2019年2月10日の礼拝宣教から 

『主に仕えるように』 コロサイ信徒への手紙3章18-4章1節

主幹牧師 津村春英

 国政においては統計不正問題が、家庭においては児童虐待の隠ぺいが、建造物においては不正施工が話題になっています。外からは見えない所ですが、真実さが求められています。新約聖書時代のキリスト教への改宗者は、「農村地域の住民の中でも、貴族層(都市の統治と行政者)においてでもなく、各地の都市の中間層においてであった。…経営主、労働者、職人、商売人、貿易商人、さらには奴隷も含めて…都市の中間層を構成していた」とH・ケスターは書いています(『新しい新約聖書概説―ヘレニズム時代の歴史、文化、宗教』440-441頁、cf.コリント一1:26)。

 人間関係において、妻と夫、子どもたちと両親、奴隷と主人に対し、特にこれらの弱者に向けて、「主」との関係で、あるべき姿が説かれています。「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい」(18)。「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです」(20)。「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい」(22)。このように、人間関係の円満のコツは、「主に仕えるように」です。わたしたちを愛して下さっている神様、主イエス・キリストに仕えるように行動できるよう祈り、励みましょう。

2019年2月3日の礼拝宣教から

『愛はすべてを完全に結ぶ帯』 コロサイ信徒への手紙3章12-17節

主幹牧師 津村春英

 「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」(3:12)。これは、キリストと共に十字架で死に(2:20)、キリストと共に復活にあずかる(3:1)、新しい人を身に着ける(3:10)ということです。また、互いに忍び合い、赦し合いなさいと勧められています。さらに、これらの上に、(すべてを)完全に結ぶ帯である「愛」を(着けなさい)と勧められています。原文には「帯」という単語はありませんが、愛はこれらを完全に結ぶもの(2:19の「筋」と同じ単語)なのです。これは、コリント一13章1-3節の「愛がなければ」という言葉とも響きあっています。今、朝ドラで、インスタント・チキンラーメンの生みの親、安藤百福(ももふく)夫婦の物語が放送されています。麺の配合では、「つなぎ」となるものが必要です。わたしたちの種々の品性(人柄)の要素の「つなぎ」のような役目をするのが、「愛」アガペー、つまり、神の愛、キリストの愛だと思います。

 さらに、キリストの平和があなたがたの心を支配するように、感謝する者となるように、キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。さらに、感謝して心から神をほめたたえなさいという言葉が続きます。そのように生活できるよう励みましょう。

2019年1月27日の礼拝宣教から

『新しい人を着なさい』 コロサイ信徒への手紙2章20-3章11節

主幹牧師 津村春英

 永六輔さん作詞の「上を向いて歩こう」はあまりにも有名です。永さんは仏教徒と思われますが、「幸せは雲の上に、幸せは空の上に」とあります。今日の聖書の箇所には、「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」(3:1)、そして、「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」(同10a、cf.1:15「御子は見えない神の姿」)とあります。「上にあるもの」(複数形)とは、天上におられるキリストがもっておられる品性で、それはまた、「新しい人」とも表現されます。それらは、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」(同12)などが考えられます。この「新しい人」を身に着けなさいと勧められているのです。こうして、「日々新たにされて、真の知識に達するのです」(同10b)。

 これに反し、「地にあるもの」、それは「古い人」であり、淫らな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、貪欲、怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉、嘘(cf. 同5,8)などで、これらを一切捨て去り、脱ぎ去りなさいと勧められています。「キリスト共に死んだ」(2:20、cf. コリント二5:17)キリスト者は、このような服は脱ぎ捨てなければなりません(新聖歌446の2, 3節♪「あなたは毎日イエスの側を歩いてるか。…罪のしみのない服を毎日着ておるか」♪)。

2019年1月20日の礼拝宣教から 

『キリストにあって歩みなさい』 コロサイ信徒への手紙2章6-19節

主幹牧師 津村春英

 わたしたちはいろいろな人々と関わりをもって生活しています。無人島で生活しない限り関わりが必要です。しかし、どこに軸足を置くかということが重要です。「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」(2:6)とありますが、「結ばれて」と訳されているギリシア語の「エン」という前置詞は、(場所)、(状態)、(時間)、(影響力)、(関係・場合)、(根拠)などを導きます。ここでは、「キリストにあって歩みなさい」と訳すのが好ましいと考えます(聖書協会共同訳では、「あって」)。「歩む」とは、生活するという意味です。また、ギリシア語文の命令形は「断定」の場合と「継続」の場合があり、ここは継続を意味しています。つまり、「あなたがたは、キリストにあって歩み続けなさい」となります。

 色々な異端思想に囲まれ、それらに苛まされ、信仰の挑戦を受けていたコロサイやラオディキアの教会などの兄弟姉妹と同様に、わたしたちもキリストにあって、キリストに基づいて、キリストに根ざして、キリストと常に関わりを持ちながら、キリストに思いをはせ、キリストと共に時間を共有し、キリストに身を委ねて、キリストの愛される教会に仕えて、「生活し続ける」ことができますよう、祈り励みましょう。

2019年1月13日の礼拝宣教から

『キリストの体である教会に仕える』コロサイ信徒への手紙1章24-2章5節

主幹牧師 津村春英

 人にはそれぞれ神様から与えられている務めがあると思います(cf. マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。パウロは、「御言葉を伝えるという神のオイコノミア(務め)に従って」、キリストの体である教会に仕えると言っています(1:25)。オイコノミアは英語のエコノミーの語源でもあり、もともとオイコス(家)を管理する務めの意味で、神のオイコノミアというと、それは神の壮大な救いの御計画を担う務めを意味しています。彼は自分の苦しみをキリストの苦しみと重ね合わせながら(1:24)、コロサイやラオディキア、さらにまだ直接顔を合わせたことのない人々のために、キリストを宣べ伝えることにおいて苦闘し(2:1)、キリストの体である教会に仕えている。その理由は、当時、異端思想(1:15-20の対グノーシス思想、2:16-18など)がはびこる中にあって、人々が神の秘められた計画(秘儀:ミュステーリオン:(英)ミステリー)であるキリストを深く知るため(2:2)だと言っています。

  わたしたちも、それぞれ、神のオイコノミアを与えられていることを覚え、御言葉を宣べ伝え、キリストの体である教会に仕えることを通して、神の秘儀であるキリストをさらに深く知ることができるように励みたいものです。