2021年 5月 2日の礼拝宣教から

『行き着くところはどこか』 ローマ 6 章 15-23 節

牧師 津村春英

先週は、「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ 8:22)というみことばをいただきました。それは罪の奴隷からの解放を意味しています。主イエスはまた、人は何かのくびきにつながれているが、「わたしのくびきを負いわたしに学びなさい」(マタイ11:29)と言われました。確かに現代社会に生きるわたしたちは何かに隷属しています。

パウロは次のように言っています。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」(ローマ6:16)と。なお、「神に従順に仕える奴隷」は受動的でなく積極性を意味しています。さらに、「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、…どんな実りが ありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、 死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実 を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」(同20-22)と。ただし、「聖なる生活の実」は未来的に訳すのが最近の傾向です。

今、コロナ禍の中に置かれていますが、私たちの行き着くところをしっかりと確認しながら、喜びと祈りと感謝と従順をもって日々歩みたいものです。

2021年4月25日の礼拝宣教から

『真理はあなたたちを自由にする』 ヨハネ福音書8章31-38節

牧師 津村春英

新型コロナウイルスの感染拡大防止のための緊急事態宣言が再発令され、大阪府知事も昨今の状況を鑑み、「個人の自由を大きく制限することがある」と述べています。今、「自由」とは何かを考えさせられます。

主イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(8:31, 32)と言われました。ここでいう「真理・アレーセイア」とは、主イエス・キリストご自身であり(1:14, 17; 14:6など)、そのみことばです。他方、ここでいう「自由」とは、原語の語源から奴隷の解放を意味しています。それで、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(同32)と主は言われたのです。罪とは悪行だけをいうのではありません。上記ユダヤ人の心中にあるイエスをねたみ、イエスを殺そうとする思い(同37)が罪だと言われたのです。

私たちも例外ではありません。人を憎む、許せない、それが罪なのです。ついには自分の前から消えて欲しいと思う。それは殺人に匹敵します。ですから罪なのです。私たちは今、コロナ禍という奴隷状態にありますが、それ以上に罪の奴隷なのです。真理である主イエスとそのみことばにより、罪の奴隷から解放され自由にされなければなりません。

2021年4月18日の礼拝宣教から   

『第一人者になりたい人は』 マルコ福音書10章35-45節

牧師 津村春英

わが国と米国の第一人者同士の初会談が報じられました。主イエスの弟子の内、側近中の側近ヤコブとヨハネは、主が栄光をお受けになるときには、特別な地位に取り立ててくださるように頼みました。すると主は次のように言われました。「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:44,45)と。

多くの人が一番を目指しますが、一番にならなくてよいのかもしれません。先頭は風当たりが強いことを覚悟しなければなりません。しかし、もしなりたいなら、「仕える人」になりなさいと主は言われたのです。それが第一人者のしかるべきスタンスで、それは、主イエスが、すべての人のために、その人の罪の贖い、身代金として自らの命を投げ出された姿に現されているのです。実際には、弟子たちは、誰が一番というよりも、それぞれ身を挺して助け合わなければなりませんでした。当時のローマ帝国の力をもってすれば、キリスト者の集まりなどは一息の、風前の灯火でした。私たちも、このコロナ禍の中にあって、自分のことだけでなく、励まし合い、助け合い、祈り合い、仕え合うことが重要ではないでしょうか。    

2021年4月11日の礼拝宣教から   

『霊によって生き返る』 エゼキエル37章1-14節

牧師 津村春英

旧約聖書に登場する預言者イザヤ、エリヤに次ぐエゼキエルは、エルサレムから王と共にバビロンに捕囚となりました。さらに追い打ちをかけるように都エルサレムの陥落が後に伝えられます。この絶望と思えるような中にあって、主の御手がエゼキエルに臨み、彼は幻を見ます。ある谷の真ん中に、おびただしい数の枯れた骨を見せられました。主は言われました。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。」37:11, 12)と。その回復の鍵は、「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。」14)にあります。この「霊」はヘブライ語で「ルーアハ」で、エゼキエル37章には、1, 5 , 6, 8, 9×2, 10, 14節にあり、5, 6, 8, 9, 10節では「息」とも訳されています。

 

M兄は晩年、この神の霊ルーアハの話に感動され、ルーアハにより生かされ、良い証し人としての生涯を全うされました。私たちも、コロナ禍による捕囚のような状況にあっても、ルーアハにより生かされ、希望をもって進みましょう。 

2021年4月4日の礼拝宣教から   

『あの方は復活なさった』 マルコによる福音書16章1-8節

牧師 津村春英

イースターということば自体は聖書には出てきませんが、良く知られているように、主イエス・キリストの復活祭なのです。日曜日の朝早く、女性たちは墓に向かいました。彼女たちは主が葬られるのを見ていました。その墓の前にはとてつもない大きな石が置かれてあることも知っていましたが、信仰をもって進みました。すると、その石は、動かされていて、墓に入ることができたのです。そして、そこで彼女たちは天使に出会い、「あの方は復活なさった」ということばを聞いたのです。

鈴木正久牧師はその著で「私たちが、この復活のよろこばしい日に主をあがめる、主のみわざを賛美する、何かを主に捧げるとすれば、それはどういうものでしょうか。…それはあの弱さを清算することだということです。」と書いています(『鈴木正久説教集』)。私を信仰に導いてくださった米国人宣教師夫人マリアン・ソーリ師はリタイヤされた後に、顔面に悪性黒色腫を発症し、ついには失明に至りますが、「次に私が目にするのは、天国に私を迎えてくださる私の救い主、イエス・キリストのお顔です。」と私に最後の手紙をくださいました。彼女は、痛み、苦しみ、弱さ、死の恐れの中で、この復活信仰をもち続けたのです。私たちはどうでしょうか。