2022年5月29日の礼拝宣教から

「みなしごにはしておかない」 ヨハネ福音書14章15-24節

津村春英 牧師

2022年5月6日の東京新聞社説「戦争と平和を考える トルストイを読み直す」に、「プーチン大統領よ、今すぐ読み直せ、と言いたい。」とありました。では、私たちは聖書をどのように読んでいますか。

 ヨハネ福音書研究で、書の成立の背景に会堂追放(9:22; 12:42; 16:2)という迫害があったとみる仮説(J.L.マーティン)があります。つまり、自分たちの厳しい状況と主イエスの出来事とを重ね合わせたと考えるのです。ヨハネ福音書では早くも13章から最後の晩餐が始まっていますが、ご自分が去ったあとに残される弟子たちに対して、「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである」(14:15・聖書協会共同訳)と語りかけられます。それは21、23節(私の言葉を守る)にも繰り返されていますが、この間に二つの約束があります。一つは、別の弁護者(真理の霊:聖霊、cf.イエスは弁護者(ヨハネ手紙一2:1))を遣わしてくださるよう、父に願われることであり、もう一つは、「あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたの所に戻って来る」(14:18、再臨)という約束です。これは、今日(こんにち)の私たちへのメッセージでもあります。繰り返しますが、私たちは聖書をどのように読んでいますか。

2022年5月22日の礼拝宣教から  

「信仰によって」 ヘブライ人への手紙11章17-22節

津村春英 牧師

アブラハムは独り子イサクを献げるように、神に命じられ、行動に移しました(創世記22章1-13節参照)。その理由を、ヘブライ書の著者は、「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。…アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。」(11:18-19)と表現しています。これは軽々しい言葉ではありません。下線部の原語のギリシア語「ロギゾマイ」は「ロゴス」が語源で、「信じた」というより、「よく考えた」の意味で、熟考の末、考えに考え抜いた結果、受け入れたということです。なぜなら、イサクは、長年の念願の息子であり、そこから子孫が生じるという約束を受けていた子だったからです。それはアブラハムにとって、極めて厳しい試練の時でしたが、最善をなさる神に全幅の信頼をおいて、前進したのです。勿論、神は、アブラハムが息子を屠ろうとしたその瞬間に助けてくださいました。

ヤコブ書では、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょう。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」(2:14)と告げています。アブラハムの信仰に倣い、今、一歩前進することができるよう、共に祈りましょう。

2022年5月15日の礼拝宣教から

「見捨てられることはない」 ルカ福音書15章1-7節

津村春英 牧師

 今日は沖縄の本土復帰50年の日です。焦土と化した地獄絵のような沖縄戦で、ある人々は、「見捨てられた」と思ったそうです…。

 ルカ福音書15章には、99匹の羊と見失った1匹の羊のたとえ話があります。前者は主イエスの時代のファリサイ派の人々や律法学者たちを指し、後者は徴税人や罪人と呼ばれる人々を指しています。当時の罪人とは罪を犯した人々だけでなく、娼婦たちや落ちぶれた人々(cf.放蕩息子)も含んでいたと考えられ、徴税人は、ローマ帝国のために同胞から税金を徴収した人々で罪人と同等でした。しかし、主は、この罪人、見失った1匹の羊を、見つけ出すまで探して歩くというのです。それは、まるで迷子になったわが子を必死で探す親のようです。見失った羊の発見は、罪人が悔い改めることを意味します。徴税人と罪人は、ファリサイ派や律法学者から軽蔑され見放されますが、主からは決して見捨てられることはないというたとえです。

9歳の時、赤痢の後遺症で目と耳以外の機能が奪われ、ほとんど一生、6畳一間で生活された水野源三さんも、主に見出され、悔い改めて主を信じ、「神さまの大きな御手の中で 私は私らしく生きる」と歌っています。見捨てられていない、神さまから愛されていると証言しているのです。

2022年5月8日の礼拝宣教から

「あなたの父と母を敬いなさい」  出エジプト記20章12節

津村春英 牧師

5月第2主日は「母の日」です。「十戒」の第5戒として知られている、「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」(出エジプト記20:12など)は、人間関係の倫理的な戒め(第6-10戒)というより、前の四つの戒めと同様に神との関係で解釈すべきだという見解があります。「敬う」のヘブライ語カーベードは「重い」の意味合いがあり、軽んじてはいけない、大切にしなさいという意味です。英語でもhonorという訳語が当てられ、尊敬の念を持ち、高く評価することで、respect(例えば、老人を敬う)とは区別されています。

マルコ福音書7:10-13には、神への供え物と偽って、父母を軽視する例がありますが、それに続く24-30には、ギリシア人の女が、わが子の病の癒しを主イエスに懇願するシーンが出てきます。異邦人でも、選民イスラエルの食卓から落ちるパンくずはいただけると言う、彼女の信仰と知恵と粘り強さに、ついに主は、彼女の娘の癒しを宣言されるのです。これがわが子を愛する母の姿です。父母を軽んじてはいけません。特に、神との関係において、父母を大切にし、その愛に応える生き方が、わたしたちに求められているのではないでしょうか。

2022年5月1日の礼拝宣教から

「立ち帰って、生きよ」 エゼキエル書18章30-32節

津村春英 牧師

知床の観光船遭難事故の懸命な捜索と原因究明が続けられていますが、天災以前の人災が問われています。事故は、死は、避けられなかったのでしょうか。再発防止のためには、古いやり方を一新する必要があると思われます。

 エゼキエルは、前5世紀末に捕囚の地で立てられた預言者と考えられますが、当時のイスラエルの民は、神の御心に背き、偶像礼拝に興じて宗教的に退廃し、倫理的にも乱れ、犯罪という悪に走っていました。エゼキエルは、その罪に対する神の裁きと避難の道を伝えました。「『それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、…悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。…お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。…お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」(18:30-32)と。「生きる」ことがポイントです。そのためには、罪を悔い改め(神へのあらゆる背きを投げ捨て、神に立ち帰り)、新しくされなければなりません。それは、「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」(聖書協会共同訳・コリント二5:17)に通じます。日々、悔い改め、キリストにあって新しくされて、生き甲斐のある人生を歩みましょう。