2021年10月3日の礼拝宣教から

「走り抜こう」 ヘブライ人への手紙12章1-3節

牧師 津村春英

10月は運動会の季節です。背後で流れるクラシックの定番はオッフェンバックの「天国と地獄」、ハチャトゥリアンの「剣の舞」などです。これらは応援歌となっていますが、キリスト者も競技者に例えられ、ヘブライ書12章冒頭には励ましの言葉があります。「こういうわけで、私たちもまた、このように多くの証人に雲のように囲まれているのですから、すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。」(聖書協会共同訳12:1,2)。

雲のように囲む多くの証人は11章で縷々述べられた人々であり、信仰の先達たちです。特に下線部の「走り抜こう」が重要です。途上で困難や苦痛に見舞われますが最後までやり遂げる意味合いが込められています。また、「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら」ということも重要です。信仰を始めてくださったお方は、私たちと共にいてくださる導き手であり、完成まで導いてくださるお方なのです。目をそらせてはなりません。なぜなら、このお方こそ、前述の雲のように取り囲む人々以上に、私たちが生活に疲れ、弱り果ててしまわないように、神である喜びを捨てて人となり、恥をもいとわないで十字架を耐え忍ばれたからです。さて、私たちはどのように走っていますか。

2021年9月26日の礼拝宣教から

「豊かになるために」  コリント信徒への手紙二8章1-9節

牧師 津村春英

野球で外国人選手が天を指さす行為は感謝の表現だと言われます。教会では礼拝で感謝の献金をします。教会員はそれ以外に月定献金をします。これは教会の働きを維持するためで、会員としての最小限の義務ですが、主の恵みに感謝して献げるものであって、決して月謝や会費ではありません。

パウロの宣教活動によって生まれた教会は、パウロの勧めにより母なるエルサレム教会を支える献金をしたようです(ローマ15:25、コリント一16:1等参照)。コリント後書に出ているギリシア語で、感謝する・エウカリステオー(1:11)、感謝・エウカリスティア(4:15; 9:11, 12)という単語は、文字通り、恵み・カリスに関係しています。また、カリスだけで「感謝」と訳している箇所(2:14; 8:16; 9:15)もあります。つまり、恵みと感謝は表裏一体です。エルサレム教会への献金の根拠を、「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(8:9)と書いていますが、神であるお方が人となり、十字架におかかりになったこと、それが主の貧しさであり、それが主の恵みです。こうして私たちは救われ、豊かなものとされるのです。私たちは主の恵みにどれだけ感謝しているでしょうか。 

2021年9月19日の礼拝宣教から

「背負ってくださる神」  イザヤ書46章1-4節

牧師 津村春英

9月21日は敬老の日です。当教会では70歳以上の兄姉が敬愛され祝われる対象者で、とうとう私もその中に入ってしまいました。一般的に高齢者には現在と将来の不安が付きまといます。聖書の歴史の中で、個人として民族としてそのような経験をした人々がいます。紀元前8世紀から6世紀のイスラエルの民です。

サウルに始まったイスラエル王国はダビデ、ソロモンを経て、北と南に分断され、やがて北はアッシリアに滅ぼされ、南はその難を逃れたもののバビロニア(現在のイラクを中心とした地域を治めていた)によって滅ぼされ、一部の人々は捕囚の憂き目を経験します。しかし、そのバビロニアもペルシャ(現在のイランを中心とした地域を治めていた)によって滅ぼされ、イスラエルの民は捕囚から解放されるのです。このことがイザヤ書に預言されてあり、46章にはバビロニアの偶像神、ベルとネボが倒され、人々がそれらを背負って逃げますが、イスラエルの神は人々を背負う神であると書かれてあります。しかも、「わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(46:4)とあります。これは主を信じる人々への言葉でもあります。心から感謝し、厳しい現実の中でも信仰をもって人生を全うしたいものです。

2021年9月12日の礼拝宣教から

「主イエスの弟子道」  ルカ福音書14章25-33節

牧師 津村春英

全世界が震撼した米国の9.11同時多発テロ事件から20年が経過しました。実行犯はアルカーイダのジハード(聖戦)のために訓練された戦士でした。人は学んだことを行動に移します。ですから、何を学ぶかが問われます。

主イエスはついてくる群衆に振り向いてこう言われました。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:26)と。「弟子」の語源はギリシア語もヘブライ語も「学ぶ」からきています。「憎む」の反意語はセム的用法では「愛する」なので、何よりも誰よりも「主」を愛することが求められているのです。ただし、この厳しすぎると思われる条件は、定着して日常生活をするためではなく、今から「旅」をするのですから、彼らはすべてのものを後ろに置いてゆかねばならなかったからです。しかもその旅の終焉は主イエスの十字架なのですから、弟子たちは死を覚悟する(自分の十字架を負う(同27))必要があったのです。

主イエスと共に歩む旅、それは主イエスの弟子道です。真の弟子となるためには学ばなければなりません。待ち受けている困難に耐えていけるでしょうか。何よりも誰よりも主を愛する信仰をもって、そして主はどんなときにも共にいてくださり最善に導いてくださると信じ進みましょう。

2021年9月5日の礼拝宣教から

「ピスガの頂から」  申命記34章1-8節

牧師 津村春英

 我が国の首相になり得る自民党総裁選が行われるようです。後継者(精神的なものまで受け継ぐ意で、継承者の方が適切か)は誰になるのか興味深いのですが、残念ながら私たちの手の届かぬところで選ばれます。

 出エジプトを指導してきたモーセの後継者としてヨシュアが主によって立てられ、モーセは約束の地を前にして自らの終焉の時を迎えます。「モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。」(34:1)「あなたはしかし、そこに渡っていくことはできない」(同4)とありますが、それに対するモーセの言葉は記されていません。申命記では、すでに 1:37; 3:27; 31:1; 32:4で、モーセ自身はそこには入っていくことができないと繰り返し言われてきたこともあり、悔しいとか残念だとかいう思いよりも、むしろ、信仰によって、今までの歩みを感謝し、自分の使命を果たし得たことに満足して、示された地を見渡したのではないかと筆者は考えます。ちなみに、服部嘉明師は、1、4、5節に「主」が繰り返されていることを指摘し、それは「神ヤハゥエの主権的なみわざ」であると周囲の人々は確信していたと解釈しています。さて、私たちも経験する人生の「ピスガの頂」では、主が示されるところをどのような思いで見渡すのでしょうか。