2021年12月5日の礼拝宣教から

「憐れみは主を畏れる者に」    ルカ福音書1章47-55節

津村春英 牧師

宗教改革者J.カルヴァンは、もともと人の心には神を畏れるものを宿していると書いています(『キリスト教綱要第1篇』第3章)。今日は、「主なる神を畏れる(恐れる)」という話題です。イエスの母となるマリアは、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」(1:47-50)と賛美しました。

主の僕女であるとへりくだるマリアが、救い主イエスを身ごもったのは「主の憐れみ」であり、「偉大なこと」であると歌うのです。これは旧約聖書に出てくるサムエルの母ハンナの歌に似ていて、「憐れみ」ヘブライ語ヘセドは、敵や問題からの贖い、死から命を守ること、罪からの贖いを意味することばです。そして、この主の憐れみは、「主を畏れる者に及ぶ」とあります。「主を畏れる」とは、絶対者にして超越者である神が、その御子を惜しまないで十字架にかけてまでして私たちの罪を贖って下さった、このお方の臨在を、へりくだっていつも覚えることです。この朝、この主の憐みを豊かに受けることができるよう、心を整えましょう。