2024年9月8日の礼拝宣教から

「神は何をしてくださったか」  ルカ福音書8章26-39節  

津村春英牧師

 現代はパソコンやスマホで、あっという間に情報を送ることが出来ます。世界最初の通信は180年前にサミュエル・モールスが自作の通信機でワシントンDCからボルチモアに「What hath God wrought」(神は何をなしたもうたか:cf.民数記23:23)を送ったことに始まると言われています。今日の聖書箇所にも「神は何をしてくださったか」という言葉が出てきます。

 主イエスと弟子たちはガリラヤ湖の荒波を無事に越えて、異邦人のゲラサ地方に着きました。そこで、絶叫し荒れ狂う男に出会いました。彼は長く衣服をつけず、墓場で生活していました。彼には多くの悪霊(汚れた霊)が入っており、イエスに出会うと、底なしの淵ではなく、その辺りに放牧されている豚に乗り移るよう懇願しました。レギオン(ローマ帝国の一歩兵軍団で5000-6000人と言われる)と名乗るように、多くの悪霊に悩まされていたのです。おびただしい数の悪霊は豚に乗り移り、湖に向ってなだれ込み、おぼれ死んだとあります。他方、正気に戻った男はイエスに随行することを願いますが、イエスは、「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」(8:39)と言われました。福音宣教は、神が自分に何をしてくださったかを物語るキリスト者に委ねられているのです。

2024年9月1日の礼拝宣教から

「強くあれ、恐れるな」 イザヤ書35章1-4節 

津村春英牧師

 台風10号は今までにない進路と遅いスピードで、台風の中心から遠く離れた地域にも線状降水帯が発生し、甚大な被害をもたらしました。台風、豪雨、地震などの自然現象は避けることができません。人生における試練も同様です。

 南ユダ王国に立てられた預言者イザヤは、北から迫り来るアッシリアの脅威におののく国家とその人々に対して、救いは、主なる神にのみにあると訴えました。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ」(35:1)と預言しました。荒れ野は人の住まない所、荒れ地は水のない所であり、砂漠と共に、国家とその人々の最悪の状況を暗示しています。しかし、そこに必ず花が咲くというのです(この「花」は原語の語源から球根のあるクロッカス、イヌサフラン、すいせんのような花と思われます)。さらに、「心を騒がせている者たちに言いなさい。/「強くあれ、恐れるな。/見よ、あなたがたの神を。/報復が、神の報いが来る。/神は来られ、あなたがたを救う。」(同4・聖書協会共同訳)と語りました。「心を騒がせている者」の原語は「急ぐ」という意味合いがあり、「神の救いの時」を待てない者を指しています。

 試練の中でこそ、主イエスのもとに行き、主イエスに学び、安らぎを得て(マタイ11:28、29)、希望に生きるキリスト者でありたいと思います。

2024年8月25日の礼拝宣教から

「主イエスの恵みによって」 使徒言行録15章6-11節

安 喆寓信徒伝道師

 ある人々がユダヤから下って来て、異邦人でキリスト者になった兄弟たちに、あなたたちもモーセの律法に従って割礼を受けないと救いはないと主張したのが議論の発端でした。エルサレムで開かれた会議の中、ペテロは、神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。コルネリウスに福音を告げ知らせたことをあなたたちは忘れていましたかともう一度、聞きたかったのかもしれません。

 また、「ユダヤ人とギリシア人の区別ではなく、すべての人に同じ主がおられ、ご自分で呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(新共同訳、ローマ書10:12-13)と語りました。神様の御業に人間が何かを加えたり、一生懸命に努力を重ねて救いが達成するのではないです。ペトロはそれではなく、「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われることを信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」(新共同訳、使徒言行録15:11)と力説したのです。救われることにユダヤ人と異邦人の間に差別はない。神様は差別なさらない。信仰によって心が清められ、福音の言葉を聞いて信じる。その信仰をもって神様を見る。このような救いができるようになったのは「主イエスの恵み」によるのです。今週も「主イエスの恵み」によって信仰の道を歩みましょう。

2024年8月18日の礼拝宣教から

「あなたがたの信仰はどこに」 ルカ福音書8章22-25節 

津村春英牧師

 レンブラントの「ガリラヤの海の嵐」という絵画があります。嵐に遭遇した主イエスと12弟子たちを描いています。必死に奮闘する弟子たち、主に助けを求める弟子たちなど、その中でたった一人、こちらを向いている人物がレンブラント自身と言われます。鑑賞者に何を語りかけようとしているのでしょうか。

 共観福音書にあるこの話の本筋は、弟子たちのことば、嵐も波も従う「この方はどなたなのだろう」(ルカでは8:25b)ですが、その直前のことばは、福音書間で違いがあります。ルカには、並行記事のマルコ、マタイにある「なぜ怖がるのか」という主の叱責のような言葉はありません。また、「まだ、信じないのか」(マルコ)や「信仰の薄い者たちよ」(マタイ)に対して、ルカでは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(8:25a)となっています。「あなたがたの信仰はここにないのか」ということです。「ここ」とは、荒波にもまれる舟の中です。弟子たちは、「おぼれそうそうです」(直訳:滅びます)という絶体絶命の中にありますが、彼らは、主イエスも同舟されておられることに気づかねばならなかったのです。このシーンは容易に人生の嵐を連想させます。私たちが厳しい試練に陥るとき時、必ずそこに主イエスがいてくださることに気づかねばなりません。今朝、あなたにはどのような新しい発見がありましたか。

2024年8月11日の礼拝宣教から

「どう聞くか、御言葉」 ルカ福音書8章16-21節 

津村春英牧師

 お盆が近づいています。待っている家族のもとに帰り、親孝行をするときであり、仏教などでは、先祖供養のための行事がなされるときでもあります。このように、この時節は古来より家族を大事にするときとして過ごしてきました。他方、教会では毎週、神様に礼拝を献げることを通して、主にある家族として兄弟姉妹と交わりをもっています。

 ところで、8日に日向灘で発生した地震により、100~150年に一度起こると言われる巨大地震の発生が近くなったのではないかと、にわかに騒ぎ始め、南海トラフ地震臨時情報なるものが出されました。対象となる地域の人々の反応はどうでしょうか。まだ大丈夫だろうと思っていた人も、急いで逃げられるよう準備をしなければならない、本気で準備をしなければならないと、それぞれレベルは上がっています。

 主イエスは、すべてのものが明らかになる日が来ると警告されました。それは最後の審判の日が近いことを意味していました。それゆえ、神の言葉をどう聞くべきか、注意しなさいと言われたのです。そして、「神の言葉を聞いて行う人たち」(8:21)が、ご自分の家族だと言われたのです。私たちも神の言葉を聞くことにおいて、もう一つレベルをあげたいものです。