2026年6月14日の礼拝宣教から
「あなたの造り主に心を留めよ」 コヘレトの言葉12章1-14節
津村春英牧師
建築家アントニ・ガウディの、未だ建設中のサグラダ・ファミリアのメインタワー「イエスの塔」が完成し、ガウディ没後100年を迎える日にバルセロナで記念式典が開かれました。ガウディの思想を継承する日本人スタッフ・外尾悦郎氏は、「人は創造しない。発見するだけだ。」というガウディの言葉を引用しておられました(TEDx Talks)。私たちの創造主は聖書が語る「神」です。
コヘレト(ヘブライ語カ―ハール「集会」の関連語で、集会を導く者、説教者、伝道者の意)は、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。」(コヘレト12:1)と語っています。人は、不幸、不運、悲しみの日々や老齢期の「弱さ」などを経験します。しかし、神を発見するように勧められています。内村鑑三も、「人生の目的は神を識(し)るにある。艱難はこの目的を達するために必要であるなら、艱難は決して災禍(わざわい)ではない。恩恵(めぐみ)ある。」(『一日一生』)と説いています。コヘレトは、「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」(同13)と結びますが、神は、御子イエス・キリストを通して、愛をお示しになりました。造り主である神を心に留め、神の愛の内を歩みましょう。
2026年6月7日の礼拝宣教から
「あなたの未来には希望がある」 エレミヤ書31章10-17節
津村春英牧師
津村春英牧師
過日、ある女子が家族間のトラブルで、ChatGPTに助けを求めたところ、予想外の展開で警察沙汰になったという出来事に衝撃を受けました。生成AIは便利なツールにすぎません。私たちは信頼できる相談相手を持つか、できるだけいろいろな事柄を広く学んで、困難に対処する力を身に着けるべきです。
旧約聖書の列王記に記されているサウル、ダビデ(BC1000年頃)、ソロモンの後、南北二国に分断され、北イスラエル王国は、歴代にわたって悪王が続き、アッシリアに滅ぼされます(BC722/721)。他方、南ユダ王国は約130年もの間、この北イスラエルの状況を見ながらも、悔い改めず、ついに背信の民は神に裁かれ、バビロンに捕囚されます(BC587/586エルサレム陥落)。エレミヤは、この南ユダの善王ヨシアの治世(BC620宗教改革)に預言者として立てられ(エレミヤ1:2,3)、エルサレムがバビロニアに占領されたときにそこにいた(同38:38)とありますが、「目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる…あなたの未来には希望がある。」(同31:16,17)と民に回復の預言を語りました。
私たちの人生においても、思わぬことに遭遇し、苦しみ、あえぐときがありますが、主イエス・キリストを私たちに与えてくださった愛の神は御言葉をもって私たちを導いてくださいます。信じ受け入れ、感謝しつつ歩みましょう!
2026年5月31日の礼拝宣教から
「主にあっていつも喜びなさい」 フィリピ書4章4-9節
津村春英牧師
「喜び」の書簡といわれるパウロのフィリピ書の最終章の4章には、「主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(4・聖書協会共同訳)とあり、また、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(同6)と奨めています。そして、「そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。」(同7・聖書協会共同訳)と結んでいます。下線の語は軍事用語で、「見守る、監視する」の意味があり、当時の人々は、時のパックス・ロマーナ(ローマ帝国による平和)を連想するかも知れませんが、パウロはローマ帝国でなく、神から来る、イエス・キリストの真実によってなしとげられた平和が、信じる者の心と考えを守ってくださるのだと書いています。だから、思い煩うのはやめ、求めているものを神に打ち明けなさいとあるのです。
将棋の藤井聡太六冠は、「将棋は唯一解を探すゲームではない」(朝日新聞、2025年6月30日)と言われたそうですが、人生も同じではないでしょうか。いろいろな局面があり、未知の展開があります。しかし、見守っていてくださる方がいるのですから、主にあっていつも喜んでいることができるのです。
2026年5月24日の礼拝宣教から
「目標を目指して」 フィリピ信徒への手紙3章12-4章1節
津村春英牧師
ペンテコステの出来事は皆が一つになって祈っていたときに聖霊が降ったということが重要です(使徒2:1)。現代のキリスト者も、一つとなるように洗礼を受け、聖霊が与えられたのです(コリント一12:13)。
使徒パウロは、親しいフィリピの教会の人々に獄中から手紙を送りました。パウロは、自分自身はまだ信仰の途上にある者であって、なすべきことは、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:14)と言っています。ここでいう「賞」とは、上に召されるという賞よりも、召されてから与えられる賞を意味すると考えられ、「救いの完成」とする解釈があります(佐竹明『ピリピ人への手紙』新教出版、1970、p.225)。確かに、「自分の救いを達成するように努めなさい」(同2:12)と先に書いています。なお、「目標を目指してひたすら走る」は、「目標に向かってどんどん進む」が直訳で、「走る」という語はありません(2:16は文字通り「走る」)。
パウロとフィリピの教会の関係のように、信仰の戦いは、個人でなく、皆で一つとなって、目標を目指して進むことではないでしょうか。互いに祈り合い、一つとなって前進する教会でありたいと思います。
2026年5月17日の礼拝宣教から
「キリストを信じるとは」 フィリピ信徒への手紙3章1-11節
津村春英牧師
新刊の『キリスト教ナショナリズム 不穏なアメリカの変貌』(森本あんり、 渡辺靖、朝日新書、2026)では、現代のアメリカの国家主義は、アメリカ福音派のProsperity Gospel(繁栄の福音)が、個人から国家のレベルに移ったようなもので、信仰なきキリスト教ナショナリズムだと揶揄しています。
キリスト者が、「キリストを信じて救われている」と言うとき、キリストの何を信じて救われているのでしょうか…。フィリピ書3章9節の「わたしには、…キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」は、聖書協会共同訳では、「私には、…キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。」と訳されています。「キリストの真実」とは、神の契約の計画に忠実に従ったこと(フィリピ2:8)であり、「義」とは、そのイエス・キリストの真実を通して、神の新しい契約の民とされることだとN.T.ライトは書いています(N.T.ライト『新しいパウロ』前川裕訳、新教出版、2025、206-210頁参照)。そこではユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、皆、キリスト・イエスにあって一つであり(ガラテヤ3:28他)、死者の中からの復活、キリストの再臨を待ち望むのです(フィリピ3:10-11,20)。これが、キリストを信じて救われているということではないでしょうか。