2019年5月19日の礼拝宣教から  

『キリストによる神との和解』 コリントの信徒への手紙二5章11-21節

主幹牧師 津村春英

 紀元1世紀のキリスト教会における最も重要な指導者のひとりであり、神学者であるアウグスティヌスは、「われわれの心は、あなた(神)のうちに憩うまでは安らぎを得ません」と書いています(『告白録』)。わたしたちに不安があるとするなら、それは神と離れているからではないでしょうか。

 使徒パウロの人生は、神の愛によって180度転換させられ、神との「和解」ということを知るに至りました。神と人との和解の道は、イエス・キリストであると言っています。「だから、誰でもキリストにあるのなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに、新しいものが生まれたのです。」(5:17聖書協会共同訳。新共同訳では、下線部は「キリストと結ばれているなら」となっていました)とパウロは書いています。「キリストにある(者)」とは「キリスト者」です。「新しく造られた者」とは、わたしたちの罪の身代わりとしてのイエス・キリストの十字架によって、神と和解せられた者です。

 人と人との和解は難しい。神と人との和解はもっと難しい。イエス・キリストによる以外に和解はないのです。イエス・キリストを救い主と信じて、神と人が正常な関係に戻ることができてこそ、本当の安らぎを得ることができるのです。

2019年5月12日の礼拝宣教から 

『見えないものに目を注ぐ』 コリントの信徒への手紙二4章16-5章10節

主幹牧師 津村春英

 今日は「母の日」。誰もが肉親の母を持っています。信仰の面でも母親的存在はあります。そういう人々によって育てられたことに神に感謝したいと思います。パウロとコリントにある教会の人々との関係も同様でしょうか。パウロは自分の身をもってその生き方を示しました。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(18)と書いています。見えるもの(地上のもの)に左右されず、見えないもの(天上のもの、あるいは天から与えられるもの)に目標を置く生き方が奨励されているのです。サン・テグジュベリ『星の王子さま』の中にも、「いちばん大切なことは目に見えない。ものごとはね、心で見なくては良く見えない」という言葉があります。わたしたち風に焼き直すと、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」(5:7)ということでしょうか。

 自分がボロボロだと思うだけでなく、他人からもそう見えたとしても、落胆しません。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(4:16)との言葉に励まされ、見えないものに目を注ぎつつ、主に喜ばれるよう歩んで行きましょう。

2019年5月5日の礼拝宣教から  

『土の器の中にある宝』 コリントの信徒への手紙二4章7-15節

主幹牧師 津村春英

 「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(4:7)。土の器は、必ずしも土器ではなく陶器とも考えられます。ヘレニズム・ローマ初期時代には既に陶器があったからです。テモテ二2:20には、金、銀、木、土の器とあり、その材質を指していると思われます。いずれにせよ落とせば割れるもろい器には違いありません。「土の器の中に宝」は不釣り合いです。「宝」とはイエス・キリストのことで、それは恵みです。次に、「私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです。」(聖書協会共同訳10)とあります。「死に行くイエス」とは十字架の死に至るプロセスを意味し、11節の「死」とは別の単語が使われています。主イエスの十字架と復活に与ることに力があり、希望があるのです。

 信仰の先達がよく口にした言葉、「われら四方より患難を受くれども窮せず、爲ん方(せんかた:なすべき方法)つくれども希望を失はず、」(文語訳8)の、「四方から」の原語は「すべて、において」の2語であり、特に方向を指す語ではありませんが(『新改訳2017』ではおまけに「四方八方から」)、宝をいただいているこの土の器は、極度の圧迫にも耐えることができ、道を見出せなくとも、行き詰らないという言葉に励まされます(下線の原語は、ことば遊びで、「道を失う」と「全く道を失う」)。

2019年4月28日の礼拝宣教から

『心に輝く光』 コリントの信徒への手紙二4章1-6節

主幹牧師 津村春英

 「なぜなら、『闇から光が照り出でよ』と言われた神は、私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださったのです」(聖書協会共同訳・4:6)。この文の主語は、創世記にでてくる、「光あれ」(創世記1:3)と言われた「神」です。主動詞は「(私たちの心の中を)照らしてくださった」なのです。そして、その光は、十字架の死と復活を通して勝利されたイエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟るための光だというのです。ヘルマン・ホイヴェルス神父はその著『人生の秋に』の中で、イエス・キリストは、「人としてこの世の中に降り、議論や疑問によって悪を解明しようとなさらずに、かえって、苦しみと死と復活をもって問題を解決された。」と書いています。また、詩人の八木重吉は「理屈は いちばん低い真理だ 理屈が無くてもいい位もえよう」(『八木重吉死と生涯と信仰』)という詩を書いています。人間関係の問題の解決の糸口は、理屈ではなく愛なのです。イエス・キリストがお示しになった愛なのです。

 私たしたちも、心の覆いを取り去っていただき、神の光を十分に照らしてもらって、もっともっと、主イエスのことがわかるようにしていただきたい。そして、主イエスがそうであるように、わたしたちも愛の人に変えていただきたい。

2019年4月21日の礼拝宣教から

『何のために走るのか』 マタイによる福音書28章1-10節

主幹牧師 津村春英

 Happy Easter! イースター、おめでとうございます。日曜日の朝早く、二人の女性が、主イエスが葬られた墓に向かいました。ところが、主は復活され、ガリラヤで弟子たちにお会いすることになるとのメッセージを天使から受けるのです。彼女たちは恐れと喜びをもって弟子たちのところへ急ぎますが、その途中で、主ご自身が彼女たちをお迎えになり、「シャーローム」、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(10)と言われました。彼女たちは感動してこのメッセージを携え、他の弟子たちのところへ走って行ったのです。

 さて、私もここまで走って来ました。33年前にこの教会に招聘された最初の礼拝で、故宇崎竹三郎名誉牧師がヨハネ21章から「岸辺に立つイエス」と題し、復活された主について語られたのを覚えています。私たちは、いつまで、どこまで、何のために走るのでしょうか。キリスト者は何のために走るのでしょうか。私を導いてくださった宣教師夫人は、顔の皮膚がんと闘い、ついに失明してしまわれましたが、「次に見るのは主エス様が迎えてくださるそのお顔です。」と証しされ、その生涯を信仰によって走りぬかれました。私たちは何のために走るのでしょうか。イースターの朝、改めて自らに問い直してみたいものです。