2024年12月1日の礼拝宣教から

「救いは近づいている」 ローマの信徒への手紙13章11-14節

津村春英牧師

 今日からクリスマス・アドベントに入ります。アドベントはラテン語のAdventus「到来」からきていて、クリスマスは主イエスのご降誕を待ち望みます。そして、キリスト者はその後の、主の再臨を待ち望みます。ここでは、このご降誕と再臨とを重ね合わせて考えてみましょう。

 使徒パウロは、主の再臨が近いことを、「あなたがたは今がどんなであるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」(13:11)と書いています。下線のある「時」はカイロスで「好機、ちょうどよい時」を意味し、カイロスである再臨が近いと言っています。それゆえ、「闇の業を脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう。…品位を持って歩もうではありませんか。…主イエス・キリストを身にまといなさい。」(同12-14)と勧めています。「主イエス・キリストを身にまとう」とは、主の十字架の贖いと復活をまとうことで、それが身に沁み込み、キリスト者としての品位が造り出され、希望に生きる者と変えられるのです。

 新聖歌446「あなたの罪過ちは始末されてあるか…花婿なるキリストを迎えに出られるか 罪のしみのない服を毎日着ておるか」のように、毎日、主イエス・キリストを着ることによって、主の来臨を待ち望む者とされたい。

2024年11月24日の礼拝宣教から

「最上のものをささげよう」 ルカ福音書9章57-62節

津村春英牧師

 収穫感謝礼拝はアメリカの教会に起源があります。17世紀のメイフラワー号で新天地アメリカに向かったピルグリム・ファーザーズと呼ばれるピューリタン・クリスチャンたちが上陸後の翌年、先住民の力を借りて初めて地の産物を収穫したときに、神に感謝して献げたと言われます。

 出エジプト記23章は、20章の十戒の続きであって、民が約束の地カナンに定着後、農耕生活をする中で、季節ごとに感謝をするよう、主はモーセを通してお命じになりました。それは年に三度の収穫時に感謝の礼拝を神に献げることでした。第一は春の大麦の収穫の感謝で、酵母を入れないパン祭り、いわゆる「過越しの祭り」になります。第二は小麦の収穫の「刈り入れの祭り」で、七週の祭り(ペンテコステ)になります。第三は秋のぶどうやオリーブなどの収穫の「取り入れの祭り」で、やがて仮庵の祭りと呼ばれます。ただし、献げるものは、「あなたは、土地の最上の初物をあなたの神、主の宮に携えて来なければならない。」(19)とあります。

 私たちは一週間の旅路を終えた毎日曜日の礼拝で、いつも感謝の最上のものを献げていますか。「天のお父さま どんな不幸を吸っても はく息は感謝でありますように すべては恵みの呼吸ですから」(河野進)

2024年11月17日の礼拝宣教から

「弟子の覚悟」 ルカ福音書9章57-62節

津村春英牧師

 信仰者は過去にとらわれません。と言っても過去を軽視するというのではありませんが、それ以上に前に向かうことに重点を置くからです。

 イエスは、弟子として従おうとする者が、その前に、父を葬りに行きたい、家族に挨拶をしたい、と申し出た者たちに対して、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(9:62)と覚悟を問われました。エルサレムに上り重大な使命を果たされる非常時であることを踏まえ、そうお答えになったのでしょう。その昔、農夫は牛馬に引かせながら鋤で土地を耕しました。私も幼少の頃、祖父に連れられて田んぼで、牛に引かれて鋤で土地を耕す手ほどきを受けました。人はその鋤が左右に倒れないようにしっかりと支えながら牛についていくのです。前に向かって進んでいるときに目を離して後ろを振り向いたりすると鋤が傾き、左や右にぶれてしまったという経験をしました。

 個々人にとって今は非常時ではないかもしれませんが、使徒パウロはフィリピ書で、「後ろのものを忘れ、前のものに全身をのばしつつ」(フィ3:13)と書いていますし、アブラハムの甥ロトの妻は町を脱出するとき、忠告を聞かずに後ろを振り向いたため、塩の柱になったとあります(創19:25)。重要な前進のためには、信仰者として考えてみなければならないのではないでしょうか。

2024年11月10日の礼拝宣教から

「自分は何者か」 ルカ福音書9章43b-56節

津村春英牧師

 先週、アメリカの大統領選挙が行われました。第57代大統領として選ばれた人物は、自国の人々に対し、世界の国々に対し、どのようにリーダーシップを発揮するのでしょうか、人々は戦々恐々としています。

 主イエスのリーダーシップのもと、弟子たちは目覚ましい働きを展開していきます。イエスが既になされたことについて人々が驚いているとき、イエスは弟子たちに向かって、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」(9:44)と言われました。もう二度目(9:22)なのに、弟子たちには全くこの言葉が理解できていませんでした。「人の子」はイエスご自身のことで、旧約聖書時代から救い主を意味していました(ダニエル7:13, 14参照)。このイエスの思いに反し、弟子たちは、自分たちの中で誰が一番偉いかと議論したのです。自分は何者か、全く分かっていません。おまけに自分たちに従わない人々(同49)や町々(同 54)を糾弾しようとして、イエスから叱責されたのです(55)。

 そもそも「弟子」というギリシア語は、「学ぶ」から派生した語で、弟子は学ばなければなりません。では何を学ぶのでしょうか。私たちの罪の身代わりとなって、犯罪人のように十字架にかけられたお方から学ぶのです。驚くばかりの恵みです。心から感謝の祈りをささげましょう。

2024年11月3日の礼拝宣教から     

「国籍は天にある」 フィリピの信徒への手紙3章17-21節

津村春英牧師

 使徒パウロは、「私たちの国籍は天にあります」(3:20・聖書協会共同訳)と書いています。「国籍」と訳されているギリシア語ポリテウマは、厳密には「市民権」を意味します。パウロの念頭にはローマの市民権があったと思われます。そこには特権と義務が発生しますが、征服地の拡大により、ローマやイタリア以外にもその対象が広がり、父親がローマの市民権を持っていれば、子もローマの市民権が与えられたようです。パウロもその一人でした(使徒22:28)。

 折しも合同召天者記念礼拝の日。先に天に召された兄姉は「国籍を天に」持っていました。そして、その子どもにも与えられるのです。ただし、自動的にとはいきません。パウロは言います。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架の敵として歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えていません」(同18, 19)と。これは単なる非難ではなく、愛するがゆえの言葉なのです。だから、「きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」(同17)と言うのです。この言葉はキリスト者を含め、すべての人に当てはまる勧めです。私たちも信仰の先達に続きましょう。