2025年1月11日の礼拝宣教から

「感謝の極み」 ルカによる福音書20章41節-21章4節

津村 春英牧師

 「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上16章7節)ということばがあります。主イエスは、ある貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を献金箱に入れるのをご覧になり、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」(21:3-4)と言われました。

 レプトン(複数形レプタ)はローマ帝国の最小の銅貨で、傭兵の1日分の賃金1デナリオンの128分の1の価値でした。しかし、このやもめにとって、2レプタはその日の生活費だったというのです。彼女が夫を亡くしたことは不運でしたが、決して不幸ではなかったと思えます。貧しいですが、人に頼るより、ひたすら神に頼る道を見出したからです。彼女は2レプタを、強いられてではなく喜んで献げました。それは彼女の「感謝の極み」の表現でした。

 私たちも、主イエスの十字架によって罪ゆるされ、救われ、天の御国へと招かれていることに感謝しましょう。たとい不運と思えることがあっても、主イエスが共にいてくださるので、決して不幸ではないのです。やもめは救われていることへの感謝を神に向かって最大限に表わしました。私たちの感謝はどの程度でしょうか。新聖歌249にあるように、主イエスは自分の全てでしょうか。

2025年1月4日の礼拝宣教から 

「キリストの日に誇る」 フィリピ2章12-18節

津村 春英牧師

 2026年幕開けの箱根駅伝往路で、人知を超えた大逆転劇がありました。選手たちはこの日のためにどれだけ苦しい練習をしてきたことでしょうか。人生の競争ではどうでしょうか。新しい年を迎えるように、キリストの再臨があります。これはたった一度のことですが、それを「キリストの日」と呼び、その時、一人一人に最後の審判が下されるのです。今朝の聖書の箇所には、「キリストの日に誇る」ことができる人生が示されています。

 パウロが書き送ったフィリピ書は、獄中(ローマ?エフェソ?)で書かれました(1:7,13,17など)。生きるか死ぬかの覚悟をもって書かれたこの手紙で、パウロは、「生きることはキリスト」(1:21)と書きました。それはキリストのために生きる(1:29;ローマ14:8; テサロニケ一5:10など)、キリストと共に生きる(ガラテヤ2:20など)と考えられます。そして、フィリピの教会の兄姉には、「自分の救いの達成に努めなさい」(2:12)と勧めました。ただし、孤軍奮闘ではなく、神がそれぞれに願いを起こさせてくださり、神がそれを最後まで導いてくださるからだと書いています(2:13; 1:6)。こうして、それぞれが走ったことも、労苦したことも無駄ではなかったと、「キリストの日に誇る」ことができると励ましたのです。これは私たちへのメッセージでもあります。

2025年12月28日の礼拝宣教から

「最初の日から今日まで」 フィリピ1章3-11節

津村 春英牧師

 2025年も間もなく終わろうとしています。今年の出来事ベストテンなども発表されていますが、皆さんにとってこの一年はいかがでしたか。

 パウロは、ヨーロッパ伝道を開始したフィリピにある教会の人々に対して、次のように書き送りました。「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。」(1:3-5)と。「福音にあずかる」の「あずかる」は漢字では「与る」ですが、このギリシア語は通常、「交わり」と訳されるコイノニアなので、ここでは、①福音の恵みを与えられていること、②福音宣教に参与していることの両方を意味すると考えるべきです(新改訳2017の「福音を伝えることにともに携わってきたこと」では不正確)。

 パウロが生きた世界は、ユダヤ教、ヘレニズム文化、ローマ皇帝の支配下でしたが、何よりも神の民として振舞いました(N.T.ライト『新しいパウロ』前川裕訳,新教出版社,2025,pp.19-24参照)。私たちはどうでしょうか…。どのような環境にあっても、天に国籍を持つ者(3:20)であることを感謝しつつ、これからも、福音にあずかる者としてともに歩みましょう!

2025年12月21日の礼拝宣教から

「イエス・キリストは主である」 フィリピ2章6-11節

津村  春英 牧師

 経営学の父と呼ばれるピーター・F・ドラッカーのMVV(Mission:企業の目的、 Vision:目標、ゴール、Value:価値観、行動指針)という考え方が、今、働く女性に人気だそうです。イエス・キリストのMVVとは何でしょうか。何のためにこの地上にお生まれになり、どこに向かって、どのように歩まれたのでしょうか。

 福音書によると、朝早く起きて、人里離れたところで祈り(マルコ1:35)、父の御心を確認しつつ、一歩一歩、父の御心を実行していかれました。それは、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:8)というほどでした。こうして、イエス・キリストは父なる神から「主」という名を与えられ、すべての人々が「イエス・キリストは主である」(同11)と告白し、父である神をたたえるとあります。モーセがエジプトに遣わされる際に、「わたしはある」と言われた神が主なる神ですが、イエス・キリストも「主」と呼ばれるのです。それは、ヘンデルのメサイヤの中にあるように、Lord of Lords、主の中の主です。そして、この方こそ、私たちを罪から救う「主」なのです。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマ10:9)。主イエス・キリストのご降誕を心からお祝いしましょう。ハレルヤ!