2024年12月22日の礼拝宣教から

「永遠の命」  ヨハネ福音書3章14-16節

津村春英牧師

 ギリシア語には「いのち」を表す語が三つあります。ゾーエーとプシュケーとビオスです。特にゾーエーは神との関わりで用いられ、救いと同義語であり、永遠の命の命です。プシュケーは魂と訳され、関連語にpsychologyがあります。ビオスは生存の期間、人生などと訳され関連語にbiologyがあります。

 四福音書の中で「永遠の命」が多く出てくるのはヨハネの福音書(17回)で、「命」とも表現されます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(3:16)は、地位があり学識者でもあるニコデモとの話に関連して語られたことばです。また、4章の不運なサマリアの女性に対し(4:14)、さらに5章のベトザタの池の回廊に横たわる、38年間も病気で苦しんでいた病人に関連して、主イエスは永遠の命の話をされています(5:24)。ここにあるように、この永遠の命は単に未来のことではなく、主を信じる人は、現在すでに永遠の命に生きているのです。また、永遠の命は「光」とも表現され、「…この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」(1:3-5・聖書協会共同訳)とあるように、どんな人生の暗闇も永遠の命という光を持つ者を負かすことはできません。主イエス・キリストのご降誕を心から感謝し、お祝いしましょう。

2024年12月15日の礼拝宣教から

「その名はイエス」  マタイによる福音書1章18-23節

津村春英牧師

 最近はインターネット空間でSNS(Social Networking Service)による匿名での言葉の暴力が問題になっています。堂々と自分の名前を出して発言すべきです。親からもらった名前ですが、そこには命名者の思いが込められている場合もあります。

 神様から遣わされた天使が、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:21)と伝えました。「イエス」という名は、マタイ福音書のヨセフの系図には出てきませんが、旧約聖書のアブラハムの後継者ヨシュアのギリシア語訳で、イェホシュア「主は救う」がイェシュア「救い」になったと言われます(ランデルマン真樹『ヘブライの宝物』、13-14頁)。

 イエス・キリストは、時のローマ帝国に一矢(いっし)を報いて、その圧政からの解放をもたらすのではなく、むしろその逆で、ローマ帝国の手によって十字架にかけられることによって、ご自分を信じるすべての人の罪を贖われ、人々を救われるのです。それは父である神様のお心であり、イエスご自身もそれに従われたのです。♪ 伝えよ、そのおとずれを。広めよ、きよき御業を。たたえよ、声のかぎり(讃美歌Ⅱ219さやかに星はきらめき)! 

2024年12月8日の礼拝宣教から    

「みことばは道の光」  詩編109篇105-112節

津村春英牧師

 暗闇を経験したことがありますか。光が来るまでじっと待たねばなりません。「あなたの御言葉は、わたしの道の光」(119:105)と詩人は歌います。この「道」は、原語ヘブライ語のナーティーブで、英語ではpath, pathwayと訳され、自然にできた小道、細道で、真っすぐでもなく、平坦でもありません。人生はこの道にたとえられます。アップダウンがあり、上っているときや、曲がりくねっているときは先が見えないので、不安になり、疲れ果てるのです。また、今や、世界の各地で不穏な出来事が次から次と起こっています。この暗闇の時代には光が必要です。詩人が言う「わたしの魂は常にわたしの手に置かれています」(同109)とは、魂つまり命が、信頼のできない危険な状態にあるということを意味します。しかし、それでも律法(御言葉)を忘れないと歌っています。御言葉こそ、真の光だと歌っているのです。

 新約聖書において、御言葉である主イエス・キリストは言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネによる福音書8:12)と。このお方が、天の父である神様から遣わされて、この暗闇の世界にお生まれくださった、そのことを記念する日が近づいています。喜びをもって迎え、光に満たされましょう。

2024年12月1日の礼拝宣教から

「救いは近づいている」 ローマの信徒への手紙13章11-14節

津村春英牧師

 今日からクリスマス・アドベントに入ります。アドベントはラテン語のAdventus「到来」からきていて、クリスマスは主イエスのご降誕を待ち望みます。そして、キリスト者はその後の、主の再臨を待ち望みます。ここでは、このご降誕と再臨とを重ね合わせて考えてみましょう。

 使徒パウロは、主の再臨が近いことを、「あなたがたは今がどんなであるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」(13:11)と書いています。下線のある「時」はカイロスで「好機、ちょうどよい時」を意味し、カイロスである再臨が近いと言っています。それゆえ、「闇の業を脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう。…品位を持って歩もうではありませんか。…主イエス・キリストを身にまといなさい。」(同12-14)と勧めています。「主イエス・キリストを身にまとう」とは、主の十字架の贖いと復活をまとうことで、それが身に沁み込み、キリスト者としての品位が造り出され、希望に生きる者と変えられるのです。

 新聖歌446「あなたの罪過ちは始末されてあるか…花婿なるキリストを迎えに出られるか 罪のしみのない服を毎日着ておるか」のように、毎日、主イエス・キリストを着ることによって、主の来臨を待ち望む者とされたい。

2024年11月24日の礼拝宣教から

「最上のものをささげよう」 ルカ福音書9章57-62節

津村春英牧師

 収穫感謝礼拝はアメリカの教会に起源があります。17世紀のメイフラワー号で新天地アメリカに向かったピルグリム・ファーザーズと呼ばれるピューリタン・クリスチャンたちが上陸後の翌年、先住民の力を借りて初めて地の産物を収穫したときに、神に感謝して献げたと言われます。

 出エジプト記23章は、20章の十戒の続きであって、民が約束の地カナンに定着後、農耕生活をする中で、季節ごとに感謝をするよう、主はモーセを通してお命じになりました。それは年に三度の収穫時に感謝の礼拝を神に献げることでした。第一は春の大麦の収穫の感謝で、酵母を入れないパン祭り、いわゆる「過越しの祭り」になります。第二は小麦の収穫の「刈り入れの祭り」で、七週の祭り(ペンテコステ)になります。第三は秋のぶどうやオリーブなどの収穫の「取り入れの祭り」で、やがて仮庵の祭りと呼ばれます。ただし、献げるものは、「あなたは、土地の最上の初物をあなたの神、主の宮に携えて来なければならない。」(19)とあります。

 私たちは一週間の旅路を終えた毎日曜日の礼拝で、いつも感謝の最上のものを献げていますか。「天のお父さま どんな不幸を吸っても はく息は感謝でありますように すべては恵みの呼吸ですから」(河野進)