2025年9月7日の礼拝宣教から

「救いがこの家に」 ルカによる福音書19章1-10節

牧師 津村春英

 新約聖書時代のローマ帝国の経済は、属州からの税収に大きく依存していました。それは直接税(土地税や人頭税(ルカ2:2の人口調査))と間接税(関税、通行税)で、その徴収を任せられていたのが「徴税人」でした。

 ザアカイはエルサレムへの東の入り口の町エリコの徴税人の長で、たっぷりと私腹を肥やしていたのか、大金持ちでした。しかし、人生、これで終わっていいのかと悩んでいたようです(19:10失われていた)。主イエスが町に来られたと聞くと、背が低かったのでいちじく桑の木の上で待ちました。するとイエスが上を見上げ、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日はあなたの家に泊まらなければならないから。」(同5直訳)と言われたのです。ザアカイは喜んでイエスを家に迎え、人々の非難をよそに、悔い改めと法外な感謝を示すと、イエスは、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」(同9)と言われました。家(オイコス)は建物でなく、家族を表し、アブラハムの子(ルカ1:55;13:16など参照)は救われなければならない存在を意味しました。キリスト者のすべての家にも、主の救いは届いているのです。信仰の襟を正し、家族の救いのために祈り励みましょう。

2025年8月31日の礼拝宣教から

「見えるようになりなさい」 ルカ福音書18章31-43節

牧師 津村春英

 エリコに住むある盲人は、主イエスが自分の前を通り過ぎることを知らされ、千載一遇のチャンスとばかりに叫び続け、「主よ、目が見えるようになりたいのです」(41)と懇願しました。下線部の原語アナブレポーは「もう一度見る」の意で、この人は以前見えていたのかもしれません。何が原因で見えなくなったのかはわかりませんが、今は物乞い以外に収入の道はなく、また、目が見えないことで、どれほど宗教的に(ヨハネ9:2など参照)、社会的に(ヨハネ5:3参照)見下げられてきたことでしょうか。

 しかし主が、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」(42)とお言葉をかけてくださり、彼は癒されたのです。つまり、この盲人が癒されたのは彼の信仰に拠ったのです(7:50; 8:48; 17:19も参照)。目が見えるようになったことにより、彼にはいくつかの選択肢が生じましたが、彼は人生の真の目的を見いだしたかのように、主イエスに従って行った(43)というのです。

 先週、召されたI姉は、56歳のときに急性骨髄性白血病を宣告されますが、自らの信仰を見直し、神さまに全幅の信頼を置いて、癒され、その後、日曜礼拝とボランティア活動に励み、100歳の齢を与えらました。

2025年8月24日の礼拝宣教から

「天に富を積む」 ルカによる福音書18章18-30節

牧師 津村春英

 戦争は領地問題が原因の場合が多いと思われますが、レフ・トルストイの短編「人にはどれほどの土地がいるか」では、人が手に入れたのは皮肉にも自分の墓の面積だけでした。では、私たちに必要なものはどれほどなのでしょうか。

 ある議員(指導者)が主イエスに、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(18)と尋ねると、「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(22)と答えられました。マタイ版の若者(マタイ19:20)に比べ、ルカ版は富める議員であり、長年苦労して蓄積した富=宝(セーサウロス)に執着するのは無理もないことだと思われますが、大切なものが見えていなかったのでしょうか。

 私たちは、主イエス・キリストを救い主と信じることによって、捨てたものがありますか。受洗してからもう何年たっていますか。今は豊かになっていますか。物質的なことよりも、心が豊かになっていますか。来るべき世の永遠の命、天の宝は、単に死後の財産のようなものではなく、この世に侵入して(N.T.ライト)、信じる者の現在をも潤すのです(30)。

2025年8月17日の礼拝宣教から

「へりくだる者は高められる」 ルカ福音書18章9-17節

牧師 津村春英

 戦後80周年の全国戦没者追悼式の式辞で、石破茂首相は「戦争の惨禍を決して繰り返さない。進む道を二度と間違えない。あの戦争の反省と教訓を、今改めて深く胸に刻まねばなりません。」と言われました(NHKニュースなど)。かつて、ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹氏も、知識階級の勇気と実行力の欠如が戦争の災禍を招いたことへの反省の念を語り、国民全体もまた、「強烈な意慾を持った精神によって圧倒されてしまった」ことを反省し、正しい批判力、良識と教養を身につける必要があると言われたそうです(岡田和弘「湯川秀樹と中谷宇吉郎~「文人科学者」たちの戦前・戦時・戦後~」、ねっとわーくKyoto Online運営委員会)。

 主イエスは、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(14)と言われました。さらに弟子たちにも、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(17)と言われました。ここも「へりくだり」が求められているのです。ご自分の御子イエス・キリストの十字架を通して人々を救うという、神の謙遜の極みを理解することができないからです。

2025年8月10日の礼拝宣教から

「やもめと裁判官のたとえ」 ルカ福音書18章1-8節

牧師 津村春英

 主イエスは弟子たちに継続して祈ることの大切さを教えるため、次のたとえを話されました。神を畏れず、人を人とも思わない裁判官のところに、弱者のやもめ(『総説・ユダヤ人の歴史 中』新地書房、1991、158頁など)が、自分の正当性を証明してくれるよう、何度もやってきて懇願しました。当時は民事だけでなくすべての訴訟がこのように行われたようです(N.T.ライト『すべての人のためのルカ福音書』教文館、2025、318頁)。この裁判官は、際限なくやってくるやもめに根負けして、裁きを行ったというのです。

 不正な裁判官でもそうなら、ましてや正しいお方である神は、「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」(7)と言われました。これは最後の審判の裁きを意味しています。それは、主の再臨の時に起こります。続いて、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(8)と加えられました。「人の子」バルナシャ(アラム語)はダニエル書7章に登場する救い主で、主イエスはご自分を指して言われたのですが、この信仰は忍耐強い祈りを意味しています。他人事ではありません。私たちに尋ねておられるのです。