2026年10月4日の礼拝宣教から       

「義と平和の王」  ヘブライ人への手紙7章1-10節

津村春英牧師

 今日は、アブラハムとメルキゼデクが登場します。隠れてはいますが、イエス・キリストが主役です。メルキゼデクは創世記14:18、詩編110:4、そしてこのヘブライ書だけに登場します。なぜ、ヘブライ書がメルキゼデクにこだわるのでしょうか。それは「祭司」に関連します。「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず『義の王』、次に『サレムの王』、つまり『平和の王』です」(6:20;7:1,2)とあります。あのアブラハムでさえ、最上のものを贈ったメルキゼデクは、後のレビ族の祭司制度にとらわれない永遠の祭司であり、その名と地名が意味する、メレク:王、ツェデク:義、サレム(シャローム):平和だというのです。

 他方、イエス・キリストこそ、十字架の死と復活を通して、「義」(神との正しい関係:救い)と平和(神との平和の関係)を私たちに与えてくださいました。アブラハムが戦いを終えてメルキゼデクに感謝を捧げたように、私たちも一週間の戦いを終えてイエス・キリストに心からの感謝を捧げましょう!

2026年9月27日の礼拝宣教から      

「神の約束と誓い」  ヘブライ人への手紙6章13-20節

津村春英牧師

 人は結婚式で何を誓いますか。そして、その後は如何でしょうか…。神さまがなされる誓いは、ご自分の計画、約束を保証するためであり、それは、アブラハムへの約束に見られたもので、「こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。」(ヘブライ6:15)とあります。また、「神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。」(同17)とあります。その約束の誓いは、罪の贖いが完全になされるところの至聖所に入る(レビ記16章)という人々の希望への励ましであり(ヘブライ6:18、19)、また、イエス・キリストがその先駆者だというのです(同20)。そのイメージは、良い羊飼いに導かれていく羊たちのようであり、この羊飼いに従って、贖いの至聖所に入って行くのです(マルコ15:38にあるように、イエスの十字架刑により、至聖所に向かう幕が裂けて誰でも入れるようになりました)。

 現在、私たちそれぞれが置かれている状況は違います。経済苦、深刻な病気、様々な苦しみの中におられる人も、最善をなしてくださる神さまを信じ、仰いでください。人それぞれに神さまのご計画は違います。厳しい状況にありながも、一生懸命に生きている人もいるのです。最善をなしてくださる神さまを信じ、神さまの約束のものを受け継ぐ者となりましょう。

2026年9月20日の礼拝宣教から

「年老いてもなお実を結ぶ」 詩編92篇1-16節

津村春英牧師

 厚労省が9/1の住民台帳を基に発表したデーターによると、100歳以上の人は10万7677人ということです。超高齢化社会と言われて久しく、65歳以上の高齢者も約30%になっているようです。体力気力が低下していく中で、最期の日まで、どのように生き抜いていくかが真剣に問われています。

 詩人は、「主よ、御業はいかに大きく 御計らいはいかに深いことでしょう。」(詩編92:6)と歌います。しかし、「愚かな者はそれを知ることなく 無知な者はそれを悟ろうとしません。」(同7)とあります。愚かな者とは神の愛を知らない者で、無知な者とはそれを悟らない者です。さらに、「年老いてもなお実を結ぶ 命豊かに、青々として。」(同15節・聖書協会共同訳)と歌います。詩編では、「わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。」(52編10節)とあるように、長寿で成熟と収穫が数世紀にわたるものもあるといわれるオリーブの木に、人はなぞらえられていると考えます。

 では、私たち人間は、年老いてどんな実を結ぶのでしょうか。神の愛は人の価値判断を超えたところにあります(イザヤ53:2-6;フィリピ2:6-8など)。私たちが結ぶ実も、人の価値判断を超えて、神が評価される実ではないでしょうか。

2026年9月13日の礼拝宣教から

「成熟を目指して進もう」 ヘブライ書5章11節-6章12節

津村春英牧師

 教会の周辺にホテルが建築中であり、商業施設を含めたものも計画中です。昨今の人件費や建材の高騰がありますが、建ち始めると、完成を目指さねばなりません。キリスト者もイエス・キリストという土台に家を建てるようだと使徒パウロは言っています(コリント一3:10-15)。

 ヘブライ書の直接の読者は、もう長年、信仰生活を送っているようですが、まだ乳を飲んでいるありさまだと比喩されています(5:12)。そこで、「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」(6:1)と奨められているのです。直訳すれば、「キリストの言葉の初歩を後にして、完成を目指して、負って行こう。」となります。厳しい現実の中で、困難を極めることもありますが、それらを負いつつ前進しましょう、と書かれているのです。また、「あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。」(6:12)とあります。

 イエス・キリストご自身が、「わたしはアルファであり、オメガである。」(ヨハネ黙示1:8他)と言われ、イエス・キリストに始まり、イエスキリストで終えるのが、キリスト者の生涯です。「信仰の導き手、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう」(12:2聖書協会共同訳)。