2026年10月18日の礼拝宣教から       

「私たちにふさわしい大祭司」 ヘブライ人への手紙7章20-28節 

津村春英牧師

 私は和歌山出身で、「ザ行」は意識しないと発音できません。AI技術が字幕を自動的に作成してくれますが、忠実に(?)「ダ行」に変換します。和歌山弁の私に「ふさわしい」システムにはなっていません。私が矯正すべきですが…。

 イエス・キリストは、レビ系列の祭司たちとは違って、「あなたこそ、永遠に祭司である。」(詩編110:4からの引用)という「神の誓い」によって大祭司になられたと繰り返し説明され(ヘブライ6:17;7:21,28)、「このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。」(7:22)とあります。下線部は新約聖書中この箇所にだけ出てくるギリシア語ですが、「保証人」とも訳せます。それは、現代日本の民法の「連帯保証人」のようで、旧約聖書続編シラ書の「保証人の恩を忘れるな。お前のために自分の命を献げてくれたからだ」(29:15)のようです。つまり、イエス・キリストが大祭司として、自らの十字架の血をもって私たちの罪を贖ってくださったので、私たちは例外なく、神に近づくことができるようになったのです。まさに、「私たちにふさわしい方なのです。」(ヘブライ7:26・聖書協会共同訳)。♪「この世の波風さわぎ、いざないしげき時も、悲しみ嘆きの嵐、胸にすさぶ時にも、御前に集い祈れば、悩み去り憂きは消ゆ、いざ共にたたえ歌わん、恵み深き主の御名」(讃美歌第二篇157)。

2026年10月11日の礼拝宣教から

「希望によって神に近づく」 ヘブライ人への手紙7章11-19節 

津村春英牧師

 私の郷里近くの秋の七草フジバカマの茂る谷で、シニアのボランティアが周辺の草抜きをして、アサギマダラ蝶の飛来を、希望をもって待ち望んでいるというニュースを見ました(『日高日報』2026.9.30)。キリスト者は主の再臨と主にまみえること、そして御国に入ることを待ち望む者です。

 ヘブライ書には、「律法が何一つ完全なものにしなかったからです・・しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです」(7:19)とあります。この「希望」は、大祭司イエス・キリストに導かれて、「至聖所の垂れ幕の内側に入って行く」(6:19)ことであり、ここの「律法」とは、アロンの子孫とレビ族の祭司制度を指しますが、もともとモーセもその兄アロンもレビ族です(出エジプト6:20他)。他方、大祭司イエス・キリストはユダ族であってレビ族ではなく、律法によらないメルキゼデクのような祭司であると説明され(同14,15)、「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(9:12)とあります。それゆえに、困難の中にあっても、「希望を持ち続ける」よう繰り返し勧められているのです(3:6; 6:11,18,19)。私たちも厳しい現実に直面しても希望を持ち続け、神に近づくように励みたいものです。

2026年10月4日の礼拝宣教から       

「義と平和の王」  ヘブライ人への手紙7章1-10節

津村春英牧師

 今日は、アブラハムとメルキゼデクが登場します。隠れてはいますが、イエス・キリストが主役です。メルキゼデクは創世記14:18、詩編110:4、そしてこのヘブライ書だけに登場します。なぜ、ヘブライ書がメルキゼデクにこだわるのでしょうか。それは「祭司」に関連します。「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず『義の王』、次に『サレムの王』、つまり『平和の王』です」(6:20;7:1,2)とあります。あのアブラハムでさえ、最上のものを贈ったメルキゼデクは、後のレビ族の祭司制度にとらわれない永遠の祭司であり、その名と地名が意味する、メレク:王、ツェデク:義、サレム(シャローム):平和だというのです。

 他方、イエス・キリストこそ、十字架の死と復活を通して、「義」(神との正しい関係:救い)と平和(神との平和の関係)を私たちに与えてくださいました。アブラハムが戦いを終えてメルキゼデクに感謝を捧げたように、私たちも一週間の戦いを終えてイエス・キリストに心からの感謝を捧げましょう!

2026年9月27日の礼拝宣教から      

「神の約束と誓い」  ヘブライ人への手紙6章13-20節

津村春英牧師

 人は結婚式で何を誓いますか。そして、その後は如何でしょうか…。神さまがなされる誓いは、ご自分の計画、約束を保証するためであり、それは、アブラハムへの約束に見られたもので、「こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。」(ヘブライ6:15)とあります。また、「神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。」(同17)とあります。その約束の誓いは、罪の贖いが完全になされるところの至聖所に入る(レビ記16章)という人々の希望への励ましであり(ヘブライ6:18、19)、また、イエス・キリストがその先駆者だというのです(同20)。そのイメージは、良い羊飼いに導かれていく羊たちのようであり、この羊飼いに従って、贖いの至聖所に入って行くのです(マルコ15:38にあるように、イエスの十字架刑により、至聖所に向かう幕が裂けて誰でも入れるようになりました)。

 現在、私たちそれぞれが置かれている状況は違います。経済苦、深刻な病気、様々な苦しみの中におられる人も、最善をなしてくださる神さまを信じ、仰いでください。人それぞれに神さまのご計画は違います。厳しい状況にありながも、一生懸命に生きている人もいるのです。最善をなしてくださる神さまを信じ、神さまの約束のものを受け継ぐ者となりましょう。