2021年3月28日の礼拝宣教から   

『十字架上の叫び』 マルコによる福音書15章33-41節

牧師 津村春英

ムンクの『叫び』は、デフォルメされた人が耳をふさぐほどの、自然を貫く叫び(心の叫び)を表現しているのだそうです。では、主イエスの「十字架上の叫び」は何だったのでしょうか。その答えは百人隊長の「本当に、この人は神の子だった」(15:39)にあります。主イエスの「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)は、失望の言葉でなく、苦痛の極みからの恨み節でもなく、全ての人の罪を贖うための苦闘の叫びなのです。こうして、「人の子は…多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。」(10:45)が実現するのです。これが福音です。今日、私たちはこの百人隊長のように、主を受け入れることができますか。

御愛を忘れようとする わが魂にふたたび

十字架上で苦しむ キリストの御姿を見させたまえ

みもとを離れようとする わが魂にふたたび

十字架上から語る キリストの御言葉を聞かせたまえ

御心に背こうとする わが魂にふたたび

十字架上から落ちる キリストの御血潮を注ぎたまえ

水野源三「ふたたび」『み国をめざして』 

2021年3月21日の礼拝宣教から   

『新しい生き方』エフェソ4章17-24節

牧師 津村春英

春は新しい旅立ちの季節です。その旅をこれからどのように歩んで行くのでしょうか。

使徒パウロは、キリスト者に厳しい言葉で勧め命じています。「異邦人と同じように歩んではなりません」(4:17)と。勿論、使徒言行録に出てくるように神を敬う異邦人はいましたが、彼らは、知性(神を知るための理解力)が暗くなり、無知と心のかたくなさのゆえに神の命から遠く、感覚が麻痺し、好色に身を任せ、ふしだらな行いにふけっていると非難されています(同18,19)。そもそも「弟子」(マセーテース)とは「学ぶ」(マンサノー)者です。「あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。」(同20,21)とあります。古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされ新しい人を着ることだと勧められているのです。

人生の新しい門出に、新しい服を着た時のことを思い起こしましょう。そのように、いつも、神にかたどって造られた新しい人を着て歩みましょう。

「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」(コリント二5:17聖書協会共同訳)

2021年3月14日の礼拝宣教から   

『恵みにより信仰により』 エフェソ2章1-10節

牧師 津村春英

東日本大震災から10年の歳月が流れました。この未曽有の惨禍の教訓を風化させてはいけないと被災者の方々の声が響きます。

使徒パウロもイエス・キリストの出来事を伝えるために、生涯をかけて奮闘しました。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」(2:1,2)と書いています。下線部とそれ以降は、あなたがたは、この世(コスモス)の時代(アイオーン)に従い、さらに不従順な子(神を信じない者)たちに今も働く霊、つまり、空中の権威を持つ支配者である悪霊に従って歩んでいた、と解せます。しかし、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(同8)とあります。恵みにより(原因、理由)信仰により(手段)救われたというのです。

恵みはイエス・キリストの十字架による贖罪を意味します。そして、「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(同10)とあります。私たちは与えられた恵みに心から感謝し、造られた目的にふさわしく、善い業に励みたいものです。

2021年3月7日の礼拝宣教から   

『救いは主のもとに』 詩編3篇1-9節

牧師 津村春英

現代数学で最も重要な難問とされる「ABC予想」(整数の足し算と掛け算、その二つの演算の絡み合い方に関する問題)を証明したとされる望月新一京都大学教授の論文「宇宙際タイヒミューラ理論」が学術誌に記載されることが話題となっています。私には理解する能力はありませんが、人生における「救いとは何か」も、難問中の難問です。どのように解きますか。

ダビデ王がその子どもたち・異母兄弟間に問題が発生したときにどのように解決しましたか。「ダビデは激しく怒った」(サムエル記下13:21)、「ダビデは衣を裂いた」(同13:31)とあるだけで、何らアクションをとっていません。事件の当事者である息子アブシャロムはやがて疑心暗鬼に陥り、ついにダビデに殺意を抱き行動に出ます。ダビデは哀れにも都を後にして頭を覆い裸足で逃げるのですが、詩編3篇はその時のダビデの心境を歌ったものだと言われます。ダビデは今までに経験したことのない「どん底」の孤独の中で歌い祈ります。「主よ、それでも/あなたはわたしの盾、わたしの栄え/わたしの頭を高くあげてくださる方。」(3:4)「救いは主のもとにあります。あなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。」(3:9)と。これは自分自身の祈りであり、とりなしの祈りでもあり、また、すべての問題の解答なのです。  

2021年2月28日の礼拝宣教から   

『主を忘れるな』 申命記8章11-20節

牧師 津村春英

出エジプトを導いたモーセは約束の地を前にして、イスラエルの民に次のように語りました。その地に定着し、衣食住が満たされても、「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」(同17, 18)と語りました。下線部は、‘The New Brown, Driver, and Briggs Hebrew and English Lexicon of the Old Testament’によると、単なるrememberではなく、recallやkeep in mind「心にしっかり覚えておく」と解釈しています。

日本人初のノーベル賞受賞者湯川秀樹氏の、「中間子理論」発表までの歩みを綴った『旅人』(角川文庫)の終わりの部分には、「峠の茶屋で重荷をおろして、一休みする気持ちに例えることができる」とあり、また、「是非とも書いておかねば気のすまないことが二つある」。それは、自分の研究の環境を与えてくれた人々への感謝と、その研究に協力してくれた人々への感謝だとあります。私たちは、人生の峠の茶屋で何を考えますか。必要のすべてを与え導いてくださっている神様に感謝をささげることができますか。そして、苦しみの時も喜びの時も主なる神様を心にしっかりと覚えておくことができますか(ローマ8:28)。