2022年3月20日の礼拝宣教から

「主にゆだねる」   創世記15章1-6節

津村春英 牧師

毎日伝えられるウクライナの惨状に心を痛めています。一日も早く平和が訪れるように、そして荒廃した国土が再建できるように祈らねばなりません。

旧約聖書のアブラハム(アブラム)は波乱万丈の人生を送りました。不可解な事柄も経験しました。本日の聖書の箇所では、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(15:6)がキーワードです。下線部のヘブライ語原文を英語に訳せば、believed in the Lord となります。つまり、前置詞inに相当するヘブライ語「べー」が「主」に接頭されていて、「主を深く信じた」という意味合いになります。「あなたの子孫は数えきれない空の星のようになる」との神からの約束を信じたのです。アブラハムは、最初、妻が差し出した僕女ハガルによって男児イシュマエルもうけますが、離れなければならなくなります。その後、やっと妻サラとの間に男児イサクが与えられますが、その息子を献げるよう神に命じられ、その子に向かって刀を下ろす寸前に救われます。森有正は、「いかに失敗を重ねても、アブラハムには神に対する本当の信仰というものが根底においてあったからです。」と評しています(『光と闇』p.33)。アブラハムは、主にすべてをゆだねることができるほどに主を信じていたのです。私たちもそういう信仰をもちたいものです。

2022年3月13日の礼拝宣教から

「主を告げ知らせる」   詩編92篇1-16節

津村春英 牧師

詩編92篇は、「安息日のための賛美」という表題です。どういう賛美でしょうか。「いと高き方よ、なんと喜ばしいことか/主に感謝し/あなたの名をほめ歌うことは。朝に、あなたの慈しみを/夜ごとに、あなたのまことを告げ知らせることは。」(92:2,3・聖書協会共同訳)とあります。下線部のヘブライ語は「トーブ」で「素晴らしい」とも訳せます。主に感謝し、主の御名を賛美し、朝にその慈しみを、夜ごとにその真実(まこと)を告げ知らせることは、なんと素晴らしいことか、と詩人は歌っているのです。

さらに、「あなたの業はなんと大きく/あなたの計らいはいかに深いことか。」(同6)と歌います。確かに、私たちに対する主のお考え、ご計画は、実に深いと言わざるを得ません。主イエスの十字架がその最たるものです。私たちも、時には手の込んだ複雑なプロセスを経ることもありますが、最終的にはそれが最善であったと、多くのキリスト者が証言しています。使徒パウロも言っています。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリント一10:13)と。この主の証人として今週も希望をもって旅を続けましょう。

2022年3月6日の礼拝宣教から

「主の日」    マラキ書3章19-24節

津村春英 牧師

今や世界中の人々が、ロシアの攻撃が激化するウクライナの成り行きを、 固唾を呑んで見ていると思われます。このままでは首都が陥落してしまいそ うですが、その日までに、何とか救われる道はないものかと祈ります。

旧約聖書の最後の書、マラキ書は、「わたしはあなたを愛してきた」(1:2) で始まりますが、紀元前 5 世紀頃のイスラエルの民は宗教的、倫理的に退廃 していたようです。祭司たちも堕落していました。彼らが救われる道は、正 しい祭儀の確立と律法に従った生活を取り戻すことでした。「見よ、その日が 来る/ 炉のように燃える日が。/ 高慢な者、悪を行う者は/ すべてわらのよ うになる。……しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/ 義の太陽が昇る。/ その翼にはいやす力がある。/ あなたたちは牛舎の子牛のように/ 躍り出て跳 び回る。」(3:19, 20)とあります。「その日」(主の日)は、神に背を向ける 者たちには厳粛な裁きの日であり、他方、神を信じる者たちには救いの日で、 いやされるというのです(太陽の翼とは太陽光線)。だからこそ、「わが僕モ ーセの教えを思い起こせ。」(同 22)と命じられているのです。私たちは神に 愛されています。毎日が主の日です。主のみことばをいつも思い起こし、そ のみことばに自らをゆだねていく歩みをしたいものです。

2022年2月27日の礼拝宣教から

「神の御旨に従う」  コロサイの信徒への手紙 1章 9-14節

津村春英 牧師

ロシアのウクライナ軍事侵攻で世界中が騒然としています。プーチン氏のウクライナに対する歴史認識にも疑問が投げかけられています。ところで、私たちの神に対する歴史認識はどうでしょうか。

パウロ一行は、コロサイの教会の兄姉たちのために祈りました。「どうか、”霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように」(1:9-11)と。下線部の原語は、エピグノーシス(深く知る)で、二度繰り返されているように、キーワードと考えられます。人に従うためには、その人を良く知る必要があるように、神に従うためには、歴史の中にあらわされた神の御旨を知らねばなりません。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(同19-20)が重要な出来事です。歴史を通して私たちを愛し続けてくださっているお方の御旨を深く知って、御旨に従って歩むことをこの朝、決意しましょう。

2022年2月20日の礼拝宣教から

「主こそわが光」  ミカ書7:8-10節

津村春英 牧師

今回の冬季オリンピックで、競技者の実力もさることながら、コーチとの関係が重要だということを考えさせられました。コーチcoachとは1500年代の馬車であり、「大切な人をその人が望むところまで送り届ける」という意味だそうです。聖書に登場する真の預言者は、神から遣わされた人物ですが、古代イスラエルの民の、そして私たち信仰者の人生のコーチ的存在です。

ミカは紀元前8世紀に、エルサレムから遠く離れたペリシテに近い田舎町ガト)で活動した預言者でした。彼が見た幻に、「わたしは主に罪を犯したので/主の怒りを負わねばならない/ついに、主がわたしの訴えを取り上げ/わたしの求めを実現されるまで。主はわたしを光に導かれ/わたしは主の恵みの御業を見る。」(7:9)とあります。「わたし」、つまりイスラエルの民は、罪(神から離れ、闇と称される社会的退廃)ゆえに、主の怒りを身に受けなければなりませんでしたが、「たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光」(同8)とあります。この光は人の心の内を照らし、罪を明らかにし、悔い改めが求められますが、それとともに救いの道をも照らし、そこに導いてくださるのです。コロナ禍をはじめ、私たちの苦境のときも「主こそ光」であることを忘れてはなりません。