。それは聞く人々に厳粛さと希望をもたらしました。問題は、その時を悟ることができるかどうかでした。
あなたにとって、今はどのような時ですか。イザヤ書には、「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」(43:19)とあります。また、パウロは、「今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。」(コリント二6:2・聖書協会共同訳)と書いています。私たちは、今、置かれている現実を直視しながらも、遠大な神のご計画の下にあることを悟ることができるよう祈らねばなりません。
2025年1月18日の礼拝宣教から
「忍耐によって命を得なさい」 ルカ福音書21章5-19節
津村 春英牧師
阪神・淡路大震災から31年が経過しました。当時、兵庫や大阪にいた多くの人々がその恐怖と悲惨さを経験しました。東日本大震災は来る3月で15年を迎えます。能登半島地震は2年前の元旦に発生しました。このような大地震は研究者の誰も予測できないそうです。私たちはただ、いつ見舞われても大丈夫なように備えておかねばなりません。
主イエスは、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話している人々に対して、それらの石が一つ残らず崩れ落ちる日が来ると言われました。直接的にはローマ帝国によるエルサレム神殿破壊であり、また、それは「主の日」(再臨、最後の審判)の預言でした。その日に備えるよう人々に教えられたのです。偽預言者が現れ、戦争や暴動があり、大きな地震があり、飢饉や疫病が発生し、天変地異がある。さらに、これらが起こる前に、主を信じる者は迫害を受けるが、「忍耐によって、あなたがたは命を得なさい」(19節・聖書協会共同訳)と言われました。「忍耐」ヒュポメノーは下にとどまることを意味します。
苦難の中にあっても、しっかり信仰に踏みとどまり、真の命、永遠の命を得ることができるよう励みましょう! 「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」(ルカ8章15節)。
2025年1月11日の礼拝宣教から
「感謝の極み」 ルカによる福音書20章41節-21章4節
津村 春英牧師
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上16章7節)ということばがあります。主イエスは、ある貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を献金箱に入れるのをご覧になり、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」(21:3-4)と言われました。
レプトン(複数形レプタ)はローマ帝国の最小の銅貨で、傭兵の1日分の賃金1デナリオンの128分の1の価値でした。しかし、このやもめにとって、2レプタはその日の生活費だったというのです。彼女が夫を亡くしたことは不運でしたが、決して不幸ではなかったと思えます。貧しいですが、人に頼るより、ひたすら神に頼る道を見出したからです。彼女は2レプタを、強いられてではなく喜んで献げました。それは彼女の「感謝の極み」の表現でした。
私たちも、主イエスの十字架によって罪ゆるされ、救われ、天の御国へと招かれていることに感謝しましょう。たとい不運と思えることがあっても、主イエスが共にいてくださるので、決して不幸ではないのです。やもめは救われていることへの感謝を神に向かって最大限に表わしました。私たちの感謝はどの程度でしょうか。新聖歌249にあるように、主イエスは自分の全てでしょうか。
2025年1月4日の礼拝宣教から
「キリストの日に誇る」 フィリピ2章12-18節
津村 春英牧師
2026年幕開けの箱根駅伝往路で、人知を超えた大逆転劇がありました。選手たちはこの日のためにどれだけ苦しい練習をしてきたことでしょうか。人生の競争ではどうでしょうか。新しい年を迎えるように、キリストの再臨があります。これはたった一度のことですが、それを「キリストの日」と呼び、その時、一人一人に最後の審判が下されるのです。今朝の聖書の箇所には、「キリストの日に誇る」ことができる人生が示されています。
パウロが書き送ったフィリピ書は、獄中(ローマ?エフェソ?)で書かれました(1:7,13,17など)。生きるか死ぬかの覚悟をもって書かれたこの手紙で、パウロは、「生きることはキリスト」(1:21)と書きました。それはキリストのために生きる(1:29;ローマ14:8; テサロニケ一5:10など)、キリストと共に生きる(ガラテヤ2:20など)と考えられます。そして、フィリピの教会の兄姉には、「自分の救いの達成に努めなさい」(2:12)と勧めました。ただし、孤軍奮闘ではなく、神がそれぞれに願いを起こさせてくださり、神がそれを最後まで導いてくださるからだと書いています(2:13; 1:6)。こうして、それぞれが走ったことも、労苦したことも無駄ではなかったと、「キリストの日に誇る」ことができると励ましたのです。これは私たちへのメッセージでもあります。