2025年12月28日の礼拝宣教から

「最初の日から今日まで」 フィリピ1章3-11節

津村 春英牧師

 2025年も間もなく終わろうとしています。今年の出来事ベストテンなども発表されていますが、皆さんにとってこの一年はいかがでしたか。

 パウロは、ヨーロッパ伝道を開始したフィリピにある教会の人々に対して、次のように書き送りました。「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。」(1:3-5)と。「福音にあずかる」の「あずかる」は漢字では「与る」ですが、このギリシア語は通常、「交わり」と訳されるコイノニアなので、ここでは、①福音の恵みを与えられていること、②福音宣教に参与していることの両方を意味すると考えるべきです(新改訳2017の「福音を伝えることにともに携わってきたこと」では不正確)。

 パウロが生きた世界は、ユダヤ教、ヘレニズム文化、ローマ皇帝の支配下でしたが、何よりも神の民として振舞いました(N.T.ライト『新しいパウロ』前川裕訳,新教出版社,2025,pp.19-24参照)。私たちはどうでしょうか…。どのような環境にあっても、天に国籍を持つ者(3:20)であることを感謝しつつ、これからも、福音にあずかる者としてともに歩みましょう!

2025年12月21日の礼拝宣教から

「イエス・キリストは主である」 フィリピ2章6-11節

津村  春英 牧師

 経営学の父と呼ばれるピーター・F・ドラッカーのMVV(Mission:企業の目的、 Vision:目標、ゴール、Value:価値観、行動指針)という考え方が、今、働く女性に人気だそうです。イエス・キリストのMVVとは何でしょうか。何のためにこの地上にお生まれになり、どこに向かって、どのように歩まれたのでしょうか。

 福音書によると、朝早く起きて、人里離れたところで祈り(マルコ1:35)、父の御心を確認しつつ、一歩一歩、父の御心を実行していかれました。それは、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:8)というほどでした。こうして、イエス・キリストは父なる神から「主」という名を与えられ、すべての人々が「イエス・キリストは主である」(同11)と告白し、父である神をたたえるとあります。モーセがエジプトに遣わされる際に、「わたしはある」と言われた神が主なる神ですが、イエス・キリストも「主」と呼ばれるのです。それは、ヘンデルのメサイヤの中にあるように、Lord of Lords、主の中の主です。そして、この方こそ、私たちを罪から救う「主」なのです。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマ10:9)。主イエス・キリストのご降誕を心からお祝いしましょう。ハレルヤ!

2025年12月14日の礼拝宣教から

「すべての人のための福音」 ルカによる福音書2章1-14節

津村  春英 牧師

 「福音」という語は明治期に聖書の訳語として入ってきますが、言語はエウアンゲリオンで「エウ」は良い、「アンゲリオン(アンゲリア)」はニュース、メッセージを意味します。「天使は言った。『「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。』」(ルカ2:10-11)の下線部の「告げる」はエウアンゲリオンの動詞形で、その良いニュースとは、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」ことでした。この救いは、経済的、肉体的、精神的苦難、そして死の恐怖などの人生の苦難からの救いであり、罪からの救いです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と主イエス・キリストが言われたように、このお方の後に従って行くことによって救われるのです。

 天の使いと満天の星たちが高らかに歌います。「御心に適う人に平和があるように」(cf.ルカ2:14)と。クリスチャンとは、字義的にはキリストに従う者(Christ+ian:語尾はラテン語が起源)です。御心に適う人とはキリストに従う者です。救い主イエス・キリストの御降誕を心から喜びたい!

2025年12月7日の礼拝宣教から

「神の憐れみ」  テモテ一1章12-17節

津村春英牧師

 東太平洋赤道域のペルーやエクアドルの漁師たちが、クリスマスの頃に海水温が高くなり魚が捕れなくなる現象をエル・ニーニョ(スペイン語で男の子、イエス・キリスト)と呼び、昨年がそうであったようです。今年は逆に、海水温が低下するラ・ニーニャ(女の子)現象で、強い貿易風になり、遠く離れた西太平洋赤道域の海水温が上昇して熱帯低気圧が発生し、その豪雨や洪水によって東南アジア諸国に大きな被害をもたらしました。

 聖書では、エル・ニーニョのイエス・キリストは、私たちに「救い」をもたらすお方で、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(1:15)と書かれてあります。この「罪人」とは、新約聖書の源流の旧約聖書のヘブライ語ではハッタ―イーム(複数形)で、神さまからご覧になって、「的から外れている」、「失われている」(cf.ルカ15章、19章)状態の人々を指します。特定の人でなく、すべての人を意味しています。そして、その救いは人々の贖罪のために自ら十字架におかかりになるという方法によって実現するのです。神はすべての人を憐み、イエス・キリストによる十字架の救いという恵みを与えて下さっているのです。これがクリスマスのメッセージです。心から感謝するとともに、キリスト教会はこのメッセージを発信し続けなければなりません。

2025年11月30日の礼拝宣教から

「聖なるものになる」 ペトロの手紙一1章13-16節

安 喆寓信徒伝道師

 入学式や入社式に出席する人たちは、服装が乱れることなくきちんとした姿になるため心掛けます。その服装は今から自分が成すべきことに対する心の状態も現しています。心を引き締め、身を慎んでいるキリスト者の生活は、自らの理想を追求することではなく、イエス・キリストにおいてあらわされた神の深い恵みに応じて従い、福音としての神の言葉に規準を置くことです。世の中の欲望にさらわれ、そのまま欲望を達成するため、奔走する人とは違って、終わりの日を待ち望む者の特徴は、神様への従順であり、聖なる者となるための努力です。キリスト者は、神の豊かな憐みによって新しく生まれ変わり、聖霊のきよめにあずかって成長する者であります。

 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」(ペトロ一1:16)。聖なる者になるためには、まず神のものとして選ばれ、そして神に召されることが必要です。「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」(テサロニケ一4:7)。新たに生まれ変わった者は、生き生きとして希望をもっていろいろな試練に悩むことなく、信仰の実りとしての魂の救いを受けています。「主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人」(詩編147:11)。今年も残り一か月になりますが、気を緩めず信仰の歩みを進みましょう。