2020年12月6日の礼拝宣教から

『すべての人を照らす光』 ヨハネによる福音書1章9-13節

牧師 津村春英

御堂筋イルミネーション2020のテーマ―は「希望の光」だそうです。LEDは素晴らしい光を演出しますが、それは人がつくり出す色です。本当の光、真実の光については聖書に書かれてあります。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9)と。光(イエス・キリスト)はすべての人を照らしますが、すべての人が救われるのではありません。続く10,11節に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」とありますが、言、つまり光を受け入れた人だけが救われるのです。そして、「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(同12)とあります。

三浦綾子さんは次のように書いています。「…過去はいいのです。今からの一歩を、あなたもキリストの愛の手に導かれて歩みたいとお思いになりませんか。そのことがどんなにむずかしく見えても、神が助けてくださるのです。キリストはこう言っておられます。『人にはできないことも、神にはできる』と。光あるうちに光の中を歩もうではないか。」(三浦綾子『光あるうちに』)。真の光であるイエス・キリストを受け入れ、神の子とされて恵みと愛に満たされて歩みましょう。

2020年11月29日の礼拝宣教から

『安らかに住まうように』 ミカ書5章1-5節

牧師 津村春英

クリスマス・アドベント(Adventus到来)に入ります。BC8世紀の南ユダ王国ヒゼキヤ王の時代に立てられた預言者ミカは、北のサマリアを陥落させたアッシリアの脅威のもとにあったユダの人々に対し、ベツレヘムにメシアが誕生すると預言して希望を与えました。「彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。」(ミカ5:3)とあるように、彼すなわちメシアによって人々が安らかに住むことができるようになると預言しました。最終的にはメシアであるイエス・キリストによって実現するのです。

わたしたちは今、コロナ禍の脅威にもとにあります。どうすればわたしたちは安らかに住むことができるでしょうか。有名な『アシジの聖フランシスコの祈り』に、「主よ、わたしを平和の器とならせてください。憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、分裂があるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、闇あるところに光を、悲しみあるところに喜びを。」これは人のなせる業(わざ)ではなく、主イエスがもたらしてくださる業です。平和の君、主イエス・キリストを心に迎え、わたしを平和の器としてくださいと祈りましょう。

 

2020年11月22日の礼拝宣教から

『イエスの弟子として』 ヨハネの福音書21章20-25節

牧師 津村春英

 “ウィズコロナ”か“ゼロコロナ”か、国によって方針が違います。今、わたしたちはいかに生き抜くべきかが問われています。主イエスの弟子としていかに生きるかが、キリスト者として問われます。「あなたはわたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)と主イエスはペトロに言われました。ここでは、「あなたは」が強調されています。

 「弟子」は、ギリシア語ではマセーテースでマンサノー(学ぶ)と関連があります。英語ではDiscipleとFollowerが用いられ、前者はラテン語からの「学ぶ」という意味合いがあり、後者は追随する者、真似る者です。ディートリヒ・ボンヘッファーは、「安価な恵みは,悔い改め抜きの赦しの宣教であり,教会戒規抜きの洗礼であり,罪の告白抜きの聖餐であり,個人的な告解抜きの赦罪である。安価な恵みは服従のない恵みであり,十字架のない恵みであり,生きた人となり給うたイエス・キリスト不在の恵みである。」(『キリストに従う ボンヘッファー選集3』森平太訳、新教出版社、1966.)と言い、ドイツ語のNachfolge(服従、信従、キリストに従う)という語を使っています。わたしたちは、イエスの弟子でしょうか。弟子であるなら、学ぶだけでなく、イエスの後に続く者でなければなりません。

2020年11月15日の礼拝宣教から

『私を愛しているなら従いなさい』 ヨハネの福音書21章15-19節

牧師 津村春英

 「鬼滅の刃」という漫画とアニメが今、注目を集めています。2歳のわたしの孫でも知っているほどです。主人公の強さと優しさが読者に感動を与えると言われます。今朝の聖書は、主イエスの、弟子に対する優しさが描かれている箇所です。

 イエスが、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と言われたのに対し、ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。この同じやり取りが3度続きます(13:38の3度主を否むに対応?)。このペトロの「愛する」のギリシア語は3度ともフィレオ―で友を愛する意味ですが、イエスのはじめの2度の「愛する」はアガパオーで自己犠牲の愛を意味していました。3度目はペトロに合わせてフィレオ―が使われています。当時の会話はアラム語でなされたと考えられ一語と思われますが、ヨハネ福音書はこのようにギリシア語の2種類の単語で表しています。一般にアガパオーもフィレオ―も相互互換的に用いられますが、ここで区別している以上、その意味をくみ取るべきです。最後にイエスは、「わたしに従いなさい」と言われました。イエスはアガペー(アガパオーの名詞形)の道を歩まれました。わたしたちはどれほど主を愛しているでしょうか。

2020年11月8日の礼拝宣教から

『岸にたたずむイエス』ヨハネの福音書21章1-14節

牧師 津村春英牧師

 四つの福音書が主の復活について伝えていますがその詳細は違っています。ヨハネ福音書には、主イエスが三度目にガリラヤ湖畔(ティベリアス)で弟子たちに姿をお見せになったと書かれてあります。そこには①ペトロ、②トマス、ゼベダイの子たち(③ヤコブと④ヨハネ)、⑤十二弟子でないナタナエル、さらに二人(⑥1:40アンデレ?⑦1:43フィリポ?)の7人が漁に出た様子がコミカルに描かれています。主は岸にたたずんでおられ、一晩中働いたのに不漁に終わった彼らに対して、「『子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか』と言われると、彼らは、『捕れません』と答えた。…『舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ。』」(21:5, 6聖書協会共同訳)と言われました。するとおびただしい魚が網にかかったのです。そのとき、あのイエスの愛しておられた弟子(前述の7人の一人でヨハネ)は過去の経験から、「主だ」と言ったので皆も知るに至ったのです。状況はルカ5:5とは違いますし、舟の方向もわかりませんが、右側は弟子たちが考えていたところではなかったのでしょう。

 悪戦苦闘している私たちを、岸にたたずむイエスは見ておられます。そして、私たちの考えを超えた適切な指示を与えてくださるのです。このお方に、神に信頼を置いて進みましょう。