2021年5月23日の礼拝宣教から

『霊に導かれて』 使徒言行録8章26-40節

牧師 津村春英

今日はペンテコステ(五旬祭、七週の祭)の記念礼拝を献げています。聖霊降臨後の弟子団の中で、役員、伝道者として立てられたフィリポ(使徒6:5; 21:8)は、当時のエルサレム当局者による教会の迫害により、散らされてサマリヤに向かい、そこで目覚ましい働きをします(同8:5-13)。次にエルサレムからガザに向かう道に行くように導かれ、「すると、“霊”がフィリポに、『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った。」(同29、ダブルクオーテーションは聖霊の意)とあるように、エルサレムからの帰途にあったエチオピア女王カンダケ(ファラオのような呼称)の宦官を救いに導きました。

さて、当教会の初代牧師・河邊貞吉師は、「聖霊を一度受けた者でも、満たされていないならば駄目である。……この尊い大使命を全うするためには、聖霊なくしては絶対に不可能である。…私共は過去の事を思えば失望せざるを得ないが、今日息を吹きかけられて聖霊を受けるならば、希望と信仰はそこに湧いて、必ず神の栄光をあらわす事が出来る。」(河邊貞吉『河邉貞吉説教集1』p.328, 329)と言われたそうです。キリスト者は生活の中で聖霊の導きを求めなければなりません。聖霊の導きによって行動し、救われた宦官のように、喜びにあふれて人生の旅を続けたいものです(同39)。

2021年5月16日の礼拝宣教から

『愛を、平和を、感謝を』 コロサイの信徒への手紙3章12-17節

牧師 津村春英

アメリカの大手石油パイプライン会社が、ランサムウェア攻撃を受け、ロックされたシステムを復号するために、サイバー攻撃者に多額の身代金ransomを支払ったと報じられました。マルコ10:45(マタイ20:28)には、「人の子は…多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」とあります。今日のコロサイ書では、「数々の規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた借用書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださったのです。」(聖書協会共同訳・2:14)と表現されています。

このように私たちは、「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」(3:12)者ですから、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。…これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(同12-14)と勧められています。なお、下線部の原語は「結ぶもの」であり、「帯」とも訳されます。続いて、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」(同15)、さらに、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。…何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(同16,17)とあります。どんな状況にあっても、愛と平和と感謝をもって、神を賛美しながら旅を続けたいものです。

2021年5月9日の礼拝宣教から

『あなたの父と母を敬いなさい』 エフェソの信徒への手紙6章1-3節

牧師 津村春英

今日は教会暦では母の日です。一日中は無理としても、しばし、日頃の母の労をねぎらい、母に感謝を表したいと思います。また、亡き母の場合は、母を偲び、心の内で感謝したいと思います。

エフェソ書6章の「『父と母を敬いなさい。』これは第一の戒めで、次の約束を伴います。そうすれば、あなたは幸せになり、地上で長く生きることができる。」(2, 3節)は、旧約聖書の「十戒」の第五戒の引用で、周りの人々との関係についての最初の戒めです。ここの「敬う」は、出エジプト記20:12のヘブライ語では「重い」を意味する語で「重んじる」こと、新約聖書のギリシア語では、七十人訳聖書を経て、高い「価値」を表す語が使われています。

肺癌で43歳で召された牧師夫人、原崎百子さんは4人のお子さんに次の言葉を残しています。「あなたがたは信ずるだろうか、この母が、あなたたちをこよなく愛していることを。…あなたたちを、この体の中ではぐくみ、父と共に、感謝と喜びをもって、迎え、抱き、育て、力を合わせていつくしんできたことを。あなたがたが、この母の愛をもし信ずるならば、どうか信じて欲しい、神さまの愛を信じて欲しい。一人一人をかけがいのないものとして、いつくしんで下さっている神さまの愛を、信じて欲しい。」(『わが涙よわが歌となれ』p.135)。私たちの母からの伝言と受けとめてはどうでしょうか。

2021年 5月 2日の礼拝宣教から

『行き着くところはどこか』 ローマ 6 章 15-23 節

牧師 津村春英

先週は、「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ 8:22)というみことばをいただきました。それは罪の奴隷からの解放を意味しています。主イエスはまた、人は何かのくびきにつながれているが、「わたしのくびきを負いわたしに学びなさい」(マタイ11:29)と言われました。確かに現代社会に生きるわたしたちは何かに隷属しています。

パウロは次のように言っています。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」(ローマ6:16)と。なお、「神に従順に仕える奴隷」は受動的でなく積極性を意味しています。さらに、「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、…どんな実りが ありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、 死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実 を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」(同20-22)と。ただし、「聖なる生活の実」は未来的に訳すのが最近の傾向です。

今、コロナ禍の中に置かれていますが、私たちの行き着くところをしっかりと確認しながら、喜びと祈りと感謝と従順をもって日々歩みたいものです。

2021年4月25日の礼拝宣教から

『真理はあなたたちを自由にする』 ヨハネ福音書8章31-38節

牧師 津村春英

新型コロナウイルスの感染拡大防止のための緊急事態宣言が再発令され、大阪府知事も昨今の状況を鑑み、「個人の自由を大きく制限することがある」と述べています。今、「自由」とは何かを考えさせられます。

主イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(8:31, 32)と言われました。ここでいう「真理・アレーセイア」とは、主イエス・キリストご自身であり(1:14, 17; 14:6など)、そのみことばです。他方、ここでいう「自由」とは、原語の語源から奴隷の解放を意味しています。それで、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(同32)と主は言われたのです。罪とは悪行だけをいうのではありません。上記ユダヤ人の心中にあるイエスをねたみ、イエスを殺そうとする思い(同37)が罪だと言われたのです。

私たちも例外ではありません。人を憎む、許せない、それが罪なのです。ついには自分の前から消えて欲しいと思う。それは殺人に匹敵します。ですから罪なのです。私たちは今、コロナ禍という奴隷状態にありますが、それ以上に罪の奴隷なのです。真理である主イエスとそのみことばにより、罪の奴隷から解放され自由にされなければなりません。