2026年7月19日の礼拝宣教から
「すべての人のために」ヘブライ書2章 5-9節
津村春英牧師
京都の夏の風物詩、祇園祭が行われています。9世紀にまん延した疫病退散祈願が始まりだそうです。使徒パウロは「疫病のような人間」と非難されました(使徒24:5)。それは、当時の地中海世界で、主イエス・キリストによる救いを宣教してやまなかったからです。
ヘブライ書には、「イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。」(2:9)とあります。主イエスの死の苦しみ、十字架は、「すべての人のため」であって、例外の人はいません。しかも、それは神の恵みとして、つまり神から無償で贈られていると告げているのです。そして、下線部は原文では、そのお方を「私たちは(今も)見ています」(現在形)となっています。
『人文知は武器になる』(山口周・深井龍之介対談、文春新書、2026)に、AIの進歩によって価値観が変わりつつある時代を生き抜くためには、「人文科学」の知見が必要であり、「すべての出来事は過去に起きている」(p.79以降)とあります。私たちキリスト者には、厳しい現実の中にあっても信仰に堅く立って希望を持ち続けた、信仰の先達がいます(ヘブライ11章; 12:1; 13:7なども参照)。私たちも、いつも主イエスを見つめつつ、希望を失わずに歩みましょう。
2026年7月12日の礼拝宣教から
「聞いたことに注意を払いなさい」 ヘブライ書2章 1-4節
津村春英牧師
最近、耳が遠くなりました。聞こえにくくなって初めて、聞こえることは当たり前でなく、本当に幸せなことだと思います。
ヘブライ書では、聞くこと、しかも神の声を聞くことが一つのキーワードです(3:7,15,16; 4:2,7)。2章には、「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。」(2:1)とあります。「聞いたこと」とは、「御子によって語られてこと」(1:2)を受けています。「注意を払う」の原語は、例えば、現代社会で、病気をかかえた患者さんが、自分の話すことを、医師や看護師さんが、どれだけ真剣に耳を傾けて聞いてくれるかどうかと同じような意味です。「押し流されてしまう」のは、御子である主イエス・キリストの救いから離れて押し流されてしまうという意味で、「これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。」(2:3)と続いています。
サッカー試合ではルールの違反者にはイエローカードとレッドカードが出されます。聞く耳を持たず、ファウルを繰り返すと、ついに退場になってしまいます。聖霊の導きにより、イエス・キリスト救いのみことばにしっかり耳を傾け、押し流されてしまわないように、救いを確実に自分のものとしましょう。
2026年7月5日の礼拝宣教から
「御子と御使い」 ヘブライ人への手紙1章5-14節
津村春英牧師
6月24日に相次いで発生したベネズエラ大地震で、106時間後に救出された青年が、「神が天使を遣わしてくださった。…懸命に活動してくださった救助隊の皆さんです。」と言ったそうです。
新約聖書で、「天使」と訳されているギリシア語アンゲロスの語義は「御使い」で、旧約聖書に始まり(例えば、創世記16:7; 19:1; 22:11; 31:11)、新約聖書に登場します。ヘブライ書には13回出てきますが、その背景に天使崇拝という民間信仰があったと思われます。御子と御使いを比較し、御子は、神の子(1:5)、御使いに礼拝される方(同6)、義しい永遠の王、油注がれた方:キリスト(同8,9)、変わることのない方(同12)、神の右に座しておられる方(同13)であるのに対し、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」(1:14)とあり、御使いは、人々のために神から送られた被造物(詩編48:2-5;コロサイ1:16)で、神ではありません。
みなさんは、今までにどれだけ多くの御使い(神から遣わされた人)に支えていただきましたか。十字架の贖いにより、今日あることを感謝し、自分も誰かのための御使いになることができればと思います。ただし、栄光と賛美は、主なる神に帰すべきです。
2026年6月28日の礼拝宣教から
「御子によって、御子を通して」 ヘブライ人への手紙1章1-4節
津村春英牧師
相次ぐ地震や連続して到来した台風により各地に被害が出ています。直接、被害がなくても動揺があると思われます。しかし、ヘブライ書には、「わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」(12:28)とあります。同書の始めには、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」(同1:1-2)とあります。前の下線の句は、神は御子イエス・キリストのご生涯によって私たちに語られたので(cf.ヨハネ14:9)、御子について学ぶことによって神を知ることができることを意味し、後ろの下線の句は、神は御子を通して世界(11:3も、アイオーン:時間的世界。cf.コスモス:秩序ある世界、ヨハネ3:16など)を創造されたということです。
NHKの朝ドラで、看護学を教えるためにスコットランドから来日した女史が、“What is nursing? The one being questioned is myself.”という言葉を書き残しましたが、「キリスト教信仰って何? 問われているのは私自身です。」と読み替えてみてはどうでしょうか。さらに御子についてヘブライ書から学びましょう。
2026年6月21日の礼拝宣教から
「父の諭しを聞きなさい」 箴言1章8-19節
津村春英牧師
今日は父の日です。「わが子よ、父の諭しに聞き従え。母の教えをおろそかにするな。」(箴言1:8)とありますが、母の日と共に、「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」(出エジプト20:12)に起源があり、幸福の秘訣がここに示されています。そして、父親の使命として、「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」(申命記6:6-7)とあります。父親は神の代理者、代弁者として自ら学び、その品格を身につけねばなりませんでした。
このように、家庭が中心だった時代に比べ、父親も忙しく、親子の触れ合い時間が極端に減少してしまっている現代、どのように上記の言葉を受け止めるべきでしょうか…。冒頭の箴言1:8の理由が、「それらは頭に戴く優雅な冠 / 首にかける飾りとなる。」(箴言1:9)と続きます。ヘブライ語原文には下線部に相当する動詞はなく、翻訳者の解釈ですが(cf.聖書協会共同訳)、私たちが戴く冠、首飾りは、主イエス・キリストの贖いの賜物で、「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(ヨハネ黙示録2:10)とあります。栄光の冠を頂けるよう、信仰の道を歩み続けましょう!