2020年11月1日の礼拝宣教から

『信じて命を得るため』ヨハネの福音書20章24-31節

牧師 津村春英

 今日は合同召天者記念礼拝を献げています。見えませんが、時に召天者を覚えることは私たちの人生を豊かにします。ヨハネの福音書20章の最後の31節には、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(聖書協会共同訳)とあります。また、主イエスの復活後に登場する三人が特徴的に描かれています。

 まずは、空の墓を見ただけで復活の主を信じた「主の愛する弟子」。これは彼の信仰の経験値からきているものと思われます。次にマグダラのマリア。彼女はあまりにも主のご遺体と墓に執着していたため、後ろにおられる主を見ることができませんでした。三番目はトマス。彼は、一週間前、復活された主が他の弟子たちにお姿を現されたときにはその場にいなかったので、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(同25)と言いました。主は、「見ないのに信じる人は、幸いである。」(同29)と彼に言われたのです。これは私たち現代人へのメッセージでもあります。形あるものは必ず変化し朽ちていきます。そんなものに頼ることができるのでしょうか。