2019年8月11日の礼拝宣教から 

『恵みは十分ですか』コリントの信徒への手紙二12章1-10節

主幹牧師 津村春英

「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現われるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(12:9)とパウロは書いています。

他方、「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。」(12:2)とありますが、この人物は、他の誰でもないパウロ自身であると解されています。なお、第三の天については、旧約聖書外典・偽典に第五層、第七層が出てきます(津村春英「黙示文学」『新キリスト教辞典』、いのちのことば社)。当時の人々は、天は幾層にもなっていると考えていたようです(主の祈りの「天」も複数形)。パウロは、そんな素晴らしい自らの神秘体験を誇ることができましたが、「弱さを誇る」と断言しているのです。実は、パウロは自分の身体の「とげ」(先のとがった杭の意で、思い上がらないように与えられたサタンの使いと説明)を抜いてほしいと、主に三度願った結果、与えられたのが冒頭のみことばだったからです。

あなたは今、どのような状況に置かれていますか。あなたにとってキリストの恵みは十分ですか。わたしたちの「弱さ」の中に、キリストの力が完全に現われるという、みことばを信じましょう。

2019年8月4日の礼拝宣教から

『弱さを誇る』コリントの信徒への手紙二11章16-31節

主幹牧師 津村春英

 パウロは、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(11:30)とコリントの教会に書き送っています。論敵は誇り高い偽教師、偽使徒です。人が誇るものは、国力、戦力、経済力、学力…、みんな「力」のつくものばかり。「弱さを誇る」なんてことは殆どあり得ません。ただし、パウロは机上の空論でこのように書いているのではありません。幾多の困難を乗り越えた経験上から、その行きついた結果の心情を述べているのです。また、パスカルは「人間は自然のうちで最も弱いひとくきの葦に過ぎない。しかしそれは考える葦である」(『パンセ』より)と言っています。

 故Y兄は、79歳で脳梗塞、その後遺症で半身不随に。86歳で召されるまでの7年間、外出は電動車いす。よく頑張られたと思います。信徒伝道師でしたので、教会だけでなく教団でも活躍された方でした。体が御不自由になられてから、こう言われました。「今まで、信仰の武勇伝を多く語って来たけれど、この様な身になってはじめて、信仰の奥深さ、信仰とは何かが分かった」と。信仰の神髄は、「弱さを誇る」ということではないでしょうか。物事がうまくいっているのは信仰のお陰だと思うのは未だ初歩の段階です。最善を成される神を信じ、「弱さを誇る」というほどの信仰に引き上げられたいものです。

2019年7月14日の礼拝宣教から

『適格者とは誰か』コリントの信徒への手紙二10章1-18節

主幹牧師 津村春英

「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。 」(10:13)とパウロはコリントにある教会のキリスト者に書きました。特に下線部の原語は「カノーン」(正典もカノーン)で、神様から活動を許された領域を指し、その尺度(メトロン)で誇ると言っています。つまり、神様が割り当ててくださった範囲内、それはパウロたちが、「あなたがた」のコリントまで行き、福音を届けることができたことであり、そのことを誇るのであって、他人が他のところで成したことを誇るのではないと言っているのです。わたしたちにも、主から与えられた自分の範囲というのがあるのでしょうか。そこで、その中で、どのようにしてキリスト者として生きるかが問われているのではないでしょうか。
 そして、「自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。」(同18)とありますが、わたしたちは、さまざまな働きや経験を通して、「適格者」(ドキモス)となるよう求められています。それは、ローマ5:4(ドキメー:練達)などと同義で、主から与えられた厳しい試験、試練に耐え抜いて合格した者、本物であることが証明された者を指します。このように、主から推薦される適格者を目指したいものです。

2019年7月7日の礼拝宣教から 

『僅かしか蒔かない者は刈り入れも僅か コリントの信徒への手紙二9章1-15節

主幹牧師 津村春英

 パウロはテトスと数人の弟子たちを先にコリントに遣わし、既に計画していた、困窮するエルサレム教会への献金を集めようと考えました。「5そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。  6 つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです 」(9:5, 6)。最初の二つの下線部の直訳は「祝福(としての贈り物)として」であり、新しい聖書協会共同訳では「祝福の業として」、新改訳2017でも「祝福の贈り物として」と訳されています。次の6節の下線部の直訳は「惜しんで」であり、単に、量の大小を言っているのではありません(新改訳2017が「わずかだけ」と訳しているのは不十分)。また続く「惜しまず豊かに」は、上の「祝福として」と同じ単語に前置詞をつけて表現されています。

 「僅かしか蒔かない者は刈り入れも少ない」のは当たり前ですが、「惜しんで僅かしか蒔かない」ことが問題なのです。私たちの、特にキリスト者の心が探られます。神様のために、感謝をもって、惜しみなく、喜んで種を蒔き、豊かな祝福を刈り取りたいものです。