2024年10月13日の礼拝宣教から

「栄光の主」  ルカによる福音書9章28-43a節

津村春英牧師

 今年のノーベル賞受賞者が次々と発表されています。とりわけ物理学賞と化学賞は、AI(人工知能)の研究者に贈られるようです。確かに、AIは世界を変えつつあります。その影響力は良きにつけ悪しきにつけ無視できません。

 キリスト者はノーベル賞とは無縁でも皆、栄光を受けます。この栄光は主イエス・キリストの十字架と関連しています。栄光はもともと神様のものですが、イエス・キリストの十字架を通してキリスト者に与えられるのです。

 主イエスは祈るために、側近の弟子ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山に登られると、栄光に包まれてモーセ(律法の代表者)とエリヤ(預言者の代表格)が現れました。そして、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(ギリシア語ではエクソドスで「出エジプト」の書名と同じ)についてイエスと語り合っていたとあります(9:28-31)。エクソドスは出口であり、入口です。イエス・キリストの十字架であり、救いの道への入口です。また、その道は栄光の道です。私たちはイエス・キリストによって、自分の出エジプト(罪の世界からの脱出)をして、栄光の道(再臨の朝、名実ともに神の子とせられる栄光の道)を歩んでいるのです。その途上で心しなければならないのは、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(同35)なのです。

2024年10月6日の礼拝宣教から     

「自分の十字架を背負って」  ルカによる福音書9章18-27節

津村春英牧師

 日本語の「キリスト者」は、英語の「クリスチャン」、ギリシア語の「クリスチアノス」に遡ります。このギリシア語の語尾「イアノス」はラテン語のianusから来たもので、「~の、~に属する」を意味し、「キリスト者」は「キリストの者、キリストに属する者」になります。

 主イエス・キリストは、「与えられること」のみを期待して集まった群衆に向かって、「わたしについて来たい者は、①自分を捨て、②日々、十字架を背負って、③わたしに従いなさい」(9:23)と言われました。ここにキリスト者となるための三つの命令形が見られます。まず、自分に執着しないで、神を第一とすること。次に日々、自分の十字架を背負うことです。これは単なる比喩でなく、自分の死を意味します。その覚悟が問われているのです。最後に、主に従い続けること、ここに重点があります。 頭の中でイメージしてみてください。自分の十字架を背負って進むのですが、決して矢面に立つことはありません。いつも、主イエスの「後ろ」なのです。それでも、ある時は苦難の道と思えるかもしれませんが、パウロが言うように、その道は「復活」に続く道なのです。神の国に至るキリスト者の道なのです。自分の十字架を背負って主イエスについて行きましょう!

2024年9月29日の礼拝宣教から

「イエスとは誰か」  ルカによる福音書9章1-17節

津村春英牧師

 第28代自由民主党総裁に選ばれた石破茂氏は、同志社の新島襄に学んだ伝道者、金森通倫の曾孫にあたられます。金森の『信仰に入る道』には、罪を説かない説教者は偽物で、本当のキリスト教ではないと非難し、「私のために主は十字架につき、私のためにあの無限の苦しみを忍びたもうたということを信じなければならない。」と説き、その審判は来世になるが、決して来世に無頓着であってはならないと書いています。

 他方、かつて東京大学の総長であったキリスト者、矢内原忠雄は、主イエスのなされた奇跡について、科学の進歩で解明されることは喜ぶべきことであるが、現在の知識をもって説明できないことで、事実そのものを否定することがあってはならないと断言し、主イエスが奇跡を行われる条件はイエスの愛、人の信仰、さらに神の国の真理を教えるための一般的必要であり、今日の大群衆の給食の奇跡は、神の国のひな型を見せてくださったのだと書いています(「奇跡論」他、『イエス伝』)。

 主イエス・キリストは、奇跡を通して、神の国を見せてくださるお方なのです。どんな状況にあっても私たちの必要は満たされるという信仰をもって、その神の国を目指して進みましょう。

2024年9月22日の礼拝宣教から

「ただ信じる」  ルカによる福音書8章40-56節

津村春英牧師

 人は生きている限り、病気から逃れることはできません。病は人生の大きな課題です。今日は2人の病人が登場します。

 主イエスの一行がゲラサの地から帰って来るのを待ちわびていた群衆の中に、重篤の娘を抱えた人がいました。彼は会堂(シナゴーグ)の責任者でありましたが、イエスの足元にひれ伏し、愛娘の癒しを懇願しました。ところが、一行が家に向かう途上、群衆で込み合う中、イエスの後ろから慢性出血病の女性がイエスの衣の房に触れるとその病が癒されたという出来事がありました。彼女は進み出て、事の次第を皆の前で話すと、イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(8:48)と言われました。その時、会堂の責任者の家から人が来て、娘の死亡が伝えられました。しかし、イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる。」(同50)と約束され、その通りになったのです。

 慢性出血病の娘は12年ほど、貧血状態や痛みだけでなく、レビ記により、「汚れている」とされ、社会的にも苦しんでいたと思われます。後者は慢性でなく突発的な病であったかもしれませんが、12歳の女性は、現代ユダヤ人社会では成人となる年齢であり、当時も将来を期待されていたと思われます。この二つのケースから、主イエスの愛を引き出すのは、「ただ信じること!」だと教えられます。

2024年9月15日の礼拝宣教から

「新しく生まれる」  ヨハネ福音書3章1-13節  

津村春英牧師

 今日は敬老礼拝を献げています。人間老いれば、病気もするし、苦悩します(森村誠一『老いる意味』)。ある学者によると、多くの日本人は特定の宗教よりも現代科学の信奉者で、人間の記憶や意思、感情は脳のメカニズムのよるものだと理解しているので、死によって脳が崩壊すると、人は無になってしまうことになると指摘しています。それでいいのでしょうか。

 ニコデモという人物はヨハネによる福音書のみに出てくる、ファリサイ派の教師であり最高法院の議員で、老人(3:4)でした。当時の人々の関心はやがて神の国(天の国)に入ることでした。彼は主イエスのうわさを聞いて夜、会いに来ました。人知れずきっと悩んでいることがあったに違いありません。主は彼の心を読み取り(2:25)、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」(3:3)と言われました。下線部の原語は、もう一度、新しく、上から、の意味があり、人は、神の霊、聖霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない(同5)と明言されたのです。使徒パウロは人間を「霊と心と体」と表現しています(テサロニケ一5:23)。この霊が神の霊、聖霊と関係するのです。人は例外なく、死んで火葬されて骨と灰になってしまいますが、幸いなるかな、聖霊によって生まれたキリスト者の霊は神の国へと向かうのです。