2024年11月3日の礼拝宣教から     

「国籍は天にある」 フィリピの信徒への手紙3章17-21節

津村春英牧師

 使徒パウロは、「私たちの国籍は天にあります」(3:20・聖書協会共同訳)と書いています。「国籍」と訳されているギリシア語ポリテウマは、厳密には「市民権」を意味します。パウロの念頭にはローマの市民権があったと思われます。そこには特権と義務が発生しますが、征服地の拡大により、ローマやイタリア以外にもその対象が広がり、父親がローマの市民権を持っていれば、子もローマの市民権が与えられたようです。パウロもその一人でした(使徒22:28)。

 折しも合同召天者記念礼拝の日。先に天に召された兄姉は「国籍を天に」持っていました。そして、その子どもにも与えられるのです。ただし、自動的にとはいきません。パウロは言います。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架の敵として歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えていません」(同18, 19)と。これは単なる非難ではなく、愛するがゆえの言葉なのです。だから、「きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」(同17)と言うのです。この言葉はキリスト者を含め、すべての人に当てはまる勧めです。私たちも信仰の先達に続きましょう。

2024年10月27日の礼拝宣教から     

「キリストの信実を信じる」 ガラテヤの信徒への手紙3章21-25節

津村春英牧師

 10/31は宗教改革記念日で、プロテスタント諸教会ではそれに近い主日を記念礼拝として献げます。宗教改革者マルティン・ルターのよって立つところは、聖書のみ、恵みのみ、信仰のみと言われ、ルターは、救いは時の「贖宥状」によらず、イエス・キリストを信じる「信仰」によると主張し、そこからプロテスタント諸教会が生まれました。

 では、イエス・キリストを信じる信仰とは、イエス・キリストの何を信じるのでしょうか。1980年代以降の英語圏のパウロ研究から、ローマ3:22、26、ガラテヤ2:16,20; 3:22、フィリピ3:9などの箇所は、イエス・キリスト「への」信仰と訳さず、イエス・キリスト「の」信仰(信実、真実など)と訳すことが提案され、ついに日本における新たな翻訳(聖書協会共同訳2018には本文、新改訳2017は注記)に採用されるに至りました。「しかし、聖書はすべてのものを罪の下に閉じ込められました。約束がイエス・キリストの真実によって、信じる人々に与えられるためです。」(ガラテヤ3:22聖書協会共同訳)とありますが、イエス・キリストの真実(信実)とは、徹頭徹尾、父なる神の御心に従って十字架刑を受容されたそのお心と、お姿に現わされています(フィリピ2:8も参照)。私たちは、このイエス・キリストの信実を信じて救われるのです。

2024年10月20日の礼拝宣教から

「信仰の力」 ルカによる福音書9章18-27節

조을용(チョウ・ウルヨン)宣教師

 ヘブライ書全体に主題があるとするなら、それは12章2節にあると思われます。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(12:2)。これは、「イエス・キリストを見つめれば」、そこに救いがある、いやしがある、希望があるからです。そして、忍耐が与えられるのです。これを信仰の力と言います。ただし、信仰は自分が獲得するものではなく、神さまから与えられる賜物なのです(エフェソ2:8-9)。

 ヘブライ書11章には、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(11:1)とあります。信仰が与えられている人には、父なる神様の御国が見えるからであり、神様の御声が聞こえるからです。さらに、「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」(同2)とありますが、約束のみ言葉に生きた先人に学びたいものです。

 名古屋で伝道していた時、近くの鶴舞公園である青年に出会いました、彼は有名大学を出て、一流会社に就職しましたが、上司や同僚の目が気になり、批判的なことばによって傷つき、ついに心が折れて、会社をやめてしまったというのです。あなたはどうですか…。どうか、イエス・キリストを信じる信仰の力によって強められ、恵みの人生を歩んでいただきたいと思います。     (文責・津村春英)

2024年10月13日の礼拝宣教から

「栄光の主」  ルカによる福音書9章28-43a節

津村春英牧師

 今年のノーベル賞受賞者が次々と発表されています。とりわけ物理学賞と化学賞は、AI(人工知能)の研究者に贈られるようです。確かに、AIは世界を変えつつあります。その影響力は良きにつけ悪しきにつけ無視できません。

 キリスト者はノーベル賞とは無縁でも皆、栄光を受けます。この栄光は主イエス・キリストの十字架と関連しています。栄光はもともと神様のものですが、イエス・キリストの十字架を通してキリスト者に与えられるのです。

 主イエスは祈るために、側近の弟子ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山に登られると、栄光に包まれてモーセ(律法の代表者)とエリヤ(預言者の代表格)が現れました。そして、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(ギリシア語ではエクソドスで「出エジプト」の書名と同じ)についてイエスと語り合っていたとあります(9:28-31)。エクソドスは出口であり、入口です。イエス・キリストの十字架であり、救いの道への入口です。また、その道は栄光の道です。私たちはイエス・キリストによって、自分の出エジプト(罪の世界からの脱出)をして、栄光の道(再臨の朝、名実ともに神の子とせられる栄光の道)を歩んでいるのです。その途上で心しなければならないのは、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(同35)なのです。

2024年10月6日の礼拝宣教から     

「自分の十字架を背負って」  ルカによる福音書9章18-27節

津村春英牧師

 日本語の「キリスト者」は、英語の「クリスチャン」、ギリシア語の「クリスチアノス」に遡ります。このギリシア語の語尾「イアノス」はラテン語のianusから来たもので、「~の、~に属する」を意味し、「キリスト者」は「キリストの者、キリストに属する者」になります。

 主イエス・キリストは、「与えられること」のみを期待して集まった群衆に向かって、「わたしについて来たい者は、①自分を捨て、②日々、十字架を背負って、③わたしに従いなさい」(9:23)と言われました。ここにキリスト者となるための三つの命令形が見られます。まず、自分に執着しないで、神を第一とすること。次に日々、自分の十字架を背負うことです。これは単なる比喩でなく、自分の死を意味します。その覚悟が問われているのです。最後に、主に従い続けること、ここに重点があります。 頭の中でイメージしてみてください。自分の十字架を背負って進むのですが、決して矢面に立つことはありません。いつも、主イエスの「後ろ」なのです。それでも、ある時は苦難の道と思えるかもしれませんが、パウロが言うように、その道は「復活」に続く道なのです。神の国に至るキリスト者の道なのです。自分の十字架を背負って主イエスについて行きましょう!