2025年11月23日の礼拝宣教

「与えられたすべての恵みを喜ぶ」 申命記26章1-11節

津村  春英 牧師

 「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」(詩編103篇2節)のように、私たちの存在は神の御旨によって成り立っています。また、白川静『常用字解』によると、「感謝」の「感」は神の心が動くことであり、「感謝」はありがたいと感じて礼をのべることで、神と関係しています。

 古代イスラエルの民が40年にわたる苦難の荒れ野の彷徨を終えて約束の地に入リ、そこに住むときには、神の前で次のように告白するようモーセを通して神に命じられました。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。…主は…大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、…乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい」(申命記26:5-11)と。部族としての土地を持たずに他の部族の中に分かれて住むレビ人や寄留者と共に、賜物を喜び祝うことを命じられたのです。私たちも神から与えられたすべての恵みに心から神に感謝し、また共に喜びたいものです。

2025年11月9日の礼拝宣教から

「神の臨在の内に生きる」 ルカによる福音書20章27-40節

津村 春英 牧師

 熊の生態環境の変化や個体数の拡大などによって、熊が人里に出没して農作物を食べたり、人を襲う事件が多発しています。自明のことですが、熊は確かに山にいたのです。

 信仰者も、神はどこにでもおられる(遍在)のに気づいていないことはありませんか。主イエスは、律法学者たちや祭司長たちのひっかけ問題の攻撃をかわされましたが(20:20-26)、続いて、復活を信じないサドカイ派の人々が、復活問題をもって迫って来ました。これに対して主は、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」(同38)とお答えになりました。つまり、先に召された者も、今生かされている者も、神の臨在の内に生きていると言われたのです。それはやがて主ご自身の復活により確証されます。

 社会学者ピーター・バーガーは、「キリストが復活したこと、また、キリストが主であることを信じるなら、あり得る限りさまざまな状況で、とてもありそうもないと思われるような状況で、彼に出会うことができる。」(『現代人はキリスト教を信じることができるか』教文館, 2009, p.249.)と書いています。どんな状況下でも臨在の主を感じつつ希望をもって歩みましょう。

2025年11月2日の礼拝宣教から

「神の恵みを無駄にしない」 ガラテヤ2章15-21節

津村 春英 牧師

 金木犀の香りにうっとりします。「金銀の木犀をわが父母とせむ」(鷹羽狩行)とありますが、今日は合同召天者記念礼拝を献げています。時に、先に逝かれた人々を思い起こすことは、人として大切なことだと思います。そして、私たちに残してくれた有形無形のものを大切にしたいものです。

 今、特定の企業への悪意のランサムウェアにより、システム障害が発生し、生活に支障が生じています。ランサムは身代金を意味し、重要なデータを人質にしています。太宰治『走れメロス』では、人質の友のために必死に走る主人公の「信実」(太宰はこの漢字を使用)さが称賛されます(cf.イエス・キリストは、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」マタイ20:28)。

 キリスト信者を迫害していたパウロは、神秘的な体験の中で主イエスに出会って生き方が180度転換し、「私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。私は神の恵みを無駄にはしません。」(ガラテヤ2:20-21・聖書協会共同訳)と述べています。下線部の従来訳は、「神の子に対する信仰による」でしたが、新しい知見では、父なる神の御旨を実行された、神の子、イエス・キリストの真実(cf.上記、信実)による、となっています。私たちもこの神の恵みを無駄にしてはなりません。

2025年10月26日の礼拝宣教から

「神のものは神に返しなさい」 ルカ福音書20章20-26節

津村 春英 牧師

 律法学者たちと祭司長たちが連立して、主イエスに罪を着せるため、「皇帝に税金を納めるのは妥当であるかどうか」というひっかけ問題をイエスに提示したので、イエスは、税金に用いられるデナリオン銀貨を見せるように言われました。実はその表面には皇帝の肖像画と「皇帝アウグストゥス・ティベリウス、神君アウグストゥスの息子」という銘があり、唯一神を信じる者たちには耐えがたいものでした。彼らは仕方なしに、「皇帝のものです」と答えると、「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(25)と言われました。「皇帝のもの」は皇帝に属するもの、皇帝のためのもの(いずれも複数)を意味しますが、「神のもの」とは何でしょうか。文脈的には神の宮である神殿から商売人を追い出したことや、小作人とその主人(神)の話と響き合います。

 では、私たちにとって、「神のもの」とは何でしょうか。私たちの持ちもの、食べもの、周りの人間関係もすべて神から恵みとして与えられているものです。その最たるものは主イエス・キリストによる罪の贖いです。宗教改革者M.ルターは、「クリスチャン生活とは恵みの下にある生活である」(cf.WA40.1.164)と教えています。心から感謝をもってお返ししたい(cf.テサロニケ一5:16-18)。

2025年10月19日の礼拝宣教から

「諸国民の光」 イザヤ書49章1-6節

安 喆寓信徒伝道師

 主のしもべは、母の胎内より召され、その言葉を神様より力つけられ、また神様に保護されます。その働きは順調ばかりではなく、挫折したように見えるが、神様はそれを報いてくださいます。そして、神様が望んでおられるみこころは、イスラエルの民を連れ帰らせることと、諸国々の民の光として地の果てまで神様の救いをもたらすことです。「わたしはあなたを国々の光としわたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」(同49;6c、新共同訳)この使命は同じく今日我々にも与えられています。「このように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5;16、新共同訳)

 私たちは、神様の栄光を現す光として一人一人が輝いています。時には強い風が吹き、その光を脅かすこともあります。しかし、いつも共に歩む神様がその光を守ってくださいます。困難の中でも輝いている希望の光が消えないようお互いに励み合い、地の果てまで救いをもたらすためにその光を輝いていきましょう。