2025年4月6日の礼拝宣教から    

「アブラハムの娘だから」 ルカによる福音書13章10-21節

津村春英牧師

 安息日に、18年間もの間、腰が曲がったまま伸ばすことができない女性がある会堂にやってきました。18年といえば、誕生から高校卒業までの年数です。主イエスは彼女をご覧になり、呼び寄せて、「婦人よ、病気は治った」(13:12)と言われ、彼女に両手を置いて癒されました。それを見た会堂長は立腹し、安息日にそのようなことをしてはいけないと群衆に告げました。それに対して、イエスは、この女性も、「アブラハムの娘」だから、祝福を受ける対象であると、反対者たちを叱責されました。さらに、このことは、神の国がもう近づいていることの現れであって、パン種とからし種のたとえをもって説明されました。

 極小のからし種からやがて数メートルもの大きな木になるように、また、粉に混ざって隠れているパン種が時間と共に周りを徐々に膨らませるように、この腰の曲がった女性にも救いが及び、神の国が近づいていると言われたのです。

 主イエス・キリストの十字架が、自分の罪の身代わりの贖いであると信じる人も「アブラハムの娘」なのです。あなたの神の国は信じた時より大きく見えるようになっていますか。もし、そうでないとしたら、何が問題なのでしょうか。悔い改めて、父なる神のもとに帰り、日々、成長させていただきましょう。

2025年3月30日の礼拝宣教から    

「いちじくの木のたとえ」 ルカによる福音書13章1-9節

津村春英牧師

 世界各地で発生した大規模な森林火災がついに日本列島でも発生しました。人為的なもの以外に、極端な乾燥と強風が原因だと言われています。

 主イエスは、何人かの者たちにお尋ねになりました。彼らが報告したピラトによる虐殺の犠牲者について、また、塔が倒れるという事故により死んだ者たちについて、他の人々より罪深かったからかと。イエスの答えは「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(13:3, 5)でありました。これは因果応報でなく、人の滅び(12:4参照)そのものについて言われたのであって、悔い改めることの重要性を説かれたのです。それは、続く「実のならないいちじくの木」のたとえにおいて顕著です。

 十分な年数が経過しているのに、実を結ばないいちじくの木を切り倒せと命じられた園丁の願い、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」(同8, 9)は、悔い改めの実を求める主イエスの思いでもあって、ルカ福音書の随所に見られる箇所(15, 16, 17, 19, 24章など)と響き合います。ただし、悔い改めとは自分を責めることではなく、主イエスを通して父なる神のもとに帰ることなのです(上記下線部13:3, 5のヘブライ語訳)。

2025年3月23日の礼拝宣教から     

「今、成すべきことは?」 ルカによる福音書12章49-59節

津村春英牧師

 第97回選抜高校野球大会で、市立和歌山高校の生徒が宣誓しました。「みなさん、高校野球が好きですか。私たちは高校野球が大好きです。」では、私はこう言いましょう。「皆さん、大阪日本橋キリスト教会が好きですか」。

 主イエスは弟子たちに言われました。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」(12:49)と。「火」は審判を表します(ルカ17:29; ユダ7など)。「しかし、わたしには受けなければならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」(12:50)と言われました。それは十字架の死の苦しみですが、弟子たちにはわかっていませんでした。他方、群衆にも、「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」(同56)さらに、「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。」(同57)と言われました。

 この主イエスの熱意のこもったお言葉を受けて、私たちも自分の生き方を考えてみましょう。自分にとって今はどんな時でしょうか。今、成すべきことは何でしょうか。神様はいつも私たちを見ておられます。決して孤独ではありません。信じて歩みましょう。

2025年3月16日の礼拝宣教から     

「目を覚ましていなさい」 ルカによる福音書12章35-48節

津村春英牧師

 「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」

(12:37a)「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(同40)と主は言われました。これは主の再臨される時に、目を覚まして見張っているキリスト者は幸いであるという意味です。そして、「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。」(同47)とも言われました(下線部:御心)。

 マタイの福音書25章14~30節の「タラントンのたとえ」も同様の話です。ここでは、ある人が旅行に出かけるとき、僕たちにその能力に応じて自分の財産を預けた結果、能力に応じて商売をして倍増させた僕は、「忠実で良い僕」とほめられますが、何もしないで地の中に隠しておいて僕は「怠け者の悪い僕」と叱責され、預けたものをすべて取り上げられたとあります。ルカでは前者を「忠実で賢い管理人」(ルカ12:42)と呼んでいます。

 広辞苑によると「自覚」は、「自己自身の置かれている一定の状況を媒介として、そこにおける自己の位置・能力・価値・義務・使命などを知ること。」とあります。私たちは目覚めていますか。神様から与えられている自分の使命(御心)を自覚していますか。「忠実で賢い管理人」と言われるよう励みましょう!

2025年3月9日の礼拝宣教から     

「人生に必要なもの」  ルカによる福音書12章13-34節

津村春英牧師

 少子高齢化対策の一環として、4月から高校の授業料が無償になります。ただし、経済学者のいうマタイの法則(富める者がますます富み、貧しい者がますます貧しくなる)のように、かえって二極化が進むという負の面を危惧する声もあります。なお、このマタイ13:12の前半は、弟子たちが、「天(神)の国を求め続けるなら、さらに霊的に豊かになっていく」という意味であって、そうであるからこそ、人々が何とか神の国を受け入れるように、主イエスが「たとえ」をもってわかりやすく話されるという文脈にあります。

 イエスは、人々の貪欲に関して、「ある金持ちの畑が豊作になった」で始まる「たとえ」をもって、「自分のために富」を積むよりも、「神の前に豊かになるように」と戒められました(cf.12:21)。また、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」(同22)、「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(同31, 32)と言われました。

「主の祈り」の「御国を来たらせてください」は、「あまねく、神の愛で満たしてください」と言い換えることができます。そうです。神の愛が、私たちの心の目を開き、人生に必要なものが何であるかを教えてくれるのです。