2025年6月29日の礼拝宣教から

「寛大な主人のたとえ」 ルカによる福音書16章1-9節

牧師 津村春英

 ルカによる福音書にあるたとえ話の中でも今日の箇所はユニークで、「不正な管理人のたとえ」として知られています。なぜこのようなたとえがあるのかとつまずく人はいませんか。まず、前後の話とどのように関わっているか考慮する必要があります。この話は弟子たちに向けられ(16:1)、会計報告は終末の最後の審判を暗示しています。また、主人の「財産を無駄遣いしている」(同1)と告発された管理人と、「財産を無駄遣いしてしまった」(15:13)弟息子とは、同じ「ディアスコルピゾー」(無駄遣いする、散財する)で関連し、また独白も両者にあります(15:18, 19と16:3, 4)。つまり、父(15章)=主人(16章)=神と考えることが可能です。また、この管理人が、主人に借りのある者の負債を軽減できるのは、管理人自身の裁量の範囲内であったという解釈もあります。

「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」(16:8)の下線部の直訳は、「賢く、思慮深く振舞った」であり、主人はこの管理人の過去の不正をそれ以上咎めず、彼が将来のために(同4)、とった行動を評価したのです。天国行きのチケットを与えられていると思う人も、どんな苦境の中にあっても、前向きに、「賢く生きる」ことこそが、幸せなのではないでしょうか。

2025年6月22日の礼拝宣教から   

「本当に見えているか」 ルカによる福音書15章25-32節

津村春英牧師

 「放蕩息子のたとえ」と言われる話には続編があります。その兄が登場します。むしろこちらに重点があるという考えもあります。兄は畑から帰ると、家から音楽(シンフォニア)が聞こえてきました。英語はシンフォニーsymphonyで文豪森鴎外によって「交響曲」と訳されました(広辞苑)が、ギリシア語のシンフォニアはシュン(一緒に)+フォーネー(音、声)で、いくつかの楽器が鳴らされていたと想像できます。勝手気ままに家を出て、放蕩に身をもちくずしたと聞いていた弟息子が帰ってきて、父が宴会を催していると聞き、兄は激怒しました。父は自ら出てきてこの兄息子を宥めました(動詞は継続・反復形)。

 この話は、主イエスがファリサイ派の人々や律法学者に言われたのであり、たとえの兄息子は彼らを指し、弟息子は、彼らと同じ話を聞いていた徴税人や罪人であり、前者からすれば後者は滅んで当然だと見下していた人々でした。しかし父(神)は違いました。悔い改めた罪人を歓迎してくださり、大いに喜んでくださるのです。兄息子にはこの父の愛が見えていませんでした。本来あるべき場所から外れて立っていたからです(ヘブライ語の「罪を犯す」は的を外すの意味)。人生いろいろです。私たちにもこの神の愛が見えていますか。

2025年6月15日の礼拝宣教から

「走り寄る父の愛」 ルカによる福音書15章11-24節

津村春英牧師

 「見失った羊」、「なくなった銀貨」のたとえに続く「いなくなった息子」のたとえは、「放蕩息子」のたとえとしてよく知られています。前二者に比べ、意識的にあるべきところから外れたケースです。生存している父から遺産をもらい(後代のミシュナやタルムードから、生前贈与はあり得たと推察)、換金して遠い国に旅に出、放蕩の限りを尽くして散財し、落ちぶれて、行きついたところはユダヤ人の嫌悪する豚の飼育でした。その飼料のいなご豆(モロッコインゲンの短いものに似ている)のさやを食べたいほどだったと書かれています。そこでやっと気づき、父のもとに帰ります。父は彼を見つけるやいなや、走り寄って抱きしめたというのです。さらに、服、指輪、履物などを与えて息子の復権を図り、宴会を僕たちに指示しました。これは「愛の神のたとえ」です。

 肉親の父に抱かれたことは、「覚えていないだけ」(cf.映画「武士の家計簿」の終わりのシーンの父のことば)かもしれません。霊の父(ヘブライ12:10)は、私たちが本来いるべきところに帰ることを望んでおられます。この父のもとに帰りましょう!父なる神は走り寄って迎えてくださいます。そして、ギュッと抱きしめてくださいます。

2025年6月8日の礼拝宣教から    

「喜びを分かち合う」 ルカによる福音書15章1-10節

津村春英牧師

「記録より記憶に残る選手になりたい」と言ったミスタープロ野球、伝説の人が亡くなられました。人々の心に残されたものがあることでしょう。主イエスは弟子たちに約束を残されました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である」(ヨハネ14:6)。そして、「この方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(同16:8)と、弁護者と表現される聖霊の降臨の約束をされ、ペンテコステの日にそれは起こりました。

 ルカ福音書15章の三つの失われたものの救い(1-7; 8-10; 11-32)には、「悔い改める一人の罪人」がクローズアップされています。旧約聖書ヘブライ語の「罪を犯す」ハッターは「的を外す」という意味があり、目標を見失っているということです。「罪の悔い改め」とは、本来の目標に向かうことです。見失った一匹の羊、なくした一枚の銀貨が本来のところに戻るなら、天で大きな喜びがあると主は言われました。自分の「罪」に気づかせてくださるのが聖霊で、本来のところに戻してくださるのが主イエスの十字架なのです。主に見いだされ、的を射た人生へと導かれているその喜びを分かち合いましょう。

2025年6月1日の礼拝宣教から    

「主イエスの弟子であること」 ルカによる福音書14章25-35節

津村春英牧師

 戦後、進駐軍の政策もあり、多くの人がキリスト教会に何かを求めてやってきました。得られなかったのか、期待外れだったのか、多くの人が去って行きました。一体、どれだけの人が残ったのでしょうか。

 押し寄せる大群衆を前にして、主イエスは「弟子であること」を説かれました。家族を捨て、自分の命までも惜しまず、後に続くようでなければ、弟子になることはできないと言われました。確かに、エルサレムへの旅の目的は十字架でしたので、その従者として当然の覚悟が求められたのです。そこまで言われて、果たしてどれだけの人が残ったのでしょうか。ウイリアム・バークレーは、「教会の中には、イエスに何となく従っている者が多いが、真の弟子は少ない」と書いています(『ルカ福音書』柳生望訳、ヨルダン社、1979, p.218)。

 さらに主は、弟子を塩にたとえられました、塩は、防腐剤、調味料、畑の肥料として用いられました(同pp.219-220)。塩は自分をなくして周りに影響を与えるものです。まさに、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)という生き方です。天に宝を積む生き方です。最後の審判の時に、各自の天国銀行の通帳の貯金額がチェックされます。大丈夫でしょうか。