2020年9月13日の礼拝宣教から

『感謝の歌をささげよう』 詩編71篇14-20節

牧師 津村春英

 わたしは小さいころから歌うことが大好きでした。中学の音楽会で独唱、学生時代にはフォークソンググループを結成、社会に出てからは市民合唱団に入りました。ただ、学生時代にアメリカから来られた宣教師に出会ってから、主イエス・キリストを紹介され、救い主として受け入れ、主なる神を賛美することの素晴らしさを知りました。

 「わたしは常に待ち望み/繰り返し、あなたを賛美します。」(詩編71篇14節)

 この作者は老域に達していると思われます(フランシスコ会訳は明確)。そして、今まで歩んできた人生を顧みながら、「あなたは多くの災いと苦しみを/わたしに思い知らせられましたが/再び命を得させてくださるでしょう。地の深い淵から/再び引き上げてくださるでしょう。」(同20)と、将来への希望をもって歌っています。 苦しいところを通ってきましたが、神は決してお見捨てにならない、これこそが感謝の歌の根拠なのです。

 あなたは一度しかない人生をどう送りますか。そして、最後も大事です。若い人も他人ごとではありません。弱さに打ち勝つ信仰、それは主を賛美することです。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ8:10)とあるように。

2020年9月6日の礼拝宣教から

『人生は神の賜物』コヘレトの言葉3章1-15節

牧師 津村春英

  聖書には、「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(3:1)とあります。「定められた時」は原語ヘブライ語でエート(ギリシア語訳でカイロス)の一語で、ちょうどふさわしい時であり、ある時点を示しつつ、長く続くことのない時を意味しています。今はコロナ禍の中にある時です。しかし、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」(3:11)とあるように、永遠という尺度で物事を見るように奨められています。コヘレト(1:1、集会を指導する者、伝道者の意)は言います。「わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と」(3:12)つまり、人生は神の贈り物なのです。

 わたしたちのこの人生は、わたしにしかない、他の人が経験できない、他の人とは違う人生です。素晴らしい人生を与えていただいたことに感謝しましょう。そして、神を畏れ敬いながら歩みましょう(3:14)。「人生は刺繍を裏から眺めているようなものだと思う。糸が交差し、もつれあい、結び玉があり、混沌としている。しかし、表に一幅の絵が織りなされるために、その絵が色彩よく、精巧なものであるためには、それだけ、裏面は複雑でなければならないのだ」(渡辺和子『愛をつかむ』)。

2020年8月30日の礼拝宣教から 

『誰が、十字架につけたのか』  ヨハネ福音書19章14-22節

牧師 津村春英

 8月29日朝のNHKラジオで作家の冲方丁(うぶかた・とう)さんが、コロナ禍のもと、二つの大切な言葉を挙げておられました。それは「慎み」と「嗜み(たしなみ)」で、前者はみんなで我慢すること、後者はリラックスすることだそうです。嗜むは辞書によると「好んで親しむ」ともあります。聖書を嗜むことは大切ですが、信仰者にはそれだけでは不十分です。

 ヨハネ福音書によると、いよいよ主イエスが十字架刑の宣告を受けるシーンで、祭司長たちをはじめユダヤ人らが「十字架につけろ」と叫びました。しかも「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」とまで虚言しました。それでピラトはユダヤ人たちにイエスを引き渡し、彼らはゴルゴダでイエスを十字架につけました。その罪状は「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」とヘブライ語(ユダヤ人の言語)、ラテン語(ローマの言語)、ギリシア語(当時の世界の公用語)で書かれ、すべての人々が対象になっています。

 水野源三さんの詩に、「ナザレの主イエスを 十字架にかけよと 要求した人  許可した人  執行した人 それらの人の中に 私がいる」とあります(水野源三「私がいる」『わが恵み汝に足れり』)。これが信仰の原点です。いったい誰が、主を十字架につけたのでしょうか。自分の胸に問うてみましょう。

2020年8月23日の礼拝宣教から 

『見よ、この人だ』  ヨハネ福音書18章38b-19章7節

牧師 津村春英

来る11月のアメリカ大統領選に向け、政権を奪還したい民主党は副大統領候補にアフリカ系アメリカ人女性を指名しました。「副大統領はこの人です」ということです。

ヨハネ福音書によると、ピラトはイエスのことを、「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と繰り返しますが(18:38; 19:4, 6)、そこにいたユダヤ人たちはイエスを侮辱して、王らしく冠(いばらで編んだ)をかぶせ、紫の衣を羽織らせて嘲弄しました。しかも、過越の祭りの慣例の恩赦としてイエスが選ばれることにも反対しました。ピラトは、「見よ、この人だ」(19:5聖書協会共同訳)と言いました。ピラトにとっては捨て台詞のようであったかもしれませんし、祭司長たちや下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ」と叫んだとあります(19:6)。ところで、ヨハネによる福音書では「見る」ことは「信じること」につながります(4:29; 20:29など)。サン=テグジュペリは、「『「心で見なくちゃ、ものごとは良く見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ』『かんじんなことは、目には見えない』と、王子さまは、忘れないようにくりかえしました。」と書いています(『星の王子さま』内藤濯訳、岩波書店)。わたしたちは、毎日の生活の中で、どのように主イエスを見ているのでしょうか。

2020年8月16日の礼拝宣教から 

『真理に属する者』  ヨハネ福音書18章33-38a節者』

牧師 津村春英

 キリスト者の墓石の多くに、フィリピ3:20の言葉が刻まれています(当教会の墓石にも)。聖書協会共同訳が、「私たちの国籍は天にあります」というふうに、新共同訳が下線部を「本国」と訳したものを口語訳(文語訳)に戻したことは妥当なことです(ただし、ギリシア語のポリテウマの直訳は「市民権」)。このように、キリスト者はそれぞれの国家に属しているだけでなく、御国に属しています。

 「イエスはお答えになった。わたしの国は、この世には属していない。……そこでピラトが、『それでは、やはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』」(18:36, 37)とあります。下線部の「真理」とは神の属性であり、イエス・キリストのうちに啓示されました(1:14; 8:32; 14:6など)。「属する」とは、源泉であり、依って立つことを意味します。この「真理に属する」ことはすべての人に開かれています(3:16など)。あなたは真理に属する人ですか。あなたは天に国籍を持つ人ですか。真理に属すると言う人は、主イエスの言葉を聞かなければなりません。コロナ禍の中でこそ、主の御声を聞き取らなければなりません。