2020年3月8日の礼拝宣教から 

『どれほど愛されているか』 ヨハネの手紙一2章28-3章10節

牧師 津村春英

妻が、休日でも机に向かう私の姿を見て、「一体誰に似たのかな」と言いました。彼女は舅、姑を知っていますが、どうも違っているようです。私の内のDNAが関係しているのでしょうか。皆さんはどうですか。顔、形ではありません…。

キリスト者の内には神の「種」(聖書では子孫の意)があると書かれています(ヨハネ一3:9)。そして、「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」(3:1a)とあるように、「神の子」と呼ばれるほど、神から愛されているというのです。ただし、「あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。」(2:29)とあります。御子が義なる方(ディカイオス)であると知っているなら、義(ディカイオシュネー)を行う者も神から生まれている(神の子である)ことが分かるというのです。「義を行う」とは神に喜ばれる生き方です。そのひとつが、兄弟姉妹を愛することです。主イエスは、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:12, 13・聖書協会共同訳)と言われました。自らの在り方を再考してみましょう。

2020年3月1日の礼拝宣教から 

『御子の内にとどまりなさい』 ヨハネの手紙一2章18-27節

牧師 津村春英

14世紀のヨーロッパで全人口の約3分の1が死亡したといわれているペストのように、今や新型コロナウイルス感染で全世界が揺れています。特効薬がまだないという状況の中、感染拡大を抑えるために日本政府は全国規模で小学中学高校の休校を要請しました。できるだけ「家にとどまりなさい」ということです。今はそのような時なのです。

「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。」(2:18)とあります。反キリストとは、彼らから出て行った者たち(2:19)、イエスがキリストであることを否定する者たち(2:22)、イエスを告白しない霊(4:3)、御子イエス・キリストの受肉を否定する者たちで、信仰の根幹を揺るがす思想の者たちでした。「しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(2:27)と勧められています。油は聖霊(サムエル上16:13、コリント二1:21, 22など)です。そして、「御子の内にとどまること」こそ、反キリストの思想に「感染しない」生き方なのです。  

2020年2月23日の礼拝宣教から 

『御父の愛はその人の内に』 ヨハネの手紙一2章12-17節

牧師 津村春英

出口が未だ見えない新型コロナウイルス感染。PCR検査という、耳新しい言葉が出てきました。患者から採取した検体を検査して、その人の内にウイルスが「ある」か「ない」かを、判定するそうです。

 聖書には、「その人の内に御父の愛がない」(新しい『聖書協会共同訳』『新改訳2017』ともに以前の「御父への愛」「御父愛する愛」から変更)ということばがあります。何とも恐ろしいことでしょうか。ではそれは、どのようにして判定するのでしょうか。「世も世にあるものも、愛してはなりません。世を愛する人がいれば、御父の愛はその人の内にありません」(聖書協会共同訳2:15)。なぜなら、「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、見栄を張った生活は、父から出たものではなく、世から出たものだからです。世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。」(同訳2:16, 17)とあります。

私たちの趣味や娯楽がすべて悪だというのではなく、信仰という観点から、私たちを誘惑し、堕落させ、信仰の力を奪う、そういう世的なもの、つまり、肉の欲、目の欲、驕り(おごり)、そんなものは必ず過ぎ去っていくのです。他方、神が喜ばれる御心を行い、神のみことばに生きることによって、私たちの内に神の愛が「ある」というのです。

2020年2月16日の礼拝宣教から

『あの方が歩まれたように』 ヨハネの手紙一2章3-11節

牧師 津村春英

「ヨハネの手紙一」は、神の子イエス・キリストの受肉と十字架上の贖いに関して異論を唱える人々をあからさまにしながら、共同体の結束を強固にするために、互いに愛し合うことを勧めています。

「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」(2:6)。これはキリスト者についての話です。「いつもいる」はヨハネ福音書15章の「ぶどうの木のたとえ」にある「~にとどまる」に響き合うヨハネ文書の特徴表現です。ヨハネの手紙一2章3~6節は「神について」ですが、ここでいきなり「イエス(原語は「あの方」)が歩まれたように」と表現されています。これも、イエスは父の思いを実行しておられるというイエスの言葉(ヨハネ福音書12:50)から理解できます。

「あの方が歩まれたように」とは、イエスが、「洗足」において弟子たちに、仕えるという愛の行いをお教えになり、「十字架」において、最高の愛(cf.ヨハネ福音書15:13)についてお教えになられた、そのように生活しなさいと勧めているのです。神の戒め(2:3,4)は神の言葉(同5)であり、神の愛(同5)なのです。「しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります」(2:5a)。

2020年2月9日の礼拝宣教から 

『光の中を歩むなら』 ヨハネの手紙一1章5-2章2節

牧師 津村春英

「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。」 (1:5, 6)「闇の中を歩む」とは罪の生活を意味します。

古代イスラエルの民は祭司に罪の赦しの儀式を依頼しました。レビ記4章以降に詳しく書かれてありますが、「祭司がこうして罪をあがなう儀式を行うと、彼ら(彼)の罪は赦される」(レビ4:20, 26, 31, 35)ということばが繰り返されています。大祭司、御子イエス・キリストの場合は、牛、羊、山羊などの血ではなく、ご自身の十字架の血をもって、わたしたちの罪の赦しの儀式を今も行ってくださるのです。

三浦綾子さんは、『聖書に見る人間の罪』で「毎日がつまらなければ、神の愛を知らぬ自分の罪である」と書いておられます。神の光の中を歩むことです。そうすれば、何と恵まれているかがわかります。そしてどんな罪も御子イエスの十字架の血によって赦され、わたしたちはきよめられるのです。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(1:7)