2021年5月30日の礼拝宣教から

聖霊に満たされて』 使徒言行録7章54-60節

牧師 津村春英

私はバプテスト教会で洗礼を受け、やがて「きよめ派」と呼ばれる教団(含むフリーメソジスト)に導かれました。しかし、傲慢だと言われますが、きよめを語る人自身の人格にまで及んでいないと思われる「きよめ」に躓きました。「きよめられる」(聖霊に満たされる)とはどんなことでしょうか。

ペンテコステの出来事以降にキリスト者が急増し、問題解決のために選ばれた、おそらくギリシア語を話すユダヤ人、七人の一人ステファノは「信仰と聖霊に満ちた人」と紹介されていますが、教会の最初の殉教者となります。当時の地中海世界のギリシア語を話すユダヤ人たちの反感を買い、彼らはエルサレムのユダヤ当局者らを扇動してステファノに石をもって襲いかかりました。その中でも、「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、」(7:55)とあります。聖霊に満たされることにより、①主イエスが見え、②死の恐れからも解放され、③周りが良く見えるようになり敵対する人々さえとりなす(同60)姿に教えられます。「聖霊に満たされる」とは、別世界の話ではなく、クリスチャンなら誰でも可能です。少なくともそういう一瞬は経験しています。ただ持続できないのです。心の隅々まで「聖霊に満たされる」ことを日々求めてまいりましょう。