2021年3月14日の礼拝宣教から   

『恵みにより信仰により』 エフェソ2章1-10節

牧師 津村春英

東日本大震災から10年の歳月が流れました。この未曽有の惨禍の教訓を風化させてはいけないと被災者の方々の声が響きます。

使徒パウロもイエス・キリストの出来事を伝えるために、生涯をかけて奮闘しました。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」(2:1,2)と書いています。下線部とそれ以降は、あなたがたは、この世(コスモス)の時代(アイオーン)に従い、さらに不従順な子(神を信じない者)たちに今も働く霊、つまり、空中の権威を持つ支配者である悪霊に従って歩んでいた、と解せます。しかし、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(同8)とあります。恵みにより(原因、理由)信仰により(手段)救われたというのです。

恵みはイエス・キリストの十字架による贖罪を意味します。そして、「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(同10)とあります。私たちは与えられた恵みに心から感謝し、造られた目的にふさわしく、善い業に励みたいものです。

2021年3月7日の礼拝宣教から   

『救いは主のもとに』 詩編3篇1-9節

牧師 津村春英

現代数学で最も重要な難問とされる「ABC予想」(整数の足し算と掛け算、その二つの演算の絡み合い方に関する問題)を証明したとされる望月新一京都大学教授の論文「宇宙際タイヒミューラ理論」が学術誌に記載されることが話題となっています。私には理解する能力はありませんが、人生における「救いとは何か」も、難問中の難問です。どのように解きますか。

ダビデ王がその子どもたち・異母兄弟間に問題が発生したときにどのように解決しましたか。「ダビデは激しく怒った」(サムエル記下13:21)、「ダビデは衣を裂いた」(同13:31)とあるだけで、何らアクションをとっていません。事件の当事者である息子アブシャロムはやがて疑心暗鬼に陥り、ついにダビデに殺意を抱き行動に出ます。ダビデは哀れにも都を後にして頭を覆い裸足で逃げるのですが、詩編3篇はその時のダビデの心境を歌ったものだと言われます。ダビデは今までに経験したことのない「どん底」の孤独の中で歌い祈ります。「主よ、それでも/あなたはわたしの盾、わたしの栄え/わたしの頭を高くあげてくださる方。」(3:4)「救いは主のもとにあります。あなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。」(3:9)と。これは自分自身の祈りであり、とりなしの祈りでもあり、また、すべての問題の解答なのです。  

2021年2月28日の礼拝宣教から   

『主を忘れるな』 申命記8章11-20節

牧師 津村春英

出エジプトを導いたモーセは約束の地を前にして、イスラエルの民に次のように語りました。その地に定着し、衣食住が満たされても、「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」(同17, 18)と語りました。下線部は、‘The New Brown, Driver, and Briggs Hebrew and English Lexicon of the Old Testament’によると、単なるrememberではなく、recallやkeep in mind「心にしっかり覚えておく」と解釈しています。

日本人初のノーベル賞受賞者湯川秀樹氏の、「中間子理論」発表までの歩みを綴った『旅人』(角川文庫)の終わりの部分には、「峠の茶屋で重荷をおろして、一休みする気持ちに例えることができる」とあり、また、「是非とも書いておかねば気のすまないことが二つある」。それは、自分の研究の環境を与えてくれた人々への感謝と、その研究に協力してくれた人々への感謝だとあります。私たちは、人生の峠の茶屋で何を考えますか。必要のすべてを与え導いてくださっている神様に感謝をささげることができますか。そして、苦しみの時も喜びの時も主なる神様を心にしっかりと覚えておくことができますか(ローマ8:28)。  

2021年2月21日の礼拝宣教から   

『偽りのない愛』ローマの信徒への手紙12章9-21節

牧師 津村春英

使徒パウロは、当時の世界の中心であるローマの教会の信徒たちに対して、キリスト者はどうあるべきかについて手紙に記しました。まず、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、」(12:9)とあります。偽りの愛とは、悪を退け、善に密着すること、が直訳です。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」また、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」さらに、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:14, 17, 19, 21)とあります。これらは主イエスの言葉に遡る(cf.マタイ5:39; 44など、ただしこのローマ書が先に書かれました)と考えられますが、十戒の教えを超えています。

夭逝のキリスト者詩人、八木重吉の詩に、「わたしは床の間に磔の図をかけておく その前ではとうてい人を憎みとおせない」とあります。偽りのない愛、それは主イエス・キリストの十字架に見られる愛です。主は、悪に対して悪をかえさず、善をもって悪に勝たれました。その極みが十字架です。私たちも、この「偽りのない愛」を自分のものとできるように励みましょう。

2021年2月14日の礼拝宣教から 

『ヨセフの信仰・神の摂理』 創世記 50章15-21節

牧師 津村春英

旧約聖書のヨセフは12人男子兄弟の11番目でしたが、その言動により兄たちから恨まれ、結果的にエジプトに売られ、そこでも無実の罪で投獄されます。しかし、ファラオ(王)の夢を解き、エジプトの司政者にまで上り詰めます。その頃、ひどい飢饉があり、かの兄弟たちがカナン地方からエジプトに食料を求めにやってくることによって再会します。何度かの接触の後、ヨセフは言います。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(50:20)。これがヨセフの信仰であり、神の摂理です。なお、下線部は「あなたがた」と「神」が対照され、しかも、「たくらむ」と「変える」(意訳)と訳されている原語のヘブライ語は、「考える」という同じ単語です。直訳すれば、「あなた方は私に悪を謀ったが、神はその悪を善のために計られた」となります。

主イエス・キリストを、当時の支配者、指導者たちは、ねたみ、恨み、亡き者にしようと謀りました。しかし、神は、その悪を善のために計られました。それは主イエスの十字架刑によって全人類を救うためでした。人生に試練、苦難はつきものです。しかし、神はすべての悪を将来の善として計ってくださるのです。信じて感謝し、今、与えられている務めに励みましょう。