2019年3月31日の礼拝宣教から

『あなたがたはキリストの手紙』 コリント信徒への手紙二3章1-6節

主幹牧師 津村春英

 17世紀のオランダの画家ヨハネス・フェルメール展で「手紙を書く女」を見ました。女性のなにげない日常生活の一場面を捉え表現したものですが、鑑賞者はこの絵から何らかのメッセージを読み取ろうとします。パウロの時代には「手紙」が重要なコミュニケーション手段でした。コリントの教会に複数の手紙を書いたと思われます。「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」(3:3)とあります。前半部分の直訳は、「あなたがたは、私たちによって奉仕されたキリストの手紙です」となります。パウロたちの働きを通してコリントの教会の人々の心にキリストが書かれたというのです。石の板とは、モーセが刻んだ粘土板の十戒(古い契約)を意味し、他方、心の板にはイエス・キリストの新しい契約(同6)が書かれました。

 私たちも、これまでの信仰の人生で、色々な人々に奉仕された(お世話になり、教えていただき、愛していただいた)手紙であるとするならば、どのように書かれてあるのでしょうか。どんな人に何を書いてもらいましたか。キリストが確かに書かれていますか。感謝を忘れず、その期待に少しでも応えることのできる日々を送りたいものです。

2019年3月24日の礼拝宣教から

『キリストの勝利の行進に連なる』コリント信徒への手紙二2章5-17節

主幹牧師 津村春英

 選抜高校野球が始まりました。開会式には入場行進がありますが、古代の戦いにおける勝利の行進(凱旋)のときには、香をたいたそうです。パウロは、「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」(2:14)と書いています。キリストは私たちの身代わりとなり、犠牲となって、ご自身を神に献げられる香り(ユーオディア)となられたのです。そして、このキリストを信じる者もその香りを放つ者になるとあります。

 では、キリストの勝利の行進に連なるためには、わたしたちはどうあるべきでしょうか。その一つは、人を赦すことだとパウロは言います。「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。」(同10)。

 故F兄は、長年にわたり教育者として社会で貢献された後、晩年に救い主イエス・キリストを受け入れられました。その後、いわれのないことで非難され、人を赦すことの難しさにずいぶん悩んでおられた時期がありましたが、毎日曜日の玄関看板書きのご奉仕を通して克服されていかれました。わたしたちがキリストの勝利の行進に連なるために何をなすべきでしょうか。

2019年3月17日の礼拝宣教から 

『愛を知ってもらうために』 コリント信徒への手紙二1章23-2章4節

主幹牧師 津村春英

 幼児虐待のニュースが絶えません。「しつけ」という名の虐待もあります。パウロはコリントの教会に、キリスト者たちの信仰が確立されることを願って手紙を書き送りました。「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした」(2:4)。

 主イエスがエルサレムに近いベタニアに行かれた時、マルタとマリアの兄弟ラザロが死んで葬られたと聞き、「どこに葬ったのか」と言われ、人々が「主よ、来て、御覧ください」と言った後、「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)とあります。これは愛の涙です。

 肺癌で若くして召された原崎百子さんの手記に次のような言葉があります。「あなたがたは信ずるだろうか、この母があなたたちをこよなく愛していることを。一人一人を、どのひとりをもかけがいのないものとして、こんなにも切ない思いで愛していることを。…あなたがたが、この母の愛をもし信ずるならば、どうか信じてほしい、神様の愛を信じてほしい。一人一人をかけがいのないものとして、いつくしんでくださっている神様の愛を、信じて欲しい」(原崎百子『わが涙よ歌となれ』)。神様の愛に感謝し、周りの人を心から愛せるよう祈りましょう。

2019年3月10日の礼拝宣教から 

『神の恵みによって』 コリント信徒への手紙二1章12-22節

主幹牧師 津村春英

 東日本大震災から明日で8年を迎えます。復興が思うように進まない中、今も避難生活を余儀なくされている方が大勢おられます。どれだけの人がその人生の計画を変更せざるを得ない状況に追い込まれたことでしょうか。

 今日の聖書の箇所は、パウロがコリントの教会を再び訪問する計画が変更になり、そのことで、コリントの教会から少なからず批判があったようです。そこでパウロは次のように書いています。「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです」(1:12)。さらに、「このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって『然り、然り』が同時に『否、否』となるのでしょうか。」(同17)とパウロは書いています。つまり、「然り」からすぐに「否」に変わってしまうような、軽率で人間的な考えによるのではないと反論しているのです。

 私たちの人生にも確かに紆余曲折があります。その都度、深い祈りをもって、「神の恵みによって」行動しましたと言える人生を歩みたいものです。

2019年3月3日の礼拝宣教から  

『苦難の中の希望』 コリント信徒への手紙二1章1-11節

主幹牧師 津村春英

 使徒パウロとその愛弟子テモテの名で書かれた手紙の一つで、「コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ」(コリント二1:1)で始まる手紙を皆さんと共に読んでいきたいと思います。挨拶と神への賛美に続いて、「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(同4)とあり、冒頭から「苦しみ」という言葉が出てきます。さらに、「兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」(同8, 9)とあるように、パウロは死の宣告を受けた思いになるほどの苦しみの中で、自分ではなく、神を頼るようになったと証しています。

 果たして、私たちの信仰はいかがでしょうか。それぞれの人生の避けて通れない苦しみの中で、望みをどこに、誰においていますか。死者をよみがえらせてくださる神を信頼し、希望を持って進みたいものです。