2020年7月26日の礼拝宣教から

『御名によって守ってください』 ヨハネ福音書17章11-16節

牧師 津村春英

難病の筋委縮性側索硬化症(ALS)の女性患者が、その苦しみの果てに安楽死を望んだという事件に関し、様々な見解があると思います。人は最後に神に何を願うのでしょうか。

ヨハネ福音書では、主イエスは十字架にかけられる前に、御自分のためではなく弟子たちのために父なる神に願われました。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(17:11)そして、「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」(同15)と繰り返しておられます。なぜなら、弟子たちは間もなく主を失い、厳しい現実(cf.6:66; 9:22; 12:42; 16:2など)が待っていることが予測されたからです。私たちも今、コロナ禍で苦しんでいます。確かに「受苦せし者は学びたり」というギリシアの古いことわざもあり、何かを学ばねばなりませんが、その前に禍から守っていただかなければなりません。主イエスは弟子たちを、そして私たちを苦しめるものから守ってください、と父なる神に願い祈ってくださったのです。信仰をもって受け入れ心から感謝しましょう。

2020年7月19日の礼拝宣教から

『勇気を出しなさい』  ヨハネ福音書16章25-33節

牧師 津村春英

史上最年少の17歳で棋聖のタイトルを獲得された藤井聡太さんは、「将棋は本当に難しいゲームでまだまだ分からないことばかり。これからも探究心を持って対局に臨みたい」と言っておられました…。人生は本当に難しい。わからないことばかりです。実に難解です…。「しかし、勇気を出しなさい」(16:33c)と主は言われます。ヨハネの福音書ではここだけですが、この語は、「元気を出しなさい」(マタイ9:2, 22)、「安心しなさい」(マタイ14:27、マルコ6:50; 10:49)などとも訳されています。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(16:33)と主は言われます。わたしによって(あって)という条件、つまり、ぶどうの木(15章)にしっかりとつながっているなら、どんな激しい雨も風も嵐の中でも心に平和が与えられ勝利にあずかることができるというのです。

スメタナの交響詩『わが祖国より』の第二曲「モルダウ」は流麗な旋律で癒されますが、第五曲「ターボル」は、ボヘミヤの宗教改革者で、火あぶり刑に処せられても信仰を捨てなかったヤン・フスとその弟子たちの行動を描いていると言われます。勇気をもって進みましょう。

2020年7月12日の礼拝宣教から 

『苦しみは喜びに変わる』ヨハネ福音書16章16-24節

牧師 津村春英

 今日7月12日はNHKラジオ本放送開始日だそうです。音声が電気信号に変換され電波に乗せて遠くまで送られ、再び音声に変換されます。現在の電車の改札口では、わずか10cm程度の距離ですが、改札機とICカード間で、電磁誘導が起こり、電気信号に変換された情報が電波に乗せられ、0.1秒もの速さで通信されます。少し飛躍しますが、人生においても変換が必要です。

 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(16:16)と主イエスは言われました。前の「しばらくすると」は主イエスの十字架から埋葬、次の「しばらくすると」は復活を指すと考えられます。主の十字架刑は弟子たちにとって身を切られるほどの苦しみと推察します。しかし、「よくよく言っておく…あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる。」(聖書協会共同訳20節;下線部は新共同訳では「悲しみ」と訳されていますが、弟子たちの苦しみが女性の生みの苦しみに例えられているので、「苦しみ」が妥当)と主イエスは言われました。主の復活によって苦しみは喜びに変わるのです。

 世界的なコロナ禍も、日本列島を襲う記録的豪雨も、私たちに大きな苦しみをもたらしています。しかし、「喜びに変わる」時が必ず来ます。希望をもって進みましょう。

2020年7月5日の礼拝宣教から 

『弟子となるために』ヨハネ福音書15章1-10節

牧師 津村春英

 コロナ禍のもと、ヨハネ福音書を読んでみたいと思います。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(15:1, 2)とあります。ある注解者は、切られる枝の犠牲によって他の枝に実がなると誤解していますが、その枝そのものの一部が切られることによってもっと豊かに実るのです。人生において疫病のような突如襲いかかるものもあり、信仰者も数々の試練を経験します。例外はありません。しかし、それが実を豊かに実らせるためであるとするならどうでしょうか。このぶどうの木のたとえの背景に、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」(6:66)ことと、会堂追放(9:22; 12:42; 16:2)という厳しい現実があるのを見落としてはなりません。

 また、先に、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(13:35)という弟子の憲章があり、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(15:8)とあります。弟子は、主イエスのうちにとどまって(つながって)、互いに愛し合うという実を結ぶよう期待されているのです。

2020年6月28日の礼拝宣教から

『主イエスの平和』ヨハネ福音書14章25-31節

牧師 津村春英

先週の6月23日は太平洋戦争沖縄戦の犠牲者24万1593人の慰霊日でした。「平和の礎」の石碑にその名が刻まれているそうです。現在の平和はこれらの人々の上に築かれていることを忘れてはなりません。今、私たちはコロナ禍と戦っていますが、一刻も早くワクチンや薬が開発され、いろいろな制約から解放されて自由に生活できることを望んでいます。

聖書のヘブライ語シャーローム、その翻訳ギリシア語エイレーネー(現代ギリシア語ではイリニ)の邦訳には、「平和」と「平安」という語が当てられます。ヨハネ福音書では戦いという要素があり、「平和」と訳すのが適当と考えます。例えば、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(16:33)とあります。

確かに、主イエスは間もなく弟子たちのところから去られ、十字架に向かわれます。そして葬られますが、復活され、昇天されます。ヨハネ福音書版の最後の晩餐の席で、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(14:27)と言われました。信仰をもってこの御言葉を受け入れ、心から感謝しましょう。