2021年2月21日の礼拝宣教から   

『偽りのない愛』ローマの信徒への手紙12章9-21節

牧師 津村春英

使徒パウロは、当時の世界の中心であるローマの教会の信徒たちに対して、キリスト者はどうあるべきかについて手紙に記しました。まず、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、」(12:9)とあります。偽りの愛とは、悪を退け、善に密着すること、が直訳です。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」また、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」さらに、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:14, 17, 19, 21)とあります。これらは主イエスの言葉に遡る(cf.マタイ5:39; 44など、ただしこのローマ書が先に書かれました)と考えられますが、十戒の教えを超えています。

夭逝のキリスト者詩人、八木重吉の詩に、「わたしは床の間に磔の図をかけておく その前ではとうてい人を憎みとおせない」とあります。偽りのない愛、それは主イエス・キリストの十字架に見られる愛です。主は、悪に対して悪をかえさず、善をもって悪に勝たれました。その極みが十字架です。私たちも、この「偽りのない愛」を自分のものとできるように励みましょう。

2021年2月14日の礼拝宣教から 

『ヨセフの信仰・神の摂理』 創世記 50章15-21節

牧師 津村春英

旧約聖書のヨセフは12人男子兄弟の11番目でしたが、その言動により兄たちから恨まれ、結果的にエジプトに売られ、そこでも無実の罪で投獄されます。しかし、ファラオ(王)の夢を解き、エジプトの司政者にまで上り詰めます。その頃、ひどい飢饉があり、かの兄弟たちがカナン地方からエジプトに食料を求めにやってくることによって再会します。何度かの接触の後、ヨセフは言います。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(50:20)。これがヨセフの信仰であり、神の摂理です。なお、下線部は「あなたがた」と「神」が対照され、しかも、「たくらむ」と「変える」(意訳)と訳されている原語のヘブライ語は、「考える」という同じ単語です。直訳すれば、「あなた方は私に悪を謀ったが、神はその悪を善のために計られた」となります。

主イエス・キリストを、当時の支配者、指導者たちは、ねたみ、恨み、亡き者にしようと謀りました。しかし、神は、その悪を善のために計られました。それは主イエスの十字架刑によって全人類を救うためでした。人生に試練、苦難はつきものです。しかし、神はすべての悪を将来の善として計ってくださるのです。信じて感謝し、今、与えられている務めに励みましょう。

2021年2月7日の礼拝宣教から

『一粒の麦』 ヨハネによる福音書 12章20-26節

牧師 津村春英

NHKテレビ大河ドラマ「麒麟が来る」が最終回を迎えます。果たしてどんな結末になるのでしょうか。主人公の明智光秀も織田信長も死なせたくないと思う人がいることでしょう。歴史として伝えられているのはいくつかの点で、それをつないで線となし、さらに広げて面をつくり、さらに立体的なものへと描き上げるのが脚本家の力量です。

新約聖書の主人公はイエス・キリスト。イエス・キリストは死なねばならなかったのです。弟子たちにとって主人が死んでは困りますが、死なねばならなかったのです。それはユダヤ人のためだけではなく、全人類が救われるためです。ヨハネの福音書には、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12:24)と書かています。一粒の麦はイエス・キリストで、多くの実は信じ救われる人々を指しています。

さだまさしの「ひとつぶの麦」という歌は、アフガニスタンの砂漠化した大地に用水路を建設し農村を復興した故中村哲医師を追悼する歌で、その歌詞に「私に出来ることをなせば良い」とあります。主が、そして誰かが、私の一粒の麦になってくださったので今日の私があると思います。それでは、私たちは誰かの一粒の麦になれるでしょうか。

2021年1月31日の礼拝宣教から   

『主こそ神と知れ』   詩編 100篇1-5節

牧師 津村春英

 日本には自然界を支配する海の神、山の神、商売や学問の神、さらに縁結び、病気をいやす神など、「八百万(やおよろず)の神」があると言われています。大阪日本橋の近くにも七福神のえべっさん、だいこくさんが起源の恵比寿町や大黒町という地名、駅名があります。

 旧約聖書の民は、「知れ、主こそ神であると。/主はわたしたちを造られた。/わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。」(詩編100:3)」と呼びかけられています。「主」とは出エジプトを導かれた神、ヤハゥエ(「主」と訳す)で、創造者であり、羊飼いのようにその民を養育される神だというのです。「知る」の言語ヘブライ語は「ヤーダ」で、知る、理解する、承知する、気づく、発見する、親しくなる、精通するなどの深い意味があり、男性が女性と関係を持つこともヤーダで表現されます(新約聖書マタイ1:25の「関係することはなかった」の直訳は「知ることはなかった」)。またイエス・キリストも「主」と呼ばれます(フィリピ2:9-11)。

私たちはどれほど「主」を知っていますか。直面しているコロナ禍という試練の中にあって、私たちを創り、養ってくださる「主」こそ、私の神であることを告白し、この恵み深い主を日々感謝と賛美をもって礼拝しましょう。

2021年1月24日の礼拝宣教から   

『イエス・キリストの名によって』 使徒言行録 3章1-10節

牧師 津村春英

 20分ほどのバイデン米国大統領就任演説の最後に、やはり聖書の引用がありました。「夕べは涙のうちに過ごしても、朝には喜びの歌がある」(詩編30:6・聖書協会共同訳)。いつかコロナ禍は終わります。その時が必ず来ます。

使徒言行録3章に生まれつき足の不自由な男の癒しの話があります。彼は足が癒されるまで文字通り自立できませんでした。それで毎日、多くの人が往来する場所に置いてもらっていたのです。当時の社会では、生まれつき体が不自由なのは罪との関係があると見られ(ヨハネ9章参照)、心身共につらい人生を歩んでいたと思われます。しかも40歳を過ぎていた(4:22)とありますが、ついにその時がやって来たのです。「午後三時の祈り」は夕べの祈りと言われ、彼が施しを乞うためにはその日の最後のチャンスでした。そこに、ペトロとヨハネが通りかかり彼を見つめて言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 (3:6)と。彼はこの言葉を信じて立ち上がり、踊りながら、神を賛美しながら、二人と共に宮の中に入って行ったとあります。まさに起死回生です。あなたの持っているものはあなたを支えることができるでしょうか。信じてイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きましょう。