2019年9月29日の礼拝宣教から 

『神の言葉は働いている』 テサロニケ信徒への手紙一2章13-16節

牧師 津村春英

台風15号による被害を「対岸(たいがん)の火事」などと思ってはなりません。一日も早い復旧を祈ります。今回は建物の被害だけでなく、長い「停電」が深刻です。電気がなければ水も飲めない、使えない時代です。そこで必要なのは非常用のエネルギーです。「エネルギー」はドイツ語読みと思われ、英語ではエナジーです。もとはギリシア語のエネルゲイアで、エン(内在)+エルゴン(働き)で構成され、活動、力を意味します。次の13節下線部は、その動詞形の中動態で表され、「強く働いている」と訳せます。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(2:13)

また、「神の言葉は生きていて、力(エネルゲース)がある」(ヘブライ4:12協会共同訳)とあるように、神の言葉はエネルギーに満ち、信じる者のうちに働いてその人をエネルギーに充ち溢れさせるのです。それにはまず、御言葉を聞くことから始めなければなりません(ローマ10:17)。御言葉によって、強くされ、実を結ぶ(マタイ13:23)人生を歩みたいものです。

2019年9月22日の礼拝宣教から   

『パウロの私たちへの手紙』 テサロニケ信徒への手紙一2章1-12節

牧師 津村春英

「手紙」という名の歌がいくつかあり、感動を受ける歌もあります。使徒パウロはテサロニケのキリスト者に、「わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、」(2:7)と手紙を書きました。この「母親」の原語は、実母を含めた乳母を意味しています。また、「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に」(同11)「呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。」(同12)と書いています。下線部の「神の御心にそって歩むように」は意訳で、新しい訳ではいずれも直訳的に、「神にふさわしく歩む」(協会共同訳、新改訳2017)となっています。ただ、「ふさわしく」は副詞なので、「神が期待しておられるように歩む」というように解釈してみます。このようにして、神ご自身の御国と栄光にあずかることができるのです。

この手紙は、「パウロの私たちへの手紙」でもあります。わたしたちが、―神の期待に応えるために、ときには父親として、また、ときには母親として、私たちを育ててくださっている存在があるのです。

2019年9月15日先週の礼拝宣教から

『信仰によってイサクは』 ヘブライ人への手紙11章17-22節

牧師 津村春英

今日は礼拝後に、高齢者を敬う「敬愛会」をもちます。ヘブライ書には、「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。」(11:17)とあり、「信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。」(同20)とあります。この間、イサクはどのような人生を歩んだのでしょうか。その名が意味するように、「彼は笑う」という人生を歩んだのでしょうか。アブラハムやヤコブと比べると地味で、井戸を掘り続けただけだったのでしょうか(♪イサクのおじさん井戸を掘る『こどもさんびか1・64』)。勿論、その時代のその地方では、井戸掘りは困難を極め、水は死活問題でしたが。しかし、イサクはヤコブやエサウにとって「重要な父」であり、そして、ヨセフも父ヤコブがいなければ存在しなかったのです。イサクは、「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす/わが僕アブラハムのゆえに。」(創世記26:24)というみことばを主からいただきました。こうして、イサクは信仰によって歩んだと証言されているのです。 わたしたちも、与えられたみことばに心から感謝し、信仰によって力強く歩んでまいりましょう。

2019年9月8日の礼拝宣教から 

『神に愛されている者たち』 テサロニケ信徒への手紙一1章1-10節

牧師 津村春英

英誌エコノミストの調査部門EIUが発表した世界の都市の住みやすさランキングでは、ウィーンが1位、メルボルンが2位で、何と大阪は4位(東京は7位)でした。

さて、今日のテクストのテサロニケは、当時ローマ帝国マケドニア州の首都で、今日でもギリシアの第二の都市です。パウロが第二次伝道旅行でフィリピからこの町に移り、宣教した結果、イエス・キリストを信じる群れができました。後にパウロは、「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。」(1:4) 「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、」(同6)と書きました。

原文では、「あなたがたこそ、主に倣う者です」と表現されています。また、原語の「倣う者」は、まねる者、模倣する者、見習う者を意味しています。では、キリスト者であるあなたは、どのように主をまねていますか。主とどこが似ていますか。トマス・ア・ケンピス『キリストに倣いて』に、「今やイエスの天国をしたう者は多い。しかしその十字架をになう者は少ない。」(池谷敏雄訳、91頁)とあります。多くの苦難の中にあっても、御言葉を受け入れ、「あなたがたこそ、主に倣う者です」と言われたいものです。

2019年9月1日の礼拝宣教から 

『主のみ声を聞こう』 列王記上19章9-18節

牧師 津村春英

孤独の預言者と言われるエリヤはイスラエル分裂王国時代の預言者でした。彼は偶像のバアル神の預言者たちと戦い、孤軍奮闘して大勝利を得ましたが、王の妃で、バアル崇拝推進者であったイゼベルが激怒し、エリヤの命を狙います。それを聞いたエリヤは逃げ出し、何とイスラエルからユダの国を経て南の神の山ホレブ(シナイ)山にまでやって来て、そこにあったほら穴に身を隠したのです。その時、「エリヤよ、ここで何をしているのか。」という主の言葉があり、彼は言い訳をします。すると主は、「そこを出て山の中で主の前に立ちなさい」と言われると、大風があり、地震があり、火が起こりました。やがて静寂の中から、ささやく声(恐らく、エリヤに呼びかける主のみ声)があり、「エリヤよ、ここで何をしているのか。」という御声を聞き、またしても言い訳をしますが、主は、恐れていないで預言者としての務めを全うよう、エリヤを諭し励まされたのです。

この話から教えられるように、わたしたちは、決して孤独ではありません。孤立もしていません。主イエスは言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。楽しい時も喜びの時も、悲しみの時も苦しみの時も、主のみ声を聞き、自分の務めを果たしましょう。