2025年2月2日の礼拝宣教から

「祈るときには」 ルカによる福音書11章1-13節

津村春英牧師

 インターネットのあるサイトに、神社仏閣での祈り方について書かれてありました。大勢の参拝者がいるので、まず、自分の住所氏名をしっかり伝えること。次に日頃の感謝を伝えること。そして、願い事を伝えることとありました。

 キリスト者の祈りはどのようでしょうか。勿論、住所氏名は不要ですね。願う前に感謝することを忘れていませんか。祈り方を尋ねた弟子たちに対し、主イエスは次のようにお教えになりました。まず、天の父の御名が聖とされるように、その御支配が地上に行きわたるように、それから、自分の日毎の糧を毎日与えてください、自分の罪を赦してください、試みに会わせないでくださいと、しかも熱心に求めなさいと言われました。そうすれば、神は必ず良い物をお与えになり、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(11:13)と言われました。

 私たちは、洗礼を受けて聖霊を与えられますが、聖霊がその人の心を支配しているかどうかが問題です。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)とあるように、聖霊が教えてくださるのです。聖霊によらなければわからないのです。聖霊に満たされるよう祈りましょう。

2025年1月26日の礼拝宣教から

「良いほうを選ぶ」 ルカによる福音書10章38-42節

津村春英牧師

 わが国における女性の地位向上は時代の流れですが、主イエスの時代は違っていました。教師の足下に坐って話を聞くのは男性のすることでした。マルタとマリアの姉妹の話で、接待に忙しくしているマルタは、何もしないでただイエスの傍で話に聞き入っているマリアを見て憤慨し、ついに口に出してしまいました。それに対してイエスは、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(10:41, 42)とお答えになりました。イエスが繰り返してマルタの名前を呼ばれることは愛情の現れで、マルタの心中を十分に察しておられたと思います。優先順位はTPO(時、場所、場合)によって異なります。ここは、み言葉を聞くべき時だったのでしょう。きっとマルタにも、座って聞くようになされたと推測します。

 この話の直前の「善いサマリア人の譬え」の結語では「実行すること」が求められ、それとバランスをとるように、「み言葉を聞くこと」が奨められたという解釈もあります。そして女性にスポットを当てているところがルカ的なのかもしれません。私たちも、その時の選択を間違えないように、いつも神さまの御心を求めつつ歩みたいものです。

2025年1月19日の礼拝宣教から     

「善いサマリア人」 ルカ福音書10章25-37節

津村春英牧師

 ある律法の専門家がイエスに、永遠の命を得る方法を尋ねたところ、神を愛し、またあなたの隣人を愛せよと告げられました。彼は、では隣人とは誰かと問い返すと、イエスは、かの有名な「善いサマリア人」の譬え話をされました。サマリア人とは、紀元前722年に北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、民族的純潔を守れなかった人々で、それゆえに南ユダ王国の人々から軽蔑され嫌われました。それは主イエスの時代にも及んでいました。

 エルサレムの神殿に仕える祭司、レビ人がそれぞれ家路につく途上で、盗賊に襲われて服をはぎ取られ半殺しにされたユダヤ人に遭遇しますが、見て見ぬふりをして通り過ぎました(死人に触れるのは祭儀的に汚れるゆえか?)。他方、旅をしていたサマリア人は傷(ギリシア語・トラウマ)を負った人を、あわれに思って(内臓の派生語)、助けます(思いやりを示すという意味の語)。イエスは傷ついた人の隣人になったのは、ユダヤ人が嫌悪するサマリア人だと、律法の専門家に気づかせ、「行ってあなたも同じようにしなさい」(10:37)とお命じになりました。

 パウロの「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)という言葉が響きます。み言葉を行うことができるように努めましょう。ただし、時には、自分自身が傷ついた旅人になり得ます。その場合は、善いサマリア人であるイエス(19世紀までの主な解釈)が思いやりを示してくださることでしょう。

2025年1月12日の礼拝宣教から

「弟子たちは何を見たか」 ルカ福音書10章17-24節

津村春英牧師

主イエスから、町や村に先に遣わされた弟子たちは、喜んで帰って来て報告しました。「主よ、
お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」(10:17)と。それに対し、主は、「しか
し、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に
書き記されていることを喜びなさい。」(同20)と言われました。いくつかの年賀状(含メール)
に、「いつも覚えていただき(気にかけていただき)感謝します」という言葉がありました。私
のパソコンソフトに名が載っている方々です。同様に、天に名が記されている人は、神様に気に
かけていただいています。それを「恵み」と言います。

 また、主は言われました。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多く
の預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが
聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」(同23-24)。ただし、弟子たちが見
たものはまだ前哨戦で、最後の戦いは、人類の罪を贖う、主イエス・キリストの勝利の十字架で
した。

 イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、天に名が記されていること、主の恵みの内
に生かされていることに心から感謝し、この新しい2025年も主から与えられた務めに励みましょ
う。

2025年1月5日の礼拝宣教から     

「主から遣わされる」  ルカによる福音書10章1-16節

津村春英牧師

 主イエスは、これから行こうとするところに、72(もしくは70)人もの弟子たちをペアでお遣わしになりました。彼らは、まず、どこかの家に入ったら、「この家に平和があるように」と言いなさいと命じられ、そこに平和を享受する人がいなければ、平和は自分に戻ってくると言われました。また、どこかの町に受け入れられたなら、「神の国はあなたがたに近づいた」と言いなさいと命じられました。神の国の到来、それは救いの時であり、裁きの時です。悔い改めないガリラヤの町コラジン、べトサイダ、さらにご自分の町カファルナウムに比べ、異邦の町であるティルスやシドンの方が軽い罰で済むとまで言われました。

 年初めに箱根駅伝があり、青山学院大学陸上部が8回目の優勝を達成しました。単なる根性論だけでなく、日頃から、選手の体調やパーフォーマンスを細かくデーター分析しながら、科学的なトレーニングを導入して、大会に備えたそうです。そうして選ばれた10人の選手が、それぞれの場所に遣わされ、期待通りの素晴らしい結果をもたらしたのです。

 主から遣わされている私たちは、今年、どこで、誰に、何を語ればいいのでしょうか。熱心さだけでなく、主のご期待に応えられるよう、静まって、御言葉をよく学び、日々祈り、自分の生き様を通して福音を伝えたいものです。