2021年4月25日の礼拝宣教から

『真理はあなたたちを自由にする』 ヨハネ福音書8章31-38節

牧師 津村春英

新型コロナウイルスの感染拡大防止のための緊急事態宣言が再発令され、大阪府知事も昨今の状況を鑑み、「個人の自由を大きく制限することがある」と述べています。今、「自由」とは何かを考えさせられます。

主イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(8:31, 32)と言われました。ここでいう「真理・アレーセイア」とは、主イエス・キリストご自身であり(1:14, 17; 14:6など)、そのみことばです。他方、ここでいう「自由」とは、原語の語源から奴隷の解放を意味しています。それで、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(同32)と主は言われたのです。罪とは悪行だけをいうのではありません。上記ユダヤ人の心中にあるイエスをねたみ、イエスを殺そうとする思い(同37)が罪だと言われたのです。

私たちも例外ではありません。人を憎む、許せない、それが罪なのです。ついには自分の前から消えて欲しいと思う。それは殺人に匹敵します。ですから罪なのです。私たちは今、コロナ禍という奴隷状態にありますが、それ以上に罪の奴隷なのです。真理である主イエスとそのみことばにより、罪の奴隷から解放され自由にされなければなりません。

2021年4月18日の礼拝宣教から   

『第一人者になりたい人は』 マルコ福音書10章35-45節

牧師 津村春英

わが国と米国の第一人者同士の初会談が報じられました。主イエスの弟子の内、側近中の側近ヤコブとヨハネは、主が栄光をお受けになるときには、特別な地位に取り立ててくださるように頼みました。すると主は次のように言われました。「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:44,45)と。

多くの人が一番を目指しますが、一番にならなくてよいのかもしれません。先頭は風当たりが強いことを覚悟しなければなりません。しかし、もしなりたいなら、「仕える人」になりなさいと主は言われたのです。それが第一人者のしかるべきスタンスで、それは、主イエスが、すべての人のために、その人の罪の贖い、身代金として自らの命を投げ出された姿に現されているのです。実際には、弟子たちは、誰が一番というよりも、それぞれ身を挺して助け合わなければなりませんでした。当時のローマ帝国の力をもってすれば、キリスト者の集まりなどは一息の、風前の灯火でした。私たちも、このコロナ禍の中にあって、自分のことだけでなく、励まし合い、助け合い、祈り合い、仕え合うことが重要ではないでしょうか。    

2021年4月11日の礼拝宣教から   

『霊によって生き返る』 エゼキエル37章1-14節

牧師 津村春英

旧約聖書に登場する預言者イザヤ、エリヤに次ぐエゼキエルは、エルサレムから王と共にバビロンに捕囚となりました。さらに追い打ちをかけるように都エルサレムの陥落が後に伝えられます。この絶望と思えるような中にあって、主の御手がエゼキエルに臨み、彼は幻を見ます。ある谷の真ん中に、おびただしい数の枯れた骨を見せられました。主は言われました。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。」37:11, 12)と。その回復の鍵は、「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。」14)にあります。この「霊」はヘブライ語で「ルーアハ」で、エゼキエル37章には、1, 5 , 6, 8, 9×2, 10, 14節にあり、5, 6, 8, 9, 10節では「息」とも訳されています。

 

M兄は晩年、この神の霊ルーアハの話に感動され、ルーアハにより生かされ、良い証し人としての生涯を全うされました。私たちも、コロナ禍による捕囚のような状況にあっても、ルーアハにより生かされ、希望をもって進みましょう。 

2021年4月4日の礼拝宣教から   

『あの方は復活なさった』 マルコによる福音書16章1-8節

牧師 津村春英

イースターということば自体は聖書には出てきませんが、良く知られているように、主イエス・キリストの復活祭なのです。日曜日の朝早く、女性たちは墓に向かいました。彼女たちは主が葬られるのを見ていました。その墓の前にはとてつもない大きな石が置かれてあることも知っていましたが、信仰をもって進みました。すると、その石は、動かされていて、墓に入ることができたのです。そして、そこで彼女たちは天使に出会い、「あの方は復活なさった」ということばを聞いたのです。

鈴木正久牧師はその著で「私たちが、この復活のよろこばしい日に主をあがめる、主のみわざを賛美する、何かを主に捧げるとすれば、それはどういうものでしょうか。…それはあの弱さを清算することだということです。」と書いています(『鈴木正久説教集』)。私を信仰に導いてくださった米国人宣教師夫人マリアン・ソーリ師はリタイヤされた後に、顔面に悪性黒色腫を発症し、ついには失明に至りますが、「次に私が目にするのは、天国に私を迎えてくださる私の救い主、イエス・キリストのお顔です。」と私に最後の手紙をくださいました。彼女は、痛み、苦しみ、弱さ、死の恐れの中で、この復活信仰をもち続けたのです。私たちはどうでしょうか。

2021年3月28日の礼拝宣教から   

『十字架上の叫び』 マルコによる福音書15章33-41節

牧師 津村春英

ムンクの『叫び』は、デフォルメされた人が耳をふさぐほどの、自然を貫く叫び(心の叫び)を表現しているのだそうです。では、主イエスの「十字架上の叫び」は何だったのでしょうか。その答えは百人隊長の「本当に、この人は神の子だった」(15:39)にあります。主イエスの「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)は、失望の言葉でなく、苦痛の極みからの恨み節でもなく、全ての人の罪を贖うための苦闘の叫びなのです。こうして、「人の子は…多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。」(10:45)が実現するのです。これが福音です。今日、私たちはこの百人隊長のように、主を受け入れることができますか。

御愛を忘れようとする わが魂にふたたび

十字架上で苦しむ キリストの御姿を見させたまえ

みもとを離れようとする わが魂にふたたび

十字架上から語る キリストの御言葉を聞かせたまえ

御心に背こうとする わが魂にふたたび

十字架上から落ちる キリストの御血潮を注ぎたまえ

水野源三「ふたたび」『み国をめざして』