2021年1月24日の礼拝宣教から   

『イエス・キリストの名によって』 使徒言行録 3章1-10節

牧師 津村春英

 20分ほどのバイデン米国大統領就任演説の最後に、やはり聖書の引用がありました。「夕べは涙のうちに過ごしても、朝には喜びの歌がある」(詩編30:6・聖書協会共同訳)。いつかコロナ禍は終わります。その時が必ず来ます。

使徒言行録3章に生まれつき足の不自由な男の癒しの話があります。彼は足が癒されるまで文字通り自立できませんでした。それで毎日、多くの人が往来する場所に置いてもらっていたのです。当時の社会では、生まれつき体が不自由なのは罪との関係があると見られ(ヨハネ9章参照)、心身共につらい人生を歩んでいたと思われます。しかも40歳を過ぎていた(4:22)とありますが、ついにその時がやって来たのです。「午後三時の祈り」は夕べの祈りと言われ、彼が施しを乞うためにはその日の最後のチャンスでした。そこに、ペトロとヨハネが通りかかり彼を見つめて言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 (3:6)と。彼はこの言葉を信じて立ち上がり、踊りながら、神を賛美しながら、二人と共に宮の中に入って行ったとあります。まさに起死回生です。あなたの持っているものはあなたを支えることができるでしょうか。信じてイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きましょう。

2021年1月17日の礼拝宣教から   

『キリストにある新しい生活』 ローマの信徒への手紙12章1-8節

牧師 津村春英

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、…自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」(ローマ12:2, 3)とあります。下線部「度合い」はギリシア語メトロンで「秤」の意です。各自に与えられているのは同じ信仰の秤なのです。人によって秤が違っては困ります。

三浦綾子さんは瞬きの詩人と言われた水野源三さんのことを次のように書いておられます。「伝道に必要なものは必ずしも、雄弁に語り得る口でもなければ、どこへでも歩いて行くことのできる健脚でもなかった。自分でペンを持つことのできる手でさえも、真に必要なものはものではなかった。無論それらは、重要なものではある。が、それ以上に重要なものを、私たちは忘れていた。それは自分が罪人であることの意識であり、その罪がキリストの贖罪によってゆるされたことへの感謝である。水野さんの胸には、その感謝、喜びが溢れていた」(『み国をめざしてー水野源三第四詩集』の序)。これこそ、信仰のメトロンであり、「キリストにある」「主にある」ということだと思います。今日も、キリストにある新しい生活の一歩を踏み出しましょう!

2021年1月10日の礼拝宣教から   

『主をほめたたえよ』 士師記5章1-5節

牧師 津村春英

人生は駅伝のようです。自分に与えられた距離を走りぬき、次に襷を繋ぐのです。ただし、体調の変化、風雨、坂のアップダウン、山上り、山下りなどに左右されます。また、他のランナーとの戦いであり自分との戦いでもあります。

ヨシュアの死後、約束の地でその後何があったかは士師記に記されています。場所と敵は異なりますが、13人の士師(裁き人)たちによってヨシュアの襷は繋がれていきました。女預言者デボラと、彼女に呼び寄せられたバラクが敵に勝利したとき、「イスラエルにおいて民が髪を伸ばし/進んで身をささげるがとき/主をほめたたえよ。」と歌いました(5:2)。「髪を伸ばす」のは、主に対する誓いと関係があり、「進んで身をささげる」のは戦いに出る意と解釈されます。戦いに際し、主をほめたたえることから始めよというのです。さらに、「もろもろの王よ、聞け/君主らよ、耳を傾けよ。わたしは主に向かって歌う。イスラエルの神、主に向かって/わたしは賛美の歌をうたう。」(同3)とあるように、異国の王たち、君主たちに向かって、「わたし」は主をほめ歌うと強調しています。イスラエルは主から離れたときに堕落し、敵に屈しました。私たちも「主にある」という生き方が重要です。この新しい一年、主をほめたたえながら、襷を次に繋ぐ働きに努めましょう。

2021年1月3日の礼拝宣教から 

『主にあっていつも喜びなさい』 フィリピ4章2-9節

牧師 津村春英

ネズミの寿命は2-3年、象は80-100年と言われます。ところがどちらも一生の間に心臓は約20億回打つそうです。ゾウはのっしのっしと動いているのに対して、ネズミはチョロチョロと小忙しそうに動いているのです(『ゾウの時間ネズミの時間』本川達雄、1992)。では、私たちはあとどれくらい生かされるのでしょうか。2021年の教会カレンダーの下欄に、「主にあっていつも喜びなさい」(聖書協会共同訳フィリピ4章4節)のみことばを印刷してもらいました。この「主にあって」の「あって」はギリシア語の前置詞で、親しい人格的な関係を意味します。すなわち、自分的には喜べないと思うことも、主イエス・キリストの十字架と復活に照らし合わせることによって、喜ぶことができると解せます。

54年間にわたって日本の教育畑で奉仕され、骨を埋められたドイツ人司祭、へルマン・ホイヴェルスは、「すべての喜びは外から心の中に入る。外から、その材料や種が入って来ないなら誰も喜びません。…この喜びの材料は無数でもあります。」(『人生の秋に』)と書いています。コロナ禍で未だ先が見えませんし、受け入れがたいことも多くありますが、すべてのことに感謝し、主にあっていつも喜びたいものです。 

2020年12月20日の礼拝宣教から

『民を罪から救う方』 マタイによる福音書1章21-23節

牧師 津村春英

選択的夫婦別氏(うじ)制度の導入の声が高まってきています。確かに「名」は重要です。聖書にイエスという名の由来が書かれています。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(1:21)。イエスという名は、旧約聖書ヘブライ語「ヨシュア」(主(ヤハウエ)は救いの意)の訳語です。その名のごとく、ご自分の民を罪から救われるのです。民(ギリシア語ラオス)は直接的にはイスラエルの民をさしていますが、マタイ福音書では「すべての人々」がその射程に入っています(28:19「すべての民」の民はギリシア語エスネーですべての民族)。では、その方法、手段は何でしょうか。それは十字架刑によってです。

先週から米国では新型コロナウイルスのワクチン接種が始まっているようですが、それは「毒をもって毒を制す」という考え方です。同様に、人間の罪の問題は罪を十字架で負われることによって解決されるのです。さらに、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(同23)とあるように、この方はそのご生涯を通してインマヌエル(神は我々と共におられる)を現してくださいました。このように、この方がわたしたちを救い、いつも神が共にいてくださることを教えてくださるのです。感謝して、そのご降誕を心からお祝いしましょう。