2024年12月15日の礼拝宣教から

「その名はイエス」  マタイによる福音書1章18-23節

津村春英牧師

 最近はインターネット空間でSNS(Social Networking Service)による匿名での言葉の暴力が問題になっています。堂々と自分の名前を出して発言すべきです。親からもらった名前ですが、そこには命名者の思いが込められている場合もあります。

 神様から遣わされた天使が、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:21)と伝えました。「イエス」という名は、マタイ福音書のヨセフの系図には出てきませんが、旧約聖書のアブラハムの後継者ヨシュアのギリシア語訳で、イェホシュア「主は救う」がイェシュア「救い」になったと言われます(ランデルマン真樹『ヘブライの宝物』、13-14頁)。

 イエス・キリストは、時のローマ帝国に一矢(いっし)を報いて、その圧政からの解放をもたらすのではなく、むしろその逆で、ローマ帝国の手によって十字架にかけられることによって、ご自分を信じるすべての人の罪を贖われ、人々を救われるのです。それは父である神様のお心であり、イエスご自身もそれに従われたのです。♪ 伝えよ、そのおとずれを。広めよ、きよき御業を。たたえよ、声のかぎり(讃美歌Ⅱ219さやかに星はきらめき)! 

2024年12月8日の礼拝宣教から    

「みことばは道の光」  詩編109篇105-112節

津村春英牧師

 暗闇を経験したことがありますか。光が来るまでじっと待たねばなりません。「あなたの御言葉は、わたしの道の光」(119:105)と詩人は歌います。この「道」は、原語ヘブライ語のナーティーブで、英語ではpath, pathwayと訳され、自然にできた小道、細道で、真っすぐでもなく、平坦でもありません。人生はこの道にたとえられます。アップダウンがあり、上っているときや、曲がりくねっているときは先が見えないので、不安になり、疲れ果てるのです。また、今や、世界の各地で不穏な出来事が次から次と起こっています。この暗闇の時代には光が必要です。詩人が言う「わたしの魂は常にわたしの手に置かれています」(同109)とは、魂つまり命が、信頼のできない危険な状態にあるということを意味します。しかし、それでも律法(御言葉)を忘れないと歌っています。御言葉こそ、真の光だと歌っているのです。

 新約聖書において、御言葉である主イエス・キリストは言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネによる福音書8:12)と。このお方が、天の父である神様から遣わされて、この暗闇の世界にお生まれくださった、そのことを記念する日が近づいています。喜びをもって迎え、光に満たされましょう。

2024年12月1日の礼拝宣教から

「救いは近づいている」 ローマの信徒への手紙13章11-14節

津村春英牧師

 今日からクリスマス・アドベントに入ります。アドベントはラテン語のAdventus「到来」からきていて、クリスマスは主イエスのご降誕を待ち望みます。そして、キリスト者はその後の、主の再臨を待ち望みます。ここでは、このご降誕と再臨とを重ね合わせて考えてみましょう。

 使徒パウロは、主の再臨が近いことを、「あなたがたは今がどんなであるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」(13:11)と書いています。下線のある「時」はカイロスで「好機、ちょうどよい時」を意味し、カイロスである再臨が近いと言っています。それゆえ、「闇の業を脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう。…品位を持って歩もうではありませんか。…主イエス・キリストを身にまといなさい。」(同12-14)と勧めています。「主イエス・キリストを身にまとう」とは、主の十字架の贖いと復活をまとうことで、それが身に沁み込み、キリスト者としての品位が造り出され、希望に生きる者と変えられるのです。

 新聖歌446「あなたの罪過ちは始末されてあるか…花婿なるキリストを迎えに出られるか 罪のしみのない服を毎日着ておるか」のように、毎日、主イエス・キリストを着ることによって、主の来臨を待ち望む者とされたい。

2024年11月24日の礼拝宣教から

「最上のものをささげよう」 ルカ福音書9章57-62節

津村春英牧師

 収穫感謝礼拝はアメリカの教会に起源があります。17世紀のメイフラワー号で新天地アメリカに向かったピルグリム・ファーザーズと呼ばれるピューリタン・クリスチャンたちが上陸後の翌年、先住民の力を借りて初めて地の産物を収穫したときに、神に感謝して献げたと言われます。

 出エジプト記23章は、20章の十戒の続きであって、民が約束の地カナンに定着後、農耕生活をする中で、季節ごとに感謝をするよう、主はモーセを通してお命じになりました。それは年に三度の収穫時に感謝の礼拝を神に献げることでした。第一は春の大麦の収穫の感謝で、酵母を入れないパン祭り、いわゆる「過越しの祭り」になります。第二は小麦の収穫の「刈り入れの祭り」で、七週の祭り(ペンテコステ)になります。第三は秋のぶどうやオリーブなどの収穫の「取り入れの祭り」で、やがて仮庵の祭りと呼ばれます。ただし、献げるものは、「あなたは、土地の最上の初物をあなたの神、主の宮に携えて来なければならない。」(19)とあります。

 私たちは一週間の旅路を終えた毎日曜日の礼拝で、いつも感謝の最上のものを献げていますか。「天のお父さま どんな不幸を吸っても はく息は感謝でありますように すべては恵みの呼吸ですから」(河野進)

2024年11月17日の礼拝宣教から

「弟子の覚悟」 ルカ福音書9章57-62節

津村春英牧師

 信仰者は過去にとらわれません。と言っても過去を軽視するというのではありませんが、それ以上に前に向かうことに重点を置くからです。

 イエスは、弟子として従おうとする者が、その前に、父を葬りに行きたい、家族に挨拶をしたい、と申し出た者たちに対して、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(9:62)と覚悟を問われました。エルサレムに上り重大な使命を果たされる非常時であることを踏まえ、そうお答えになったのでしょう。その昔、農夫は牛馬に引かせながら鋤で土地を耕しました。私も幼少の頃、祖父に連れられて田んぼで、牛に引かれて鋤で土地を耕す手ほどきを受けました。人はその鋤が左右に倒れないようにしっかりと支えながら牛についていくのです。前に向かって進んでいるときに目を離して後ろを振り向いたりすると鋤が傾き、左や右にぶれてしまったという経験をしました。

 個々人にとって今は非常時ではないかもしれませんが、使徒パウロはフィリピ書で、「後ろのものを忘れ、前のものに全身をのばしつつ」(フィ3:13)と書いていますし、アブラハムの甥ロトの妻は町を脱出するとき、忠告を聞かずに後ろを振り向いたため、塩の柱になったとあります(創19:25)。重要な前進のためには、信仰者として考えてみなければならないのではないでしょうか。