2020年6月21日の礼拝宣教から 

『岩の上か砂の上か』 マタイ福音7章24-27節

牧師 津村春英

 今日は父の日。「地震・雷・火事・親父」や「頑固おやじ」は過去のものになってしまいましたか。父は家庭において最も権威ある確固たる信頼のおける存在だったのですが…。世界各地で「巨石信仰」というものがありますが、聖書では、「岩」が神やイエス・キリストに例えられています。

 主イエスは言われました。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」(7:24, 25)。他方、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(同26, 27)。パレスティナ(アフリカ大陸やアラビア半島などの砂漠気候地帯や乾燥地帯)では雨季の一時的な豪雨のときのみ、水が流れるワディと呼ばれる季節河川があり、ここでは砂の上を指し、洪水や暴風雨は人生の途上にあり、また、終末論的出来事です。賢いか、愚かかは、自分の家を岩地の上に建てるか、それとも、やがて川底になる砂地に建てるかに例えられています。人生のハザードマップ、あなたは大丈夫でしょうか。主イエスの「これらの言葉」(5-7章山上の説教)を聞いて行い、岩の上に家を建てましょう。

2020年6月14日の礼拝宣教から

『希望は失望に終わることがない』ローマ信徒への手紙5章1-5節

牧師 津村春英

 今日6月14日は花の日・子どもの日と呼ばれ、19世紀中頃の米国の教会で始まりました。そして、今日は同時代に書かれた『アンクル・トムの小屋』の作者H.B.ストウ夫人の誕生日でもあります。敬虔な黒人奴隷トムの苦難の生涯を描いたもので、奴隷制廃止の気運を高めたと言われます。ただ、現代のアフリカン・アメリカンの人々には、主人公トムが主人(白人)にあまりにも従順なゆえに、ネガティヴな評価をされているようです。今や米国では、Black Lives Matter(黒人の命は大切)のスローガンを掲げ、5月のミネソタ州の黒人男性の死亡事件にも関連し、各地で抗議行動が続いています。

 私たちは人生の苦難をどのように受け止めますか。使徒パウロはこう書いています。イエス・キリストを救い主と信じることにより、神との平和を得て、神の栄光にあずかる希望を誇りにします。それだけでなく苦難をも誇りにしますと。この苦難は複数形でパウロが経験した様々な苦難(例えばコリント二11:23-27)を意味していると思われます。苦難(単数形)は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出し、この希望は失望に終わることはありません。なぜなら聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからですと続いています。苦難の中にも希望を持つことができることを感謝します。

2020年6月7日の礼拝宣教から

『祝宴に招かれている者』ヨハネ黙示録19章7-10節

牧師 津村春英

 今日は創立記念礼拝を献げています。「わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」(19:7, 8)というみことばが与えられています。「聖なる者たちの正しい行い」とは、7:9-14に出てくる神の民の生き様です。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(7:14)。これらの人々が集合して、花嫁の輝く清い麻の衣を着せられたと表現されています。

 さらに天使はヨハネに、「書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ」 (協会共同訳19:9)と告げました。ヨハネがその天使を礼拝しようとすると、天使は、「神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」(19:8)と言いました。原文ではこの二つの文の間に「というのは」という語が入っています。つまり、預言するのは主イエス・キリストについてであり、その点では天使も同じであって、礼拝するのは神のみであると言ったと思われます。私たちは、花婿・小羊イエス・キリストの花嫁である教会の一員として祝宴に招かれているでしょうか。心を新たにし、「祝宴に招かれている者、幸いな者」と言われるよう、主イエスを証し続けましょう。

2020年5月31日の礼拝宣教から

『心を一つにして』使徒言行録2章43-47節

牧師 津村春英

 この6週間、毎週自宅礼拝用の週報を送りました。宛名ラベルを貼り、週報を入れ、切手を貼って、祈りつつポストに入れました。物理的には離れていても、電話、メール、献金を送ってくださった兄弟姉妹により、一体感を覚えました。

 過越しの祭りから数えて50日目(ギリシア語でペンテコステ)のユダヤ人の収穫の祭りの時(出エジプト23:16; 34:22)に、主イエスが約束された別の弁護者、助け主、慰め主である聖霊が弟子たちに降臨し、教会が誕生しました。使徒言行録2章にその様子が描かれていますが、ともすれば弟子たちが多くの言語で神の偉大なわざを語ったことだけが注目されますが、2:44-47節に、急増した人々の共同生活のために多くのものを出し合い、心を一つにして集うことを通して、主は救われる人を加えてくださったということを軽視してはなりません。それは、パウロの在り方でもあります。「ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」(20:34,35)。心を一つにし、「受けるよりは与える方が幸い」を実践しましょう。

2020年5月24日の礼拝宣教から

『私たちの確信』 ヨハネの手紙一5章13-21節 

牧師 津村春英

「荒波や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)」(松尾芭蕉『おくのほそ道』)

芭蕉は、荒波に襲われる佐渡島とその中にいる流人の苦痛を思い、しかし、その天上には美しい壮大な天の川が広がっていると歌っています。そのように、キリスト者も御子イエス・キリストを通して神から永遠の命をいただき、神の愛に包まれ、覆われているのです。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。 」(5:13)とあるように。ここにも、執筆の目的が明らかにされています(cf. 1:1-4, 5; 2:1, 12-14, ヨハネ20:31)。そして、「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」(5:20)とまとめています。

愛の戒めに生きるキリスト者は、真実な方(cf.コリント一10:13真実な神)の内に、その御子イエス・キリストの内に、その愛の内にいます。どんな厳しい現実の中にあっても恐れることはありません。また、明日の心配は無用です(cf.マタイ6:33-34)。これが私たちの確信です。

これでヨハネの手紙一を読み終えます。読後、あなたの心に残っているものは何ですか。