2025年7月20日の礼拝宣教から    

「キリストの弟子として」 ルカ福音書17章1-10節

牧師 津村春英

 キリスト教は、小乗仏教の「悟り」や大乗仏教の「拝み」に比べ「啓示宗教」と言われます(司馬遼太郎、他『日本とは何かということ-宗教・歴史・文明』、日本放送出版協会、2003.63頁参照)。キリストの弟子であるキリスト者なら、ただ信じるだけでなく、啓示されたキリストの言葉を学ばねばなりません。

 主イエスは、弟子たちに対して、まず、罪に誘うもの(つまずき)をなくすことはできないが、それを仕掛ける者は災いだと言われ、弟子自身も気をつけるとともに、罪犯した者を戒めなさいと言われました。ただし、悔い改めるなら赦しなさいとも言われました(17:1-3)。次に「信仰を増してください」と言う使徒たちに対して、信仰は大きさでなく、小さくても力を秘めた「からし種一粒ほどの信仰」(同6)の必要性を説かれました。さらに、主の僕として、命じられたことをみな果たした上で、「『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(同10)と諭されました…。

 J.ウェスレーは、人間創造の目的は、「創造者を知り、愛し、楽しみ、そして仕えるため」(BE Works 117)だと書いています。ますます主に仕え、「善かつ忠なる僕よ」(マタイ25:21,23文語訳)と評される人生を歩みたいものです。

2025年7月13日の礼拝宣教から

「モーセと預言者たちがいる」 ルカ福音書16章19-31節

牧師 津村春英

 ルカ16:19-31は、前段落に続くたとえ話で、聞き手は、金に執着するファリサイ派の人々です(14)。ある金持ちとその門前にいる貧乏人ラザロとが登場します。たとえ話に人名が出てくるのは特別ですが、ラザロ(旧約のエルアザルに相当するなら、「神は助け」の意)の地上の人生は恵まれませんでした。死後、この金持ちとラザロの状況は逆転します。陰府(よみ・死者が集められる場所)で苦しみもだえる金持ちは、自分の家族には同じ目に合わないように、はるかかなたのアブラハムの傍らに座するラザロを遣わしてほしいとアブラハムに願いますが、「モーセと預言者(律法の書と預言書:みことば)に耳を傾ける」(31)ようにとの返答があったのです。

 ファリサイ派の人々は、誰よりも律法の書と預言書を重んじていたはずですが、その聞き方に問題があったようです。それを福音(人を幸福にする)として聞き取っていなかったのではないでしょうか。だから、当時のラザロのような人や、徴税人や罪人(15:1)を見下し、顧みることがなかったことが非難されたのでしょう。キリスト者も苦境の時に奇跡を求めるよりもまず、みことばに聞く必要があります(ヤコブ1:21)。

2025年7月6日の礼拝宣教から    

「神と富とに仕えることはできない」 ルカによる福音書16章10-18節

牧師 津村春英

 第27回参議院議員選挙が公示されました。今回は物価高対策を問う選挙だと言われています。確かにお金は生きていくうえで必要ですが、それは手段であって目的であってはならないと、18世紀英国のメソジスト運動創始者J.ウェスレーは言いました(The Use of Money)。主イエスは、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(16:13)と言われました。それを聞いていたファリサイ派の人々は、物質的な繁栄、富は善行の報いだと信じていたので、イエスをあざ笑いました。彼らが主張する律法は有効ですが、今や、神の国の福音が告げ知らされ、貧しい人々に救いの道が開かれたのです(4:18; 6:20; 7:22など)。むしろ、富は天に積むようにと主は言われました(12:33, 34; 18:22)。

 当教会の最高齢者で102歳のK姉が召されました。長い人生を信仰によって忍耐強く歩み、90歳を超えても礼拝に出席されました。来られなくなってからも月定献金の送金は途絶えることはありませんでした。彼女の愛唱歌の一つに讃美歌513があります。♪「天(あめ)に宝積める者は、げにも幸(さいわい)なるかな 主に任せし そのよろこび いかにしてかは述べん」…私たちはどうでしょうか。

2025年6月29日の礼拝宣教から

「寛大な主人のたとえ」 ルカによる福音書16章1-9節

牧師 津村春英

 ルカによる福音書にあるたとえ話の中でも今日の箇所はユニークで、「不正な管理人のたとえ」として知られています。なぜこのようなたとえがあるのかとつまずく人はいませんか。まず、前後の話とどのように関わっているか考慮する必要があります。この話は弟子たちに向けられ(16:1)、会計報告は終末の最後の審判を暗示しています。また、主人の「財産を無駄遣いしている」(同1)と告発された管理人と、「財産を無駄遣いしてしまった」(15:13)弟息子とは、同じ「ディアスコルピゾー」(無駄遣いする、散財する)で関連し、また独白も両者にあります(15:18, 19と16:3, 4)。つまり、父(15章)=主人(16章)=神と考えることが可能です。また、この管理人が、主人に借りのある者の負債を軽減できるのは、管理人自身の裁量の範囲内であったという解釈もあります。

「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」(16:8)の下線部の直訳は、「賢く、思慮深く振舞った」であり、主人はこの管理人の過去の不正をそれ以上咎めず、彼が将来のために(同4)、とった行動を評価したのです。天国行きのチケットを与えられていると思う人も、どんな苦境の中にあっても、前向きに、「賢く生きる」ことこそが、幸せなのではないでしょうか。

2025年6月22日の礼拝宣教から   

「本当に見えているか」 ルカによる福音書15章25-32節

津村春英牧師

 「放蕩息子のたとえ」と言われる話には続編があります。その兄が登場します。むしろこちらに重点があるという考えもあります。兄は畑から帰ると、家から音楽(シンフォニア)が聞こえてきました。英語はシンフォニーsymphonyで文豪森鴎外によって「交響曲」と訳されました(広辞苑)が、ギリシア語のシンフォニアはシュン(一緒に)+フォーネー(音、声)で、いくつかの楽器が鳴らされていたと想像できます。勝手気ままに家を出て、放蕩に身をもちくずしたと聞いていた弟息子が帰ってきて、父が宴会を催していると聞き、兄は激怒しました。父は自ら出てきてこの兄息子を宥めました(動詞は継続・反復形)。

 この話は、主イエスがファリサイ派の人々や律法学者に言われたのであり、たとえの兄息子は彼らを指し、弟息子は、彼らと同じ話を聞いていた徴税人や罪人であり、前者からすれば後者は滅んで当然だと見下していた人々でした。しかし父(神)は違いました。悔い改めた罪人を歓迎してくださり、大いに喜んでくださるのです。兄息子にはこの父の愛が見えていませんでした。本来あるべき場所から外れて立っていたからです(ヘブライ語の「罪を犯す」は的を外すの意味)。人生いろいろです。私たちにもこの神の愛が見えていますか。