『希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。』
(ローマ信徒への手紙12章12節)
(ローマ信徒への手紙12章12節)
川﨑真奈伝道師
サムエルが預言者となる頃、イスラエルの民はペリシテ人との戦いに苦しんでいました。契約の箱を取り返してからも、霊的に飢え渇いていた彼らは、サムエルの助言を通して、偶像礼拝を悔い改め、まことの主に立ち返ったのです。
その後ペリシテ人が攻めてきた時、彼らは主により頼みました。数々の試練の中で、人は変えられていきます。自分の力で対処するのではなく、神様のもとにのみ解決の道があることを知るようになります。主は苦しみの中で、叫ぶ者の声を聞かれ、必ず導いていてくださるのです。そして、彼らは主の助けによって完全な勝利を得ました。
そこでサムエルは、「今まで、主は我々を助けてくださった」と記念の石を置き、エベン・エゼルと名付けました。「石を置く」ということは、神様への感謝を心に深く刻むということ、そしてその感謝を他の人々と分かち合うということを意味しています。
この1年、皆さんはどのような歩みをされたでしょうか?試練の時も、勝利に喜ぶ時も、今日まで主はずっと私たちと共にいてくださり、導いてきてくださったのです。サムエルがエベン・エゼルの石を置いたように、私たちもこれまでの主への感謝を心に刻み、共に分かち合っていこうではありませんか!
津村春英牧師
今日の箇所から、二つの疑問がわいてきます。第一に、マリアが救い主を宿して身重になっているときに、それぞれ自分の町に帰って「住民登録をせよ」との権力者の勅令発布をなぜ、神さまはお許しになったかということです。マリアとヨセフは長距離移動を余儀なくされ、決して容易な旅ではなかったと思われますが、無事にベツレヘムに着くことができました。文言はありませんが、信仰深い二人ゆえに、神さまが共にいてくださったからでしょう。
第二に、身重のときの移動なら、せめて、安全に出産できる「場所」がなぜ、用意されていなかったかということです。彼らには2階の客間でなく、外気の寒さから家畜を守るための1階しか「場所」(トポス:状態、地位も表す)がなかったのです。マリアはそこで主イエスを出産し、産着(おくるみ)にくるんで(原語は「くるむ」という動詞だけ)、飼い葉桶に寝かしたとあります。ただし、1階と言えども、そこは、夜露をしのぐことができ、産婆さんやお湯の手配を、その家にお願いできる環境であったと思われます。
この主イエスの誕生物語から、私たちの人生の「なぜ」に対する答えを見いだすことができますか…。信仰を持って歩むなら、どのような場所(トポス)にあっても、神さまが共にいてくださるから大丈夫だと教えられます。
津村春英牧師
過日、亡くなった谷村新司さんがある番組で、「歌を歌っていたら戦争なんかしない、できない」と語っていたのが印象的でした。また、歌が歌えるということは何と素晴らしいことでしょうか。
バプテスマのヨハネと後に呼ばれる人の父ザカリヤは、霊に満たされて歌いました。まず、息子ヨハネの使命について、「主に先立って道を整え、民に罪の赦しによる救いを知らせる」と預言し、そして、この救いは、「我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和に導く。」(1:78, 79)と歌いました。「あけぼのの光」の原語は「東、日の出、朝日」を意味し、「訪れる」は旧約聖書の用法の「顧みる」の意で、やがて生まれ出る主イエス・キリストとその働きを、旧約聖書の預言者たちのように預言して歌いました。
1960年代のフォークソング「朝日のあたる家」House of the rising sunは、自分の歩んできた半生を振り返り、こんなふうになってはいけないというメッセージを告げています。「暗闇と死の陰に座している者」とは誰のことですか。一回しかない人生です。悔い改めるなら、主の憐れみによって、人は変わることができます。あけぼのの光を待ち望み、光を受けて立ち上がりましょう。
津村春英牧師
人は皆、それぞれ名をつけられています。エリサベトの息子は、慣例の親族の名ではなく、天使ガブリエルから「その名はヨハネ」と告げられたように命名されました。ヘブライ語ヨーハーナーンは、「ヤハウェは恵み深い」の意で、ヨハネは多くの人々に悔い改めを説き、バプテスマを施したので、後世にバプテスマのヨハネと呼ばれます。ところがガリラヤの領主の逆鱗に触れ、30歳ほどの若さで殉教しますが、その名にふさわしい生涯を全うしました。
クリスチャン(キリスト者)は、原語で「クリスティアノス」で、語尾の「イアノス」はラテン語由来の「~に従う者」を意味します。では、キリストにどのように従うのでしょうか。主イエスは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)と言われました。当時の弟子たちはいつも死を覚悟していなければなりませんでした。他方、初めてキリスト者と呼ばれたアンティオキアでは、福音を告げ知らせ、主から離れず、それぞれの力に応じて献げる人々でありました(使徒11:20-29)。また、主イエスが言われた、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)の言葉も忘れてはなりません。「その名はクリスチャン」と呼ばれる人は誰ですか。