2023年8月20日の礼拝宣教から

「心の安らぎはどこから」 ヨハネの手紙一3章19~24節

津村春英牧師

 人は、いつの時代も不安にさいなまれてきました。それは古代から現代まで変わらない事実です。予測できない未来の災いに対して、少しでも安心できるよう、「お守り」などを身に着けます。キリスト者はどうでしょうか。

 今日の聖書のみことばを見てみましょう。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」(3:18-20)とあります。「神の御前」とは最後の審判のイメージです。後半部分を原 文から直訳すると、たとえ私たちの心が自分を責めたとしても、神(のお心)は私たちの心よりも大きく、神はすべてをご存じだから、私たちは自分の心を説得する(安んじる)のです、となります。

 過去を振り返って、私たちはいったい誰にゆるしを請いますか…。主イエス・キリストの十字架によって罪は赦されているのです。新聖歌465の4番、「その日を望みて 互いに励まし 十字架を喜び 負いて進まん 嘆きも悩みも しばしの忍びぞ 楽しきたたえの 歌と変らん」のように、安心して、揺るがぬ信仰をもって進みましょう。

2023年8月13日の礼拝宣教から

「キリストの愛を知りましたか」 ヨハネの手紙一3章13~18節

津村春英牧師

 8月12日は日航機墜落事故から38年、また8月15日は終戦記念日。生きたくても生きることができなかった多くの犠牲者が、愛する家族に伝えたかったことは何だったのでしょうか。そして、それを知った受信者はどのようにそれに応えるのでしょうか。

 「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちもきょうだいのために命を捨てるべきです。」(ヨハネ手紙一3:16・聖書協会共同訳)。これがヨハネの手紙一の書き手が、主イエス・キリストから受けて(ヨハネ福音書15:13)、教会に伝えたかったメッセージです。しかし、「一つしかない命を捨てることなんかできない」と反論するでしょう。続く17節に、その具体例が示されます。「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。」(手紙一3:17)と。当時の教会の人々の状況が反映されています。コロナ禍の中にあっても、私たちにできることがあるはずです。イエス・キリストの愛、父なる神の愛を知って(理解して)、その愛にどのように応えるのでしょうか。まずは、祈りから、そして、一歩前に踏み出しましょう!

2023年8月6日の礼拝宣教から 

「カインのようになってはいけない」 ヨハネの手紙一3章11~12節  

津村春英牧師

 今日、8月6日は広島に原爆が投下された日です。かつてはこの季節、「原爆をゆるすまじ」という歌をよく歌いましたが、最近は聞かれませんし、替わる歌もないように思います。「三たび、ゆるすまじ原爆を」という歌詞が印象的です。人類は過去から学ばねばなりません。

 今日の聖書の箇所に、「カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」(3:12)とあります。この背景は創世記4章にありますが、行いが正しいか、悪いかというのは神の評価です(cf.ヘブライ11:4)。「正しい」とは、神の御心を行うことであり、神に喜ばれる生き方です。そのうちの重要な一つが、「兄弟を愛する」ということです。「カインのようになってはいけない」とは、殺人者になってはいけないというより、カインは兄弟を憎み、兄弟を愛せなかった、そういうカインになってはいけないということです。さらに読み進むと、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」(4:20)とあります。愛することです。愛することです。愛することです。カインのようになってはいけません。

2023年7月30日の礼拝宣教から

「自分の心をのぞいてみよう」 ヨハネの手紙一3章4~10節

津村春英牧師

 心は昔、心臓にあると考えられていて、心という漢字は心臓の形から来ていると言われます(白川静『常用字解』)。現代人は、思考することや、感情の管理などは脳の働きによると知っていますが、心臓も感情の変化に敏感に反応します。心は命に関わります。

 「子どもたちよ、誰にも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子が正しいように正しい人です。」(3:7聖書協会共同訳)とあります。「子どもたち」とは神の子どもとされているキリスト者全員です。「惑わされないように」というのは惑わす存在があるからです(cf.2:18反キリスト)。「義を行う」とは、主イエスがそのご生涯において、徹頭徹尾、父なる神の御心に従いとおされたように、私たちも神の御心を行うことです。

さらに、「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。」(同9)とあります。「種」ギリシア語スペルマはヘブライ語ゼラー(旧約聖書では主に、子、子孫の意)の訳語ですが、「神から生まれた」と同じ意味です。だから、罪を犯すことが出来ないというのです。自分の心をのぞいてみましょう。心は、主イエス・キリストの十字架の救いによる喜びと感謝で満たされていますか。悪魔は心の空洞に入り込んでくるのです。

2023年7月23日の礼拝宣教から

「御子が現れるとき」 ヨハネの手紙一2章28節~3章3節

津村春英牧師

 かつては夏休みになると、都会の子どもたちは、田舎の祖父母の家に預けられる習慣がありました。孫に会う、おばあちゃん、おじいちゃんに会う、などの楽しみがありました。

 初期のキリスト者は、主にお会いしたい、「主よ、きたりませ」(マラナ・タ)という言葉をお互いに交わし合い、再臨の希望を持って信仰の道を歩みました(コリント一16:22)。彼らは、厳しい現実に直面しながらも、再臨への期待と憧れに生きていました。現代の私たちはどうでしょうか。現世のことのみに執着し、再臨待望が希薄になっていませんか。

 ヨハネの手紙一の著者はこのことを「御子の現れのとき」と表現しました。「御子が現れるとき、御子に似た者になるということを知っています。」(3:2)とあります。御子イエス・キリストの現れを待ち望むことは、決して、現実逃避ではありません。生きていく力です。天に思いをはせる時、私たちの信仰は拡がって行きます。私たちは洗礼を受けて、信仰の旅をスタートします。スタートがあればゴールもあるはずです。そのゴールを内村鑑三は、「信仰が完成される日」とし、その途上は罪の身をもって罪の世にあると書いています(『一日一生』角川文庫、pp.19-20)。日々、主の前に悔い改め、主の恵みを待ち望みたい。