2024年6月9日の礼拝宣教から     

「いと高き方の子」   ルカ福音書6章27-36節 

津村春英牧師

 「智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」と夏目漱石は人間関係の難しさを嘆いています(『草枕』)。競争社会にいるなら、周りは皆、敵です。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。……そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。」(ルカ6:35)と主イエスは言われました。主ご自身は、十字架にかかられるいまわの際(きわ)でも、周りの人々を愛し、神の赦しを祈られました(同23:34)。しかし、「敵を愛しなさい」ということばの前に、自分は程遠く、みじめな罪深い者であることを痛感します。この主の愛敵の教えの中にある、18世紀から「黄金律」と呼ばれていることば、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ6:31//マタイ7:12)も、とても高いハードルです。

 ところで、「家庭の中であなたは何に一番生きがいを感じますか」という問いかけに対する答えの第一位は、「子どもの成長」だそうです。そのように、聖書によれば、天の父なる神、いと高き方は、主イエスを信じる私たちを、「子」として扱ってくださり、その子の成長を望んでおられるのです。その子どもが苦しみもがいていることもよくご存じのはずです。名実ともに、「いと高き方の子」となれるよう、「黄金律」を少しでも実行できるよう心がけたいものです。

2024年6月2日の礼拝宣教から

「幸いと災い」   ルカ福音書6章20-26節 

津村春英牧師

 皇室の佳子様のギリシャ公式訪問で、最後のご挨拶を現地語で「エフハリスト ポリ」(感謝します。とても)と言われました。私たちキリスト者は一日に何度、神様に「感謝します」と言っていますか。主イエス・キリストは、その十字架の死によって私たちの罪を贖い、その復活によって永遠の命へと私たちを導いてくだいました。ですから、主イエスは預言的に言われたのです。「貧しい人々は、幸い」(6:20)であり、「今泣いている人々は、幸い」(同21)であると。反対に、「富んでいる人々、あなたがたに災いあれ」(聖書協会共同訳6:25)、「皆の人に褒められるとき、あなたがたに災いあれ」(同26)と主は言われました。富そのものは祝福ですが、富に心が奪われ、神様から離れてしまいます。また、すべての人に褒められるわけがありません。そこには忖度や妬みもあります。いずれにせよ、このような地上のものは過ぎ去ります(コリント二4:18)。

 今日は教会創立121周年。初代牧師・河邉貞吉師は「宜しく聖霊に満さるべし」と力説されました(『河邊貞吉説教選集』1951)。どんな苦難の中でも希望を持つことができるのは、「聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)とパウロは書いています。つまり、聖霊によらなければ神の愛は見えないということです。神様に「エフハリスト ポリ」。

2024年5月26日の礼拝宣教から

「弟子から使徒へ」   ルカ福音書6章12-19節

津村春英牧師

 チームスポーツのレギュラーメンバーは、バスケットでは5人、バレーでは6人、野球では9人、サッカーでは11人、アメフトでも11人、ラグビーでは15人と決まっています。それぞれ選ばれる理由があり、その目的や使命を達成することが期待されています。

 主イエスは、神の国の働きのために、弟子たちの中から12人を選び、彼らを使徒とされました。ギリシア語原文の「弟子」(マセーテース)は学ぶ(マンサノー)者を意味し、他方、「使徒」(アポストロス)はある使命を持って遣わされる者を意味します。十二使徒のうち、11人はガリラヤ出身者と思われますが(cf.ヨハネ1:14)、最後のイスカリオテ(イシュ+ケリオト=人+ユダヤの町名)のユダだけが、ユダヤ出身と思われます。そして、もう一人、重要な使徒が、自称使徒のパウロです(cf.ガラテヤ1:1)。

 キリスト者はイエス・キリストの弟子ですが、ただ学ぶだけでなく、主イエスから遣わされる使徒へと変えられていく必要があります。直接伝道者でなくても、一人一人が主からそれぞれ使命を与えられ、教会からそれぞれの家庭や職場に遣わされているのです。その働きが主の業と呼ばれる所以です。私たちも弟子から使徒へと変えられ、主の業に励みましょう。

2024年5月19日の礼拝宣教から

「聖霊によって新しく生まれる」   テトスへの手紙3章1-11節

津村春英牧師

 ユダヤ人の三大祭りの一つである「七週の祭り」(五旬祭、ペンテコステ:過越の祭りから50日目の意)に人々が集まってきたときに、主イエスが約束されたように、聖霊が弟子たちに降りました。聖霊に満たされた弟子たちは、イエス・キリストについて大胆に宣べ伝えました。キリスト教会の誕生です。

 使徒パウロが、伝道旅行の同行者であるテトスに宛てた手紙には、「神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この憐れみにより、私たちは再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて救われたのです。」(聖書協会共同訳・テトス3:5)とあります。再生の洗いとは洗礼を意味し、洗礼を受けて聖霊を内にいただき、新しく生まれるのです。しかし、更新されていく必要があります。聖霊を受けてはいるものの、「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」(エフェソ4:30)とあるように、御国に入るための保証である聖霊に満たされていなければなりません。

 人生の様々な苦難の中にあって、希望を持ち続けることができるのは、「聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)との言葉に励まされます。前に向かって進みましょう。

2024年5月12日の礼拝宣教から

「ハガルよ、恐れることはない」   創世記21章8-21節

津村春英牧師

 今日は「母の日」です。旧約聖書から、母ハガルに起こった出来事を読みましょう。アブラハムとサラには子どもがなく、サラは、自分の女奴隷ハガルとアブラハムとの間に子どもイシュマエルをもうけるようにしました。ところが自分とアブラハムとの間に子どもイサクが与えられると、その乳離れの日に盛大な宴会が催された時に、ハガルの子がイサクと「遊び戯れている」のを見て(ここを、新共同訳は「からかう」と訳していますが、原語は「笑う」の強意形なので、聖書協会共同訳が妥当)、サラはイサクを後継ぎにしたいので、ハガルとイシュマエルを追い出すように、夫アブラハムに頼みます。なお、イサクが1-3歳(?)なら、イシュマエルは14-17歳(創17:25)になります。

 追放されたハガルとイシュマエルが荒れ野をさまよい、ついに水が尽き、最期を覚悟した時に、神の使いから、「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の声を聞かれた」(21:17)と伝えられます。そして、ハガルの目が開かれ、井戸を発見して九死に一生を得たのです。ここに母の苦労と人知を超えた神の愛を知ることができます。母に感謝するとともに、どのようなときも、私たちのために独り子、主イエス・キリストさえお与えくださった神様の愛の内を歩みましょう。