2020年1月26日の礼拝宣教から

『信じる者は誰でも』 使徒言行録10章34-43節

牧師 津村春英

「信じる者は誰も」とくると、♪十字架にかかりたる救い主を見よや♪(新聖歌182、聖歌424)が思い浮かぶのは、わたしの年代より上の方々でしょうか。かつてはキリスト教を代表する歌であったと思いますが、最近は教会でもあまり歌われなくなりました。世間の誰もが知っていたということは、それほど、伝道したということです。

使徒言行録10章を独占するのは、コルネリウス(ローマの市民の有志によって編成されたイタリア隊の百人隊長でカイザリアに滞在)。彼はユダヤ教の改宗者ではなく異邦人でしたが、敬虔な人で、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた(使徒10:1)のです。そこにペトロが導かれました。そこでは、①ナザレのイエスは、油注がれた方(キリスト)で、人々を助け、お癒やしになったこと。しかし、②十字架刑に処せられたこと。しかし、③三日目に復活されて現われてくださったこと。さらに、④審判者として再臨されることが語られ、礼拝の場と化したのでした。

わたしたちの「教会」も、この①②③④のメッセージが礼拝の中で語られるとともに、外に向かって宣べ伝えなければなりません。「この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる」(同10:43)と。

 

2020年1月19日の礼拝宣教から

『招かれている人は誰か』 ルカによる福音書14章12-24節

牧師 津村春英

 昨日に続いて今日も大学入試センター試験が行われています。1990年から30年、共通一次学力試験(1979)から41年間実施されています。これは大学入学者の選抜のためであり、某大学に招かれてはいるものの、席に限りがあるからです。

 主イエスは、ご自分がこの世に来られたことを、「宴会」に例えられました。しかし、選民(すでに招待されていた人々)である当時のイスラエル人(ユダヤ人)は出席を拒否しました。宴会の準備ができた(イエスが来られた)との招きに対して、様々な理由を挙げて出席を拒みました。その結果、宴会の主人(神)は、席を埋めるため、本来は招かれるはずのなかった貧しい人々、障がいを負った人々、また、町の大通りや路地、町から出て行く街道や垣根に囲まれたところにいる人までも招くように指示しました。

 また、この宴会は「神の国での食事」(14:15)であり、そのミニチュア版は教会での「礼拝」と考えます。私たちは毎週、この宴会、礼拝に招かれているのです。今日も自分で教会に来たのではなく、神が招いてくださったのです。ご自宅から教会への往復時間を入れて、一週168時間のうち約2時間、わずか1パーセントあまりの時間です。この招きを、あなたは断ってよいのでしょうか? 何とかして礼拝に出席しましょう!

2020年1月12日の礼拝宣教から

『あなたの信仰があなたを救う』 ルカによる福音書17章11-19節

牧師 津村春英

 新しい聖書協会共同訳では、従来の「らい病」「重い皮膚病」を、律法で規定されている「規定の病」と訳出しています。

 10人の既定の病の人が、「イエス様、私たちを憐れんでください」と呼びかけました。彼らはレビ記13章にあるように遠く離れて立っていました。イエスは彼らに、「祭司たちのところに行って自分の体を見せなさい」(17:14)とお命じになると、そのうちのひとりは、途上で癒されたことに気づき、大声で神をほめたたえながらイエスのところに戻って来ました。その人物は日頃ユダヤ人から嫌われていたサマリア人であり、本来、主をほめたたえる(ヘブライ語・ヤダー:創世記29:35)を意味するユダヤ人ではありませんでした。残りの9人は恐らく、早く祭司の証明を得て、家族のもとに帰りたかったのか、危険人物と目されるイエスと同じように見られるのを恐れたか、イエスに感謝するために戻っては来なかったのです。

 さて、感謝は信仰を生み出し、また、信仰は感謝を生み出します。毎週、主に感謝するために、教会に礼拝に戻って来る者でありたいし、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(17:19、下線部は「復活」にも当てられる語)のように、礼拝でよみがえらされて、新しく出発する者でありたいものです。

2020年1月5日の礼拝宣教から 

『安息日を覚えて聖別しなさい』  出エジプト記20章8-11節

牧師 津村春英

 2020年は、初代牧師の河邊貞吉師の家訓「聖日厳守」にならい、主日礼拝に励むように導かれています。十戒の第四戒、「安息日を覚えて、これを聖別しなさい。」(出エジプト記20:8、聖書協会共同訳)は、その前の第一、二、三戒を実行するための極めて有効な方法/手段(服部嘉明)であり、「聖別する」(カーダシュ)は世俗一般からの分離を意味します。その根拠は、①創造の業(わざ・出エジプト記20:11)であり、②贖いの業(申命記5:15)によります。  

 キリスト教会は主が復活された日曜日を安息日とします。この日は、神が創造の業を休まれたことから、私たちも身体と心を休め、その成し遂げられた創造の業を賛美する日です。また、出エジプトによる民の救いから、主イエス・キリストの十字架と復活による救いに感謝する日です。

人類最初の動力飛行を成功させたライト兄弟は、日曜日には飛行しなかったと言われ、また、映画『炎のランナー』のエリックは、日曜日の陸上短距離走の予選が日曜日であったので、種目を変更したにもかかわらず、優勝できたという話など、主日を大切にしたエピソードは数多くあります。多様化した忙しい現代にあっても、主日礼拝に励みたいものです。仕事などで、どうしようもないときは、僅かな時間でも聖別する時を持ちましょう。

2019年12月29日の礼拝宣教から

『感謝、感謝』   申命記26章5-11節

牧師 津村春英

 Life is a journey. journeyはtrip(短い旅)、travel(長い旅)、tour(巡る旅)と違い、苦労の長旅というプロセスを表現していると言われます。モーセはイスラエルの民が約束の地を目前にしているとき、次のように命じました。「あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。『わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。…エジプト人はこのわたしたちを虐げ…主に助けを求めると、…わたしたちをエジプトから導き出し、…乳と蜜の流れるこの地をわれわれに賜わりました。…』」(申命記26:5-9)。これは信仰告白です。下線部の「滅びゆく」は、新しい翻訳聖書(聖書協会共同訳、新改訳2017、フランシスコ会訳)ではいずれも「さすらいの」と訳されています。「さすらいのアラム人」、それはアラム人ラバンのもとで長い間仕えたヤコブを指していますが、原語のヘブライ語「アーバド」は、申命記では殆ど「滅びる」と訳されています。いつも危険と隣り合わせの旅人を表現しているのです。

 2019年の旅はいかがでしたか。わたしたちが、今日、この様に無事で礼拝を献げることができるのは、なんと有り難いことでしょうか。感謝、感謝です。わたしたちも信仰告白を確かにして、新しい年に入っていきましょう。