2020年6月7日の礼拝宣教から

『祝宴に招かれている者』ヨハネ黙示録19章7-10節

牧師 津村春英

 今日は創立記念礼拝を献げています。「わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」(19:7, 8)というみことばが与えられています。「聖なる者たちの正しい行い」とは、7:9-14に出てくる神の民の生き様です。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(7:14)。これらの人々が集合して、花嫁の輝く清い麻の衣を着せられたと表現されています。

 さらに天使はヨハネに、「書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ」 (協会共同訳19:9)と告げました。ヨハネがその天使を礼拝しようとすると、天使は、「神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」(19:8)と言いました。原文ではこの二つの文の間に「というのは」という語が入っています。つまり、預言するのは主イエス・キリストについてであり、その点では天使も同じであって、礼拝するのは神のみであると言ったと思われます。私たちは、花婿・小羊イエス・キリストの花嫁である教会の一員として祝宴に招かれているでしょうか。心を新たにし、「祝宴に招かれている者、幸いな者」と言われるよう、主イエスを証し続けましょう。

2020年5月31日の礼拝宣教から

『心を一つにして』使徒言行録2章43-47節

牧師 津村春英

 この6週間、毎週自宅礼拝用の週報を送りました。宛名ラベルを貼り、週報を入れ、切手を貼って、祈りつつポストに入れました。物理的には離れていても、電話、メール、献金を送ってくださった兄弟姉妹により、一体感を覚えました。

 過越しの祭りから数えて50日目(ギリシア語でペンテコステ)のユダヤ人の収穫の祭りの時(出エジプト23:16; 34:22)に、主イエスが約束された別の弁護者、助け主、慰め主である聖霊が弟子たちに降臨し、教会が誕生しました。使徒言行録2章にその様子が描かれていますが、ともすれば弟子たちが多くの言語で神の偉大なわざを語ったことだけが注目されますが、2:44-47節に、急増した人々の共同生活のために多くのものを出し合い、心を一つにして集うことを通して、主は救われる人を加えてくださったということを軽視してはなりません。それは、パウロの在り方でもあります。「ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」(20:34,35)。心を一つにし、「受けるよりは与える方が幸い」を実践しましょう。

2020年5月24日の礼拝宣教から

『私たちの確信』 ヨハネの手紙一5章13-21節 

牧師 津村春英

「荒波や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)」(松尾芭蕉『おくのほそ道』)

芭蕉は、荒波に襲われる佐渡島とその中にいる流人の苦痛を思い、しかし、その天上には美しい壮大な天の川が広がっていると歌っています。そのように、キリスト者も御子イエス・キリストを通して神から永遠の命をいただき、神の愛に包まれ、覆われているのです。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。 」(5:13)とあるように。ここにも、執筆の目的が明らかにされています(cf. 1:1-4, 5; 2:1, 12-14, ヨハネ20:31)。そして、「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」(5:20)とまとめています。

愛の戒めに生きるキリスト者は、真実な方(cf.コリント一10:13真実な神)の内に、その御子イエス・キリストの内に、その愛の内にいます。どんな厳しい現実の中にあっても恐れることはありません。また、明日の心配は無用です(cf.マタイ6:33-34)。これが私たちの確信です。

これでヨハネの手紙一を読み終えます。読後、あなたの心に残っているものは何ですか。

2020年5月17日の礼拝宣教から

『心を騒がせるな』ヨハネ福音書14章1-6節

牧師 津村春英

 今や、世界は新型コロナウイルス禍で喘(あえ)いでいます。しかし、やがて必ず収束に向かいます。

 主イエスは、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(14:1)と言われました。「心が騒ぐ」のは、心に平安がないからです。平安の反対は「不安」です。当時の主の弟子たちは、間もなくして主が、この地上を去って天の父のもとに行かれると言われたので不安に陥っていたのです。しかし、それは弟子たちのために場所を用意しに行くのであって、準備ができたなら再び帰って来られると主は言われたのです。

 かつてガリラヤ湖で、弟子たちだけで舟で向こう岸に向かっていたとき、突風が吹き、逆風により前に進むことができませんでした。そのとき、主イエスが水上を歩いて近づいてこられるのをペトロが見て、舟から出て主の方に向かって水上を歩きだしました。途中で、強い風に気が付いて怖くなり、沈みかけたので、「主よ助けてください」とペトロは叫びました。主はすぐに手を差し伸べ、彼を捕まえて、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました(マタイ14:22-33)。どんな状況の中でも、神は、主イエスは、私たちと共にいてくだいます。神を信じ、主を信じ、「平安」を得ましょう。

2020年5月10日の礼拝宣教から

『良い羊飼い』   ヨハネ福音書10章7-14節

牧師 津村春英

今日は「母の日」です。「親孝行したいときに親はなし」とよく言われます(親の有り難さがわかる年頃には、親はこの世にはいない。親が生きているうちに孝行せよという戒め「故事ことわざ辞典」)。

主イエスの弟子たちは、やがて主がいなくなるのに気づいていません。確かに主は天に帰られますが、主はいつも「良い羊飼い」で、羊たち一人一人を知ってくださっています。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(10:14)。「知る」ギノースコーは単に知るのではなく、「見分ける、理解する、(男女が)知り合う」を意味します。羊飼いはそのように羊を知っているというのです。何と幸いなことでしょうか。羊もまたそのように羊飼いを知らなければなりません。しかし、そのことが羊である弟子たちにはまだわかっていません。後でわかるのです。そこで今、「よくよくあなたがたに言う」と主は言われるのです。直訳では、「アーメン、アーメンあなたがたに言う」ですが、この「アーメン」つまり、もっとも確かなことは、「わたしは羊のために命を捨てる。」(同15節)に表わされているのです。心から感謝しましょう。