2020年10月25日の礼拝宣教から

『望みえないのに望みを抱く』ローマ4章13-25節

牧師 津村春英

 「彼はこの神、すなわち、死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです。彼は、望みえないのに望みを抱いて信じ、その結果、多くの国民の父となりました。『あなたの子孫はこのようになる』」と言われているとおりです」(聖書協会共同訳ローマ4:17, 18)。これは創世記のアブラハムの信仰についての引用です。「死者を生かし、無から有を」とは、死んだも同然の超高齢のサラの母胎に実を結ばせ、イサクを与えられたことについて語っているのです。当時、子がない夫婦は恥と嘲笑の対象で、アブラハムは人生のどん底を経験しましたが、主のみ言葉を信じたのです。「それが彼の義と認められた」(同22)とありますが、これはアブラハムだけでなく、主イエスが死者の中から甦らされた方を信じる私たちにも適用されるとあります。

 朝ドラの「エール」に永井隆博士が登場し、原爆による廃墟の中で、ある人が「神はいるのか」という問に対し、「どん底まで落ちよ」と答えたシーンがありました。どん底にも大地があるということで、「なぜ、どうして」と言っている間は、希望はないとのことばも印象的でした。コロナ禍のもと、キリスト者もいかに生きるかが問われているのです。あなたは、望みえないのに望みを持ち続けることができますか?

2020年10月18日の礼拝宣教から

『あなたがたに平和があるように』ヨハネ福音書20章11-18節

牧師 津村春英

 道を行く人々が金木犀(キンモクセイ)の甘い香りにふと立ち止まります。花言葉は、「謙虚」「謙遜」などだそうです。私たちはいつもキリストの香り(コリント二2:15)を放ちたいものです。

 「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。」(20:21, 22)とあります。弟子たちは主イエスからまず、平和、平安を与えられ、派遣されて行きました。福音宣教のための派遣の保証は「聖霊」でした。内村鑑三は次のように書いています。「キリスト教をただ学んだとて、それでその教理より力をうることはできない。哲学的にいくら深く研究しても、キリスト教は仏教、儒教などと多く異なるところはない。…キリスト教の真理と共に、神の聖霊を仰がねばならない。キリスト教を生かすも、殺すも、まったく聖霊の力によるのである。」(『一日一生』角川書店p.227.下線部筆者)。当教会の初代牧師河邊貞吉師も「聖霊に満たされる」ことを力説されました(『河邊貞吉説教選集』参照)。私たちもここで、この礼拝の中で、主の平安をいただき、聖霊に満たされて、遣わされてまいりましょう!

2020年10月11日の礼拝宣教か 

『誰を捜しているのか』ヨハネ福音書20章19-23節

牧師 津村春英

 マグダラのマリアは最愛の主イエスを失い、心が折れそうでしたが、墓に戻ってきました。墓の外に立って泣きながら身をかがめて墓の中を見ると二人の白い衣を着た天使が目に入りました。彼らがマリアに声を掛けると、マリアは、遺体の行方が分からないと泣き続けましたが、後ろを振り向くと、そこにイエスが立っておられるのが見えました。しかし、それがイエスだとはわかりませんでした。園の番人と勘違いし、遺体のありかを尋ねるというありさまでした。恐らくまた墓の方を見たのでしょうが、「マリアよ」というイエスの懐かしい声に、再び振り向いて「ラボニ」(私の先生)と答えたのです。イエスは、すがりついていないで兄弟たちに「天の父の所に上る」ことを伝えなさいとお命じになりました。マリアは弟子たちの所に行って「私は主を見ました」と告げ、主からの伝言を届けました。この「主を見た」は8節の「見て、信じた」と同じ語でマリアの信仰を表しています。マリアは遺体のイエスを捜していましたが、復活されたイエスを見て信じたのです。

 私たちが執着している「墓」とは何でしょうか。名を呼んでくださる復活の主を信じ、その墓を背にして方向転換し、新たな目標に向かいましょう。必ず、恵みと慈しみが後からついてきます(詩編23篇6節)。

2020年10月4日の礼拝宣教から

『主の復活、何を見たのか』ヨハネ福音書20章1-10節

牧師 津村春英

 「日本学術会議」の新会員について、同会議が推薦した候補者105人のうち6人を除外して首相が任命したことに対して批判の声が上がり、その理由説明が求められています。新約聖書、とりわけ四福音書において登場する人物は、必ずしも同じ比重で書かれてはいません。そこにはそれぞれの書の書かれた目的があり特徴があり、名前が何度もあげられる人、名前さえ出てこない人、クローズアップされる人、ただ名前だけあげられる人など様々です。

 今日の聖書の箇所に登場する「イエスが愛しておられた弟子」は、ヨハネ福音書では重要な人物で、伝統的解釈では十二弟子の一人(13: 23)、ゼベダイの子ヨハネであり、この書を記した人物です(21:24)。そして、この弟子が、「見て、信じた。」(20:8)とあるように、最初に主イエスの復活を信じた人であると記されています。では、何を見て、信じたのでしょうか…。「空っぽの墓」を見て、主の復活を信じたのです。復活された主に直接出会ってはいませんが、信じたのです。これは、私たち現代人に近い状況です。あなたは、主イエスの復活を信じますか。いつか天でまみえる日を望みますか。また、先に逝った、愛する人々と再会できると信じることができますか(cf.ヘブライ11:1)。

2020年9月27日の礼拝宣教から 

『ヨセフとニコデモ』ヨハネ福音書19章38-40節

牧師 津村春英

 主イエスの遺体を葬ったアリマタヤのヨセフとニコデモについて、ヨセフは四福音書に出ていますが、ヨハネ福音書ではユダヤ人を恐れ(cf.12:42)、イエスの弟子であることを隠していたと紹介されます。ちなみに、マタイ福音書ではヨセフは金持ちでイエスの弟子、マルコ福音書では身分の高い(直訳:家柄の良い)議員、ルカ福音書では議員で、善良で正しい人で同僚の決議や行動に同意しなかったと紹介されています。他方、ニコデモはヨハネの福音書だけに登場します(3章と7章と19章)。

 ローマ法では、遺体の引き渡しは近親者に行われましたが治安を乱した犯罪人はハゲタカの餌食になり、ユダヤ法では、犯罪者の場合は家族の墓でなく町の外の共同墓地に納めたと言われます。ところが、イエスの場合は、ピラトがイエスは犯罪人でないとわかっていたこともあり、議員であるヨセフが申し出たので遺体の引き渡しが許可されたのでしょう。そしてニコデモも没薬とアロエを混ぜたものを100リトラ(約33kg)持参しました。そして遺体はまだ誰も使っていない墓に納められました。ただし、この二人のこれらの言動に何の称賛の言葉もありませんが、へりくだって彼らにしか出来ないことを成したのです。では、私たちにしか出来ないこととは何でしょうか。