2021年9月19日の礼拝宣教から

「背負ってくださる神」  イザヤ書46章1-4節

牧師 津村春英

9月21日は敬老の日です。当教会では70歳以上の兄姉が敬愛され祝われる対象者で、とうとう私もその中に入ってしまいました。一般的に高齢者には現在と将来の不安が付きまといます。聖書の歴史の中で、個人として民族としてそのような経験をした人々がいます。紀元前8世紀から6世紀のイスラエルの民です。

サウルに始まったイスラエル王国はダビデ、ソロモンを経て、北と南に分断され、やがて北はアッシリアに滅ぼされ、南はその難を逃れたもののバビロニア(現在のイラクを中心とした地域を治めていた)によって滅ぼされ、一部の人々は捕囚の憂き目を経験します。しかし、そのバビロニアもペルシャ(現在のイランを中心とした地域を治めていた)によって滅ぼされ、イスラエルの民は捕囚から解放されるのです。このことがイザヤ書に預言されてあり、46章にはバビロニアの偶像神、ベルとネボが倒され、人々がそれらを背負って逃げますが、イスラエルの神は人々を背負う神であると書かれてあります。しかも、「わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(46:4)とあります。これは主を信じる人々への言葉でもあります。心から感謝し、厳しい現実の中でも信仰をもって人生を全うしたいものです。

2021年9月12日の礼拝宣教から

「主イエスの弟子道」  ルカ福音書14章25-33節

牧師 津村春英

全世界が震撼した米国の9.11同時多発テロ事件から20年が経過しました。実行犯はアルカーイダのジハード(聖戦)のために訓練された戦士でした。人は学んだことを行動に移します。ですから、何を学ぶかが問われます。

主イエスはついてくる群衆に振り向いてこう言われました。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:26)と。「弟子」の語源はギリシア語もヘブライ語も「学ぶ」からきています。「憎む」の反意語はセム的用法では「愛する」なので、何よりも誰よりも「主」を愛することが求められているのです。ただし、この厳しすぎると思われる条件は、定着して日常生活をするためではなく、今から「旅」をするのですから、彼らはすべてのものを後ろに置いてゆかねばならなかったからです。しかもその旅の終焉は主イエスの十字架なのですから、弟子たちは死を覚悟する(自分の十字架を負う(同27))必要があったのです。

主イエスと共に歩む旅、それは主イエスの弟子道です。真の弟子となるためには学ばなければなりません。待ち受けている困難に耐えていけるでしょうか。何よりも誰よりも主を愛する信仰をもって、そして主はどんなときにも共にいてくださり最善に導いてくださると信じ進みましょう。

2021年9月5日の礼拝宣教から

「ピスガの頂から」  申命記34章1-8節

牧師 津村春英

 我が国の首相になり得る自民党総裁選が行われるようです。後継者(精神的なものまで受け継ぐ意で、継承者の方が適切か)は誰になるのか興味深いのですが、残念ながら私たちの手の届かぬところで選ばれます。

 出エジプトを指導してきたモーセの後継者としてヨシュアが主によって立てられ、モーセは約束の地を前にして自らの終焉の時を迎えます。「モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。」(34:1)「あなたはしかし、そこに渡っていくことはできない」(同4)とありますが、それに対するモーセの言葉は記されていません。申命記では、すでに 1:37; 3:27; 31:1; 32:4で、モーセ自身はそこには入っていくことができないと繰り返し言われてきたこともあり、悔しいとか残念だとかいう思いよりも、むしろ、信仰によって、今までの歩みを感謝し、自分の使命を果たし得たことに満足して、示された地を見渡したのではないかと筆者は考えます。ちなみに、服部嘉明師は、1、4、5節に「主」が繰り返されていることを指摘し、それは「神ヤハゥエの主権的なみわざ」であると周囲の人々は確信していたと解釈しています。さて、私たちも経験する人生の「ピスガの頂」では、主が示されるところをどのような思いで見渡すのでしょうか。

2021年8月29日の礼拝宣教から

「この戦いは主の戦い」 サムエル記上17章41-47節

牧師 津村春英

昨日8月28日は、1963年米国ワシントンD.C.で行われたいわゆるワシントン大行進の記念日でした。Martin Luther King Jr.牧師の演説は有名ですが、人々は “We Shall Overcome.”(私たちは勝利する)と歌いました…。人生は見方によれば戦いの連続です。人は戦いの中で生きているとも言えるでしょう。

 紀元前1000年頃、古代イスラエルの民が西岸に住むペリシテ(パレスティナの語源)人と対峙している様子がサムエル記上17章に描かれています。身長が3m近くもある(6.5アンマ)ペリシテの戦士ゴリアテの前に、立ち向かう者はイスラエルの中で誰もいませんでした。ところが羊飼いである(17:34)少年ダビデが果敢に進み出て、こう言ったのです。「この戦いは主の戦いである。」(同47協会共同訳)。ゴリアトは「主」に挑戦しているのだと明言しました(同26,36参照)。ダビデは、ライオンや熊から守ってくださった主が今回も守って下さる(同37)との信仰の確信に立って、剣や盾ではなく、いつもの羊飼いの武器で、ゴリアトを打ち負かしたのです。

コロナ禍との戦いも、主の戦い、言い換えれば主が共にいてくださる信仰の戦いではないでしょうか。この信仰をもって前進しましょう。

2021年8月22日の礼拝宣教から

『イエス・キリストの名によって』 使徒言行録4章1-12節

牧師 津村春英

イスラム教スンニ派でパシュトゥーン人を中心としたタリバン(原意は神学生)が首都カブールを制圧し、アフガニスタンのほぼ全土を支配下におさめたと報じられました。政権崩壊から約20年後の奪回で、事の是非はともかく、これ以上の被害者が出ず平穏無事に収拾することを望みます。

主イエスとその後の時代、ローマ帝国支配下にあってユダヤ宗教社会を治めていた大祭司を中心としたサドカイ派は、復活を否定していました(使徒23:8)。ところが、ペトロとヨハネは、「イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝え」(4:2)、男の数で5,000人ほどの人がその言葉を信じました(同4)。そこで、サドカイ派だけでなく民の長老、律法学者を含めた議会が招集され、二人は尋問されました。しかしペトロは、聖霊に満たされて主イエスについて語りました。「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(同11,12、『』内は詩編118:22からの引用)と。

 コロナ禍の中であえぐ私たちも今、「イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい」(3: 6)と呼びかけられているのではないでしょうか。救いはこの方以外にないのですから。