『キリストをどう告白するか』 ヨハネの手紙一4章1-6節
昨日、首相は新型コロナウイルス感染拡大防止のために、三つの「密」を避けるよう国民に要請しました。では、私たちの主日礼拝はどうでしょうか。密閉(→窓を開ける)、密集(→会堂はがらんとしている)、密接(→人と話すときは距離を置いて短時間で済ます)について、私たちの大きな会堂では、これらの「密」を避けることができます。また、よく言われる「不要不急の外出を控える」の「不要」とは、必要でない、重要でないという意味ですが、礼拝を命がけで守った二千年の歴史を踏まえれば、私たちにとって教会の礼拝は必要で重要なことです。
ヨハネの手紙一の著者と読者が直面していた深刻な問題は、単に兄弟愛が冷えていたのではなく、イエス・キリストとはどういうお方であるかという、信仰理解の根幹にかかわる問題でした。当時流行のグノーシス思想の影響を受けた「仮現論」で、イエスは見せかけの人間であり、十字架の苦しみを味わうことがなかったという異端思想との戦いでした。断固として「イエス・キリストが肉となって来られた」(4:2)と告白するキリスト者であるよう勧められているのです。
牧師 津村春英