2024年1月7日の礼拝宣教から

「キリスト者として」   ローマの信徒への手紙12章9~12節

津村春英牧師

 使徒言行録やペトロ前書に、「キリスト者」クリスティアノスという語が出てきますが、それは、その語尾から、キリストに「従う者」を意味しています。他方、使徒パウロは、「キリストにある者」と表現しています(聖書協会共同訳)。新共同訳では「キリストに結ばれた人」と意訳していますが、それはイエス・キリストの十字架と復活に結ばれているという意味なのでしょう。

 ローマ書12:9~21には、その「キリストにある者」の新しい生活指針が示されていますので、語彙を調べつつ深く味わいましょう。まず、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず」(9)とあります。下線部は「演技をしない」の意味で、「愛」アガペーは神の愛で、真実の愛なのです。キリスト者の愛もそうであるように勧められています。具体的には、磁石のように、悪から離れ、善に執着すること。兄弟愛をもって親身に愛し合い、自ら進んで相手を目上のごとく敬う(敬愛)こと。さらに、熱心(迅速の意)で躊躇せずに、霊に燃えて(沸騰するほどの熱意をもって)主に仕えること。さらに、希望をもって喜び(希望があるから喜べる)、苦難に耐え(逃げ出さない)、たゆまず(離れず)祈ること、などが続きます。この新しい一年、私たちの努力目標として励みましょう。

2023年12月31日の礼拝宣教から 

「主は今まで我々を助けてくださった」  サムエル記上7章1~12節

川﨑真奈伝道師

 サムエルが預言者となる頃、イスラエルの民はペリシテ人との戦いに苦しんでいました。契約の箱を取り返してからも、霊的に飢え渇いていた彼らは、サムエルの助言を通して、偶像礼拝を悔い改め、まことの主に立ち返ったのです。

 その後ペリシテ人が攻めてきた時、彼らは主により頼みました。数々の試練の中で、人は変えられていきます。自分の力で対処するのではなく、神様のもとにのみ解決の道があることを知るようになります。主は苦しみの中で、叫ぶ者の声を聞かれ、必ず導いていてくださるのです。そして、彼らは主の助けによって完全な勝利を得ました。

 そこでサムエルは、「今まで、主は我々を助けてくださった」と記念の石を置き、エベン・エゼルと名付けました。「石を置く」ということは、神様への感謝を心に深く刻むということ、そしてその感謝を他の人々と分かち合うということを意味しています。

 この1年、皆さんはどのような歩みをされたでしょうか?試練の時も、勝利に喜ぶ時も、今日まで主はずっと私たちと共にいてくださり、導いてきてくださったのです。サムエルがエベン・エゼルの石を置いたように、私たちもこれまでの主への感謝を心に刻み、共に分かち合っていこうではありませんか!

2023年12月24日の礼拝宣教から

「主イエスの誕生」   ルカによる福音書2章1~7節 

津村春英牧師

 今日の箇所から、二つの疑問がわいてきます。第一に、マリアが救い主を宿して身重になっているときに、それぞれ自分の町に帰って「住民登録をせよ」との権力者の勅令発布をなぜ、神さまはお許しになったかということです。マリアとヨセフは長距離移動を余儀なくされ、決して容易な旅ではなかったと思われますが、無事にベツレヘムに着くことができました。文言はありませんが、信仰深い二人ゆえに、神さまが共にいてくださったからでしょう。

 第二に、身重のときの移動なら、せめて、安全に出産できる「場所」がなぜ、用意されていなかったかということです。彼らには2階の客間でなく、外気の寒さから家畜を守るための1階しか「場所」(トポス:状態、地位も表す)がなかったのです。マリアはそこで主イエスを出産し、産着(おくるみ)にくるんで(原語は「くるむ」という動詞だけ)、飼い葉桶に寝かしたとあります。ただし、1階と言えども、そこは、夜露をしのぐことができ、産婆さんやお湯の手配を、その家にお願いできる環境であったと思われます。

 この主イエスの誕生物語から、私たちの人生の「なぜ」に対する答えを見いだすことができますか…。信仰を持って歩むなら、どのような場所(トポス)にあっても、神さまが共にいてくださるから大丈夫だと教えられます。

2023年12月17日の礼拝宣教から 

「あけぼのの光が訪れる」 ルカによる福音書1章67~80節 

津村春英牧師

 過日、亡くなった谷村新司さんがある番組で、「歌を歌っていたら戦争なんかしない、できない」と語っていたのが印象的でした。また、歌が歌えるということは何と素晴らしいことでしょうか。

 バプテスマのヨハネと後に呼ばれる人の父ザカリヤは、霊に満たされて歌いました。まず、息子ヨハネの使命について、「主に先立って道を整え、民に罪の赦しによる救いを知らせる」と預言し、そして、この救いは、「我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和に導く。」(1:78, 79)と歌いました。「あけぼのの光」の原語は「東、日の出、朝日」を意味し、「訪れる」は旧約聖書の用法の「顧みる」の意で、やがて生まれ出る主イエス・キリストとその働きを、旧約聖書の預言者たちのように預言して歌いました。

 1960年代のフォークソング「朝日のあたる家」House of the rising sunは、自分の歩んできた半生を振り返り、こんなふうになってはいけないというメッセージを告げています。「暗闇と死の陰に座している者」とは誰のことですか。一回しかない人生です。悔い改めるなら、主の憐れみによって、人は変わることができます。あけぼのの光を待ち望み、光を受けて立ち上がりましょう。