2026年9月6日の礼拝宣教から
「主に信頼する幸い」 詩編40篇1-12節
津村春英牧師
今や自然が多い地域でも、市街地でも、次から次と大規模な災害が発生し、被害者が多く出ています。人々には心の支えが必要です。
詩編40篇の内容は、古代イスラエルのダビデがサウル王から理不尽な迫害を受けている状況に似ているといわれ、「数えきれないほどの災いが私に絡みつき/見ることができないほどの過ちが私に迫りました。/それらは私の髪の毛よりも多く/私の心さえも私を見捨てました。」(13節・聖書協会共同訳)とあるように、その窮状を訴えて、緊急の助けを求めています。ただし、作者はその前に、「主にのみ、わたしは望みをおいていた。/主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。」(詩編40:2)と、過去を振り返り、自分の信仰と、神の救いを歌っています。そして、「いかに幸いなことか、主に信頼をおく人」(同5)と続けています。
新約聖書の使徒パウロも、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリント一10:13)と、苦難の中にあっても、主イエス・キリストを遣わして、救いを与えてくださった神を信頼するようにと勧めています。この幸いのメッセージを周りの人々にも伝えましょう。
2026年8月30日の礼拝宣教から
「恵みの座に近づこう」 ヘブライ書4章14節-5章10節
津村春英牧師
今朝は福井県で、先週は石川県で記録的大雨が、ネパールと中国国境では大規模土石流が発生しました。人生には多くの痛み、苦しみ、悲しみがあります。
旧約聖書の時代にアロンの家系に属する者が祭司となって、人々のために罪の贖いをしました。他方、新約聖書以降の人々には、神の子イエスが大祭司となって下さったとヘブライ書には書かれてあります。ただし、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(4:15,16、下線部は継続を表す)とあります。では、「恵みの座」とはどこでしょうか。新約聖書ではここだけなので情報が不足していますが、恐らく、「イエス・キリストの恵み」というように、神の王座(玉座)の右に座しておられる主イエス(8:1; 12:2)のところではないかと思います。
先週、東京の西井よう子姉(96歳)を訪問しました。彼女の口から、「感謝します」という言葉が何度も出ました。奈良におられた時からの口癖でした。当教会で受洗された姑に導かれて他教会で受洗されて59年。彼女の信仰はきっとキリストの恵みの座近くにあるのだと思います。私たちはどうでしょうか。
2026年8月23日の礼拝宣教から
「私を求めよ、そして生きよ」 アモス書5章1-6節
安 喆寓信徒伝道師
アモスが活動した時期は、北イスラエル王ヤロブアムの時代で、アッシリアからの威勢が弱く、むしろ北イスラエル王国は、力を強くし安泰な生活ができました。人々はまさか自分の国が滅ぶとは考えられず、盛大な祭儀の中で献げ物をすれば、神様が自分たちを守られると形骸化した礼拝を続けていました。
それに対して神様の厳しいメッセージがアモスに託されます。「おとめイスラエルは倒れて 再び起き上がらず 地に捨てられて 助け起こす者はいない。」(5:2)と。しかし、生きるための方法を神様が示されます。「まことに、主はイスラエル家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。」(5:4)と。自分たちの行為で満足を得られることではなく、神様は、悔い改めて神様の方に方向を向けて、共に歩むことを望んでおられるのです。ベテル、ギルガル、ベエル・シェバでの礼拝は、心から主を礼拝するのではなく、自分の好みで礼拝をしただけでした。生きるとは、人間の意志、願望ではなく、神様との交わりを通して神様を求めることのほかはありません。アモスが単に祭儀を否定したわけではありません。神様の恵みの中で生きようとしない姿勢から神様のもとに戻り、真心をもってささげる礼拝が望まれるのです。「主を求めよ、そして生きよ」(5:6a)。そのように、今日、私たちにも神様が語っておられます。
2026年8月16日の礼拝宣教から
「神の安息に入る約束があるうちに」 ヘブライ人への手紙4章1-13節
津村春英牧師
人類は産業革命以降の工業化とともに、世界的な大戦を経てもなお戦争を続け、無節操に大気中にCO2を放出しては、地球温暖化を進めています。世界の異常気象や、我が国の先週の豪雨による災害も例外ではないと思われます。私たちの在り方が問われています。
ヘブライ書に、「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。」(4:1)とあります。下線部は、「恐れようではないか」が直訳です。こうして、人生の荒れ野で滅びてしまうことなく、「神の安息」つまり、「天の御国」に入ることが勧められています。ただし、それは先のことではありますが、約束を信じ受け入れて、現在のように生きることも可能です。さらに、「わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。」(同11)とあります。確かに、信仰生活に努力は必要です。また、「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(13)とあります。「最後の審判」は厳粛です。それは、現在の在り方にかかっているのです。
2026年8月9日の礼拝宣教から
「今日という日のうちに」 ヘブライ人への手紙3章7-19節
津村春英牧師
原子爆弾が広島と長崎に投下されて81年を数えますが、「歴史から学ぶことができるただ一つのことは、人間は歴史から何も学ばないということだ」(18-19世紀のドイツの哲学者、G.W.F. ヘーゲルHegel)は、今の時代の人々こそ、聞かねばならない言葉だと思います。
ヘブライ書には、「『今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。』いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。」(3:15-17)とあります。彼らは歴史から学ばねばならなかったのです。「ヘブライ人」と呼ばれるキリスト者の読者は、自らの民族のアイデンティティを形成する偉大な出来事、出エジプトから学ぶ必要がありました。聖書の対象はすべての人です。「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい。」(同13)とあります。下線部の原語は「乾く」の意味があり、水を必要としているのです。命の水はイエス・キリストから与えられます(ヨハネ4:14)。そして、ポイントは「今日」なのです!