2019年1月13日の礼拝宣教から

『キリストの体である教会に仕える』コロサイ信徒への手紙1章24-2章5節

主幹牧師 津村春英

 人にはそれぞれ神様から与えられている務めがあると思います(cf. マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。パウロは、「御言葉を伝えるという神のオイコノミア(務め)に従って」、キリストの体である教会に仕えると言っています(1:25)。オイコノミアは英語のエコノミーの語源でもあり、もともとオイコス(家)を管理する務めの意味で、神のオイコノミアというと、それは神の壮大な救いの御計画を担う務めを意味しています。彼は自分の苦しみをキリストの苦しみと重ね合わせながら(1:24)、コロサイやラオディキア、さらにまだ直接顔を合わせたことのない人々のために、キリストを宣べ伝えることにおいて苦闘し(2:1)、キリストの体である教会に仕えている。その理由は、当時、異端思想(1:15-20の対グノーシス思想、2:16-18など)がはびこる中にあって、人々が神の秘められた計画(秘儀:ミュステーリオン:(英)ミステリー)であるキリストを深く知るため(2:2)だと言っています。

  わたしたちも、それぞれ、神のオイコノミアを与えられていることを覚え、御言葉を宣べ伝え、キリストの体である教会に仕えることを通して、神の秘儀であるキリストをさらに深く知ることができるように励みたいものです。

2019年1月6日の礼拝宣教から 

『キリストによる創造と和解』 コロサイ信徒への手紙1章9-23節

主幹牧師 津村春英

 2019年が始まりました。年賀状の交換は私たちに時に勇気を与えてくれますます。コロサイ書は、4:3にあるように伝統的にはパウロの獄中書簡と言われ、受信者はどれほど勇気づけられたことでしょうか。パウロは言います。「私たちも、このことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と洞察によって神の御心を深く知り、主にふさわしく歩んで、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善い行いによって実を結び、神をますます深く知るように。また、…御父に感謝するように。」(1:9-12聖書協会共同訳)。

 御父、つまり神は、御子イエス・キリストによって万物をお造りになりましたが、御子はその創造前に先立って生まれた者(プロートトコス)であり、御子はその体である教会の頭であり、神はこの御子のうちに満ち溢れるもの(プレーローマ)を宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、万物をご自分と和解させ、聖なる、傷のない、とがめるところのない者としてあなたがたを御前に立たせてくださった、とあります。そして、「ですから、あなたがたは揺るぐことなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」(1:23聖書協会共同訳)とすすめています。これは現代に生きる私たちへのメッセージでもあります。今年も主の業に励みましょう!

2019年1月1日の礼拝宣教から

『互いに愛し合いなさい』 ヨハネ福音書15章1-17節

主幹牧師 津村春英

 2019年の教会カレンダーのみことばに、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)を選びました。ヨハネ福音書では、13章から「最後の晩餐」に入り、このみことばは、主イエスから弟子たちへのいわば遺言のような言葉でもあります。また、「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した。私の愛にとどまりなさい。」(15:9聖書協会共同訳)とあります。この「とどまる」は、直前のぶどうの木のたとえの、木に「つながる」(15:4)と同じ原語で、「とどまる」ことと、「つながる」ことが響き合い、実を結ぶ根拠となっています。こうして、キリストの愛にとどまるならば、互いに愛し合うことができるはずです。

 さて、キリストの教会のあるべき姿とは何でしょうか。冒頭の15章の聖句は、これに先立つ13章の洗足の出来事の「あながたは互いに足を洗い合うべきである」(13:14)の結論ともいえる、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを皆が知るであろう」(13:35)と響き合っています。つまり、これこそが、教会のあるべき姿であり、このみことばに尽きると思います。新しい年、「愛に生きる教会をめざして」のスローガンのもと、キリストの愛にしっかりとどまり、「互いに愛し合う」ことができるように努めてまいりましょう。

2018年12月23日の礼拝宣教から

『発見の喜び』マタイによる福音書2章1-10節

主幹牧師 津村春英

 厚労省から発表された「平成29年(2017)人口動態統計(確定数)」によると、我が国の人の死因は、1位「悪性新生物(がん)」、2位「心疾患(心臓)」、3位「脳血管疾患」だそうです。トップのがん治療に関する画期的な免疫療法に結び付く発見をした、本庶佑(ほんじょ・たすく)氏に今年のノーベル医学生理学賞が贈られました。

 聖書の中に、喜びの発見をした人々がいます。東方の博士たちもそうなのです。特別な星の出現に興味を持ち、その星の示す人物に会うために、はるばる長旅をします。長い時間と莫大な費用と命を懸けて旅をし、その星の移動に従って進み、ついにユダヤのベツレヘムで星が止まったのを目撃しました。そこで彼らは御子である幼子を発見し、持参した黄金、乳香、没薬を献さげて礼拝をしたのです。

 私たちは毎週、どういう思いで礼拝に来ているでしょうか。この博士たちのように、多くの犠牲をはらって、しかも黄金、乳香、没薬に相当するものを献げて礼拝しているでしょうか。主イエスはそれほどまでして礼拝されるべきお方なのです。このクリスマス、わたしたちの信仰のあり方を見つめ直す良い機会だと思います。是非、それぞれの信仰の旅路で新しい発見をさせていただきたいものです。

2018年12月16日の礼拝宣教から

『飼い葉桶の中の救い主』ルカによる福音書2章8-14節

主幹牧師 津村春英

 主イエスの誕生、それはユダヤのベツレヘムでベビーベッドは飼い葉桶であったと記されています。「初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」(聖書協会共同訳ルカ2:7)。いくつかの疑問がわきます。まず、どうして、そんな時(マリアが身重)に、住民登録のために長距離の旅をしなければならなかったのでしょうか。表向きの理由は「住民登録」のためとなっていますが、実はその背後に「神様のご計画」があったのです(ベツレヘムで生まれるという預言の成就:ミカ5:1)。しかし、神様のご計画なら、どうして、ヨセフと身重のマリアに泊まる場所、居場所が用意されていなかったのでしょうか。神様がどんなことがあっても用意してくれるはずではありませんか…。実はそこが最善の場所であったのです。「飼い葉桶」は、次に登場する①羊飼いに解かりやすいしるしであり、また、②その場所(二階が客間で、一階が家畜の部屋)は誰もが容易に出入りができたと考えられます。そして、最初に主イエスを発見する羊飼いは、マリアの讃歌にある主を畏れる人を代表しているようです。

 神様が成してくださる最善、それは飼い葉桶にあったのです。すべては飼い葉桶から始まったのです。人生に「どうして」と思うことが幾度もあります。そんな時は主イエスの飼い葉桶に立ち帰ってみてはどうでしょうか。