2024年6月23日の礼拝宣教から

「人生の土台」   ルカ福音書6章46-49節 

津村春英牧師

 ウクライナやガザでの悲惨な戦争の状況が毎日、伝えられています。私たちは、血を流すほどの戦いでなくても、日々、様々な戦いの中を通っています。そして、主イエスの御言葉をそのまま実行することの難しさを感じています。だからと言って、高邁な理想として、聞くだけに終わってはいけないのです。

 「わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」(6:47-49)とあります。

 必ずやって来る、避けられない人生の試練という洪水に耐えるにはどうすればいいのでしょうか。「岩の上に土台を置く」というのは御言葉を行うキリスト者になることであり、また、それを継続することでもあります。「地面を深く掘る」とは、異邦人がキリスト者になることの難しさを例えていると思われる一方、生涯かけて掘り続けることの難しさでもあると思われます。なぜなら、最後の大洪水(最後の審判)においても大丈夫でなければならないからです。

2024年6月16日先週の礼拝宣教から

「はっきり見えているか」   ルカ福音書6章37-45節

津村春英牧師

 主イエスは弟子たちに言われました。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(6:37, 38)これは黄金律の続きで、裁きにはそれを量る基準があるはずで、下線部は「良い量り(メトロン)で」を意味します。

 また、「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」(同39,40)とありますが、道案内は「見える人」でなければならず、下線部は、頑張って修行を積むのではなく、ある目的のために整えられることで、目の見える案内人になることを指していると思われます。さらに、「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(同45)とあります。見える、見えない、の問題は、目そのものでなく、「心」であることがわかります。はっきり見えるようにていただきたいものです。

2024年6月9日の礼拝宣教から     

「いと高き方の子」   ルカ福音書6章27-36節 

津村春英牧師

 「智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」と夏目漱石は人間関係の難しさを嘆いています(『草枕』)。競争社会にいるなら、周りは皆、敵です。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。……そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。」(ルカ6:35)と主イエスは言われました。主ご自身は、十字架にかかられるいまわの際(きわ)でも、周りの人々を愛し、神の赦しを祈られました(同23:34)。しかし、「敵を愛しなさい」ということばの前に、自分は程遠く、みじめな罪深い者であることを痛感します。この主の愛敵の教えの中にある、18世紀から「黄金律」と呼ばれていることば、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ6:31//マタイ7:12)も、とても高いハードルです。

 ところで、「家庭の中であなたは何に一番生きがいを感じますか」という問いかけに対する答えの第一位は、「子どもの成長」だそうです。そのように、聖書によれば、天の父なる神、いと高き方は、主イエスを信じる私たちを、「子」として扱ってくださり、その子の成長を望んでおられるのです。その子どもが苦しみもがいていることもよくご存じのはずです。名実ともに、「いと高き方の子」となれるよう、「黄金律」を少しでも実行できるよう心がけたいものです。

2024年6月2日の礼拝宣教から

「幸いと災い」   ルカ福音書6章20-26節 

津村春英牧師

 皇室の佳子様のギリシャ公式訪問で、最後のご挨拶を現地語で「エフハリスト ポリ」(感謝します。とても)と言われました。私たちキリスト者は一日に何度、神様に「感謝します」と言っていますか。主イエス・キリストは、その十字架の死によって私たちの罪を贖い、その復活によって永遠の命へと私たちを導いてくだいました。ですから、主イエスは預言的に言われたのです。「貧しい人々は、幸い」(6:20)であり、「今泣いている人々は、幸い」(同21)であると。反対に、「富んでいる人々、あなたがたに災いあれ」(聖書協会共同訳6:25)、「皆の人に褒められるとき、あなたがたに災いあれ」(同26)と主は言われました。富そのものは祝福ですが、富に心が奪われ、神様から離れてしまいます。また、すべての人に褒められるわけがありません。そこには忖度や妬みもあります。いずれにせよ、このような地上のものは過ぎ去ります(コリント二4:18)。

 今日は教会創立121周年。初代牧師・河邉貞吉師は「宜しく聖霊に満さるべし」と力説されました(『河邊貞吉説教選集』1951)。どんな苦難の中でも希望を持つことができるのは、「聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)とパウロは書いています。つまり、聖霊によらなければ神の愛は見えないということです。神様に「エフハリスト ポリ」。

2024年5月26日の礼拝宣教から

「弟子から使徒へ」   ルカ福音書6章12-19節

津村春英牧師

 チームスポーツのレギュラーメンバーは、バスケットでは5人、バレーでは6人、野球では9人、サッカーでは11人、アメフトでも11人、ラグビーでは15人と決まっています。それぞれ選ばれる理由があり、その目的や使命を達成することが期待されています。

 主イエスは、神の国の働きのために、弟子たちの中から12人を選び、彼らを使徒とされました。ギリシア語原文の「弟子」(マセーテース)は学ぶ(マンサノー)者を意味し、他方、「使徒」(アポストロス)はある使命を持って遣わされる者を意味します。十二使徒のうち、11人はガリラヤ出身者と思われますが(cf.ヨハネ1:14)、最後のイスカリオテ(イシュ+ケリオト=人+ユダヤの町名)のユダだけが、ユダヤ出身と思われます。そして、もう一人、重要な使徒が、自称使徒のパウロです(cf.ガラテヤ1:1)。

 キリスト者はイエス・キリストの弟子ですが、ただ学ぶだけでなく、主イエスから遣わされる使徒へと変えられていく必要があります。直接伝道者でなくても、一人一人が主からそれぞれ使命を与えられ、教会からそれぞれの家庭や職場に遣わされているのです。その働きが主の業と呼ばれる所以です。私たちも弟子から使徒へと変えられ、主の業に励みましょう。