2019年6月23日の礼拝宣教から

『あなたの愛は本物か』コリントの信徒への手紙二8章1-15節

主幹牧師 津村春英

  「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。」(8:1)のマケドニアの諸教会とは、使徒言行録16章のフィリピ、17章のテサロニケ、ベレアにある教会のことです。下線部の「神の恵み」とは、「神からの恵み」と共に「神に対する恵みの業」と解することができます。ここでは具体的にはエルサレム教会のための募金活動(コリント一16:1、コリント二8:4, 6,7の慈善の業)を指しています。

  マケドニアの諸教会は、 「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」(8:2) とあります。そして、コリントの教会の人々に対しては、「わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。」(同8)とあります。「純粋さ」とは「本物であること」の意味です。その愛の根拠と評価の基準は、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」(同9)にあります。上記2節の下線部「試練」は「練達」(ローマ5:3、試験合格の意)と同じ語で、その動詞形が8節の下線部「確かめる」です。あなたの愛は本物ですか。果たして鑑定やいかに?

19年6月16日の礼拝宣教から 

『神の御心に適った悲しみ』コリントの信徒への手紙二7章2-16節

主幹牧師 津村春英

 最近は手紙を書かず、メールやラインなどで済ます人が増えています。私は手紙を比較的書く方だと思います。とりわけ若い頃の家内との恋愛中は沢山の手紙を書きました。手紙というものは、想像しながら読むので、喜ばれることもあり、また、誤解されることもあり、悲しみを与えることもあります。

 使徒パウロは、生み出した教会に幾つもの手紙を書きました。それは、時には励ましであり、時には慰めであり、また時には厳しい忠告でもあったと考えられます。コリントの教会のキリスト者たちに宛てた手紙の中で、「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。」(2:4)「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、」(7:8)とありますが、「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。 」(7:10)とまとめています。

 人生には悲しいことがいっぱいあります。私も経験してきました。年配の皆さんはなおさらでしょう。しかし、悲しみにも二種類があるというのです。ひとつは死に至る悲しみです。他のひとつは神の御心に適った悲しみで、悔い改めて立ち直り、救いに至る悲しみであるとパウロは書いています。 心して、このみことばを聞きたいものです。

2019年6月9日の礼拝宣教から

『聖霊に満たされて』 使徒言行録2章1-13節

主幹牧師 津村春英

  春の過越しの祭りから七週、五十日目の五旬祭、ペンテコステ(ギリシア語)の日に、それは起こりました。当時の世界各地から集まって来た人々の前で、弟子たちは神の偉大な業を各国の言葉で語ったのです(直訳は「他の言葉で語る」)。当教会の創立年1903年に現在の天王寺公園辺りを会場に内国勧業博覧会が開かれ、その博覧会正面前に「きたりてみよ」という大看板を掲げてキリスト教伝道が行われました。その結果、私たちの教会が生まれました。以来、当教会は目覚ましい発展を告げました。その「武勇伝」を耳にタコができるほど聞かされてきました。提灯をもち、大太鼓を叩き、トランペットを吹き鳴らして、ミナミ界隈を練り歩き伝道をしたと。

 それに比べ、トラクト配布もやめてしまった現在の私たちの教会はどうでしょうか。今日の聖書の箇所から学ぶことは何でしょうか。第一に、「一つとなって集まる(祈る)」ことです。そこに御業が現されました。ばらばらでは何の力もありません。第二に、先週、河邉師の言葉を引用したように、「聖霊に満たされる」ことです。第三に、「イエス・キリストによる救いを語る」ことです。家族はじめ周りの人々に福音を伝えるのをあきらめてはなりません。また、教会に来られた新しい人々が喜んでリピートできる教会になることです。私たちが、イエス・キリストの福音を語らずして誰が語るのでしょうか。

2019年6月2日の礼拝宣教から 

『約束を受けている者として』コリントの信徒への手紙二6章11-7章1節

主幹牧師 津村春英

 「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(7:1)とパウロはコリントにある教会のキリスト者に書き送りました。その約束は、イエス・キリストを信じる者たちが、「神の息子、娘となり、神は父となる」という約束です。パウロはまた別の手紙で、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださるように。」(テサロニケ一5:23)と書いています。

 今日は創立116周年記念礼拝を献げています。当教会の創立者であり、日本自由メソジスト年会初代部長の河邊貞吉師は、第10回年会で当時の教勢停滞の状況を鑑みて次のように語られました。「さらばわれらは如何にすべきか、『生命がけでやります』と決心しても駄目、ペテロの決心は数時間しかもたなかった。決死だ、命を賭してだと肉の元気を出しても駄目、発奮も努力も駄目である。この弟子たちと同様に、私共自身では出来ない。しかし今イエスは息を吹きかけて言いけるは、『聖霊を受けよ』『聖霊を受けよ』と仰せたもう…聖霊を一度受けた者でも、満たされていないならば駄目である」(『河邊貞吉説教集第一巻』、昭和9年、328頁)。約束を受けている者として、神を畏れ、主の前にへりくだり、聖霊に満たされ、聖なる者とされましょう。

2019年5月26日の礼拝宣教から

『神の恵みを無駄にしてはいけない』コリントの信徒への手紙二6章1-10節

主幹牧師 津村春英

 キリスト者のみならず、多くの人に愛されている歌「アメージング・グレイス」はジョン・ニュートンの作ですが、3番の歌詞に「たくさんの危険と、苦難や誘惑をくぐり抜け、私はここまで来ることができました。ここまで安全に来られたのも恵みのおかげ、そして恵みが私をこれらから故郷まで導いてくれるでしょう。」(久野陽一訳)とあります。

 聖書には、使徒パウロが、「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」(6:1)と書いています。パウロたちは神の協力者として、神に仕える者として、その生き様を示しました。人につまずきを与えないように、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、空腹にあっても、大いなる忍耐をもって事に当たりました。そして、褒められるときも侮辱されるときも、神に仕える者として自分たちを表しました。悲しんでいるようでも、常に喜び、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべての物を持っているかのように生活しました。それは神の恵みの中で生きていたからだと言うのです。わたしたちは、この地上で与えられた人生をどのように生きていますか。神から頂いている恵みを無駄にしてはいけません!