2023年10月29日の礼拝宣教から

「偶像から自分を守りなさい」 ヨハネの手紙一5章21節

津村春英牧師

 1517年、M.ルターはヴィッテンベルク城教会の門扉に、「95箇条の提題」をはりつけて、時の免罪符(贖宥状)に反論し、人が救われるのは「信仰のみ」であることを主張しました。今朝のヨハネの手紙一の最終節は、何の前置きも説明もないまま、唐突に、「子たちよ、偶像から身を守りなさい。」(5:21聖書協会共同訳)と命じています。偶像とは英語でアイドル、その語源のギリシア語はエイドーロンで、作られた形あるもの、心惹かれるものを表します。免罪符も同様に真の信仰から引き離すもので、ヨハネの手紙一では、とりわけ、反キリストと呼ばれる者たち(2:18, 22; 4:3)、つまり、主イエスの受肉を否定して共同体から出て行った者たちとその教えが念頭にあったと考えられます。

 しかし、主イエスは、この手紙の冒頭にあるように、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」(1:1)であり、「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(1:7)とあるように、受肉して十字架にかかり、私たちの救いを成就してくださったお方なのです。私たちが、「偶像から身を守る」方法は、「御父の内に、御子の内にいつもいる」(2:24, 27, 28; 3:6; 5:20)ことであって、これが、現代の戦争、疫病、自然災害の脅威の中でも平安を与えられ、また、自分に迫り来る苦難に打ち勝つ秘訣なのです(5:5)。

2023年10月22日の礼拝宣教から 

「御子の内にいる」 ヨハネの手紙一5章18~20節

津村春英牧師

 藤井聡太さんが将棋八冠を達成されました。八冠目挑戦の「王座」戦第4局では、人工知能AIが99%負け、勝率はわずか1%という絶体絶命の局面で、大逆転勝利を収められました。このように勝負は最後までわからないものです。人生も最後の最後までわかりません。

 今朝の聖書は、「この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」(5:19)と告げています。「悪い者」はサタンを意味し、サタンは私たちの弱さを責め、また、悪へと誘惑します。しかし、「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」(同20)とあります。神の御子イエス・キリストは、人となってこの世に来てくださり、その生きざまを通して神は真実であることを示してくださり、イエスご自身も真実な歩みをされました。ハンディを負っていても、立ちふさがる困難や試練の中にあっても、このお方を神の子、救い主と信じ、生まれ変わった人は、「神の内にいて、永遠の命(cf.ヨハネ福音書17:3)に生かされている」ので、サタンに負けることなく、勝利の人生を歩むことができるのです(5:1, 4)。最後まで、神と共に、主イエスと共に歩ませていただきたいものです。

2023年10月15日の礼拝宣教から

「死への恐れはなくなる」 へブル人への手紙9章27-28節

川﨑豊信牧師

 ホリエモンこと堀江貴文さんは、刑務所にいた時、多くのことを考える中で、死への恐怖に直面したそうです。「死」という問題は、人間の力で解決することはできません。しかし、この問題をイエス・キリストが解決してくださったと聖書は語ります。

 聖書によると、人間誰もが、やがて死を迎え、神の前でさばきを受ける時が来る、とあります。全ての人間には罪があり、そのままで死を迎えるならば、永遠の滅びへと向かうことになります。しかし、神の子イエス・キリストは、この死を取り除き、永遠のいのちを与えるために、この地上に来てくださいました。キリストは、その生涯の終わりに、私たち人間の罪のために十字架にかかられ、ご自身をささげられました。そのことによって、キリストを信じる者には、罪の赦しと解放、永遠のいのちの希望が与えられるのです。

 そして、キリストは十字架で死によみがえられて後、天の御座に向かわれましたが、また再び地上に来られる時が来ます。キリストを信じる者たちは救われ、キリストと共に、素晴らしい神の国に入ることができるのです。

 私たちはぜひ、このイエス・キリストを信じて、永遠のいのちを受け取り、将来の希望を持って歩んでいこうではありませんか! (文責:川﨑真奈)

2023年10月8日の礼拝宣教から

「御心に従って願う」 ヨハネの手紙一5章13-17節

津村春英牧師

 第二次世界大戦ノルマンディ上陸作戦を前にして、指揮官モンゴメリーは祈ったそうです。「われわれは、祈ろう。個々の戦闘にあたっては、勇ましい主が、われわれとともにあるように。また、苦戦のときにも、主の格別なる節理が、われわれに味方するように」(ピーター・C.クレイギー『聖書と戦争―旧約聖書における戦争の問題』村田充八訳、すぐ書房、1990,2001改)と。果たしてその結果は…。我田引水の祈りですが、人は大いなる神に願い求めます。

 「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(5:14)とあります。しかし、何でも祈ればかなえられるというのではありません。何でも聞き入れられるなら、神は自分の召し使いになり下がります。そうではありません。「神の御心に適う」祈りが、聞き入れられるのです。それは、「死に至らない罪」(レビ記4:2; 民数記15:27など参照)を犯している者にも命が与えられるほどだというのです(5:16, 17)。ヨハネ福音書に、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(15:7)とあります。このようにして神の御心を知り、願うのです。

2023年10月1日の礼拝宣教から

「神の証し」 ヨハネの手紙一5章6-12節

津村春英牧師

 ギリシア語マルチュリアはevidence, proof, testimonyなどと英訳されますが、次の神の「証し」はtestimony証言という意味です。ヨハネの手紙一の冒頭で、「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。」(1:2)で始まりましたが、「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。」(5:9)「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」(5:11)と増幅されています。この神の証しは御子についての証言であり、命(永遠の命)である御子を世に遣わし、御子を信じる者にその永遠の命を与えるという証言です。

 生者必滅で、この地上の命はすべて例外なく滅びますが、その後、神の御前で裁きを受けると聖書にあります(ヘブライ9:27)。しかし、御子イエス・キリストを自らの救い主と信じ、罪ゆるされている者には、永遠の命が与えられているので、永遠の死を宣告されることはないのです。これは未来だけの話ではなく、地上で永遠の命に生きると表現されるのです。厳しい現実の中にあっても、神の証言に応え、永遠の命に生きる証言者として歩みたいものです。