2021年8月15日の礼拝宣教から

御名をほめたたえよう』 詩編92篇1-7節

牧師 津村春英

今日は8月15日。言わずと知れた終戦(敗戦)記念日で、韓国では光復節(クァンボッチョル)です。そして今日は安息日(私たちにとっては主の日)ですが、どのように過ごしますか。

詩編92篇は、「安息日のために」(聖書協会共同訳)とあります。作者は、「いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは いと高き神よ、御名をほめ歌い」(2)と歌い始めます。下線部は、ヘブライ語では「トーヴ」で、喜ばしい、素晴らしい、麗しい、良い、などと訳される語です。主に感謝することは素晴らしいことなのです。

さらに、「わたしは御手の業を喜び歌います。」(5b)「主よ、御業はいかに大きく 御計(おんはか)らいはいかに深いことでしょう。」(6)と歌います。自分の半生を振り返ってみて、一つ一つに主の深い御計らいがあったことを覚えます。新約の使徒パウロも、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:8)と書いています。

いつ収束するか、先の見えないコロナ禍の中にあって、どんなときも主を信じ、主に愛されていることに感謝し、いつも主をほめたたえて進みたいものです。

2021年8月8日の礼拝宣教から

平和を求め、これを追え』 ペトロ手紙一3章8-12節

牧師 津村春英

毎年この頃になると、戦争のことを考えざるを得ません。過去の過ちを二度と繰り返してはなりません。いつの時代も求められるのは平和です。旧約聖書にある「目には目、歯には歯」(出エジプト21:24)は、制限命令であったにもかかわらず、復讐してもよいというふうに理解されがちですが、新約聖書では、キリスト者は教会内外の人々に対して平和に過ごすようにと教えています。パウロ書簡も福音書も、そして今日のペトロの手紙一も、主イエスのお姿とそのお言葉に根拠を置き、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。」(9)「悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」(11、詩編34:15の引用)のように勧められていて、決して好戦的ではありません。

インドで55年間宣教師として働かれたエミー・カーマイケルは、「わたしの人生を根底から揺るがすような試練には会いたくないともし思うならば、ひどい仕打ちを受けること、孤立すること、不快な状況に置かれること、理解できない試みに会うことを、もし避けようとするならば、その時わたしは、カルバリの愛をまったく知らない」と書いています(『カルバリの愛を知っていますか』p.70)。主イエスに深く学ぶことが求められています。

2021年8月1日の礼拝宣教から

『最後まで耐え忍ぶ人』 マタイ福音書24章3-14節

牧師 津村春英

東京オリンピック2020、最後まであきらめないで頑張るアスリートの姿に励まされます。主イエスは弟子たちに、やがて起こる出来事について話されました。人に惑わされないように、戦争の騒ぎやうわさを聞いても慌てないように気をつけなさいと。また、飢餓や地震が起こるが、それらは産みの苦しみの始まりである。彼ら自身に迫害が臨み、キリスト者の多くはつまずき、互いに裏切りあい、憎み合うようになる。また、偽預言者も現れ、多くのキリスト者が惑わされ、自己中心的になり人々への愛、神への愛が冷える。しかし、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(13)と言われました。

ナチスの強制収容所経験者であり精神科医であったビクトール・フランクルは、極度の苦難の中を耐えて生き延びることのできた人は、待っている仕事がある人、待っている愛する人がいると考えていた人であったと書いています(V.E.フランクル『それでも人生にイエスと言う』山田邦男、松田美佳訳、春秋社、2014、p.174)。つまり、厳しい苦しみの中にあっても近未来の希望をもっていた人なのです。私たちはどうですか。コロナ禍の中にあって、希望をもっていますか。究極の希望は主にお会いすることです。最後まで耐え忍ぶ人でありたいものです。

2021年7月25日の礼拝宣教から

『ほかの人を遣わしてください』 出エジプト記4章10-17節

牧師 津村春英

昨今のコロナ禍で、開催の是非が問われた中、東京オリンピック2020が始まりました。かつて、「参加することに意義がある」といわれたオリンピズムでなく、やはり金(きん)を目指す戦いです。また、アスリートには気の毒ですが、コマーシャリズムのオリンピックは一考を要すると思います。

さて、あの偉大なモーセは、神から任務を与えられたとき、考えに考えました。それは彼の人生の大問題だったからです。「私は言葉の人ではなく口が重く舌も重いのです」という言い訳に対し、主が共にいてくださる、しかも雄弁な兄のアロンの助けがあると諭されます。しかし、「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」(13)と執拗に拒絶します。

服部嘉明師は、ギデオン、イザヤ、エレミヤなどを挙げ、「神が使命を与えて人間を召し、お用いになる場合、…人間としての弱さや欠点をよくご存じでありながら…用いられることがしばしばである。」と書いています(『出エジプト記に聞く』pp.36-37』)。私たちにも弱さや欠点がありますが、主のご用に召されているのです。最後にモーセは、「あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」(17)と送り出されます。モーセは杖をもって、私たちは信仰をもって、さあ一歩を踏み出しましょう!

2021年7月18日の礼拝宣教から

一人も失うことがない』 ヨハネ福音書6章34-40節

牧師 津村春英

サッカーのFIFAワールドカップに出場したミャンマーの選手が、母国のクーデターに抗議の意思を示して帰国拒否をし、難民申請をしています。日本政府はどう対応するのでしょうか。

主イエスは、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(6:37)と言われました。どういうことでしょうか。群衆が主イエスのもとにやって来て問答をします。主は、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(32)と言われたのに対し、彼らは「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(34)と言うと、主は、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して乾くことがない。」(35)と言われ、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(39)と言われました。この「失わない」という語は、有名な3:16の「滅びない」と同じ語で、これらは響き合っています。 ウイリアム・バークレーは、人が神を信じるのは、神は偉大で、すべてを超越して賢いからという理由だけでなく、わたしたちを理解する愛を持っておられるから、と書いています(『希望と信頼に生きる』柳生直行訳、pp.257-258)。「一人も失うことがない」、それは愛ゆえです。