2020年2月16日の礼拝宣教から

『あの方が歩まれたように』 ヨハネの手紙一2章3-11節

牧師 津村春英

「ヨハネの手紙一」は、神の子イエス・キリストの受肉と十字架上の贖いに関して異論を唱える人々をあからさまにしながら、共同体の結束を強固にするために、互いに愛し合うことを勧めています。

「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」(2:6)。これはキリスト者についての話です。「いつもいる」はヨハネ福音書15章の「ぶどうの木のたとえ」にある「~にとどまる」に響き合うヨハネ文書の特徴表現です。ヨハネの手紙一2章3~6節は「神について」ですが、ここでいきなり「イエス(原語は「あの方」)が歩まれたように」と表現されています。これも、イエスは父の思いを実行しておられるというイエスの言葉(ヨハネ福音書12:50)から理解できます。

「あの方が歩まれたように」とは、イエスが、「洗足」において弟子たちに、仕えるという愛の行いをお教えになり、「十字架」において、最高の愛(cf.ヨハネ福音書15:13)についてお教えになられた、そのように生活しなさいと勧めているのです。神の戒め(2:3,4)は神の言葉(同5)であり、神の愛(同5)なのです。「しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります」(2:5a)。

2020年2月9日の礼拝宣教から 

『光の中を歩むなら』 ヨハネの手紙一1章5-2章2節

牧師 津村春英

「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。」 (1:5, 6)「闇の中を歩む」とは罪の生活を意味します。

古代イスラエルの民は祭司に罪の赦しの儀式を依頼しました。レビ記4章以降に詳しく書かれてありますが、「祭司がこうして罪をあがなう儀式を行うと、彼ら(彼)の罪は赦される」(レビ4:20, 26, 31, 35)ということばが繰り返されています。大祭司、御子イエス・キリストの場合は、牛、羊、山羊などの血ではなく、ご自身の十字架の血をもって、わたしたちの罪の赦しの儀式を今も行ってくださるのです。

三浦綾子さんは、『聖書に見る人間の罪』で「毎日がつまらなければ、神の愛を知らぬ自分の罪である」と書いておられます。神の光の中を歩むことです。そうすれば、何と恵まれているかがわかります。そしてどんな罪も御子イエスの十字架の血によって赦され、わたしたちはきよめられるのです。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(1:7)

2020年2月2日の礼拝宣教から

『わたしたちの交わりとは』 ヨハネの手紙一1章1-4節

牧師 津村春英

朝から晩までコロナ・ウイルス感染のニュースが流れています。ウイルスに感染した人と「一緒にいたか」「接触があったか」などが問題とされます。キリスト教信仰の世界では、反対に、主イエスと一緒にいる、イエスに触れていただくことが重要なのです。

「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです 」(ヨハネ一1:3)。これはイエスの臨在です。ルカ8:40-56は二つの話がつながっています。12年間もの間、体内からの出血が止まらなかった女性が、イエスの後方からその衣の裾に触れて癒されたという出来事と、もう一つは12歳ぐらいの女の子が死んでいたのに、イエスが触れてくださることによって癒され生き返ったという出来事がつながっています。当時、血に触れることと死体に触ることは「汚れる」ことでした。イエスはこの二つの接触によって汚されたのです。前者は受動的で後者は能動的ですが、いずれも触れたことになります。主が、この汚れをご自分にお受けになることによって、二人はきよめられ癒されたのです。

 わたしたちの信仰生活の中で、主が一緒にいてくださることは、喜びであり、力であり、また慰めです。悩むとき、痛むとき、主の臨在を覚えてください。主が心に、震える手に触れてくださり、わたしたちは癒されるのです。

2020年1月26日の礼拝宣教から

『信じる者は誰でも』 使徒言行録10章34-43節

牧師 津村春英

「信じる者は誰も」とくると、♪十字架にかかりたる救い主を見よや♪(新聖歌182、聖歌424)が思い浮かぶのは、わたしの年代より上の方々でしょうか。かつてはキリスト教を代表する歌であったと思いますが、最近は教会でもあまり歌われなくなりました。世間の誰もが知っていたということは、それほど、伝道したということです。

使徒言行録10章を独占するのは、コルネリウス(ローマの市民の有志によって編成されたイタリア隊の百人隊長でカイザリアに滞在)。彼はユダヤ教の改宗者ではなく異邦人でしたが、敬虔な人で、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた(使徒10:1)のです。そこにペトロが導かれました。そこでは、①ナザレのイエスは、油注がれた方(キリスト)で、人々を助け、お癒やしになったこと。しかし、②十字架刑に処せられたこと。しかし、③三日目に復活されて現われてくださったこと。さらに、④審判者として再臨されることが語られ、礼拝の場と化したのでした。

わたしたちの「教会」も、この①②③④のメッセージが礼拝の中で語られるとともに、外に向かって宣べ伝えなければなりません。「この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる」(同10:43)と。

 

2020年1月19日の礼拝宣教から

『招かれている人は誰か』 ルカによる福音書14章12-24節

牧師 津村春英

 昨日に続いて今日も大学入試センター試験が行われています。1990年から30年、共通一次学力試験(1979)から41年間実施されています。これは大学入学者の選抜のためであり、某大学に招かれてはいるものの、席に限りがあるからです。

 主イエスは、ご自分がこの世に来られたことを、「宴会」に例えられました。しかし、選民(すでに招待されていた人々)である当時のイスラエル人(ユダヤ人)は出席を拒否しました。宴会の準備ができた(イエスが来られた)との招きに対して、様々な理由を挙げて出席を拒みました。その結果、宴会の主人(神)は、席を埋めるため、本来は招かれるはずのなかった貧しい人々、障がいを負った人々、また、町の大通りや路地、町から出て行く街道や垣根に囲まれたところにいる人までも招くように指示しました。

 また、この宴会は「神の国での食事」(14:15)であり、そのミニチュア版は教会での「礼拝」と考えます。私たちは毎週、この宴会、礼拝に招かれているのです。今日も自分で教会に来たのではなく、神が招いてくださったのです。ご自宅から教会への往復時間を入れて、一週168時間のうち約2時間、わずか1パーセントあまりの時間です。この招きを、あなたは断ってよいのでしょうか? 何とかして礼拝に出席しましょう!