2019年8月25日の礼拝宣教から

『キリストは生きておられる』 コリントの信徒への手紙二13章1-13節

牧師 津村春英

イエス・キリストは死んでしまった神ではありません。当時の人々の内に、そして歴史を貫いて信じる者の内に生きておられ、今、私(たち)の内にも生きておられます。クリスチャンと自称する人の中にも、「キリストは立派なお方」でとどまっている人がいるかもしれません。キリストが私の内に生きておられると証言するクリスチャンはどれくらいいるでしょうか。そんなことを言うのは高慢だと非難されるでしょうか。しかし、パウロの言う、私たしたちは土の器の中に宝を納めている(4:7)という観点からすると、ますます謙虚になり、感謝することができます。

パウロは、「わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。」「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」(13:9, 11)と書いています。「完全な者になる」が二度繰り返されています。原語では、前は名詞、後ろは動詞ですが、「破れが繕われ、ふさわしい者に整えられる」ことを意味しています。キリストの十字架の苦難と復活に共にあずかり、共に生きることを通して、そうなれるように励みましょう。

2019年8月18日の礼拝宣教から

『あなたがたを造り上げるため』 コリントの信徒への手紙二12章11-21節

主幹牧師 津村春英

戦後74年が経過しました。今日の繁栄は多くの犠牲によって造られたとよく言われます。戦争体験の語り部が年々減少していると聞きますが、私たちは、その犠牲を決して忘れてはならず、また、悲惨な戦争を二度と引き起こしてはなりません。

コリントという都市にある教会の人々が、真のキリスト者として造り上げられるために、パウロたちは犠牲を払いました。「わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。…わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。」(12:14, 15)とあります。また、そのようにする目的は、「愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。」(12:19)とあります。「造り上げる」と訳されている単語は「家」と「建てる」ということばの合成語です(新改訳2017の「成長する」の訳は不適当)。また、「造る」は「作る」と違って、「成し遂げる」という意味合いがあります。

 年頭に「愛に生きる教会をめざして」というスローガンを掲げました。悔い改めるべきところは悔い改め、主によって造り上げていただけることを期待して進みたいものです。

2019年8月11日の礼拝宣教から 

『恵みは十分ですか』コリントの信徒への手紙二12章1-10節

主幹牧師 津村春英

「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現われるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(12:9)とパウロは書いています。

他方、「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。」(12:2)とありますが、この人物は、他の誰でもないパウロ自身であると解されています。なお、第三の天については、旧約聖書外典・偽典に第五層、第七層が出てきます(津村春英「黙示文学」『新キリスト教辞典』、いのちのことば社)。当時の人々は、天は幾層にもなっていると考えていたようです(主の祈りの「天」も複数形)。パウロは、そんな素晴らしい自らの神秘体験を誇ることができましたが、「弱さを誇る」と断言しているのです。実は、パウロは自分の身体の「とげ」(先のとがった杭の意で、思い上がらないように与えられたサタンの使いと説明)を抜いてほしいと、主に三度願った結果、与えられたのが冒頭のみことばだったからです。

あなたは今、どのような状況に置かれていますか。あなたにとってキリストの恵みは十分ですか。わたしたちの「弱さ」の中に、キリストの力が完全に現われるという、みことばを信じましょう。

2019年8月4日の礼拝宣教から

『弱さを誇る』コリントの信徒への手紙二11章16-31節

主幹牧師 津村春英

 パウロは、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(11:30)とコリントの教会に書き送っています。論敵は誇り高い偽教師、偽使徒です。人が誇るものは、国力、戦力、経済力、学力…、みんな「力」のつくものばかり。「弱さを誇る」なんてことは殆どあり得ません。ただし、パウロは机上の空論でこのように書いているのではありません。幾多の困難を乗り越えた経験上から、その行きついた結果の心情を述べているのです。また、パスカルは「人間は自然のうちで最も弱いひとくきの葦に過ぎない。しかしそれは考える葦である」(『パンセ』より)と言っています。

 故Y兄は、79歳で脳梗塞、その後遺症で半身不随に。86歳で召されるまでの7年間、外出は電動車いす。よく頑張られたと思います。信徒伝道師でしたので、教会だけでなく教団でも活躍された方でした。体が御不自由になられてから、こう言われました。「今まで、信仰の武勇伝を多く語って来たけれど、この様な身になってはじめて、信仰の奥深さ、信仰とは何かが分かった」と。信仰の神髄は、「弱さを誇る」ということではないでしょうか。物事がうまくいっているのは信仰のお陰だと思うのは未だ初歩の段階です。最善を成される神を信じ、「弱さを誇る」というほどの信仰に引き上げられたいものです。