2022年10月23日の礼拝宣教から

「かぐわしい香り」   フィリピの信徒への手紙4章15~20節

津村春英 牧師

金木犀のよい香りが漂っています。この香りにはリラックス効果があると言われます。旧約聖書の時代には、信仰者は神にいけにえを献げ、その香りが天に届くように願いました。

 パウロは、主イエス・キリストの福音宣教のために、迫害を受け、投獄もされますが、いつも喜んでいました(フィリピ1:4, 18; 2:17; 4:10)。ヨーロッパ宣教の初穂、フィリピで救われた人々は、このパウロの働きを背後から支援しました。「また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。」(4:16)と感謝しています。そしてパウロは、「私はあらゆるものを受けており、有り余るほどです。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って、満ち足りています。それはかぐわしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」(同18・聖書協会共同訳)と書いています。彼らの行いは単なる善行ではなく、キリストがまず愛してくださって、ご自分をいけにえとして、よい香りの供え物として神にささげてくださった(エフェソ5:2)ことが動機であり、その放つ香りは神に献げられるキリストのかぐわしい香りなのです(コリント二2:14)。私たちの香りはキリストのかぐわしい香りですか。

2022年10月9日の礼拝宣教から

「宣教者」      使徒言行録28章23-31節

津村春英 牧師

 ノーベル賞受賞者が連日発表されています。貴重な研究や働きが評価されたのです。主イエスの福音を宣教する使徒パウロは当時の人々からどのように評価されたのでしょうか。エルサレムの同胞のユダヤ人から、いわれなき理由で暴力を受け、訴えられます。紆余曲折を経て、皇帝に上訴するためにローマに護送されます。ところがローマに着くと、待ち構えていたように、「ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。」(28:23 )とあります。二つの下線部の訳は、ユダヤ人が拠って立つ旧約聖書を用いて、「納得するように説明を続けた」のであって、説き伏せようとしたのではありません。それに対し、「ある者は話を聞いて納得したが、他の者は信じようとはしなかった。」(同24・共同訳)という評価でした(イザヤ6:9-10)。

 宣教者は命を懸け、息の続く限り、語り続けるのです。私たちの中にも宣教者が必要です。たとい自分が直接そうならなくても、宣教者のサポートはできます。宣教者が生まれるように祈ることもできるのではないでしょうか。今朝、聖霊はあなたにどのように語りかけておられるでしょうか。

2022年10月2日の礼拝宣教から

御言葉を宣べ伝えなさい」   テモテへの手紙二4章1-5節

津村春英 牧師

相次いで70歳代の有名人の死亡が報じられました。健康維持のためには生活習慣病にならず、偏食を避け、適度の運動が必要です。季節は秋です。芸術の秋、読書の秋、スポーツの秋、行楽の秋、食欲の秋、そして何よりも教会にとっては「伝道の秋」です。聖書の御言葉を選り好みせず、バランスよく読むことと、「伝道」という運動が健全な信仰生活には必要です。

使徒パウロは愛弟子テモテに、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」(4:2)と勧めています。「折」の原語はカイロス(時機)で、良いカイロス、悪いカイロスであっても、御言葉を宣べ伝えなさいというのです。また、ここの「忍耐強く」とは、時間をかけることを意味しています。

今はどんな時代でしょうか…。コロナ禍が収まっても、この教会堂の礼拝に何人戻ってこられるでしょうか。この手紙は伝道者テモテだけに宛てられたものなのでしょうか。そうであるなら、伝道者以外は読まなくてもいいということになりますが、聖書の中に入っているということは全員が対象なのです。「キリスト者」が伝道せずして、一体、だれが伝道するのでしょうか。知恵を与えていただいて、祈りつつ励みましょう。

2022年9月25日の礼拝宣教から

「神の選び」   サムエル記上16章5-13節

津村春英 牧師

新しく即位されたイギリス国王が母・女王のように多くの人々から尊敬される王であってほしいものです。旧約聖書に登場する初代イスラエル王サウルは、主より人の目を恐れて不信仰に陥り、存命中にもかかわらず、主は預言者サムエルを、新しい王となるべき人物に油を注ぐために、ベツレヘムのエッサイの所に遣わしました。そこで、その七人の息子に会いますが、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(16:7)、つまり、目に見える姿、形ではなく、主は人の心を注意深く調べられると言われたのです。結局、彼らではなく、野で羊の世話をしている末子ダビデを主がお選びになられたのです。やがてダビデは王となり素晴らしい活躍をする一方で、大罪を犯し、一度は悔い改めますが、息子が引き起こした事件の処理のあいまいさゆえに、もう一人の息子に追われ、この二人の息子を失うという憂き目を経験します。

キリスト者も、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」(ヨハネ福音書15:16)とあるように、主イエスに選ばれた者ですが、ダビデがそうであったように、選びは永久ではありません。運転免許書の更新のように、実を結ぶために、「悔い改め」という更新が必要ではないでしょうか。