2020年4月12日の宣教から

「キリスト共に復活させられ」コロサイ2:6-15

牧師 津村春英

今日は、イエス・キリストが死から甦らされたことを記念する復活祭、イースターです。残念ながら、新型コロナウイルス感染拡大防止のため非常事態宣言が発令され、共に礼拝することができません。

コロサイ書に、「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」(2:12)とあります。私たちは、キリストにあって洗礼を受けることにより、神は一切の罪を赦してくださり、復活のキリストと共に生かしてくださり、私たちがやがて裁かれるところの不利な証書(借金証書=罪)を無効にしてくださいます。また、この世のもろもろの支配と権威の武装を解除し、彼らは、復活のキリストの勝利の行進の捕虜として引き連れられていくと例えられています。

 だから、「キリストに結ばれて歩みなさい。」(結ばれて=あって、おいて)(2:6)とあります。世の考えに惑わされてはならず、キリストに根を下ろして(キリストにあってその思いを深く知り)、建てられ、信仰によって強められ、喜びに満ち溢れて生活しなさいと勧められているのです。

 「余の不幸の極みは、神の聖意を知りえざるにあり。余は疾病(しっぺい)をおそれず、貧困をおそれず、孤独をおそれず。」(内村鑑三『一日一生』)

2020年4月5日の礼拝宣教から 

『ここに愛がある』 ヨハネの手紙一4章7-21節

牧師 津村春英

旧約聖書の時代には、レビ記にあるように罪の償いとして家畜が献げられました。しかし、時が至って、神は御子イエス・キリストを私たちの罪を償ういけにえとしてこの地上にお遣わしになりました。これが神の愛であり、ここに愛があると書かれています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)。これが、聖書が告げる愛です。具体的には、エルサレムの都の外のラテン語でカルバリの丘というところで主イエスは処刑されました。私たちは、そして私は、カルバリの愛の何を知っているかと自ら問うてみましょう。新型コロナウイルス感染禍の下、企業だけでなく、キリスト教会も厳しい試練の中にあります。この受難週、神の愛、十字架の愛の意味を深く考えてみましょう。

「私の人生を 根底から揺るがすような試練には 会いたくないともし思うならば、ひどい仕打ちをうけること、孤立すること、不快な状況に置かれること、理解できない試みにあうことを もし避けようとするならば、その時わたしは カルバリの愛をまったく知らない。」

(エミーカーマイケル『カルバリの愛を知っていますか』棚瀬多喜雄訳、1994.)

2020年3月29日の礼拝宣教から

『キリストをどう告白するか』 ヨハネの手紙一4章1-6節

昨日、首相は新型コロナウイルス感染拡大防止のために、三つの「密」を避けるよう国民に要請しました。では、私たちの主日礼拝はどうでしょうか。密閉(→窓を開ける)、密集(→会堂はがらんとしている)、密接(→人と話すときは距離を置いて短時間で済ます)について、私たちの大きな会堂では、これらの「密」を避けることができます。また、よく言われる「不要不急の外出を控える」の「不要」とは、必要でない、重要でないという意味ですが、礼拝を命がけで守った二千年の歴史を踏まえれば、私たちにとって教会の礼拝は必要で重要なことです。

ヨハネの手紙一の著者と読者が直面していた深刻な問題は、単に兄弟愛が冷えていたのではなく、イエス・キリストとはどういうお方であるかという、信仰理解の根幹にかかわる問題でした。当時流行のグノーシス思想の影響を受けた「仮現論」で、イエスは見せかけの人間であり、十字架の苦しみを味わうことがなかったという異端思想との戦いでした。断固として「イエス・キリストが肉となって来られた」(4:2)と告白するキリスト者であるよう勧められているのです。

牧師 津村春英

2020年3月22日の礼拝宣教から 

『神への信頼』 ヨハネの手紙一3章19-24節

牧師 津村春英

古代人は現代人よりも、より身近に神の存在を感じ、神のもとで生きていたと思われます。現在、世界は新型コロナウイルス感染で不安に包まれています。勿論、感染予防は重要ですが、礼拝出席者が減少する中、今、教会も信仰者個人も神への信頼が問われています。

「これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます」(3:19)。ギリシア語原文も「これによって」で始まり、前節の「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(同18)を受けていると思われます。そうするなら、神の御前で心安らかになるというのです。原文では、「知る」も「安らぐ」も未来形ですが、ここは最後の審判の時ではなく、この地上の時と考えます。また、その行動の具体例として、当時のある教会がおかれていた状況を反映し、「神の御子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うこと、これが神の戒めです。神の戒めを守る人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神が私たちの内にとどまってくださることは、神が私たちに与えてくださった霊によって分かります。」(23, 24、聖書協会共同訳)とあります。このようにして、神への信頼が高まっていくのです。わたしたちは、どうでしょうか。

2020年3月15日の礼拝宣教から 

『互いに愛し合いなさい』 ヨハネの手紙一3章11-18節

牧師 津村春英

新型コロナウイルス感染の勢いが止まりません。ついにWHO(世界保健機関)はパンデミック(パン+エピデミック)と認定しました。パンは「全て」、エピデミックは「流行」を意味するギリシア語が語源です。使徒2:10; 17:21にある「滞在する」が関連語で、エピデミックはやがて去っていくものです。

 他方、ヨハネ文書(ヨハネ福音書とヨハネの手紙)のキーワードの一つであるギリシア語メノーは「とどまる」と訳されます。これは、少々のことでは離れない、しっかりとそこにとどまるという語です。今日の箇所でも14, 15, 17節に出てきます。「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(3:17, 18)とありますが、当時の共同体の状況を表しています。

故Oご夫妻のモットーは、「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」(ヤコブ4:17)でした。子は与えられなかったのですが、晩年お二人で、礼拝に来ることができない兄姉をよく訪ねられました。ちらし寿司やおこわ(赤飯)をプラスチックのパックに詰め、リュックにしょって訪問される姿を忘れることができません。