2019年7月7日の礼拝宣教から 

『僅かしか蒔かない者は刈り入れも僅か コリントの信徒への手紙二9章1-15節

主幹牧師 津村春英

 パウロはテトスと数人の弟子たちを先にコリントに遣わし、既に計画していた、困窮するエルサレム教会への献金を集めようと考えました。「5そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。  6 つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです 」(9:5, 6)。最初の二つの下線部の直訳は「祝福(としての贈り物)として」であり、新しい聖書協会共同訳では「祝福の業として」、新改訳2017でも「祝福の贈り物として」と訳されています。次の6節の下線部の直訳は「惜しんで」であり、単に、量の大小を言っているのではありません(新改訳2017が「わずかだけ」と訳しているのは不十分)。また続く「惜しまず豊かに」は、上の「祝福として」と同じ単語に前置詞をつけて表現されています。

 「僅かしか蒔かない者は刈り入れも少ない」のは当たり前ですが、「惜しんで僅かしか蒔かない」ことが問題なのです。私たちの、特にキリスト者の心が探られます。神様のために、感謝をもって、惜しみなく、喜んで種を蒔き、豊かな祝福を刈り取りたいものです。

2019年6月30日の礼拝宣教から

『キリストの栄光』 コリントの信徒への手紙二8章16-24節

主幹牧師 津村春英

 エルサレム教会への募金を促すために、コリントの教会に再び出向くことになった熱心なテトス。 「テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。」(23)とあります。下線部の可能な訳は、 ①キリストから栄光を受ける者②キリストに栄光を帰する者、が考えられます。聖書協会共同訳では「キリストの栄光を映す者です」、新改訳2017では「キリストの栄光です」と訳されています。ではそれはどういう人なのでしょうか。テトスらのように、イエス・キリストの福音宣教において、キリストの栄光を映し出し、キリストに栄光を帰する人を思い浮かべることでしょう。他方、そのように積極的でなくても、その存在そのものが、神の栄光を映し出すこともあります。

 私の姉は脳性小児まひでした。何も社会貢献のできない44年の生涯でした。むしろ、誰かの援助を必要としました。しかし、その周りの人々に何かを考えさせる存在でもありました。私はこの姉の存在により、神に近づくことができました。果たして、私たちはキリストの栄光を映し出す存在でしょうか…。神様から与えられた命を精いっぱい生き抜くこと、それがキリストの栄光を現すことにつながるのではないでしょうか。

2019年6月23日の礼拝宣教から

『あなたの愛は本物か』コリントの信徒への手紙二8章1-15節

主幹牧師 津村春英

  「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。」(8:1)のマケドニアの諸教会とは、使徒言行録16章のフィリピ、17章のテサロニケ、ベレアにある教会のことです。下線部の「神の恵み」とは、「神からの恵み」と共に「神に対する恵みの業」と解することができます。ここでは具体的にはエルサレム教会のための募金活動(コリント一16:1、コリント二8:4, 6,7の慈善の業)を指しています。

  マケドニアの諸教会は、 「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」(8:2) とあります。そして、コリントの教会の人々に対しては、「わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。」(同8)とあります。「純粋さ」とは「本物であること」の意味です。その愛の根拠と評価の基準は、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」(同9)にあります。上記2節の下線部「試練」は「練達」(ローマ5:3、試験合格の意)と同じ語で、その動詞形が8節の下線部「確かめる」です。あなたの愛は本物ですか。果たして鑑定やいかに?

19年6月16日の礼拝宣教から 

『神の御心に適った悲しみ』コリントの信徒への手紙二7章2-16節

主幹牧師 津村春英

 最近は手紙を書かず、メールやラインなどで済ます人が増えています。私は手紙を比較的書く方だと思います。とりわけ若い頃の家内との恋愛中は沢山の手紙を書きました。手紙というものは、想像しながら読むので、喜ばれることもあり、また、誤解されることもあり、悲しみを与えることもあります。

 使徒パウロは、生み出した教会に幾つもの手紙を書きました。それは、時には励ましであり、時には慰めであり、また時には厳しい忠告でもあったと考えられます。コリントの教会のキリスト者たちに宛てた手紙の中で、「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。」(2:4)「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、」(7:8)とありますが、「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。 」(7:10)とまとめています。

 人生には悲しいことがいっぱいあります。私も経験してきました。年配の皆さんはなおさらでしょう。しかし、悲しみにも二種類があるというのです。ひとつは死に至る悲しみです。他のひとつは神の御心に適った悲しみで、悔い改めて立ち直り、救いに至る悲しみであるとパウロは書いています。 心して、このみことばを聞きたいものです。

2019年6月9日の礼拝宣教から

『聖霊に満たされて』 使徒言行録2章1-13節

主幹牧師 津村春英

  春の過越しの祭りから七週、五十日目の五旬祭、ペンテコステ(ギリシア語)の日に、それは起こりました。当時の世界各地から集まって来た人々の前で、弟子たちは神の偉大な業を各国の言葉で語ったのです(直訳は「他の言葉で語る」)。当教会の創立年1903年に現在の天王寺公園辺りを会場に内国勧業博覧会が開かれ、その博覧会正面前に「きたりてみよ」という大看板を掲げてキリスト教伝道が行われました。その結果、私たちの教会が生まれました。以来、当教会は目覚ましい発展を告げました。その「武勇伝」を耳にタコができるほど聞かされてきました。提灯をもち、大太鼓を叩き、トランペットを吹き鳴らして、ミナミ界隈を練り歩き伝道をしたと。

 それに比べ、トラクト配布もやめてしまった現在の私たちの教会はどうでしょうか。今日の聖書の箇所から学ぶことは何でしょうか。第一に、「一つとなって集まる(祈る)」ことです。そこに御業が現されました。ばらばらでは何の力もありません。第二に、先週、河邉師の言葉を引用したように、「聖霊に満たされる」ことです。第三に、「イエス・キリストによる救いを語る」ことです。家族はじめ周りの人々に福音を伝えるのをあきらめてはなりません。また、教会に来られた新しい人々が喜んでリピートできる教会になることです。私たちが、イエス・キリストの福音を語らずして誰が語るのでしょうか。