2025年5月11日の礼拝宣教から    

「かめの粉は尽きず」 列王記上17章8-16節

津村春英牧師

 古代北イスラエル王国の悪王アハブの時代にエリヤという預言者が立てられました。エリヤは王にこの数年間、露も降りず雨も降らないと預言し、逃亡の身となりました。主なる神は、まず彼の故郷近くのケリテ川の渓谷で烏(複数形、渡り鳥)にパンと肉を運ばせ、彼を養いました。次に、彼を異教の町シドンのサレプタの一人のやもめのところに向かわせ、そのやもめに水とパンを要求させます。実は、このやもめとその息子は大変貧しくて、その時、一握りの小麦粉とわずかな油をもって、薪二本でパンを作り、それを食べてしまうと、やがて餓死する運命にありました。しかし、「主がこの地に雨を降らせるまで、かめの小麦粉は尽きず、瓶(びん)の油がなくなることはない」(17:14)とのエリヤの言葉どおりになり、エリヤもやもめも息子も守られたのです。

 ところがこの後、その息子が大病を患って死んでしまうのです。母であるやもめはエリヤに因果応報を超えた救いを熱心に求め、ついに息子は生き返ります…。彼女の姿は私たちの母の姿のように思えます。そのような母に感謝したいと思います。こうして彼女はエリヤを通して愛の神を知りました。私たちはイエス・キリストを通して愛の神を知ります。心から感謝をささげましょう。

2025年5月4日の礼拝宣教から    

「エルサレム、エルサレム」 ルカ福音書13章31-35節

津村春英牧師

 中南米出身者として初めて教皇になられたフランシスコ教皇がお亡くなりになりました。その遺言に、「人生の最期を特徴づけるこの苦しみを、世界の平和と人々の兄弟愛のために、主にささげます」(私訳)とありました。

 同じローマに、2000年前、ローマ帝国皇帝ティベリウス(AD14-37)がいました。その時代の東の辺境地ユダヤには、イエス・キリストがおられ、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だがお前たちは応じようとしなかった。」(13:34)と語られました。ここでいう「エルサレム」とは、選民イスラエルを指し、この警告にもかかわらず、それから約40年後のAD70年に、エルサレムはローマ軍に包囲され、神殿は破壊され、略奪されてしまいまし た。

 「エルサレム」はまた、現代の私たちを暗示しています。主イエスは私たちの罪を贖うために、天の御国への道を開くために、十字架におかかりになりました。そして今も、私たちを招いておられます。♪「昨日も今日も変わりなく 血潮したたる御手を伸べ 『友よ帰れ』と招きつつ 待てるは誰ぞ 主ならずや」(新聖歌221番4節)

 

2025年4月27日の礼拝宣教から  

「神の国での宴会」 ルカ福音書13章22-30節

津村春英牧師

 開幕した大阪・関西万博の入場には電子チケットが導入され、個人IDや券種、日時、入場ゲート、予約パビリオンなどの情報が入ったQRコードを、スマホか印刷したものを認証してもらって入るようです。天の御国への入場はどうでしょうか。

 主イエスは、私たちが神の国に入り食卓につく(原語に宴会の語はない)ためには、狭い戸口から入るので、奮闘しなさいと言われました(13:24)。そして、「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」(同30)とも言われました。直訳すると、「最後の者がいる。彼らは最初の者になるであろう。そして、最初の者がいる。彼らは最後の者になるであろう。」となります。ルカ福音書や使徒言行録では、後の人(最後の者)とは悔い改める罪人や異邦人であり、他方、先の人(最初の者)とは悔い改めない選民ユダヤ人を指しています。

 その戸口に立った時に、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」(同27)と言われないように、聖霊(御国を受け継ぐための保証:エフェソ1:13,14)に満たされ、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き」(ローマ12:15)、神に喜ばれるように歩んでいきましょう。

2025年4月20日の礼拝宣教から    

「復活の望みに生きる」 ヘブライ人への手紙13章1-8節

津村春英牧師

 Happy Easter!今日は主の復活を記念する日です。主の十字架により私たちの罪は赦され、主の復活により私たちに希望が与えられました。人は皆、時間と共に老いて行き、肉体は最後に焼かれて骨になります。しかし、霊で存在し、主の再臨の時、最後の晩餐の時を待つのです。このプランの中で、信仰者はどうあるべきでしょうか。今日はヘブライ書に聞きましょう。13章の始めの箇所に6つの勧めを見つけます。

 1.兄弟姉妹の愛(フィラデルフィア)を継続すること。2.旅人をもてなす(フィロクセノス)こと。3.困難の中にいる人を思いやること(レフ・トルストイの民話『愛のあるところには神がある』(靴屋のマルティン)のように)。4.結婚を尊ぶこと(結婚は契約。横行する有名人の不品行や不倫はいかがなものか)。5.金銭に執着しないこと(主が助けてくださる。ローマ8:28)。6.指導者たち(過去と現在の)を思い起こし、その信仰に倣うことです。

 これらの背後に、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(13:8)というみことばがあります。厳しい現実の中にも希望をもって進みましょう。ハレルヤ!

2025年4月13日の礼拝宣教から    

「私たちが生きるために」 ヨハネの手紙一4章7-12節

津村春英牧師

 東京大学総長の入学式の言葉が印象的です。他者に対するより深い理解や配慮に基づく新たなリテラシーを育むことが求められると話されました。これはネット社会における愛の欠如に警鐘を鳴らしておられるのだと思います。

 人は、命の息を吹き入れられて生きるようになったのですが(創2:7)、罪を犯し堕落してしまいました。しかし、「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」(4:9)とあります。イエス・キリストの十字架の御受難を通して再生されるのです。そして、「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(同11)と続きます。この手紙の共同体は危機的な状況にあり(2:19, 22参照)、お互いが愛し合って一つになる必要がありました。

 加工しない自然石だけで積み上げられる野面積(のづらづみ)の石垣の石は、どれ一つとっても同じ石はありませんが、無駄な石など一つもなく、それぞれが役割を果たして、一つの見事な石垣が出来上がると言われます。いろいろな人が集まる教会も同じです。神の愛、イエス・キリストの愛によって生かされ、互いに愛し合う教会でありたいと思います。