2025年5月25日の礼拝宣教から

「招かれて食事をする者」 ルカによる福音書14章12-24節

津村春英牧師

 主イエスがファリサイ派の議員に食事に招かれた際、客の一人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(14:15)と言ったので、主イエスは神の国の宴会について、次の話をされました。ある主人(神)が、宴会の時刻(最後の審判)になったので、すでに招待状を送っていた人々のところに僕を遣わしたところ、畑を買ったので、妻をめとったので、牛を買ったのでなどと弁解し、招待を断ったと僕から報告を受けました。それで主人は、再度、再々度、町中や町の外れまでも出て行って、本来招かれる予定のない人々をかき集めて席を埋めるよう、僕に命じました。これは、招待状を受けていたのに断わったのがファリサイ派の人々を含む選民ユダヤ人であり、他方、かき集められて食事の席に着くのは、悔い改めた罪人たちになるというたとえでした。

 牧師も洗礼証書という、神の国の食事への招待状を発行しますが、その人が食事の席に着くことができるかどうかは、その後の、その人の生き方にかかっています。どれだけ、神様に喜ばれることをしたのか、どのように生きてきたのか、それが問われるのです。来るべき日、神の国の食事を味わう(喜びを分かち合う)ことのできる人は誰でしょうか。

2025年5月18日の礼拝宣教から

「むしろ末席に」 ルカによる福音書14章1-11節

津村春英牧師

安息日は十戒に定められ、文字通り安息の日であって労働が禁じられました。それは神さまの愛のご配慮でした。しかし、後に細則が加えられていき、安息ではなく窮屈な制度になり、いつしか律法の専門家やファリサイ派の人々がそれを監視するようになっていました。そんな中、主イエスは、安息日に招かれた食事の席で、水腫を患う人を癒されました。これは労働とみなされますが、規則より愛が優先されることをお示しになるためでした。

 続いて、招かれた客が上席を選ぶ様子をご覧になり、婚宴の席に例えて、「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14:10, 11)と言われました。これは単なる道徳訓ではなく、やはり愛の問題なのです。主イエスは、天の父のところ、つまり上席におられたのに、地に下られ、実に十字架の死という末席に座られたのです。「キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして/僕の形をとり…/人間の姿で現れへりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました」(フィリピ2:6-9・聖書協会共同訳)。模範を示された主イエス・キリストに続きましょう!

2025年5月11日の礼拝宣教から    

「かめの粉は尽きず」 列王記上17章8-16節

津村春英牧師

 古代北イスラエル王国の悪王アハブの時代にエリヤという預言者が立てられました。エリヤは王にこの数年間、露も降りず雨も降らないと預言し、逃亡の身となりました。主なる神は、まず彼の故郷近くのケリテ川の渓谷で烏(複数形、渡り鳥)にパンと肉を運ばせ、彼を養いました。次に、彼を異教の町シドンのサレプタの一人のやもめのところに向かわせ、そのやもめに水とパンを要求させます。実は、このやもめとその息子は大変貧しくて、その時、一握りの小麦粉とわずかな油をもって、薪二本でパンを作り、それを食べてしまうと、やがて餓死する運命にありました。しかし、「主がこの地に雨を降らせるまで、かめの小麦粉は尽きず、瓶(びん)の油がなくなることはない」(17:14)とのエリヤの言葉どおりになり、エリヤもやもめも息子も守られたのです。

 ところがこの後、その息子が大病を患って死んでしまうのです。母であるやもめはエリヤに因果応報を超えた救いを熱心に求め、ついに息子は生き返ります…。彼女の姿は私たちの母の姿のように思えます。そのような母に感謝したいと思います。こうして彼女はエリヤを通して愛の神を知りました。私たちはイエス・キリストを通して愛の神を知ります。心から感謝をささげましょう。

2025年5月4日の礼拝宣教から    

「エルサレム、エルサレム」 ルカ福音書13章31-35節

津村春英牧師

 中南米出身者として初めて教皇になられたフランシスコ教皇がお亡くなりになりました。その遺言に、「人生の最期を特徴づけるこの苦しみを、世界の平和と人々の兄弟愛のために、主にささげます」(私訳)とありました。

 同じローマに、2000年前、ローマ帝国皇帝ティベリウス(AD14-37)がいました。その時代の東の辺境地ユダヤには、イエス・キリストがおられ、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だがお前たちは応じようとしなかった。」(13:34)と語られました。ここでいう「エルサレム」とは、選民イスラエルを指し、この警告にもかかわらず、それから約40年後のAD70年に、エルサレムはローマ軍に包囲され、神殿は破壊され、略奪されてしまいまし た。

 「エルサレム」はまた、現代の私たちを暗示しています。主イエスは私たちの罪を贖うために、天の御国への道を開くために、十字架におかかりになりました。そして今も、私たちを招いておられます。♪「昨日も今日も変わりなく 血潮したたる御手を伸べ 『友よ帰れ』と招きつつ 待てるは誰ぞ 主ならずや」(新聖歌221番4節)

 

2025年4月27日の礼拝宣教から  

「神の国での宴会」 ルカ福音書13章22-30節

津村春英牧師

 開幕した大阪・関西万博の入場には電子チケットが導入され、個人IDや券種、日時、入場ゲート、予約パビリオンなどの情報が入ったQRコードを、スマホか印刷したものを認証してもらって入るようです。天の御国への入場はどうでしょうか。

 主イエスは、私たちが神の国に入り食卓につく(原語に宴会の語はない)ためには、狭い戸口から入るので、奮闘しなさいと言われました(13:24)。そして、「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」(同30)とも言われました。直訳すると、「最後の者がいる。彼らは最初の者になるであろう。そして、最初の者がいる。彼らは最後の者になるであろう。」となります。ルカ福音書や使徒言行録では、後の人(最後の者)とは悔い改める罪人や異邦人であり、他方、先の人(最初の者)とは悔い改めない選民ユダヤ人を指しています。

 その戸口に立った時に、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」(同27)と言われないように、聖霊(御国を受け継ぐための保証:エフェソ1:13,14)に満たされ、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き」(ローマ12:15)、神に喜ばれるように歩んでいきましょう。