2021年2月28日の礼拝宣教から   

『主を忘れるな』 申命記8章11-20節

牧師 津村春英

出エジプトを導いたモーセは約束の地を前にして、イスラエルの民に次のように語りました。その地に定着し、衣食住が満たされても、「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」(同17, 18)と語りました。下線部は、‘The New Brown, Driver, and Briggs Hebrew and English Lexicon of the Old Testament’によると、単なるrememberではなく、recallやkeep in mind「心にしっかり覚えておく」と解釈しています。

日本人初のノーベル賞受賞者湯川秀樹氏の、「中間子理論」発表までの歩みを綴った『旅人』(角川文庫)の終わりの部分には、「峠の茶屋で重荷をおろして、一休みする気持ちに例えることができる」とあり、また、「是非とも書いておかねば気のすまないことが二つある」。それは、自分の研究の環境を与えてくれた人々への感謝と、その研究に協力してくれた人々への感謝だとあります。私たちは、人生の峠の茶屋で何を考えますか。必要のすべてを与え導いてくださっている神様に感謝をささげることができますか。そして、苦しみの時も喜びの時も主なる神様を心にしっかりと覚えておくことができますか(ローマ8:28)。  

2021年2月21日の礼拝宣教から   

『偽りのない愛』ローマの信徒への手紙12章9-21節

牧師 津村春英

使徒パウロは、当時の世界の中心であるローマの教会の信徒たちに対して、キリスト者はどうあるべきかについて手紙に記しました。まず、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、」(12:9)とあります。偽りの愛とは、悪を退け、善に密着すること、が直訳です。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」また、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」さらに、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:14, 17, 19, 21)とあります。これらは主イエスの言葉に遡る(cf.マタイ5:39; 44など、ただしこのローマ書が先に書かれました)と考えられますが、十戒の教えを超えています。

夭逝のキリスト者詩人、八木重吉の詩に、「わたしは床の間に磔の図をかけておく その前ではとうてい人を憎みとおせない」とあります。偽りのない愛、それは主イエス・キリストの十字架に見られる愛です。主は、悪に対して悪をかえさず、善をもって悪に勝たれました。その極みが十字架です。私たちも、この「偽りのない愛」を自分のものとできるように励みましょう。

2021年2月14日の礼拝宣教から 

『ヨセフの信仰・神の摂理』 創世記 50章15-21節

牧師 津村春英

旧約聖書のヨセフは12人男子兄弟の11番目でしたが、その言動により兄たちから恨まれ、結果的にエジプトに売られ、そこでも無実の罪で投獄されます。しかし、ファラオ(王)の夢を解き、エジプトの司政者にまで上り詰めます。その頃、ひどい飢饉があり、かの兄弟たちがカナン地方からエジプトに食料を求めにやってくることによって再会します。何度かの接触の後、ヨセフは言います。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(50:20)。これがヨセフの信仰であり、神の摂理です。なお、下線部は「あなたがた」と「神」が対照され、しかも、「たくらむ」と「変える」(意訳)と訳されている原語のヘブライ語は、「考える」という同じ単語です。直訳すれば、「あなた方は私に悪を謀ったが、神はその悪を善のために計られた」となります。

主イエス・キリストを、当時の支配者、指導者たちは、ねたみ、恨み、亡き者にしようと謀りました。しかし、神は、その悪を善のために計られました。それは主イエスの十字架刑によって全人類を救うためでした。人生に試練、苦難はつきものです。しかし、神はすべての悪を将来の善として計ってくださるのです。信じて感謝し、今、与えられている務めに励みましょう。

2021年2月7日の礼拝宣教から

『一粒の麦』 ヨハネによる福音書 12章20-26節

牧師 津村春英

NHKテレビ大河ドラマ「麒麟が来る」が最終回を迎えます。果たしてどんな結末になるのでしょうか。主人公の明智光秀も織田信長も死なせたくないと思う人がいることでしょう。歴史として伝えられているのはいくつかの点で、それをつないで線となし、さらに広げて面をつくり、さらに立体的なものへと描き上げるのが脚本家の力量です。

新約聖書の主人公はイエス・キリスト。イエス・キリストは死なねばならなかったのです。弟子たちにとって主人が死んでは困りますが、死なねばならなかったのです。それはユダヤ人のためだけではなく、全人類が救われるためです。ヨハネの福音書には、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12:24)と書かています。一粒の麦はイエス・キリストで、多くの実は信じ救われる人々を指しています。

さだまさしの「ひとつぶの麦」という歌は、アフガニスタンの砂漠化した大地に用水路を建設し農村を復興した故中村哲医師を追悼する歌で、その歌詞に「私に出来ることをなせば良い」とあります。主が、そして誰かが、私の一粒の麦になってくださったので今日の私があると思います。それでは、私たちは誰かの一粒の麦になれるでしょうか。

2021年1月31日の礼拝宣教から   

『主こそ神と知れ』   詩編 100篇1-5節

牧師 津村春英

 日本には自然界を支配する海の神、山の神、商売や学問の神、さらに縁結び、病気をいやす神など、「八百万(やおよろず)の神」があると言われています。大阪日本橋の近くにも七福神のえべっさん、だいこくさんが起源の恵比寿町や大黒町という地名、駅名があります。

 旧約聖書の民は、「知れ、主こそ神であると。/主はわたしたちを造られた。/わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。」(詩編100:3)」と呼びかけられています。「主」とは出エジプトを導かれた神、ヤハゥエ(「主」と訳す)で、創造者であり、羊飼いのようにその民を養育される神だというのです。「知る」の言語ヘブライ語は「ヤーダ」で、知る、理解する、承知する、気づく、発見する、親しくなる、精通するなどの深い意味があり、男性が女性と関係を持つこともヤーダで表現されます(新約聖書マタイ1:25の「関係することはなかった」の直訳は「知ることはなかった」)。またイエス・キリストも「主」と呼ばれます(フィリピ2:9-11)。

私たちはどれほど「主」を知っていますか。直面しているコロナ禍という試練の中にあって、私たちを創り、養ってくださる「主」こそ、私の神であることを告白し、この恵み深い主を日々感謝と賛美をもって礼拝しましょう。