2022年3月27日の礼拝宣教から  

「主は私たちのために」   イザヤ53章4-6節

2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻して約1か月が経過しました。破壊された建物と人々の犠牲は悲惨ですさまじいものです。祈らねばなりません。昨日3月26日は、1945年(昭和20年)に連合国軍が沖縄に上陸した日で、戦闘は3か月にも及び、多くの人々の命が奪われ、地形が変わるほど破壊されました。今日の平和は、その犠牲の上に成り立っています。

さて、旧約聖書では、「罪」についておおよそ次の三つの語が使われています。ハッタート(誤り、的外れ)、アーオーン(咎、不義)、ペシャ(背き、反逆)です。初期教会の人々が信仰の土台としたイザヤ書の「四つの僕の歌」の一つ、53章には、「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背き(ペシャ)のためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎(アーオーン)のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(53:5)とあります。「彼」を主イエス・キリストと理解し、自分たちの罪の身代わりとして、主は苦しみをお受けになり、その打たれた傷によって、私たちは癒された、とキリスト者は信仰告白したのです(cf.ペトロ一2:24-25)。私たちの人生という道には、上り、下り、カーブがいくもあります。私たちの心の平安は、癒しは、どこにあるのでしょうか。この主イエス・キリスト以外にありません。

2022年3月20日の礼拝宣教から

「主にゆだねる」   創世記15章1-6節

津村春英 牧師

毎日伝えられるウクライナの惨状に心を痛めています。一日も早く平和が訪れるように、そして荒廃した国土が再建できるように祈らねばなりません。

旧約聖書のアブラハム(アブラム)は波乱万丈の人生を送りました。不可解な事柄も経験しました。本日の聖書の箇所では、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(15:6)がキーワードです。下線部のヘブライ語原文を英語に訳せば、believed in the Lord となります。つまり、前置詞inに相当するヘブライ語「べー」が「主」に接頭されていて、「主を深く信じた」という意味合いになります。「あなたの子孫は数えきれない空の星のようになる」との神からの約束を信じたのです。アブラハムは、最初、妻が差し出した僕女ハガルによって男児イシュマエルもうけますが、離れなければならなくなります。その後、やっと妻サラとの間に男児イサクが与えられますが、その息子を献げるよう神に命じられ、その子に向かって刀を下ろす寸前に救われます。森有正は、「いかに失敗を重ねても、アブラハムには神に対する本当の信仰というものが根底においてあったからです。」と評しています(『光と闇』p.33)。アブラハムは、主にすべてをゆだねることができるほどに主を信じていたのです。私たちもそういう信仰をもちたいものです。

2022年3月13日の礼拝宣教から

「主を告げ知らせる」   詩編92篇1-16節

津村春英 牧師

詩編92篇は、「安息日のための賛美」という表題です。どういう賛美でしょうか。「いと高き方よ、なんと喜ばしいことか/主に感謝し/あなたの名をほめ歌うことは。朝に、あなたの慈しみを/夜ごとに、あなたのまことを告げ知らせることは。」(92:2,3・聖書協会共同訳)とあります。下線部のヘブライ語は「トーブ」で「素晴らしい」とも訳せます。主に感謝し、主の御名を賛美し、朝にその慈しみを、夜ごとにその真実(まこと)を告げ知らせることは、なんと素晴らしいことか、と詩人は歌っているのです。

さらに、「あなたの業はなんと大きく/あなたの計らいはいかに深いことか。」(同6)と歌います。確かに、私たちに対する主のお考え、ご計画は、実に深いと言わざるを得ません。主イエスの十字架がその最たるものです。私たちも、時には手の込んだ複雑なプロセスを経ることもありますが、最終的にはそれが最善であったと、多くのキリスト者が証言しています。使徒パウロも言っています。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリント一10:13)と。この主の証人として今週も希望をもって旅を続けましょう。

2022年3月6日の礼拝宣教から

「主の日」    マラキ書3章19-24節

津村春英 牧師

今や世界中の人々が、ロシアの攻撃が激化するウクライナの成り行きを、 固唾を呑んで見ていると思われます。このままでは首都が陥落してしまいそ うですが、その日までに、何とか救われる道はないものかと祈ります。

旧約聖書の最後の書、マラキ書は、「わたしはあなたを愛してきた」(1:2) で始まりますが、紀元前 5 世紀頃のイスラエルの民は宗教的、倫理的に退廃 していたようです。祭司たちも堕落していました。彼らが救われる道は、正 しい祭儀の確立と律法に従った生活を取り戻すことでした。「見よ、その日が 来る/ 炉のように燃える日が。/ 高慢な者、悪を行う者は/ すべてわらのよ うになる。……しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/ 義の太陽が昇る。/ その翼にはいやす力がある。/ あなたたちは牛舎の子牛のように/ 躍り出て跳 び回る。」(3:19, 20)とあります。「その日」(主の日)は、神に背を向ける 者たちには厳粛な裁きの日であり、他方、神を信じる者たちには救いの日で、 いやされるというのです(太陽の翼とは太陽光線)。だからこそ、「わが僕モ ーセの教えを思い起こせ。」(同 22)と命じられているのです。私たちは神に 愛されています。毎日が主の日です。主のみことばをいつも思い起こし、そ のみことばに自らをゆだねていく歩みをしたいものです。

2022年2月27日の礼拝宣教から

「神の御旨に従う」  コロサイの信徒への手紙 1章 9-14節

津村春英 牧師

ロシアのウクライナ軍事侵攻で世界中が騒然としています。プーチン氏のウクライナに対する歴史認識にも疑問が投げかけられています。ところで、私たちの神に対する歴史認識はどうでしょうか。

パウロ一行は、コロサイの教会の兄姉たちのために祈りました。「どうか、”霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように」(1:9-11)と。下線部の原語は、エピグノーシス(深く知る)で、二度繰り返されているように、キーワードと考えられます。人に従うためには、その人を良く知る必要があるように、神に従うためには、歴史の中にあらわされた神の御旨を知らねばなりません。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(同19-20)が重要な出来事です。歴史を通して私たちを愛し続けてくださっているお方の御旨を深く知って、御旨に従って歩むことをこの朝、決意しましょう。