2018年11月11日の礼拝宣教から

『勝利を賜る神に感謝』コリント一 15章35-58節

主幹牧師 津村春英

 人は誰も年齢を重ねると疲れやすくなり、弱り、病みがちになります。そしてついに最期の時を迎えるのです。わたしたちの最大の敵は「死」です。わたしたちから何もかも奪ってしまう「死」なのです。しかし、主イエスは死人の中から復活され、死に勝利されたのです。パウロは書いています。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(コリント一15:54-57、cf.島尾敏雄『死の棘』)。人は罪ゆえに死ななければなりません。それは律法が示すところです。しかし、主イエス・キリストの十字架によって罪が赦され、復活によって死から命へと移され、人は死の力に打ち勝つことができるのです。


 復活、それは未知の世界ですが、確かにあることを聖書は告げているのです。死に勝利する復活があるからこそ、次のように言えるのです。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(同58)。

2018年11月4日の礼拝宣教から

『死者の復活』コリント一 15章12-34節

主幹牧師 津村春英

 コリント信徒への手紙一」もいよいよ佳境に入ります。それは復活問題です。パウロは次のように書いています。 「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。」(15:12)「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(同14)。このように、キリスト教会で一番重要なのはキリストの復活であり、それに続くキリストに属する者の復活です。作家の遠藤周作氏も「復活」ということを臨終に際して強烈にアピールして死んで行ったといわれます(遠藤順子『夫の宿題』)。


 さらに、パウロが「希望」と言うとき、それは復活にあずかるという希望です。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:2-5)。復活の希望があるからこそ、どんな試練にも耐えることができるのです。また、先に逝った人々との再会の希望があるのです。

2018年10月28日の礼拝宣教から

『福音によって救われる』コリント一 15章1-11節

主幹牧師 津村春英

 「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。」(15:1)とパウロは言います。「もう一度知らせる」は、12:3では「言っておきたい」と訳され、「生活のよりどころとしている」の直訳は、「あなたがたがその(福音の)中にずっと立ってきた」であります。しかも、その福音は、「わたしも受けたものです」(同3)とあるように、パウロにも伝えられた「伝承」なのです。福音、それは神から与えられた恵みです。福音、それは主イエス・キリストが、私たちの罪の身代わりとなって十字架におかかりになり、墓に葬られましたが、神によって三日目によみがえらされ、弟子たちに現れてくださったことです。そして、同じ主がエマオの途上の出来事のように、私たちにも現われてくださるのです。


 N.T.ライトは次のように書いています。「あなたの問題を、あなたの苦しみを、クレオパとその同行者と共にエマオへの途上に持ってきてください。歩み寄る見知らぬ人と共に、祈りの中でそれを分かち合うように備えてください。そして、起こっていることがらに対して聖書を引用して解きあかし、あなたを前方へと導き、あなたの心を熱くするイエスの御声を聞くことを学んでください」( “Luke for Everyone”)。私たちはこの福音によって(通して)救われます。そして、救われているのです。

2018年10月14日の礼拝宣教から

『秩序がもたらすもの』コリント一 14章26-40節

主幹牧師 津村春英

 パクス・ロマーナ(Pax Romana)という言葉があります。ラテン語で「ローマの平和」の意で、帝国支配によって国際秩序が保たれ平和がもたされたことを言います。第二次大戦後、長く続いたアメリカの国際支配パクス・アメリカーナは今、終焉を迎えていると言われます。


 さて、パウロは、混乱をきたしているコリントにある教会に対して、「神は無秩序の神ではなく、平和の神」(コリント一14:33)と言って、特に、異言と預言という賜物を語る者たちの、教会でのあり方を詳細に指導しています。それに続き、女性の、教会でのあり方を説いています。「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。」(同34)とありますが、現代社会においては、女性蔑視の暴言だと非難されることでしょう。尤もパウロは先のガラテヤ書では、「男も女もありません。あなたがたは皆、キリストイエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)と書いていましたので、コリントの教会における女性に対するこのような言葉は、よほど大きな問題であったからなのでしょう。それは秩序の問題でした。パウロの結論は、「しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。」(同40)でした。秩序がもたらすものは平和だからです。

2018年10月7日の礼拝宣教から

『造り上げる賜物』コリント一 14章1-25節

主幹牧師 津村春英

 今年もノーベル賞の受賞者が発表され、本庶佑(ほんじょ たすく)さんがノーベル医学生理学賞に選ばれました。そのインタビューで基礎研究の大切さを説かれ、医者としては何百人か何千人を助けることができるかもしれないが、基礎研究の成果により、何百万人の人が、自分が死んだ後も、恩恵を受けることができるのは喜びだと語っておられたのが印象的です。ノーベル賞受賞者の選定は、どれだけ多くの人に影響を与えたかが基準だそうです。


 コリント信徒への第一の手紙が書かれた時代には、教会で異言を語ることや預言を語ることが盛んになされていました。それらは霊の賜物と位置付けられていますが、現代でもこの様な賜物を強調する教会やグループがあります。そうではない教会では今一つイメージがわかないと思われますが、いずれにせよ、問題は、「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。」(14:4)にあります。また異言は、教会に来て間もない人や新来会者にとっては分からない言葉であるのに対し、預言は人々に自分の罪を悟らせ、神を見出させるとあります(同24、25)。つまり、預言は個人だけではなく、多くの人に影響を与えるというのです。預言とは、神によって与えられた言葉です。お互いの成長のために、真に神の言葉を語り合い、分かち合うことのできる教会でありたいものです。