2019年6月2日の礼拝宣教から 

『約束を受けている者として』コリントの信徒への手紙二6章11-7章1節

主幹牧師 津村春英

 「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(7:1)とパウロはコリントにある教会のキリスト者に書き送りました。その約束は、イエス・キリストを信じる者たちが、「神の息子、娘となり、神は父となる」という約束です。パウロはまた別の手紙で、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださるように。」(テサロニケ一5:23)と書いています。

 今日は創立116周年記念礼拝を献げています。当教会の創立者であり、日本自由メソジスト年会初代部長の河邊貞吉師は、第10回年会で当時の教勢停滞の状況を鑑みて次のように語られました。「さらばわれらは如何にすべきか、『生命がけでやります』と決心しても駄目、ペテロの決心は数時間しかもたなかった。決死だ、命を賭してだと肉の元気を出しても駄目、発奮も努力も駄目である。この弟子たちと同様に、私共自身では出来ない。しかし今イエスは息を吹きかけて言いけるは、『聖霊を受けよ』『聖霊を受けよ』と仰せたもう…聖霊を一度受けた者でも、満たされていないならば駄目である」(『河邊貞吉説教集第一巻』、昭和9年、328頁)。約束を受けている者として、神を畏れ、主の前にへりくだり、聖霊に満たされ、聖なる者とされましょう。

2019年5月26日の礼拝宣教から

『神の恵みを無駄にしてはいけない』コリントの信徒への手紙二6章1-10節

主幹牧師 津村春英

 キリスト者のみならず、多くの人に愛されている歌「アメージング・グレイス」はジョン・ニュートンの作ですが、3番の歌詞に「たくさんの危険と、苦難や誘惑をくぐり抜け、私はここまで来ることができました。ここまで安全に来られたのも恵みのおかげ、そして恵みが私をこれらから故郷まで導いてくれるでしょう。」(久野陽一訳)とあります。

 聖書には、使徒パウロが、「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」(6:1)と書いています。パウロたちは神の協力者として、神に仕える者として、その生き様を示しました。人につまずきを与えないように、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、空腹にあっても、大いなる忍耐をもって事に当たりました。そして、褒められるときも侮辱されるときも、神に仕える者として自分たちを表しました。悲しんでいるようでも、常に喜び、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべての物を持っているかのように生活しました。それは神の恵みの中で生きていたからだと言うのです。わたしたちは、この地上で与えられた人生をどのように生きていますか。神から頂いている恵みを無駄にしてはいけません!

2019年5月19日の礼拝宣教から  

『キリストによる神との和解』 コリントの信徒への手紙二5章11-21節

主幹牧師 津村春英

 紀元1世紀のキリスト教会における最も重要な指導者のひとりであり、神学者であるアウグスティヌスは、「われわれの心は、あなた(神)のうちに憩うまでは安らぎを得ません」と書いています(『告白録』)。わたしたちに不安があるとするなら、それは神と離れているからではないでしょうか。

 使徒パウロの人生は、神の愛によって180度転換させられ、神との「和解」ということを知るに至りました。神と人との和解の道は、イエス・キリストであると言っています。「だから、誰でもキリストにあるのなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに、新しいものが生まれたのです。」(5:17聖書協会共同訳。新共同訳では、下線部は「キリストと結ばれているなら」となっていました)とパウロは書いています。「キリストにある(者)」とは「キリスト者」です。「新しく造られた者」とは、わたしたちの罪の身代わりとしてのイエス・キリストの十字架によって、神と和解せられた者です。

 人と人との和解は難しい。神と人との和解はもっと難しい。イエス・キリストによる以外に和解はないのです。イエス・キリストを救い主と信じて、神と人が正常な関係に戻ることができてこそ、本当の安らぎを得ることができるのです。

2019年5月12日の礼拝宣教から 

『見えないものに目を注ぐ』 コリントの信徒への手紙二4章16-5章10節

主幹牧師 津村春英

 今日は「母の日」。誰もが肉親の母を持っています。信仰の面でも母親的存在はあります。そういう人々によって育てられたことに神に感謝したいと思います。パウロとコリントにある教会の人々との関係も同様でしょうか。パウロは自分の身をもってその生き方を示しました。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(18)と書いています。見えるもの(地上のもの)に左右されず、見えないもの(天上のもの、あるいは天から与えられるもの)に目標を置く生き方が奨励されているのです。サン・テグジュベリ『星の王子さま』の中にも、「いちばん大切なことは目に見えない。ものごとはね、心で見なくては良く見えない」という言葉があります。わたしたち風に焼き直すと、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」(5:7)ということでしょうか。

 自分がボロボロだと思うだけでなく、他人からもそう見えたとしても、落胆しません。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(4:16)との言葉に励まされ、見えないものに目を注ぎつつ、主に喜ばれるよう歩んで行きましょう。

2019年5月5日の礼拝宣教から  

『土の器の中にある宝』 コリントの信徒への手紙二4章7-15節

主幹牧師 津村春英

 「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(4:7)。土の器は、必ずしも土器ではなく陶器とも考えられます。ヘレニズム・ローマ初期時代には既に陶器があったからです。テモテ二2:20には、金、銀、木、土の器とあり、その材質を指していると思われます。いずれにせよ落とせば割れるもろい器には違いありません。「土の器の中に宝」は不釣り合いです。「宝」とはイエス・キリストのことで、それは恵みです。次に、「私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです。」(聖書協会共同訳10)とあります。「死に行くイエス」とは十字架の死に至るプロセスを意味し、11節の「死」とは別の単語が使われています。主イエスの十字架と復活に与ることに力があり、希望があるのです。

 信仰の先達がよく口にした言葉、「われら四方より患難を受くれども窮せず、爲ん方(せんかた:なすべき方法)つくれども希望を失はず、」(文語訳8)の、「四方から」の原語は「すべて、において」の2語であり、特に方向を指す語ではありませんが(『新改訳2017』ではおまけに「四方八方から」)、宝をいただいているこの土の器は、極度の圧迫にも耐えることができ、道を見出せなくとも、行き詰らないという言葉に励まされます(下線の原語は、ことば遊びで、「道を失う」と「全く道を失う」)。