2021年11月14日の礼拝宣教から

「刈り入れの喜び」   ヨハネ福音書4章31-38節

津村 春英

日本のプロテスタント・キリスト教会、とりわけ福音派を標榜する教会の信仰者は、ともすれば先祖を軽視しがちだと思います。それは祖先崇拝に至ることを危惧するからです。ところが旧約聖書の歴史書には多くの系図が見られ、新約聖書でもマタイ福音書は系図で始まっています。ですから、キリスト者も先祖を大切にすべきだと思うのです。だからと言って、お骨やお墓を拝むのではありません。拝むべき方は神様だけです。

ヘブライ書11章では旧約聖書に出てくる信仰の偉人が列挙され、12章ではそのような偉人に雲のように囲まれているので、各々、定められた人生レースを走り抜くように勧められています。そして、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」(13:7)とあります。雲のように群れなす人々の中に、私たちより先にその道を完走した信仰者の家族も含めたいと思います。彼らも私たちにみ言葉を語りました。「思い出しなさい」は「覚えていなさい、心に留めていなさい」とも訳すことができ、継続した勧めなのです。先人が厳しい現実の中にあっても信じ抜いたお方、イエス・キリストは、昨日(過去)も、今日(現在)も、いつまでも(未来)変わらない、と約束されています(同8)。先人の信仰に倣って希望をもって進みたいと思います。

2021年11月7日の礼拝宣教から

「先人に思いをはせる」  ヘブライ人への手紙13章1-8節

津村 春英 牧師

日本のプロテスタント・キリスト教会、とりわけ福音派を標榜する教会の信仰者は、ともすれば先祖を軽視しがちだと思います。それは祖先崇拝に至ることを危惧するからです。ところが旧約聖書の歴史書には多くの系図が見られ、新約聖書でもマタイ福音書は系図で始まっています。ですから、キリスト者も先祖を大切にすべきだと思うのです。だからと言って、お骨やお墓を拝むのではありません。拝むべき方は神様だけです。

ヘブライ書11章では旧約聖書に出てくる信仰の偉人が列挙され、12章ではそのような偉人に雲のように囲まれているので、各々、定められた人生レースを走り抜くように勧められています。そして、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」(13:7)とあります。雲のように群れなす人々の中に、私たちより先にその道を完走した信仰者の家族も含めたいと思います。彼らも私たちにみ言葉を語りました。「思い出しなさい」は「覚えていなさい、心に留めていなさい」とも訳すことができ、継続した勧めなのです。先人が厳しい現実の中にあっても信じ抜いたお方、イエス・キリストは、昨日(過去)も、今日(現在)も、いつまでも(未来)変わらない、と約束されています(同8)。先人の信仰に倣って希望をもって進みたいと思います。

2021年10月31日の礼拝宣教から

「神はわたしたちの避けどころ」詩編46篇1-12節

津村 春英

人生は見方によれば苦難の連続です。私たちには「避けどころ」が必要です。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」(2)とあります。「避けどころ」とは、旧約聖書の用法では実際には豪雨や洪水からの避けどころです(ヨブ24:8; イザヤ4:6; 25:4; 28:15など)。「砦」は「力」とも訳されます。強固な石垣で囲まれた砦は力の象徴です。「必ずそこにいまして助けてくださる」は意訳で、直訳は「大いに見出される助け」です。この詩の背景には、南ユダ王国が北のアッシリアからの攻撃を受け、城壁の町が次から次と陥落し、ついにエルサレムまで迫っていた状況が考えられます。エジプトに助けを求めようという民の思い(イザヤ30:2; 31:1)に対し、預言者イザヤは、主なる神に助けを求めよと勧めました。

今日の箇所には「罪」という言葉こそ出てきませんが、そんなに素晴らしい神がおられるのに、エジプトに助けを求めることが、神の選民と言われた古代イスラエルには神への裏切りであり、罪でした。では、私たちにとってエジプトとは、その戦車とは、騎兵とは何でしょうか…。苦難のとき、私たちも真の避けどころであり、力である神に向かわねばなりません。罪を贖ってくださった主イエス・キリストが導いてくださいます(ヨハネ14:6)。

2021年10月24日の礼拝宣教から

「覆いは取り除かれる」コリント信徒への手紙二3章12-18節

安 喆寓信徒伝道師

コリントに伝道活動をしていたパウロにとって、旧約聖書に親しんできたユダヤ人との距離を縮める糸口は見つかりにくい状況であったと思われます。したがって、パウロは、出エジプト記34章29-35節を引用して、再び十戒を石に書き記してシナイ山を降りていたモーセのことを語ります。「モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません」(3:13)。ユダヤ人たちが読んでいた旧約聖書を古い契約として、エレミヤ書31章31節に書いている新しい契約のことと対比します。そして、モーセの顔に掛けられた覆いは、この新しい契約、すなわちキリストにおいて取り除かれると語りかけます。「しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです」(同14)。パウロはそのような状況を諦めず、主の方に向きを変えていくように示されます。「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」(同16)。自分自身が主の方に方向転換をして今まで被っていた覆いを取り除かれ、罪と死から救いを得ることです。

もう一つは、神様から与えられた御霊なる主の働きによって、主ご自身に従っていく生活を歩むことです。わたしたちは、常に神様の御言葉を聞き、その栄光を見るとき、また、キリストを見るとき、変えられます。パウロはこのように祈っています。「心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」(エフェソ1:18)。それぞれの信仰の道を今週も続けて歩みましょう。

2021年10月17日の礼拝宣教から

「主の言葉を聞く」 列王記下20章12-21節

牧師 津村春英

わが国の新しい首相は、自らを「聞き上手」と発言していますが、今後の政治運営でその真価が問われます。

紀元前700年頃の南ユダ王国の王ヒゼキヤは、預言者イザヤから「主の言葉を聞きなさい」(20:16)と言われました。事の発端は、東のバビロンからの使者たちに、王宮にあるものすべてを見せてしまったことです。王としては大失態でした。それ故、イザヤの語る言葉はユダ王国に対する神の厳しい審判でした。ところが、ヒゼキヤはイザヤに、「『あなたの告げる主の言葉はありがたいものです』と答えた。彼は、自分の在世中は平和と安定が続くのではないかと思っていた。」(同19)とあります。下線部は自己中心のように聞こえ、人物評価が下がってしまいます。ところが、前の18章に、「彼は主の目にかなう正しいことをことごとく行い……イスラエルの神により頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった」(18:3-5)とあり、次の20節には、彼のたぐいまれな功績も書かれていることから、ヒゼキヤは、神の厳粛な裁きを真摯に受け止めつつ、その中にも憐れみがあり、神のなさることは最善であると感謝してその言葉を受け入れたのではないでしょうか。わたしたちも、どのようなときも、「主の言葉はありがたい」と聞くことができるでしょうか。