2026年10月11日の礼拝宣教から

「希望によって神に近づく」 ヘブライ人への手紙7章11-19節 

津村春英牧師

 私の郷里近くの秋の七草フジバカマの茂る谷で、シニアのボランティアが周辺の草抜きをして、アサギマダラ蝶の飛来を、希望をもって待ち望んでいるというニュースを見ました(『日高日報』2026.9.30)。キリスト者は主の再臨と主にまみえること、そして御国に入ることを待ち望む者です。

 ヘブライ書には、「律法が何一つ完全なものにしなかったからです・・しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです」(7:19)とあります。この「希望」は、大祭司イエス・キリストに導かれて、「至聖所の垂れ幕の内側に入って行く」(6:19)ことであり、ここの「律法」とは、アロンの子孫とレビ族の祭司制度を指しますが、もともとモーセもその兄アロンもレビ族です(出エジプト6:20他)。他方、大祭司イエス・キリストはユダ族であってレビ族ではなく、律法によらないメルキゼデクのような祭司であると説明され(同14,15)、「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(9:12)とあります。それゆえに、困難の中にあっても、「希望を持ち続ける」よう繰り返し勧められているのです(3:6; 6:11,18,19)。私たちも厳しい現実に直面しても希望を持ち続け、神に近づくように励みたいものです。

2026年10月4日の礼拝宣教から       

「義と平和の王」  ヘブライ人への手紙7章1-10節

津村春英牧師

 今日は、アブラハムとメルキゼデクが登場します。隠れてはいますが、イエス・キリストが主役です。メルキゼデクは創世記14:18、詩編110:4、そしてこのヘブライ書だけに登場します。なぜ、ヘブライ書がメルキゼデクにこだわるのでしょうか。それは「祭司」に関連します。「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず『義の王』、次に『サレムの王』、つまり『平和の王』です」(6:20;7:1,2)とあります。あのアブラハムでさえ、最上のものを贈ったメルキゼデクは、後のレビ族の祭司制度にとらわれない永遠の祭司であり、その名と地名が意味する、メレク:王、ツェデク:義、サレム(シャローム):平和だというのです。

 他方、イエス・キリストこそ、十字架の死と復活を通して、「義」(神との正しい関係:救い)と平和(神との平和の関係)を私たちに与えてくださいました。アブラハムが戦いを終えてメルキゼデクに感謝を捧げたように、私たちも一週間の戦いを終えてイエス・キリストに心からの感謝を捧げましょう!

2026年9月27日の礼拝宣教から      

「神の約束と誓い」  ヘブライ人への手紙6章13-20節

津村春英牧師

 人は結婚式で何を誓いますか。そして、その後は如何でしょうか…。神さまがなされる誓いは、ご自分の計画、約束を保証するためであり、それは、アブラハムへの約束に見られたもので、「こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。」(ヘブライ6:15)とあります。また、「神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。」(同17)とあります。その約束の誓いは、罪の贖いが完全になされるところの至聖所に入る(レビ記16章)という人々の希望への励ましであり(ヘブライ6:18、19)、また、イエス・キリストがその先駆者だというのです(同20)。そのイメージは、良い羊飼いに導かれていく羊たちのようであり、この羊飼いに従って、贖いの至聖所に入って行くのです(マルコ15:38にあるように、イエスの十字架刑により、至聖所に向かう幕が裂けて誰でも入れるようになりました)。

 現在、私たちそれぞれが置かれている状況は違います。経済苦、深刻な病気、様々な苦しみの中におられる人も、最善をなしてくださる神さまを信じ、仰いでください。人それぞれに神さまのご計画は違います。厳しい状況にありながも、一生懸命に生きている人もいるのです。最善をなしてくださる神さまを信じ、神さまの約束のものを受け継ぐ者となりましょう。

2026年9月20日の礼拝宣教から

「年老いてもなお実を結ぶ」 詩編92篇1-16節

津村春英牧師

 厚労省が9/1の住民台帳を基に発表したデーターによると、100歳以上の人は10万7677人ということです。超高齢化社会と言われて久しく、65歳以上の高齢者も約30%になっているようです。体力気力が低下していく中で、最期の日まで、どのように生き抜いていくかが真剣に問われています。

 詩人は、「主よ、御業はいかに大きく 御計らいはいかに深いことでしょう。」(詩編92:6)と歌います。しかし、「愚かな者はそれを知ることなく 無知な者はそれを悟ろうとしません。」(同7)とあります。愚かな者とは神の愛を知らない者で、無知な者とはそれを悟らない者です。さらに、「年老いてもなお実を結ぶ 命豊かに、青々として。」(同15節・聖書協会共同訳)と歌います。詩編では、「わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。」(52編10節)とあるように、長寿で成熟と収穫が数世紀にわたるものもあるといわれるオリーブの木に、人はなぞらえられていると考えます。

 では、私たち人間は、年老いてどんな実を結ぶのでしょうか。神の愛は人の価値判断を超えたところにあります(イザヤ53:2-6;フィリピ2:6-8など)。私たちが結ぶ実も、人の価値判断を超えて、神が評価される実ではないでしょうか。