2024年3月10日の礼拝宣教から

「悪魔からの試み」  ルカ福音書4章1-13節

津村春英牧師

 大学入学試験の合否発表が出始めています。当事者にとっては一大事です。果たして一生のうち何回、試験を受けるのでしょうか。学校に入るための入学試験、会社に入るための就職試験、それに…最後は認知症の試験でしょうか。

 主イエスが公生涯に入られる時にも悪魔からの試験がありました。それは第一に、荒れ野に転がる石ころをパンにかえよという、肉の欲に対する試みでした。第二に、悪魔は高いところから世界を見せ、悪魔を礼拝するなら一切を与えるという、権力欲、名誉欲、所有欲などに対する試みでした。いずれも、主は申命記の御言葉をもって応じられました。第三の試みは、神殿の尖塔から飛び降りよという、神の子という肩書や能力に対する試みでした。これは悪魔自身が詩編の御言葉を引用しましたが、主も、申命記の御言葉をもってこれに応じられ、見事にこれらすべての試みに勝利されたのです。

 私たちも、人生の荒れ野で試練を経験します。そこで神を見失うかもしれません。悪魔の囁きがあるかもしれません。しかし、そこに、主イエスが共にいてくださることを信じましょう。そして、御言葉をもって、悪魔に勝利しましょう! 「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことが出来ます」(ヤコブ1:21)。

2024年3月3日先週の礼拝宣教から      

「イエスの系図」  ルカ福音書3章23-38節

津村春英牧師

 NHKの番組に、有名人のルーツを調査し取材した「ファミリーヒストリ―」というのがあります。その人の現在の姿は先祖に起因するのではないかということを物語る番組です。他方、浄土真宗には位牌に替わる過去帳というものがあり、これによって、あるところまでの先祖に遡ることができます。

 新約聖書のマタイの福音書には、アブラハムからイエスに至る系図があり、ルカの福音書には、イエスから始まりアダムそして神に至る系図があります。前者はユダヤ人イエスの系図であり、後者は神の子イエスの系図であるとの解釈がなされています。ところが、マタイ版では、イエスの父ヨセフの父がヤコブであるのに対して、ルカ版では、イエスはヨセフの子と思われる(処女降誕を暗示)が、ヨセフはエリの子とあり、両者は違っています。さらに、ルカ版にはイエスからアダムまで、77名の人物があげられていますが、必ずしも長男とは限らず、おまけにその約半数の名が旧約聖書には書かれていません。この系図は一体何を伝えようとしているのか、ルカは何ら説明をしていません。

 さて、あなたの系図、私の系図も、別のラインを通ってアダムに至ることになるのですね。一人の人が救われ、その家族が救われていくことが期待されていますが(使徒16:31)、そのために、私たちは何をなすべきでしょうか。

2024年1月28日の月例召天者記念会の奨励から      

「深紅のよりひもが希望」 ヨシュア記2章18節

津村春英牧師

 私たちの教会では、私が牧師として就任以来、37年間にわたって、その月に召された方々の月例召天者記念会を、ご遺族を招き、教会主催で定期的に行っています。故人の思い出を語り、分かち合いながら、自らの人生を顧みる、良きときであり、歴とした伝道プログラムなのです。

 古代イスラエルの民が40年間の荒野彷徨を終えて、約束の地カナンを目前にしました。ヨルダン川を渡っての最初の難関が、城壁の町エリコでした。そこで密かに二人の斥候を遣わしますが、彼らをかくまった宿の女主人ラハブは、イスラエルが進攻してくるときに、彼女の一族郎党の救いの確約を求めました。そして、「我々がこの地に攻め入るとき、この深紅のよりひもを、我々をつり降ろした窓に結び付けておきなさい。」(ヨシュア記2:18、聖書協会共同訳)との言葉をその斥候から引き出しました。こうして、窓に結んだ「深紅のよりひも」ティクバー(ヘブライ語)が救いのしるしとなったのです。ティクバーにはrope, expectation, hopeの意味があります(ランデルマン真樹『ヘブライの宝もの』2021, pp.243-244.)。

 先に召されたお母さん、お父さん、おばあさん、おじいさんたちが、結び付けてくれた「深紅のよりひも」が、希望であり、救いなのです。

2024年2月18日の礼拝宣教から

「麦と殻」 ルカによる福音書3章15-22節

津村春英牧師

 バプテスマのヨハネは、ヨルダン川で多くの人に洗礼を授けましたが、彼らに向かって、来るべきメシアは自分ではなく、「私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。」(16-17)と終末論的審判者としてのイエスについて語りました。下線部の「箕」は、実のある麦と実のない殻を風力によって分けるものですが、日本でかつて見られた竹ひごで編んだ大形のちり取りのようではなく、片手(「その手」は単数形)で持てるフォークかシャベルと思われます。殻は麦と分離され、集められて火で焼き尽くされて(裁かれて)しまいます。

 前回の悔い改めにふさわしい実では、倫理的な行動が要求されましたが、ここではその実が永遠の命に至る実であるかどうかが問われています。そして、「聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(22)とありますが、「愛する子」はメシア的王(詩編2:7; 使徒13:23-33)を、「心に適う」(イザヤ42:1)は苦難の僕を暗示すると解されます。上記の麦は、この主の十字架の贖いを受けて、試練の中でも忍耐して実を結ぶ麦なのです(8:15)。

2024年2月11日の礼拝宣教から

「悔い改めにふさわしい実」 ルカによる福音書3章7-14節

津村春英牧師

 バプテスマのヨハネは、洗礼を受けに出てきた群衆に対し、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と迫りました(3:7)。蝮(まむし)とは毒をもつ蛇のことで、創世記3章に登場する蛇とは単語(原典ヘブライ語からのギリシア語訳)こそ違いますが、サタンに従う者たちという意味で、その毒は人を死に至らせます。そんな生き方をしていたら駄目だ!とヨハネは叫んだのです。ではどうすればよいのでしょうか。先ずは、今までの歩みを「悔い改める」こと、そして、「悔い改めにふさわしい実を結ぶこと」、これが答えでした。ただし、それは普段の生活の中でできることで、自分の持っているものの分かち合いであり、徴税人は、命じられたもの以上を取り立てないことであり、兵士(恐らく、ガリラヤとベレアの領主ヘロデ・アンティパスに仕えた者たち)は、恐喝などをせずに、自分の給料の額で満足することでありました。

 このように、悔い改めにふさわしい実を結ぶということは、特別なことではなく、自分の置かれた場所で、正直に真心から主に仕えることなのです。徴税人には徴税人なりの、兵士には兵士なりの仕え方がありました。では、あなたはどうですか、どう行動しますか、あなたにできることは何でしょうか、と問われています。悔い改めにふさわしい実を結びましょう。