2025年5月10日の礼拝宣教から

「私はあなたを忘れない」」  イザヤ書 49章14-21節

津村春英牧師

 まどみちおの「ぞうさん ぞうさん お鼻が長いのね」は、悪口でありつつ、「お母さんもそうよ。お母さん大好き!」という評価があるようです。今日は母の日、母に感謝し、母を与えてくださった神さまに感謝したいと思います。

 紀元前598年、バビロンのネブカドネツァル王の軍隊がエルサレム(シオン)に侵攻し、都を包囲して、指導者層の多くや有用な人々をバビロンに捕囚として連行します。さらに587年に再度やって来て、「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた。」(イザヤ49:14)と嘆くように、都は焼かれ、城壁も破壊されます。しかし、約束の民である古代イスラエルの人々は、捕囚の地から無事にエルサレムに帰還し、荒れ果てた都を再建するという預言があります。その根拠は、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。」(同15)とあります。民が絶望的な暗闇の中を歩むことがあっても、神さまは、決してお見捨てにならないと、初期教会以来、キリスト者はこの預言を自分たちの状況に重ね合わせて読んできました。

 キリスト者が「神の子」(ローマ8:14,15)として神に覚えられているなら、「この親にしてこの子あり」のように、歩みたいものです。

2025年5月3日の礼拝宣教から

「幸いな人とは誰か」   詩編94篇12-19節

津村春英牧師

 白川静『常用字解』によると、「幸」という字は象形文字から作られていて、手枷をはめられている形で、手枷だけの刑罰で済むので、幸いだということです。これは他と比較した相対的な幸いです。他と比べないで幸いはありますか。

 今日の聖書の箇所に、「いかに幸いなことでしょう。主よ、あなたに諭され、あなたの律法を教えていただく人」(94:12)とあり、幸いな人とは、神の言葉によって教えられる人であり、その人が苦難に遭うときにも、安らぎと喜びが与えられるとあります(同13,18-19)。その理由は、神はご自分の民をお見捨てにならず(同14)、正しい裁きを行われる(同15-16)からだとあり、また、「足がよろめく」ときには、主の慈しみが支え、「思い煩いが占める」ときには、主の慰めが喜びを与える(同18-19)とあります。

 イザヤ書の、「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする」(42:3)や、主イエスの、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で、謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:28,29)と響きあっています。あらためて問います。幸いな人とは誰でしょうか。

2025年4月26日の礼拝宣教から

「あなたがたこそ証人」 ルカ福音書24章36-53節

津村春英牧師

 宮崎賢太郎『潜伏キリシタン 知られざる信仰世界』(角川新書、2026)では、明治6年に禁教令が解除されてカトリック教会に戻った人々を潜伏キリシタン、戻らなかった人々をカクレキリシタンとして区分し、後者はキリスト教徒というより独特の儀礼体系をもった先祖の宗教を継承してきた人々だと書いています。では、私たちは何を守り、何を伝えるのでしょうか。

 弟子たちの前に姿を現わされた主イエスは、まず、ご自身の復活に至る出来事は、モーセ―の律法と預言者の書と詩篇に、すなわち旧約聖書に書かれてあることの実現であると言われます(24:44)。このメッセージは、墓に行った女性たちが聞き(同6-7,cf.9:22)、続いてエマオの途上の二人が(24:25-27)、そして、他の弟子たちが聞くのです。さらに、「罪の赦しを得させる悔い改めが、…あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(同47)と言われますが、「悔い改めなければ救われない」のメッセージはルカ福音書に特徴的に繰り返されてきました。そして、この二つを受けて、「あなたがたは、これらのことの証人である」(同48・聖書協会共同訳)と言われました。ルカ福音書の冒頭にあるように、著者も、最初の読者も目撃者ではなかったのですが(原文1:2)、見事に現代の私たちに伝えられています。今度は私たちが証人となって、伝える番ではないでしょうか。

2025年4月19日の礼拝宣教から  

「心は燃えていた」 ルカによる福音書24章28-35節

津村春英牧師

 8年前の学校法人への国有地売却決算文書の改ざんを苦に自死した職員の遺族が求めた財務省公文書の開示は、計7回にわたり、14万6000ページにも及んだそうです。残念ながら、遺族にとって納得できるものではなかったということです。何が書かれてあって、何が書かれてなかったのでしょうか。

 ルカによる福音書に書かれてある復活された主イエスが、エルサレムからエマオに向かう二人の弟子と共に歩まれたというエピソードは、「放蕩息子のたとえ」や「良きサマリア人のたとえ」などに負けず劣らず高い評価を受けています(例えば、N.T.Wright, F.Bovon)。弟子たちは、主イエスが復活されたという話を聞いたものの、主を見失い、悲しみと不安と戸惑いの中にあったと思われます。ところが、エマオで、「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」(24:32)とあります。下線部の原文は継続を表す用法で書かれてあり、二人の心はずっと燃え続けていたのです。

 私は学生時代に内村鑑三に触発され、今日まで聖書研究に取り組んできました。大した成果はありませんが、心が燃える経験を幾度もさせていただきました。どんな時も、主イエスが共にいてくださることに感謝しています。

2025年4月12日の礼拝宣教から

「目は遮られていて」 ルカによる福音書24章13-27節

津村春英牧師

 イエスが復活されたと聞いた二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオ(約11km:当教会から門真市のPanasonic社ほどの距離)という村へ向かって歩きながら、話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められました。「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」(24:16)とあります。下線部の原語は「力」の関連語で、何らかの力を受けて目が捕えられていて見ることができない状態を意味します。では、何の力でしょうか…。それは神の力であり、信仰が試されるためだったと考えられます(cf.ヨハネ福音書20:29「見ないのに信じる人は、幸いである」)。

 創世記22章のアブラハムが、独り子イサクをささげよという神の命令に従うシーンで、アブラハムが息子イサクに本当のことを言うことができず、心に痛みを感じつつ歩み、ついにイサクに向かって刃物を振り下ろそうとしたその瞬間、天から声があり、目を上げるとイサクに替わる雄羊が見え、事なきを得ます。アブラハムは試みを受けるために(創22:1)、目が神により遮られますが、神はアブラハムの一挙手一投足をずっと見ておられたということです。

 私たちも目が遮られて見えないときもありますが、信じることです。最善をなしてくださる主がともにいてくださると信じ、希望を持って歩みましょう!