「本当に見えているか」 ルカによる福音書15章25-32節
津村春英牧師
「放蕩息子のたとえ」と言われる話には続編があります。その兄が登場します。むしろこちらに重点があるという考えもあります。兄は畑から帰ると、家から音楽(シンフォニア)が聞こえてきました。英語はシンフォニーsymphonyで文豪森鴎外によって「交響曲」と訳されました(広辞苑)が、ギリシア語のシンフォニアはシュン(一緒に)+フォーネー(音、声)で、いくつかの楽器が鳴らされていたと想像できます。勝手気ままに家を出て、放蕩に身をもちくずしたと聞いていた弟息子が帰ってきて、父が宴会を催していると聞き、兄は激怒しました。父は自ら出てきてこの兄息子を宥めました(動詞は継続・反復形)。
この話は、主イエスがファリサイ派の人々や律法学者に言われたのであり、たとえの兄息子は彼らを指し、弟息子は、彼らと同じ話を聞いていた徴税人や罪人であり、前者からすれば後者は滅んで当然だと見下していた人々でした。しかし父(神)は違いました。悔い改めた罪人を歓迎してくださり、大いに喜んでくださるのです。兄息子にはこの父の愛が見えていませんでした。本来あるべき場所から外れて立っていたからです(ヘブライ語の「罪を犯す」は的を外すの意味)。人生いろいろです。私たちにもこの神の愛が見えていますか。