『誰が、十字架につけたのか』 ヨハネ福音書19章14-22節
牧師 津村春英
8月29日朝のNHKラジオで作家の冲方丁(うぶかた・とう)さんが、コロナ禍のもと、二つの大切な言葉を挙げておられました。それは「慎み」と「嗜み(たしなみ)」で、前者はみんなで我慢すること、後者はリラックスすることだそうです。嗜むは辞書によると「好んで親しむ」ともあります。聖書を嗜むことは大切ですが、信仰者にはそれだけでは不十分です。
ヨハネ福音書によると、いよいよ主イエスが十字架刑の宣告を受けるシーンで、祭司長たちをはじめユダヤ人らが「十字架につけろ」と叫びました。しかも「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」とまで虚言しました。それでピラトはユダヤ人たちにイエスを引き渡し、彼らはゴルゴダでイエスを十字架につけました。その罪状は「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」とヘブライ語(ユダヤ人の言語)、ラテン語(ローマの言語)、ギリシア語(当時の世界の公用語)で書かれ、すべての人々が対象になっています。
水野源三さんの詩に、「ナザレの主イエスを 十字架にかけよと 要求した人 許可した人 執行した人 それらの人の中に 私がいる」とあります(水野源三「私がいる」『わが恵み汝に足れり』)。これが信仰の原点です。いったい誰が、主を十字架につけたのでしょうか。自分の胸に問うてみましょう。