2025年10月19日の礼拝宣教から

「諸国民の光」 イザヤ書49章1-6節

安 喆寓信徒伝道師

 主のしもべは、母の胎内より召され、その言葉を神様より力つけられ、また神様に保護されます。その働きは順調ばかりではなく、挫折したように見えるが、神様はそれを報いてくださいます。そして、神様が望んでおられるみこころは、イスラエルの民を連れ帰らせることと、諸国々の民の光として地の果てまで神様の救いをもたらすことです。「わたしはあなたを国々の光としわたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」(同49;6c、新共同訳)この使命は同じく今日我々にも与えられています。「このように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5;16、新共同訳)

 私たちは、神様の栄光を現す光として一人一人が輝いています。時には強い風が吹き、その光を脅かすこともあります。しかし、いつも共に歩む神様がその光を守ってくださいます。困難の中でも輝いている希望の光が消えないようお互いに励み合い、地の果てまで救いをもたらすためにその光を輝いていきましょう。

2025年10月12日の礼拝宣教から

「小作人のたとえ」 ルカによる福音書20章9-19節

牧師 津村春英

 二人の日本人が立て続けにノーベル賞を受賞しました。生理学・医学賞の坂口志文氏は、多くの学者が存在そのものを否定していた制御性T細胞を発見したことが評価されました。化学賞の北川進氏は多孔性金属錯体の開発が評価されました。北川氏はインタビューの中で、ことわざ「無用の用」を引用し、役に立たないと決めつけて安易に捨てないことが重要だと語っておられました。

 主イエスは、イエスがメシアであることを否定するユダヤ当局者と民を前にして、ぶどう園の小作人のたとえを語られました。小作人たちは、収穫時期に地主から三度も遣わされた僕たち(旧約の預言者たち)に対し、収穫を納めないばかりか、かえって狼藉(ろうぜき)を働いて追い返しました。最後に遣わされた地主の息子(イエス)に至っては、抹殺して外に放り出してしまったのです(都の外での十字架)。それは、あたかも建築家が無用の石として捨てた石が、後に建造物の要の石になることだと、主は当局者を暗に非難されました。

 私たちも豊かな恵みを与えられている小作人のようです。持ち物はすべて天の神様からの借り物なのです。得た祝福に対して感謝を表さなければいけないと思いませんか。この悪しき小作人たちのようであってはならないのです。

2025年10月5日先週の礼拝宣教から

「何の権威で」 ルカによる福音書20章1-8節

牧師 津村春英

 自民党の新総裁が選出されました。さらに総理大臣になったときに与えられる権威が、国民の平和と繁栄と幸福のために使われることを期待します。

 主イエスの時代のエルサレムは、ローマ帝国の総督の管轄下にありましたが、大祭司を頂点とし、祭司長たち、律法学者たち、長老たちによって構成された最高法院(サンヘドリン、七十人議会)が政治をつかさどっていました。

 主イエスがエルサレムに入場され、神殿の境内で商売をする人々を追い出されたことに関して、サンヘドリンの者たちが主を問い詰めます。「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」と(20:2)。神殿での権威構造(ヒエラルキー)を無視したというのです。それに対して主は、人々が神から遣わされた預言者であると認めていたあのバプテスマのヨハネを引き合いに出し、天からの権威によって行ったことを暗示されたのです。

 私たちが理不尽な目にあうとき、考えてみたいのです。私たちは、どのような権威の下で生きているのでしょうか。目には見えませんが、主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりの下で生かされているのです。どんなときも、心を高く上げ、感謝して進みたいものです。

2025年9月28日の礼拝宣教から

「平和への道」 ルカによる福音書19章41-48節

牧師 津村春英

 集中豪雨、雷雨、竜巻、冠水などの災害が頻繁に起こるようになりました。都市部でも下水があふれ出す現象が発生しています。最新の気象情報をチェックする習慣をつけ、避難方法を常に考えておかねばなりません。そうしないと命を失うことになりかねません。

 主イエスはエルサレムを目前にして涙を流されました(41)。それは、人々が神の裁きの時(救いの時)を理解(原語は、経験を通して知る)せず、滅んでいくのが目に浮かんでおられたからでしょう。今までに、神から多くの預言者が派遣され、神の裁きを語りました。そして最後は主イエスでした。平和への道(42節直訳:平和に至ることがら・複数形)を説かれたのに、人々は耳を貸そうともせず、悔い改めず、ついに40年後の紀元70年に、ローマ軍がエルサレムに攻め入り、神殿は破壊されてしまうのです。

 最後の審判の時はもっと深刻です!そのために、神殿は祈りの家でなければなりませんでした(46)。私たちも、その時を知り、そのために何をしなければならないか、よく考えておかねばなりません。そして教会は、人々の救いのための祈りの家でなければなりません。

2025年9月21日の礼拝宣教から

「主がお入り用なのです」 ルカによる福音書19章28-40節

牧師 津村春英

 13日から開催されているTokyo2025世界陸上も今日が最終日です。一連の競技の中で、観客によっては、感動した競技、競技者は様々だと思います。

 主イエスが、目的地のエルサレムが間近に迫り、子ろばに乗って向かわれるとき、弟子の群れが感極まって(cf.ルカ19:11)、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように(詩編118:26)。天には平和、いと高きところには栄光(cf.ルカ2:14)。」(ルカ19:38)と、あたかも王の都への入場のように、声高らかに賛美しました。群衆の中にいたファリサイ派のある人々は、これに耐えかねて、主に制止するよう求めますが、主は、「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」(同40)と言われました。石(複数形)は彼らが足で踏みしめているものや周りのものを指すと思われますが、このシーンで忘れてならないのは、行進の一役を担う、子ろばです。

 イエス・キリストの福音宣教は、教会を通してなされています。この働きのために、あなたは今、必要とされているのです。主があなたをご入り用なのです。黙っていれば、献堂100周年の会堂が、床が、椅子が叫びだします。あなたは、どのような役割を担いますか。