2025年3月1日の礼拝宣教から

「二つの回答」 ルカによる福音書22章54-71節

津村 春英牧師

 42年前、滋賀県日野町で起きた強盗殺人事件では、強要された自白にもとづき犯人とされた人物の無期懲役が確定し、その人は服役中に死亡しました。ところが、先週、最高裁がその裁判のやり直しを認める決定を出したそうです。

 主イエスは、ゲッセマネの園でユダヤ当局者の手によって捕えられ、大祭司の家に連行されました(およそ上六の交差点から当教会までの距離)。こっそり後をつけていたペトロは、その中庭で、傍にいた者たちから主イエスとの関係を追及され、恐怖心から、「まったく面識がない、そうではない、あなたの言っていることが分からない」と答えてしまいます。それは、イエスが予告されたことが現実となった瞬間です。ペトロがそう言い終わらないうちに、イエスが振り向いてペトロを注視されると、ペトロは外に出て、泣き崩れたとあります。

 次にイエスは、最高法院に連れ出され(cf.マルコ15:1)、「お前は神の子か」と自白を求められますが、イエスは、「わたしがそうだとは、あなたがたが言っている。」とお答えになりました(70)。決して逃げ出さず、権力に屈することもなく、弟子たちのために、そして私たちのために、十字架への道を進まれたのです。私たちは、キリスト者(語義は、キリストに従う者)として、どこまでも、主イエス・キリストについて行くことができますか。

2025年2月22日の礼拝宣教から

「試みに陥らないように祈りなさい」 ルカによる福音書22章39-53節

津村 春英牧師

 主イエスご自身だけが知っておられた十字架刑を前にして、主の苦悩はクレッシェンドのように高まって行き、その極みが「ゲツセマネの祈り」です(cf.マルコ14:32)。ルカ福音書では、「誘惑に陥らないで祈っていなさい」の主の言葉が二度繰り返されています(40, 46)。「誘惑」の原語「ペイラスモス」は試練と誘惑の両方の意味があります(cf.ヤコブ1:12試練, 13誘惑はその名詞形と動詞形)。多くの邦訳や英訳では「誘惑」temptationと訳していますが、弟子たちにとって、「誘惑」とは具体的にどういうことなのでしょうか。その場で眠ってしまったことでしょうか(45)。この場に及んで一般論を言われたのでしょうか。そうではなく、十字架刑という出来事による苦難が、彼らの信仰を揺さぶる試練となるからではないでしょうか(他のものに頼ろうとする誘惑?)。

 ガリラヤからエルサレムへと進む途上で、日毎に増大していったおびただしい数の追随者、弟子群は、主イエスの十字架刑の前後で四散し、圧倒的に少数になってしまいます。つまり残った弟子たちに、今までに経験したことのない大きな試練がやってくるのです。ですから、主イエスは、「試み」に陥らないように(原語は「入り込む」、そこから抜け出せなくならないように)、祈っていなさいと教えられたのではないでしょうか。私たちの場合はどうでしょうか。

2025年2月15日の礼拝宣教から

主イエスのみ心」  ルカ福音書22章24-38節

津村 春英牧師

 第49回日本アカデミー賞受賞の映画『国宝』に「二人道成寺」の舞が出ているようですが、それは私の故郷の近くの道成寺にまつわる伝承が起源です。裏切れたと思う女性の恐ろしい怨念のストーリーです。主イエスも、愛する弟子たちに裏切られます。そのみ心はいかがだったでしょうか。

 十字架刑が間近に迫った主イエスは、「誰が一番か」と論争する弟子たちに対して、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」(26, 27)と言われました。それは、すべての人の罪を贖うために十字架にかけられることを暗示しています。さらに、弟子たちの代表格であるペトロには、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(32)とまで言われました。間もなく、ユダは裏切りの行為に走り、他の弟子たちも最後は逃げてしまいます。私たちも、自分の身に危険が迫ったとき、厳しい試練に直面するとき、どうするでしょうか…。どんなことがあっても、愛し続けてくださる主イエスのみ心にどのように応答しますか。

2025年2月8日の礼拝宣教から

「新しい契約」  ルカ福音書22章1-23節 

津村 春英牧師

今日は第51回衆議院議員選挙の投票日です。「公約」した約束が、履行されるよう期待したいものです。

「新約聖書」は、英語ではNew Testament(ラテン語のtestamentum遺言、証言の訳語)と表されますが、それは、新約聖書のギリシア語、ディアセーケー(契約)の訳語です。さらにディアセーケーは、旧約聖書ヘブライ語、ベリート(契約:創世記6:18)の訳語です。この「契約」は対等ではなく、上位の者(神)の約束を下位の者(人)が受諾するという契約(宗主権契約)なのです。

主イエスの言葉、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカ20:22)は、牛や羊の血による贖罪ではなく、主イエスの血による贖罪は、当時の弟子たちのみならず、普遍的に現代の私たちも対象なのです。私たちが徹底的にへりくだって(「自己を低く見る者にあらざれば贖罪の必要は感ぜられない」『内村鑑三全集15』岩波書店、488頁)、心を全開して十字架の上から流れ出る主イエスの愛を受け入れるなら、その愛は私たちを満たし、潤し、癒し、私たちからあふれ出て、周りの人にも流れていくはずではないでしょうか。

2025年2月1日の礼拝宣教から

「目を覚ましていなさい」  ルカ福音書21章34-38節 

津村 春英牧師

 米国では、聖書を字義通りに解釈する宗教的右派で、白人至上主義的、親イスラエルの「福音派」が、トランプ大統領を支えていると言われます(加藤喜之『福音派-終末論に引き裂かれるアメリカ社会』中公新書,2025.)。しかし、聖書のことばには隠喩もあり、時代や文化などの衣を着ている場合もあります。

 主イエスは、「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。…しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21:34-36)と言われました。最初の下線部の原語は、飲みすぎた結果の状態を表し、次の下線部の直訳は「心が重い」で、重要なことを考えることができない心の状態を表しています。最後の下線部の「目を覚まして」も当時の人々の飲酒習慣と関係のある表現です(テサロニケ一5:6~8やペトロ一1:13の「身を慎む」は「しらふ」の意)。「その日」とは、主イエス・キリストの再臨の日で、審判の日です。N.T.ライトは、この「目を覚ます」とは、キリスト者として、いつものことをいつものようにすることであると説明しています(『すべての人のためのルカ福音書』津村訳,教文館,2025,p.384.)。目を覚ましていましょう!