『キリストの体である教会に仕える』コロサイ信徒への手紙1章24-2章5節
主幹牧師 津村春英
人にはそれぞれ神様から与えられている務めがあると思います(cf. マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。パウロは、「御言葉を伝えるという神のオイコノミア(務め)に従って」、キリストの体である教会に仕えると言っています(1:25)。オイコノミアは英語のエコノミーの語源でもあり、もともとオイコス(家)を管理する務めの意味で、神のオイコノミアというと、それは神の壮大な救いの御計画を担う務めを意味しています。彼は自分の苦しみをキリストの苦しみと重ね合わせながら(1:24)、コロサイやラオディキア、さらにまだ直接顔を合わせたことのない人々のために、キリストを宣べ伝えることにおいて苦闘し(2:1)、キリストの体である教会に仕えている。その理由は、当時、異端思想(1:15-20の対グノーシス思想、2:16-18など)がはびこる中にあって、人々が神の秘められた計画(秘儀:ミュステーリオン:(英)ミステリー)であるキリストを深く知るため(2:2)だと言っています。
わたしたちも、それぞれ、神のオイコノミアを与えられていることを覚え、御言葉を宣べ伝え、キリストの体である教会に仕えることを通して、神の秘儀であるキリストをさらに深く知ることができるように励みたいものです。