2020年9月27日の礼拝宣教から 

『ヨセフとニコデモ』ヨハネ福音書19章38-40節

牧師 津村春英

 主イエスの遺体を葬ったアリマタヤのヨセフとニコデモについて、ヨセフは四福音書に出ていますが、ヨハネ福音書ではユダヤ人を恐れ(cf.12:42)、イエスの弟子であることを隠していたと紹介されます。ちなみに、マタイ福音書ではヨセフは金持ちでイエスの弟子、マルコ福音書では身分の高い(直訳:家柄の良い)議員、ルカ福音書では議員で、善良で正しい人で同僚の決議や行動に同意しなかったと紹介されています。他方、ニコデモはヨハネの福音書だけに登場します(3章と7章と19章)。

 ローマ法では、遺体の引き渡しは近親者に行われましたが治安を乱した犯罪人はハゲタカの餌食になり、ユダヤ法では、犯罪者の場合は家族の墓でなく町の外の共同墓地に納めたと言われます。ところが、イエスの場合は、ピラトがイエスは犯罪人でないとわかっていたこともあり、議員であるヨセフが申し出たので遺体の引き渡しが許可されたのでしょう。そしてニコデモも没薬とアロエを混ぜたものを100リトラ(約33kg)持参しました。そして遺体はまだ誰も使っていない墓に納められました。ただし、この二人のこれらの言動に何の称賛の言葉もありませんが、へりくだって彼らにしか出来ないことを成したのです。では、私たちにしか出来ないこととは何でしょうか。

2020年9月20日の礼拝宣教から

『十字架からのことば』ヨハネ福音書19章25-30節

牧師 津村春英

 経済界では、コロナ禍においてニューノーマルということばが使われています。これは避けがたい大きな変化から生まれる新しい常識を意味しています。主イエスの十字架刑と復活は、弟子たちにとってニューノーマルを生み出しました。ヨハネ福音書におけるイエスの十字架上の最後の言葉は、「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(19:30)なのです。そうです。「救いが完成した」のです。まさに、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(3:16)が成就したのです。

 30歳の若さで逝った詩人八木重吉は、「神はどこにいるのか 基督がしっている  人間はどうして救われるのか 全力をつくしても人間は救われはしない 基督をいま生きていると信ずることだ」(「基督」『八木重吉―詩と生涯と信仰』、関 茂著)と歌っています。コロナ禍といわれる時こそ、「キリストは今生きている」と信じるこが大切です。禍が過ぎ去るのを待つのではなく、禍の中で生き抜くために、このニューノーマルが必要なのです。十字架の出来事は過去のことであって過去のことではないのです。救いの計画は実行され、ここに救いは成し遂げられているのです!

2020年9月13日の礼拝宣教から

『感謝の歌をささげよう』 詩編71篇14-20節

牧師 津村春英

 わたしは小さいころから歌うことが大好きでした。中学の音楽会で独唱、学生時代にはフォークソンググループを結成、社会に出てからは市民合唱団に入りました。ただ、学生時代にアメリカから来られた宣教師に出会ってから、主イエス・キリストを紹介され、救い主として受け入れ、主なる神を賛美することの素晴らしさを知りました。

 「わたしは常に待ち望み/繰り返し、あなたを賛美します。」(詩編71篇14節)

 この作者は老域に達していると思われます(フランシスコ会訳は明確)。そして、今まで歩んできた人生を顧みながら、「あなたは多くの災いと苦しみを/わたしに思い知らせられましたが/再び命を得させてくださるでしょう。地の深い淵から/再び引き上げてくださるでしょう。」(同20)と、将来への希望をもって歌っています。 苦しいところを通ってきましたが、神は決してお見捨てにならない、これこそが感謝の歌の根拠なのです。

 あなたは一度しかない人生をどう送りますか。そして、最後も大事です。若い人も他人ごとではありません。弱さに打ち勝つ信仰、それは主を賛美することです。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ8:10)とあるように。

2020年9月6日の礼拝宣教から

『人生は神の賜物』コヘレトの言葉3章1-15節

牧師 津村春英

  聖書には、「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(3:1)とあります。「定められた時」は原語ヘブライ語でエート(ギリシア語訳でカイロス)の一語で、ちょうどふさわしい時であり、ある時点を示しつつ、長く続くことのない時を意味しています。今はコロナ禍の中にある時です。しかし、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」(3:11)とあるように、永遠という尺度で物事を見るように奨められています。コヘレト(1:1、集会を指導する者、伝道者の意)は言います。「わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と」(3:12)つまり、人生は神の贈り物なのです。

 わたしたちのこの人生は、わたしにしかない、他の人が経験できない、他の人とは違う人生です。素晴らしい人生を与えていただいたことに感謝しましょう。そして、神を畏れ敬いながら歩みましょう(3:14)。「人生は刺繍を裏から眺めているようなものだと思う。糸が交差し、もつれあい、結び玉があり、混沌としている。しかし、表に一幅の絵が織りなされるために、その絵が色彩よく、精巧なものであるためには、それだけ、裏面は複雑でなければならないのだ」(渡辺和子『愛をつかむ』)。

2020年8月30日の礼拝宣教から 

『誰が、十字架につけたのか』  ヨハネ福音書19章14-22節

牧師 津村春英

 8月29日朝のNHKラジオで作家の冲方丁(うぶかた・とう)さんが、コロナ禍のもと、二つの大切な言葉を挙げておられました。それは「慎み」と「嗜み(たしなみ)」で、前者はみんなで我慢すること、後者はリラックスすることだそうです。嗜むは辞書によると「好んで親しむ」ともあります。聖書を嗜むことは大切ですが、信仰者にはそれだけでは不十分です。

 ヨハネ福音書によると、いよいよ主イエスが十字架刑の宣告を受けるシーンで、祭司長たちをはじめユダヤ人らが「十字架につけろ」と叫びました。しかも「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」とまで虚言しました。それでピラトはユダヤ人たちにイエスを引き渡し、彼らはゴルゴダでイエスを十字架につけました。その罪状は「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」とヘブライ語(ユダヤ人の言語)、ラテン語(ローマの言語)、ギリシア語(当時の世界の公用語)で書かれ、すべての人々が対象になっています。

 水野源三さんの詩に、「ナザレの主イエスを 十字架にかけよと 要求した人  許可した人  執行した人 それらの人の中に 私がいる」とあります(水野源三「私がいる」『わが恵み汝に足れり』)。これが信仰の原点です。いったい誰が、主を十字架につけたのでしょうか。自分の胸に問うてみましょう。