2019年11月24日の礼拝宣教から

『喜び、祈り、感謝』 テサロニケ信徒への手紙一 5章12-28節

牧師 津村春英

パウロは、「テサロニケの信徒への手紙一」の結びの言葉として、指導者を重んじ、愛をもって心から尊敬するようにと願った後、「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」(5:14)と勧めています。下線部の「怠けている者」とは、隊列から離れたり、部署を放棄した兵士について言われた言葉で、新しい聖書協会共同訳では「秩序を乱す者」となっています。そして、有名な、「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(同16-18)が続きます。ただし、これらの勧めは「主の日が近い」という脈絡で書かれたことを忘れてはなりません。

鈴木秀子『自分を生き抜く聖書の言葉』海竜社、2011.の中に、ある貧しい夫婦が授かった赤ちゃんの話が出てきます。実は無脳症という重い障害を抱えていて、生後5日で天に召されるのです。しかし、この夫婦は子を授かった喜びを分かち合い、重度の障害を負ったわが子のために祈り、そして、10か月、胎内にいて希望を与えてくれたことに感謝をささげたというのです。わたしたちの場合はどうでしょうか。

2019年11月17日の礼拝宣教から

『互いを造り上げるように』 テサロニケ信徒への手紙一 5章1-12節

牧師 津村春英

先週、皇位継承の儀式「大嘗祭」が執り行われました。その儀式の詳細は一般には明かされない秘儀ですが、民俗学の権威者、折口信夫(おりくちしのぶ)は「大嘗宮の儀」について、天皇霊がはいり完全な天皇になる儀式であるとの説を立てました。

キリスト者は光の子(子:その性質、精神を体現する者)で夜や闇に属していないのだから、信仰と愛を胸当てとし、救いの希望を兜として、主の日の到来に対し身を慎んで(酒に酔わないで正気でいる)、目を覚ましていましょう、とパウロは勧めています。そして最後に、「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」と締めくくっています。下線部は、新しい聖書協会共同訳では「互いを造り上げるようにしなさい。」となっています。「造り上げる」と訳されるギリシア語オイコドメオーは、(家)+(建てる)で構成された単語で、単に、「互いを高め合いなさい。」(新改訳2017)ではありません。また、日本語の「造り上げる」は、庭を造り上げる、雰囲気を―、国家を―、街並みを―など、個を大切にしつつも常に全体に目を配って造り上げていく意味だと思われます。わたしたちも、「互いを造り上げるように」、祈り、励みましょう。

2019年11月10日の礼拝宣教から

『いつまでも主と共に』テサロニケ信徒への手紙一 4章13-18節

牧師 津村春英

先に召されたキリスト者は、主の再臨のときにどうなるのか、このことで悩んで不安を抱えている教会のキリスト者に対し、安心を与え、励ましを与えるために、使徒パウロは次のように書いています。「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(4:16,17)。

三浦綾子さんが召されて20年になりますが、最愛の奥様を天に送られた1年後の夫・光世さんが、悲しみの癒えない中で、次のように書いておられます。「今、綾子がどこにどんな状態でいるか、定かでない。が、使徒信条にあるとおり、『体のよみがえり、永遠の命を信ず』との言葉を確認し続けたい。私たちの思いをはるかに超えた時間と空間を、神は備えてくださっているのであるから」(『三浦綾子 信仰と文学』p.122-123参照)。

 キリスト者には召されても、復活のキリストと共にいる希望があります。「いつまでも主と共にいる」。これ以上の慰めと励ましの言葉はありません。

2019年11月3日の礼拝宣教から 

『心が燃えているのか』 ルカによる福音書 24章13-32節

牧師 津村春英

つい二日前に、主とあがめるイエスを十字架刑により失った二人の弟子が家路についています。彼らは自分たちが落胆の沼に落ちて行くのを感じています。ただ、葬られた墓を見に行った他の仲間たちが、イエスは復活され、

見つけることができなかったという報告は受けていました。彼らは道々そのことについて論じ合っていると、そこに復活されたイエスが合流されたのです。しかし、彼らにはまだ分かりませんでした。イエスは歩きながら、モーセ(律法の書)とすべての預言者の書から始めて、聖書全体にわたってご自分について書かれてあることを説き明かされました。やがて家にたどり着き、イエスを無理やり引き留めて一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡されました。この懐かしい光景により、ついに二人の目が開かれましたが、イエスの姿はもう見えなかったというのです。

二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(24:32)と語り合いました。厳密に訳せば、「心は燃やされ続けていた」となります。復活されたイエスと出会っているとき、心が燃やされ続けるのです。今日、あなたはイエスに出会っていますか。

2019年10月27日の礼拝宣教から

『御言葉を聞いて悟る人』 マタイによる福音書 13章1-9節

牧師 津村春英

今週10/31(木)は宗教改革記念日です。マルティン・ルターの宗教改革は、神のみことばの復権でした。神のみことばを、種にたとえた話が、共観福音書のマルコ、マタイ、ルカのすべてに出てきます。ミレーの「種まく人」(1850年)の絵からイメージしながら読んでみましょう。

マタイによると、種を蒔く人によって蒔かれた種(複数)は道端に落ちました。すると鳥(複数)が来てついばんでしまいました。土の少ない岩地に落ちた種(複数)はすぐ芽を出しましたが日が昇ると枯れてしまい、茨のところに落ちた種(複数)は、茨が塞いで成長できませんでした。ところが、良い土地に落ちた種(複数)は成長して多くの実を結んだというのです。

これは、よく知られた、たとえ話です。種を蒔く人はイエスで、多くの人々に種が蒔かれました。この話の要点は、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」(マタイ13:23)の「悟る」という語にあります。原語のギリシア語は、「一緒にまとめる」を意味し、理解する、悟ると訳されます。聖書のみことばを、上っ面だけで読み過ごしてはいけません。一面的ではなく、多元的、複眼的、総合的に読むことです。そうすれば、みことばが自分の内で成長し、豊かな実を結ぶに至るのです。