2020年7月12日の礼拝宣教から 

『苦しみは喜びに変わる』ヨハネ福音書16章16-24節

牧師 津村春英

 今日7月12日はNHKラジオ本放送開始日だそうです。音声が電気信号に変換され電波に乗せて遠くまで送られ、再び音声に変換されます。現在の電車の改札口では、わずか10cm程度の距離ですが、改札機とICカード間で、電磁誘導が起こり、電気信号に変換された情報が電波に乗せられ、0.1秒もの速さで通信されます。少し飛躍しますが、人生においても変換が必要です。

 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(16:16)と主イエスは言われました。前の「しばらくすると」は主イエスの十字架から埋葬、次の「しばらくすると」は復活を指すと考えられます。主の十字架刑は弟子たちにとって身を切られるほどの苦しみと推察します。しかし、「よくよく言っておく…あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる。」(聖書協会共同訳20節;下線部は新共同訳では「悲しみ」と訳されていますが、弟子たちの苦しみが女性の生みの苦しみに例えられているので、「苦しみ」が妥当)と主イエスは言われました。主の復活によって苦しみは喜びに変わるのです。

 世界的なコロナ禍も、日本列島を襲う記録的豪雨も、私たちに大きな苦しみをもたらしています。しかし、「喜びに変わる」時が必ず来ます。希望をもって進みましょう。

2020年7月5日の礼拝宣教から 

『弟子となるために』ヨハネ福音書15章1-10節

牧師 津村春英

 コロナ禍のもと、ヨハネ福音書を読んでみたいと思います。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(15:1, 2)とあります。ある注解者は、切られる枝の犠牲によって他の枝に実がなると誤解していますが、その枝そのものの一部が切られることによってもっと豊かに実るのです。人生において疫病のような突如襲いかかるものもあり、信仰者も数々の試練を経験します。例外はありません。しかし、それが実を豊かに実らせるためであるとするならどうでしょうか。このぶどうの木のたとえの背景に、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」(6:66)ことと、会堂追放(9:22; 12:42; 16:2)という厳しい現実があるのを見落としてはなりません。

 また、先に、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(13:35)という弟子の憲章があり、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(15:8)とあります。弟子は、主イエスのうちにとどまって(つながって)、互いに愛し合うという実を結ぶよう期待されているのです。

2020年6月28日の礼拝宣教から

『主イエスの平和』ヨハネ福音書14章25-31節

牧師 津村春英

先週の6月23日は太平洋戦争沖縄戦の犠牲者24万1593人の慰霊日でした。「平和の礎」の石碑にその名が刻まれているそうです。現在の平和はこれらの人々の上に築かれていることを忘れてはなりません。今、私たちはコロナ禍と戦っていますが、一刻も早くワクチンや薬が開発され、いろいろな制約から解放されて自由に生活できることを望んでいます。

聖書のヘブライ語シャーローム、その翻訳ギリシア語エイレーネー(現代ギリシア語ではイリニ)の邦訳には、「平和」と「平安」という語が当てられます。ヨハネ福音書では戦いという要素があり、「平和」と訳すのが適当と考えます。例えば、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(16:33)とあります。

確かに、主イエスは間もなく弟子たちのところから去られ、十字架に向かわれます。そして葬られますが、復活され、昇天されます。ヨハネ福音書版の最後の晩餐の席で、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(14:27)と言われました。信仰をもってこの御言葉を受け入れ、心から感謝しましょう。

2020年6月21日の礼拝宣教から 

『岩の上か砂の上か』 マタイ福音7章24-27節

牧師 津村春英

 今日は父の日。「地震・雷・火事・親父」や「頑固おやじ」は過去のものになってしまいましたか。父は家庭において最も権威ある確固たる信頼のおける存在だったのですが…。世界各地で「巨石信仰」というものがありますが、聖書では、「岩」が神やイエス・キリストに例えられています。

 主イエスは言われました。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」(7:24, 25)。他方、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(同26, 27)。パレスティナ(アフリカ大陸やアラビア半島などの砂漠気候地帯や乾燥地帯)では雨季の一時的な豪雨のときのみ、水が流れるワディと呼ばれる季節河川があり、ここでは砂の上を指し、洪水や暴風雨は人生の途上にあり、また、終末論的出来事です。賢いか、愚かかは、自分の家を岩地の上に建てるか、それとも、やがて川底になる砂地に建てるかに例えられています。人生のハザードマップ、あなたは大丈夫でしょうか。主イエスの「これらの言葉」(5-7章山上の説教)を聞いて行い、岩の上に家を建てましょう。

2020年6月14日の礼拝宣教から

『希望は失望に終わることがない』ローマ信徒への手紙5章1-5節

牧師 津村春英

 今日6月14日は花の日・子どもの日と呼ばれ、19世紀中頃の米国の教会で始まりました。そして、今日は同時代に書かれた『アンクル・トムの小屋』の作者H.B.ストウ夫人の誕生日でもあります。敬虔な黒人奴隷トムの苦難の生涯を描いたもので、奴隷制廃止の気運を高めたと言われます。ただ、現代のアフリカン・アメリカンの人々には、主人公トムが主人(白人)にあまりにも従順なゆえに、ネガティヴな評価をされているようです。今や米国では、Black Lives Matter(黒人の命は大切)のスローガンを掲げ、5月のミネソタ州の黒人男性の死亡事件にも関連し、各地で抗議行動が続いています。

 私たちは人生の苦難をどのように受け止めますか。使徒パウロはこう書いています。イエス・キリストを救い主と信じることにより、神との平和を得て、神の栄光にあずかる希望を誇りにします。それだけでなく苦難をも誇りにしますと。この苦難は複数形でパウロが経験した様々な苦難(例えばコリント二11:23-27)を意味していると思われます。苦難(単数形)は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出し、この希望は失望に終わることはありません。なぜなら聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからですと続いています。苦難の中にも希望を持つことができることを感謝します。