2021年12月26日の礼拝宣教から

「主を賛美せよ」  詩編146篇1-10節

津村春英 牧師

「ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。命のある限り、わたしは主を賛美し長らえる限りわたしの神にほめ歌をうたおう。」(146:1-2)と作者は自らのうちに求め、主に向かって歌います。そして、地上の支配者に頼るのではなく、歴史を貫いて働かれる主なる神を助けとし、望みをこの主に置く人こそ幸いであると歌っています(同3-5)。その理由、根拠は何でしょうか。それは、主が、困窮者、弱者つまり、①虐げられている人②飢えている人③捕らわれている人④目の見えない人⑤うずくまっている人⑥従う人(直訳・義の人)⑦寄留の民⑧みなしごとやもめ(身寄りがない人)を助けられるからだというのです(同7-9)。これは恵みです!

内村鑑三は、「キリスト教の伝道は表白であります。 これは「なんじ、罪を悔い改めよ」というのではなくして、『われわが神の恩恵(めぐみ)によりてかく成るをえたり、われはなんじにこのことを知らせんと欲す』ということであります。」と書いています(『一日一生』、下線は筆者)。

私たちはこの一年、コロナ禍の中を、様々な問題の中を通ってきました。ここまで来ることができたのは、主の恵みです!主に心から感謝し、心の底から主を賛美しつつ、新しい年に向かいましょう。 

2021年12月19日の礼拝宣教から  

「あなたは救い主を見ましたか」  ルカ福音書2章8-20

津村春英 牧師

「11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。…16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」(2:11, 16, 17)。下線部の原語は、単に見たというのでなく、見たかったものを見たのであり、その光景をじっと見て、その見た結果、心に何らかの変化があったことを意味していると考えられます。羊飼いたちはそういう見方をしたのです。ですから、人々に伝えざるを得なかったのです。わたしたちは、どういう見方をしていますか。「あなたは救い主を見ましたか」。

「サンタクロースを見た人はいません。けれども、それは、サンタクロースがいないというしょうめいにはならないのです。……サンタクロースがいない、ですって? とんでもない! うれしいことに、サンタクロースはちゃんといます。それどころか、いつまでもしなないでしょう。一千年のちまでも、百万年のちまでも、サンタクロースは、子どもたちの心を、いまとかわらず、よろこばせてくれることでしょう。」(『サンタクロースっているんでしょうか?』中村妙子訳:1897年、ニューヨークの新聞社に投書した8歳の少女の質問に対する答えが社説に載ったもの)

2021年12月12日の礼拝宣教から

「あなたの場所はありますか」  ルカ福音書2章1-7節

津村春英 牧師

「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(2:6,7)とありますが、「初めての子」は「初子の男子」、「布」は「産着」の方が妥当で、出産に備えて「産着」を持参していたと考えられ、「布」に貧しさを求めない方が良いと思います(原文は「くるむ」という動詞だけ)。そして、「宿屋」は「客間」が好ましく、この単語はルカ22:11の「部屋」であり、ルカ10:34の「宿屋」ではありません。しかし、彼らの泊まった場所、飼い葉桶のある場所は、素晴らしい場所だったのです。最初の発見者の羊飼いたちが比較的容易に出入りでき、その場所で救い主を探し当て、感動して神を賛美しながら帰って行ったのです。

「あなたの場所はありますか」と尋ねられたとき、「ない」と言われるなら、それはあなたの期待している場所がないということですね。今あなたがおられるところ、それはあなたの求めている場所ではないかもしれません。しかし、そこが、神様が用意してくださった、救いが現れる素晴らしい場所であるとするなら、どうでしょうか。「あなたの場所は確かにある」と言えるのではないでしょうか。

2021年12月5日の礼拝宣教から

「憐れみは主を畏れる者に」    ルカ福音書1章47-55節

津村春英 牧師

宗教改革者J.カルヴァンは、もともと人の心には神を畏れるものを宿していると書いています(『キリスト教綱要第1篇』第3章)。今日は、「主なる神を畏れる(恐れる)」という話題です。イエスの母となるマリアは、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」(1:47-50)と賛美しました。

主の僕女であるとへりくだるマリアが、救い主イエスを身ごもったのは「主の憐れみ」であり、「偉大なこと」であると歌うのです。これは旧約聖書に出てくるサムエルの母ハンナの歌に似ていて、「憐れみ」ヘブライ語ヘセドは、敵や問題からの贖い、死から命を守ること、罪からの贖いを意味することばです。そして、この主の憐れみは、「主を畏れる者に及ぶ」とあります。「主を畏れる」とは、絶対者にして超越者である神が、その御子を惜しまないで十字架にかけてまでして私たちの罪を贖って下さった、このお方の臨在を、へりくだっていつも覚えることです。この朝、この主の憐みを豊かに受けることができるよう、心を整えましょう。

2021年11月28日の礼拝宣教から 

「実を結ぶ若枝」    イザヤ書11章1-5節

津村春英 牧師

コロナウイルスの新たな変異株オミクロン株が今、問題になっています。この株は、英語ではstrain、株式の株はstock、そして今日、着目する株はstump切り株です。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち」(11:1)と旧約の預言者イザヤは預言しました。「エッサイ」はダビデの父ですが、ユダ王国を指し、「芽」や「若枝」は、直接的には第二のダビデを意味します。「育ち」と訳されているヘブライ語パーラーは「実を結ぶ」とも訳されます(邦訳ではフランシスコ会訳、新改訳2017など)。イザヤ10章の切り倒されたレバノンの大木はアッシリアを指すのに対して、ユダはぶどうの木のように実を結ぶ木に例えられているのでしょう。このように北イスラエルを倒したアッシリアも、そしてユダも、やがてバビロンによって滅ぼされますが、切り倒されたという絶望的な状況の中から、救い主が生まれ、民に救いがもたらされる(実を結ぶ)という希望の預言なのです。新約時代の人々は、この「実を結ぶ若枝」をイエス・キリストと理解しました。

クリスマス、それは救い主イエス・キリストのご降誕をお祝いするときです。悲惨な現実の中にも救いがある、希望があるということを教えられます。感謝して、このお方を私たちの心にお迎えしましょう。