2019年5月5日の礼拝宣教から  

『土の器の中にある宝』 コリントの信徒への手紙二4章7-15節

主幹牧師 津村春英

 「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(4:7)。土の器は、必ずしも土器ではなく陶器とも考えられます。ヘレニズム・ローマ初期時代には既に陶器があったからです。テモテ二2:20には、金、銀、木、土の器とあり、その材質を指していると思われます。いずれにせよ落とせば割れるもろい器には違いありません。「土の器の中に宝」は不釣り合いです。「宝」とはイエス・キリストのことで、それは恵みです。次に、「私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです。」(聖書協会共同訳10)とあります。「死に行くイエス」とは十字架の死に至るプロセスを意味し、11節の「死」とは別の単語が使われています。主イエスの十字架と復活に与ることに力があり、希望があるのです。

 信仰の先達がよく口にした言葉、「われら四方より患難を受くれども窮せず、爲ん方(せんかた:なすべき方法)つくれども希望を失はず、」(文語訳8)の、「四方から」の原語は「すべて、において」の2語であり、特に方向を指す語ではありませんが(『新改訳2017』ではおまけに「四方八方から」)、宝をいただいているこの土の器は、極度の圧迫にも耐えることができ、道を見出せなくとも、行き詰らないという言葉に励まされます(下線の原語は、ことば遊びで、「道を失う」と「全く道を失う」)。

2019年4月28日の礼拝宣教から

『心に輝く光』 コリントの信徒への手紙二4章1-6節

主幹牧師 津村春英

 「なぜなら、『闇から光が照り出でよ』と言われた神は、私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださったのです」(聖書協会共同訳・4:6)。この文の主語は、創世記にでてくる、「光あれ」(創世記1:3)と言われた「神」です。主動詞は「(私たちの心の中を)照らしてくださった」なのです。そして、その光は、十字架の死と復活を通して勝利されたイエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟るための光だというのです。ヘルマン・ホイヴェルス神父はその著『人生の秋に』の中で、イエス・キリストは、「人としてこの世の中に降り、議論や疑問によって悪を解明しようとなさらずに、かえって、苦しみと死と復活をもって問題を解決された。」と書いています。また、詩人の八木重吉は「理屈は いちばん低い真理だ 理屈が無くてもいい位もえよう」(『八木重吉死と生涯と信仰』)という詩を書いています。人間関係の問題の解決の糸口は、理屈ではなく愛なのです。イエス・キリストがお示しになった愛なのです。

 私たしたちも、心の覆いを取り去っていただき、神の光を十分に照らしてもらって、もっともっと、主イエスのことがわかるようにしていただきたい。そして、主イエスがそうであるように、わたしたちも愛の人に変えていただきたい。

2019年4月21日の礼拝宣教から

『何のために走るのか』 マタイによる福音書28章1-10節

主幹牧師 津村春英

 Happy Easter! イースター、おめでとうございます。日曜日の朝早く、二人の女性が、主イエスが葬られた墓に向かいました。ところが、主は復活され、ガリラヤで弟子たちにお会いすることになるとのメッセージを天使から受けるのです。彼女たちは恐れと喜びをもって弟子たちのところへ急ぎますが、その途中で、主ご自身が彼女たちをお迎えになり、「シャーローム」、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(10)と言われました。彼女たちは感動してこのメッセージを携え、他の弟子たちのところへ走って行ったのです。

 さて、私もここまで走って来ました。33年前にこの教会に招聘された最初の礼拝で、故宇崎竹三郎名誉牧師がヨハネ21章から「岸辺に立つイエス」と題し、復活された主について語られたのを覚えています。私たちは、いつまで、どこまで、何のために走るのでしょうか。キリスト者は何のために走るのでしょうか。私を導いてくださった宣教師夫人は、顔の皮膚がんと闘い、ついに失明してしまわれましたが、「次に見るのは主エス様が迎えてくださるそのお顔です。」と証しされ、その生涯を信仰によって走りぬかれました。私たちは何のために走るのでしょうか。イースターの朝、改めて自らに問い直してみたいものです。

2019年4月14日の礼拝宣教から  

『弟子たちとエルサレム』 ルカによる福音書19章28-44節

主幹牧師 津村春英

 「お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」(ルカ19: 44)。これは、紀元70年にあったエルサレム崩壊の預言です。この「時」はギリシア語のカイロス(ちょうどふさわしい時)で、43節の「時」ヘーメラとは違います。このカイロスを知らなければ(わきまえなければ)なりません。主イエスは何のために旅を続けて来られたのでしょうか。弟子たちはどうですか。エルサレムの人々はどうでしたか。イエスは都のために泣いて言われたとあります。「エルサレム、お前も平和の道を知っていたなら滅ぶことはないのに」。それは、都エルサレムにはイエスを受け入れる準備ができていなかったからです。弟子たちとて例外ではありませんでした。やがて、ローマ軍が押し寄せてきます(実際には約40年後)。

 では、私たちにとって、主が訪れてくださる準備ができていますか。一週間もしないうちに主イエスは十字架におかかりになる。一体誰のため?何のため?それは、エルサレムの人々のため、群れを成す弟子たちのため、そして時代を超えて私たちのためではないでしょうか。私たちの罪の身代わりとなって十字架におかかり下さった主に心から感謝する特別な一週間、受難週でありますように。

2019年4月7日の礼拝宣教から

『キリストにあって取り除かれるもの』 コリント信徒への手紙二3章7-18節

主幹牧師 津村春英

 年号が5月から「令和」になると報じられました。読みの音は「例話」であり「霊は」でもあります。パウロはこの「霊」について書いています。パウロは、霊に仕える務め(3:8)である福音宣教は栄光に満ちていると表現しました。古い契約(律法)は確かに素晴らしいのですが、律法は人に罪を気付かせるだけで、そこには救いがなく、キリストによる新しい契約の務め(霊に仕える)は人々に罪の赦しを与え、救いを与えるとパウロは言っています。

 「主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。」(同16, 17)「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(同18)とあります。ここは難解な箇所ですが、下線部は「鏡のように主の栄光を見つつ」(cf.コリント一13:12)とも訳せます。「覆い」は外の相手から見えなくするとともに、自分も見えなくなってしまうものです。キリストの霊は、私たちの心の覆いを取り除き、私たちに命(6.霊は生かす)と自由(17b)と輝き・栄光(18)を与えるとあります。キリストにあって、そうしていただきたいと思います。