2018年12月16日の礼拝宣教から

『飼い葉桶の中の救い主』ルカによる福音書2章8-14節

主幹牧師 津村春英

 主イエスの誕生、それはユダヤのベツレヘムでベビーベッドは飼い葉桶であったと記されています。「初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」(聖書協会共同訳ルカ2:7)。いくつかの疑問がわきます。まず、どうして、そんな時(マリアが身重)に、住民登録のために長距離の旅をしなければならなかったのでしょうか。表向きの理由は「住民登録」のためとなっていますが、実はその背後に「神様のご計画」があったのです(ベツレヘムで生まれるという預言の成就:ミカ5:1)。しかし、神様のご計画なら、どうして、ヨセフと身重のマリアに泊まる場所、居場所が用意されていなかったのでしょうか。神様がどんなことがあっても用意してくれるはずではありませんか…。実はそこが最善の場所であったのです。「飼い葉桶」は、次に登場する①羊飼いに解かりやすいしるしであり、また、②その場所(二階が客間で、一階が家畜の部屋)は誰もが容易に出入りができたと考えられます。そして、最初に主イエスを発見する羊飼いは、マリアの讃歌にある主を畏れる人を代表しているようです。

 神様が成してくださる最善、それは飼い葉桶にあったのです。すべては飼い葉桶から始まったのです。人生に「どうして」と思うことが幾度もあります。そんな時は主イエスの飼い葉桶に立ち帰ってみてはどうでしょうか。

2018年12月9日の礼拝宣教から

『すべての人を照らす光』ヨハネによる福音書 1章1‐9節

主幹牧師 津村春英

 日本聖書協会から新しい翻訳聖書「聖書協会共同訳」が出版されました。このプロジェクトに6年余り新約部門の翻訳兼編集委員として携わった者としては喜ばしい限りです。この新しい訳では、ヨハネ福音書1章3-4節は、「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。」、5節は、「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」と訳されています。また、9節は、「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。」と訳されています。光はイエス・キリストのことで、クリスマスにふさわしいメッセージです。


 ところで、「闇」という漢字は、門を閉じて光が入らない状態で、音の意味するところは「視覚によらない」という説があります。しかし、門を開けば光が差し込んでくるということです。私たちは、①まず、光に気づくことです。②そして、心を開いてその光を受け入れ、③さらに、その光の中を歩み続けることです(エフェソ5:8)。どんな闇もこの光には勝てません。ヨハネ福音書4章の5人の夫がいたサマリアの女性も、5章のベトザタの池のほとりに横たえられていた38年間もの病気の人も、8章の姦通の場で捕らえられた女性も、9章の生まれながら目の不自由な人も、この光を受け入れ、癒され、救われ、人生が変えられたのです。

2018年12月2日の礼拝宣教から

『希望のメッセージ』イザヤ書 49章14-21節

主幹牧師 津村春英

 長谷川伸(大正~昭和の小説家)の戯曲に、「瞼(まぶた)の母」というのがあります。時代設定は江戸時代。主人公、番場の忠太郎が幼少のころに別れた母を慕い、ついに再会することができますが、渡世人となっていた忠太郎は母に受け入れられてもらえず悲しく去ります。母は後(のち)にできた娘可愛さに邪険にしたことを後悔し、娘と後(あと)を追うというストーリ。 
神様は預言者イザヤの口を通して、シオン(=エルサレム)と神様との関 
係を親子、恋人にたとえ、「わたしがあなたを忘れることは決してない。」(49:15)と語られました。これは、やがて古代イスラエルの民がバビロン捕囚からの帰還し、崩壊した都エルサレムの繁栄が必ず回復されるという希望のメッセージでした。同様に、キリスト誕生の時代の民も神様の救いを待ち望んでいました。キリストの誕生、それは、民の希望の成就であるとともに、現代のわたしたちの希望の源です。


 ドイツの神学者ユルゲン・モルトマン(1926年~)は、「人間は信仰によって真実の生活の道に至るが、希望のみが彼をこの道に留まらせる。そのようにして希望は、キリストへの信仰を広げ、それを生かすのである」と書いています(『希望の神学』)。クリスチャンは希望を持ち続ける人です。今年のクリスマスが、わたしたち一人一人にとって有意義でありますよう祈りましょう。

2018年11月25日の礼拝宣教から

『すべては愛によって』コリント一 16章1-24節

主幹牧師 津村春英

 コリント信徒への手紙一の最終章は、エルサレムへの募金、コリントへの旅行計画、結びの言葉で構成されています。そして、コリントにある教会の兄姉への最後の勧めは、①目を覚ましていなさい。②信仰のうちにしっかりと立ちなさい。③雄々しくありなさい。④力強くありなさい。⑤何事も愛をもって行いなさい(16:13, 14)、でした。とくに、「愛をもって」はこの書のテーマです。愛をもってキリストの教会を造り上げる(8:1)ということが目的でした。


 過日召されたKK兄のことを今日も語らずにはおれません。創立115年記念誌に掲載しましたところの老人ホームの紙芝居奉仕、そしてもう一つは、何と言っても教会玄関の看板揮毫奉仕です。これらは「愛」に基づく奉仕です。兄の2014年4月2日の手紙に、わたしが贈ったヨハネ12:24の聖句「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」が生涯忘れ得ぬ御言葉となりましたと書かれてありました。最初に落ちた一粒の麦とはイエス・キリストのことです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(同15:13)とある通りです。パウロが「愛をもって」という愛は、このアガペーの愛です(cf.コリント一13章)。愛による配慮、愛による忍耐、愛による謙遜…が求められます。御言葉を実行することができるよう祈りましょう。

2018年11月11日の礼拝宣教から

『勝利を賜る神に感謝』コリント一 15章35-58節

主幹牧師 津村春英

 人は誰も年齢を重ねると疲れやすくなり、弱り、病みがちになります。そしてついに最期の時を迎えるのです。わたしたちの最大の敵は「死」です。わたしたちから何もかも奪ってしまう「死」なのです。しかし、主イエスは死人の中から復活され、死に勝利されたのです。パウロは書いています。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(コリント一15:54-57、cf.島尾敏雄『死の棘』)。人は罪ゆえに死ななければなりません。それは律法が示すところです。しかし、主イエス・キリストの十字架によって罪が赦され、復活によって死から命へと移され、人は死の力に打ち勝つことができるのです。


 復活、それは未知の世界ですが、確かにあることを聖書は告げているのです。死に勝利する復活があるからこそ、次のように言えるのです。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(同58)。