『誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。』
(Ⅱコリント5章17節・聖書協会共同訳)
(Ⅱコリント5章17節・聖書協会共同訳)
津村春英牧師
『ふくいん 子どもさんびか』に「福音の汽車」というのがあります。♪福音の汽車に乗ってる 天国行きに ポッポ 罪の駅から出てもう戻らない…」。今年は、その車窓からどのような景色を見ましたか。あなたにとって、感謝の一年でしたか。
「主に感謝をささげ御名を呼べ。/諸国の民に御業を示せ」(105:1)と詩人は歌います。過ぎ去った日々を振り返り、主に心から感謝をささげ、成された御業を広く知らせよと歌っています。さらに、「主に向かって歌い、ほめ歌をうたい/驚くべき御業をことごとく教え」(同2)と続きます。「感謝」は主への「ほめ歌」となり、「御業」は「驚くべき御業」と強調されます。英語ではmarvelous worksと訳され、出エジプトの救いの出来事を指し、最高級の感動を表現しています。さらに、その救いと裁きを「心に留めよ」(同5)と歌っています。
主イエスは多くの人に愛の業をなされました。とりわけ、人々から疎(うと)まれ、見捨てられ、傷ついた人々をお救いになりました。その極みは、自らの命をお与えになる十字架でした。この御業は現代の私たちにも現されています。主から、直接的、間接的にどれほどの恵みをいただきましたか。一年の終わりだけでなく、一生の終わりにも、主への感謝をもって締めくくりたいものです。
津村春英牧師
ギリシア語には「いのち」を表す語が三つあります。ゾーエーとプシュケーとビオスです。特にゾーエーは神との関わりで用いられ、救いと同義語であり、永遠の命の命です。プシュケーは魂と訳され、関連語にpsychologyがあります。ビオスは生存の期間、人生などと訳され関連語にbiologyがあります。
四福音書の中で「永遠の命」が多く出てくるのはヨハネの福音書(17回)で、「命」とも表現されます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(3:16)は、地位があり学識者でもあるニコデモとの話に関連して語られたことばです。また、4章の不運なサマリアの女性に対し(4:14)、さらに5章のベトザタの池の回廊に横たわる、38年間も病気で苦しんでいた病人に関連して、主イエスは永遠の命の話をされています(5:24)。ここにあるように、この永遠の命は単に未来のことではなく、主を信じる人は、現在すでに永遠の命に生きているのです。また、永遠の命は「光」とも表現され、「…この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」(1:3-5・聖書協会共同訳)とあるように、どんな人生の暗闇も永遠の命という光を持つ者を負かすことはできません。主イエス・キリストのご降誕を心から感謝し、お祝いしましょう。
津村春英牧師
最近はインターネット空間でSNS(Social Networking Service)による匿名での言葉の暴力が問題になっています。堂々と自分の名前を出して発言すべきです。親からもらった名前ですが、そこには命名者の思いが込められている場合もあります。
神様から遣わされた天使が、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:21)と伝えました。「イエス」という名は、マタイ福音書のヨセフの系図には出てきませんが、旧約聖書のアブラハムの後継者ヨシュアのギリシア語訳で、イェホシュア「主は救う」がイェシュア「救い」になったと言われます(ランデルマン真樹『ヘブライの宝物』、13-14頁)。
イエス・キリストは、時のローマ帝国に一矢(いっし)を報いて、その圧政からの解放をもたらすのではなく、むしろその逆で、ローマ帝国の手によって十字架にかけられることによって、ご自分を信じるすべての人の罪を贖われ、人々を救われるのです。それは父である神様のお心であり、イエスご自身もそれに従われたのです。♪ 伝えよ、そのおとずれを。広めよ、きよき御業を。たたえよ、声のかぎり(讃美歌Ⅱ219さやかに星はきらめき)!
津村春英牧師
暗闇を経験したことがありますか。光が来るまでじっと待たねばなりません。「あなたの御言葉は、わたしの道の光」(119:105)と詩人は歌います。この「道」は、原語ヘブライ語のナーティーブで、英語ではpath, pathwayと訳され、自然にできた小道、細道で、真っすぐでもなく、平坦でもありません。人生はこの道にたとえられます。アップダウンがあり、上っているときや、曲がりくねっているときは先が見えないので、不安になり、疲れ果てるのです。また、今や、世界の各地で不穏な出来事が次から次と起こっています。この暗闇の時代には光が必要です。詩人が言う「わたしの魂は常にわたしの手に置かれています」(同109)とは、魂つまり命が、信頼のできない危険な状態にあるということを意味します。しかし、それでも律法(御言葉)を忘れないと歌っています。御言葉こそ、真の光だと歌っているのです。
新約聖書において、御言葉である主イエス・キリストは言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネによる福音書8:12)と。このお方が、天の父である神様から遣わされて、この暗闇の世界にお生まれくださった、そのことを記念する日が近づいています。喜びをもって迎え、光に満たされましょう。