2019年1月20日の礼拝宣教から 

『キリストにあって歩みなさい』 コロサイ信徒への手紙2章6-19節

主幹牧師 津村春英

 わたしたちはいろいろな人々と関わりをもって生活しています。無人島で生活しない限り関わりが必要です。しかし、どこに軸足を置くかということが重要です。「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」(2:6)とありますが、「結ばれて」と訳されているギリシア語の「エン」という前置詞は、(場所)、(状態)、(時間)、(影響力)、(関係・場合)、(根拠)などを導きます。ここでは、「キリストにあって歩みなさい」と訳すのが好ましいと考えます(聖書協会共同訳では、「あって」)。「歩む」とは、生活するという意味です。また、ギリシア語文の命令形は「断定」の場合と「継続」の場合があり、ここは継続を意味しています。つまり、「あなたがたは、キリストにあって歩み続けなさい」となります。

 色々な異端思想に囲まれ、それらに苛まされ、信仰の挑戦を受けていたコロサイやラオディキアの教会などの兄弟姉妹と同様に、わたしたちもキリストにあって、キリストに基づいて、キリストに根ざして、キリストと常に関わりを持ちながら、キリストに思いをはせ、キリストと共に時間を共有し、キリストに身を委ねて、キリストの愛される教会に仕えて、「生活し続ける」ことができますよう、祈り励みましょう。

2019年1月13日の礼拝宣教から

『キリストの体である教会に仕える』コロサイ信徒への手紙1章24-2章5節

主幹牧師 津村春英

 人にはそれぞれ神様から与えられている務めがあると思います(cf. マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。パウロは、「御言葉を伝えるという神のオイコノミア(務め)に従って」、キリストの体である教会に仕えると言っています(1:25)。オイコノミアは英語のエコノミーの語源でもあり、もともとオイコス(家)を管理する務めの意味で、神のオイコノミアというと、それは神の壮大な救いの御計画を担う務めを意味しています。彼は自分の苦しみをキリストの苦しみと重ね合わせながら(1:24)、コロサイやラオディキア、さらにまだ直接顔を合わせたことのない人々のために、キリストを宣べ伝えることにおいて苦闘し(2:1)、キリストの体である教会に仕えている。その理由は、当時、異端思想(1:15-20の対グノーシス思想、2:16-18など)がはびこる中にあって、人々が神の秘められた計画(秘儀:ミュステーリオン:(英)ミステリー)であるキリストを深く知るため(2:2)だと言っています。

  わたしたちも、それぞれ、神のオイコノミアを与えられていることを覚え、御言葉を宣べ伝え、キリストの体である教会に仕えることを通して、神の秘儀であるキリストをさらに深く知ることができるように励みたいものです。

2019年1月6日の礼拝宣教から 

『キリストによる創造と和解』 コロサイ信徒への手紙1章9-23節

主幹牧師 津村春英

 2019年が始まりました。年賀状の交換は私たちに時に勇気を与えてくれますます。コロサイ書は、4:3にあるように伝統的にはパウロの獄中書簡と言われ、受信者はどれほど勇気づけられたことでしょうか。パウロは言います。「私たちも、このことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と洞察によって神の御心を深く知り、主にふさわしく歩んで、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善い行いによって実を結び、神をますます深く知るように。また、…御父に感謝するように。」(1:9-12聖書協会共同訳)。

 御父、つまり神は、御子イエス・キリストによって万物をお造りになりましたが、御子はその創造前に先立って生まれた者(プロートトコス)であり、御子はその体である教会の頭であり、神はこの御子のうちに満ち溢れるもの(プレーローマ)を宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、万物をご自分と和解させ、聖なる、傷のない、とがめるところのない者としてあなたがたを御前に立たせてくださった、とあります。そして、「ですから、あなたがたは揺るぐことなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」(1:23聖書協会共同訳)とすすめています。これは現代に生きる私たちへのメッセージでもあります。今年も主の業に励みましょう!

2019年1月1日の礼拝宣教から

『互いに愛し合いなさい』 ヨハネ福音書15章1-17節

主幹牧師 津村春英

 2019年の教会カレンダーのみことばに、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)を選びました。ヨハネ福音書では、13章から「最後の晩餐」に入り、このみことばは、主イエスから弟子たちへのいわば遺言のような言葉でもあります。また、「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した。私の愛にとどまりなさい。」(15:9聖書協会共同訳)とあります。この「とどまる」は、直前のぶどうの木のたとえの、木に「つながる」(15:4)と同じ原語で、「とどまる」ことと、「つながる」ことが響き合い、実を結ぶ根拠となっています。こうして、キリストの愛にとどまるならば、互いに愛し合うことができるはずです。

 さて、キリストの教会のあるべき姿とは何でしょうか。冒頭の15章の聖句は、これに先立つ13章の洗足の出来事の「あながたは互いに足を洗い合うべきである」(13:14)の結論ともいえる、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを皆が知るであろう」(13:35)と響き合っています。つまり、これこそが、教会のあるべき姿であり、このみことばに尽きると思います。新しい年、「愛に生きる教会をめざして」のスローガンのもと、キリストの愛にしっかりとどまり、「互いに愛し合う」ことができるように努めてまいりましょう。

2018年12月23日の礼拝宣教から

『発見の喜び』マタイによる福音書2章1-10節

主幹牧師 津村春英

 厚労省から発表された「平成29年(2017)人口動態統計(確定数)」によると、我が国の人の死因は、1位「悪性新生物(がん)」、2位「心疾患(心臓)」、3位「脳血管疾患」だそうです。トップのがん治療に関する画期的な免疫療法に結び付く発見をした、本庶佑(ほんじょ・たすく)氏に今年のノーベル医学生理学賞が贈られました。

 聖書の中に、喜びの発見をした人々がいます。東方の博士たちもそうなのです。特別な星の出現に興味を持ち、その星の示す人物に会うために、はるばる長旅をします。長い時間と莫大な費用と命を懸けて旅をし、その星の移動に従って進み、ついにユダヤのベツレヘムで星が止まったのを目撃しました。そこで彼らは御子である幼子を発見し、持参した黄金、乳香、没薬を献さげて礼拝をしたのです。

 私たちは毎週、どういう思いで礼拝に来ているでしょうか。この博士たちのように、多くの犠牲をはらって、しかも黄金、乳香、没薬に相当するものを献げて礼拝しているでしょうか。主イエスはそれほどまでして礼拝されるべきお方なのです。このクリスマス、わたしたちの信仰のあり方を見つめ直す良い機会だと思います。是非、それぞれの信仰の旅路で新しい発見をさせていただきたいものです。