2024年7月14日の礼拝宣教から

「風にそよぐ葦を見るためか」 ルカ福音書7章18-30節 

津村春英牧師

 新札が発行されました。その中の何を見ましたか。組み入れられているホログラフィーに感動した人が多いようです。

 主イエスの公の活動の前に、バプテスマのヨハネと呼ばれる人物が、その道備えをしました。彼はその地方の領主に捕らえられましたが、獄中でイエスの活動を耳にし、使いをイエスのもとに送り、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(7:19)と尋ねました。彼の期待と違っていたのでしょうか。イエスは、この預言者としてのヨハネを絶賛されますが、「神の国で最も小さな者でも、彼より偉大である」(同28)と付け加えられました。これはイエスの働きによって生まれた者を指すと考えられます。群衆は、ヨルダン川で悔い改めのメッセージを語るヨハネのところに押し寄せました。聞いて、洗礼を受けた人々がいる一方、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、洗礼を受けないで、神の御心(ご計画)を拒んだとあります。彼らは何を見るために荒れ野にやって来たのか、とイエスに非難されます。

 私たちは何のために教会にやってくるのでしょうか…。そこで神の臨在を覚えるからです。教会に来て、主イエス・キリストに出会い、自分に対する神の御心(ご計画)を教えていただいて、また新しい旅へと向かうのです。

 

2024年7月7日の礼拝宣教から

「若者よ、起きなさい」 ルカ福音書7章11-17節 

津村春英牧師

 東北大学教授の青木俊明氏は、コロナ禍により、「広薄型の社会」になり、10年後、20年後にはその影響が出て、一人で元気にやれる人は別にして、孤立感や疎外感が強まり、生きづらい社会になってしまうと警鐘を鳴らしています。

 確かに、最近の葬儀も「家族葬」が大半になり、しかも「一日葬」が増えています。主イエスの時代の葬儀は、かつての私たちと同様に、みんなでその痛みを分かち合いました。そこには泣くことを職業とする女性がいて、関係者が大声をあげて存分に泣くことができました。今、あるやもめの一人息子が亡くなりました。彼女は夫と最愛の一人息子を亡くすという二重の試練の中にいたと思われます。主と弟子たちは、町の門から出て墓地に向かう彼ら一行に出会いました。主はこの母親を見て、憐れに思い(内臓が語源)、彼女に声をかけ、棺台に触れて(タブーで、汚れると恐れられた)、「若者よ、あなたに言う、起きなさい」(7:14)と言われました。こうして、若者は癒されたのです。人々は、「神はその民に心をかけてくださった」(同16)と神を賛美しました。 

 私たちも、この主イエスを信じて受け入れるなら、決して孤独ではありません。私たちの現実の中にも、主は来てくださり、声をかけてくださり、触れてくださり、回復させてくださると、聖書は私たちに語りかけているのです。

2024年6月30日の礼拝宣教から 

「ある百人隊長の信仰」   ルカ福音書7章1-10節

津村春英牧師

 先週一週間、あなたにどんなことがあり、何を学びましたか。また、自分のためだけでなく、誰かのために、とりなす祈りをささげましたか。その際、どれほど神さまの権威を信じて祈りましたか。

 ガリラヤ湖畔の町カファルナウムに配置されていたある百人隊長の僕(ドゥーロス)が死にかかっていました。事態は急を要します。百人隊長は、噂のイエスのもとに、敬意をもってユダヤ人の長老たちを遣わし、来て、癒してほしいと懇願しました。一般論で、支配者は支配地の人々を見下すものですが、この百人隊長は全く違っていました。ユダヤ人のために自ら資金を出して会堂を建てたと追加説明があるほどです。主イエスが、間もなく家に到着されるころ、彼はさらに友人を数人遣わし、「ひと言おっしゃってください。そして僕(パイース:若い男子を意味し、子どもとも訳せる)をいやしてください」(7:7)と伝えました。主イエスにその信仰を評価され、見事に彼の僕は癒されたのです。

 軍隊の厳しい権威の下に置かれていると自覚する百人隊長は、主イエスの権威の下にへりくだり、その権威を信じ、受け入れ、願いがかなえられたのです。私たちは、聖書の御言葉の権威をどのように受け止めていますか。幾分緩やかですか…そうであってはいけません。この百人隊長の信仰に倣いたいものです。

2024年6月23日の礼拝宣教から

「人生の土台」   ルカ福音書6章46-49節 

津村春英牧師

 ウクライナやガザでの悲惨な戦争の状況が毎日、伝えられています。私たちは、血を流すほどの戦いでなくても、日々、様々な戦いの中を通っています。そして、主イエスの御言葉をそのまま実行することの難しさを感じています。だからと言って、高邁な理想として、聞くだけに終わってはいけないのです。

 「わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」(6:47-49)とあります。

 必ずやって来る、避けられない人生の試練という洪水に耐えるにはどうすればいいのでしょうか。「岩の上に土台を置く」というのは御言葉を行うキリスト者になることであり、また、それを継続することでもあります。「地面を深く掘る」とは、異邦人がキリスト者になることの難しさを例えていると思われる一方、生涯かけて掘り続けることの難しさでもあると思われます。なぜなら、最後の大洪水(最後の審判)においても大丈夫でなければならないからです。

2024年6月16日先週の礼拝宣教から

「はっきり見えているか」   ルカ福音書6章37-45節

津村春英牧師

 主イエスは弟子たちに言われました。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(6:37, 38)これは黄金律の続きで、裁きにはそれを量る基準があるはずで、下線部は「良い量り(メトロン)で」を意味します。

 また、「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」(同39,40)とありますが、道案内は「見える人」でなければならず、下線部は、頑張って修行を積むのではなく、ある目的のために整えられることで、目の見える案内人になることを指していると思われます。さらに、「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(同45)とあります。見える、見えない、の問題は、目そのものでなく、「心」であることがわかります。はっきり見えるようにていただきたいものです。