2024年7月28日の礼拝宣教から

「愛の大きさ」 ルカ福音書7章36-50節 

津村春英牧師

 先週の大雨により、秋田、山形両県で大きな被害が出ています。その地の人々の思いになり、主のお慰めがあるように祈りましょう。他方、パリ・オリンピックが開催され、世界のアスリートたちが競い合います。そこには必ず勝者と敗者ができますが、その中で何を発見するかが問題だと思います。

 ファリサイ派のシモンはイエスを自分の食卓に招きました。そこでは誰でも出入りができる習慣があり、罪深い女と称される招かれざる客も入ってきました。当時の食事のスタイルとしては、横になり、左ひじをつき、右手で食べたと思われ(ローマ様式)、足は人前にさらすことになります。彼女はイエスに出会い、イエスの中に大きな神の愛を発見し、赦された思いで一杯になり、涙を流してイエスの足を濡らし、自分の髪で拭い、接吻してやまず、香油を塗りました。彼女が多くの罪を赦されたことはイエスに示した愛の大きさでわかる(7:47)とあります。

 彼女の感動が伝わってきますか。苦しみから解放された彼女のところまで下りてみましょう。何が見えますか。何を感じますか…。イエスが彼女に語られた、「あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい」(同50)のお言葉を、私たちもいただいて、ここから旅立ちましょう。

2024年7月21日の礼拝宣教から

「今の時代の人たちは」 ルカ福音書7章29-35節 

津村春英牧師

 コロナウイルス(COVID-19)は今もなお収束せず、日本では今、第11波の感染が広まっていると言われます。また、先週は、コンピュータを悪意のある攻撃から守るための監視ソフトの更新がうまくいかず、世界各地でシステム障害が起こり、交通やインフラが影響を受けました。また、戦争も止みません。私たちは、何を信じ、何を信頼すればいいのでしょうか。

 主イエスの時代に霊的、精神的指導者と目されたファリサイ派の人々や律法の専門家たちは神の御心を拒み(7:30)、バプテスマのヨハネや主イエスを期待外れと断定しました。ヨハネにはあまりにも厳格すぎて、悪霊に取りつかれていると言い、イエスには大食漢で大酒飲みだと非難しました。しかし主は、「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」(同35)と言われました。下線部の直訳は、「すべての知恵の子」であり、「子」(テクノン)とは、生まれた者の意で、その知恵を享受する者であり、弟子たちや悔い改めて洗礼を受けた徴税人や罪人たちが該当しました。

 現代の人々も、残念ながら、キリスト教を期待外れと言うかもしれません。確かに私たちは欠けだらけの土の器ですが、主イエスこそ信頼すべきお方であるのです。その知恵の子として、私たちは歩んで行きたいものです。

2024年7月14日の礼拝宣教から

「風にそよぐ葦を見るためか」 ルカ福音書7章18-30節 

津村春英牧師

 新札が発行されました。その中の何を見ましたか。組み入れられているホログラフィーに感動した人が多いようです。

 主イエスの公の活動の前に、バプテスマのヨハネと呼ばれる人物が、その道備えをしました。彼はその地方の領主に捕らえられましたが、獄中でイエスの活動を耳にし、使いをイエスのもとに送り、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(7:19)と尋ねました。彼の期待と違っていたのでしょうか。イエスは、この預言者としてのヨハネを絶賛されますが、「神の国で最も小さな者でも、彼より偉大である」(同28)と付け加えられました。これはイエスの働きによって生まれた者を指すと考えられます。群衆は、ヨルダン川で悔い改めのメッセージを語るヨハネのところに押し寄せました。聞いて、洗礼を受けた人々がいる一方、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、洗礼を受けないで、神の御心(ご計画)を拒んだとあります。彼らは何を見るために荒れ野にやって来たのか、とイエスに非難されます。

 私たちは何のために教会にやってくるのでしょうか…。そこで神の臨在を覚えるからです。教会に来て、主イエス・キリストに出会い、自分に対する神の御心(ご計画)を教えていただいて、また新しい旅へと向かうのです。

 

2024年7月7日の礼拝宣教から

「若者よ、起きなさい」 ルカ福音書7章11-17節 

津村春英牧師

 東北大学教授の青木俊明氏は、コロナ禍により、「広薄型の社会」になり、10年後、20年後にはその影響が出て、一人で元気にやれる人は別にして、孤立感や疎外感が強まり、生きづらい社会になってしまうと警鐘を鳴らしています。

 確かに、最近の葬儀も「家族葬」が大半になり、しかも「一日葬」が増えています。主イエスの時代の葬儀は、かつての私たちと同様に、みんなでその痛みを分かち合いました。そこには泣くことを職業とする女性がいて、関係者が大声をあげて存分に泣くことができました。今、あるやもめの一人息子が亡くなりました。彼女は夫と最愛の一人息子を亡くすという二重の試練の中にいたと思われます。主と弟子たちは、町の門から出て墓地に向かう彼ら一行に出会いました。主はこの母親を見て、憐れに思い(内臓が語源)、彼女に声をかけ、棺台に触れて(タブーで、汚れると恐れられた)、「若者よ、あなたに言う、起きなさい」(7:14)と言われました。こうして、若者は癒されたのです。人々は、「神はその民に心をかけてくださった」(同16)と神を賛美しました。 

 私たちも、この主イエスを信じて受け入れるなら、決して孤独ではありません。私たちの現実の中にも、主は来てくださり、声をかけてくださり、触れてくださり、回復させてくださると、聖書は私たちに語りかけているのです。

2024年6月30日の礼拝宣教から 

「ある百人隊長の信仰」   ルカ福音書7章1-10節

津村春英牧師

 先週一週間、あなたにどんなことがあり、何を学びましたか。また、自分のためだけでなく、誰かのために、とりなす祈りをささげましたか。その際、どれほど神さまの権威を信じて祈りましたか。

 ガリラヤ湖畔の町カファルナウムに配置されていたある百人隊長の僕(ドゥーロス)が死にかかっていました。事態は急を要します。百人隊長は、噂のイエスのもとに、敬意をもってユダヤ人の長老たちを遣わし、来て、癒してほしいと懇願しました。一般論で、支配者は支配地の人々を見下すものですが、この百人隊長は全く違っていました。ユダヤ人のために自ら資金を出して会堂を建てたと追加説明があるほどです。主イエスが、間もなく家に到着されるころ、彼はさらに友人を数人遣わし、「ひと言おっしゃってください。そして僕(パイース:若い男子を意味し、子どもとも訳せる)をいやしてください」(7:7)と伝えました。主イエスにその信仰を評価され、見事に彼の僕は癒されたのです。

 軍隊の厳しい権威の下に置かれていると自覚する百人隊長は、主イエスの権威の下にへりくだり、その権威を信じ、受け入れ、願いがかなえられたのです。私たちは、聖書の御言葉の権威をどのように受け止めていますか。幾分緩やかですか…そうであってはいけません。この百人隊長の信仰に倣いたいものです。