2021年10月24日の礼拝宣教から

「覆いは取り除かれる」コリント信徒への手紙二3章12-18節

安 喆寓信徒伝道師

コリントに伝道活動をしていたパウロにとって、旧約聖書に親しんできたユダヤ人との距離を縮める糸口は見つかりにくい状況であったと思われます。したがって、パウロは、出エジプト記34章29-35節を引用して、再び十戒を石に書き記してシナイ山を降りていたモーセのことを語ります。「モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません」(3:13)。ユダヤ人たちが読んでいた旧約聖書を古い契約として、エレミヤ書31章31節に書いている新しい契約のことと対比します。そして、モーセの顔に掛けられた覆いは、この新しい契約、すなわちキリストにおいて取り除かれると語りかけます。「しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです」(同14)。パウロはそのような状況を諦めず、主の方に向きを変えていくように示されます。「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」(同16)。自分自身が主の方に方向転換をして今まで被っていた覆いを取り除かれ、罪と死から救いを得ることです。

もう一つは、神様から与えられた御霊なる主の働きによって、主ご自身に従っていく生活を歩むことです。わたしたちは、常に神様の御言葉を聞き、その栄光を見るとき、また、キリストを見るとき、変えられます。パウロはこのように祈っています。「心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」(エフェソ1:18)。それぞれの信仰の道を今週も続けて歩みましょう。

2021年10月17日の礼拝宣教から

「主の言葉を聞く」 列王記下20章12-21節

牧師 津村春英

わが国の新しい首相は、自らを「聞き上手」と発言していますが、今後の政治運営でその真価が問われます。

紀元前700年頃の南ユダ王国の王ヒゼキヤは、預言者イザヤから「主の言葉を聞きなさい」(20:16)と言われました。事の発端は、東のバビロンからの使者たちに、王宮にあるものすべてを見せてしまったことです。王としては大失態でした。それ故、イザヤの語る言葉はユダ王国に対する神の厳しい審判でした。ところが、ヒゼキヤはイザヤに、「『あなたの告げる主の言葉はありがたいものです』と答えた。彼は、自分の在世中は平和と安定が続くのではないかと思っていた。」(同19)とあります。下線部は自己中心のように聞こえ、人物評価が下がってしまいます。ところが、前の18章に、「彼は主の目にかなう正しいことをことごとく行い……イスラエルの神により頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった」(18:3-5)とあり、次の20節には、彼のたぐいまれな功績も書かれていることから、ヒゼキヤは、神の厳粛な裁きを真摯に受け止めつつ、その中にも憐れみがあり、神のなさることは最善であると感謝してその言葉を受け入れたのではないでしょうか。わたしたちも、どのようなときも、「主の言葉はありがたい」と聞くことができるでしょうか。

2021年10月10日の礼拝宣教から

「人とは何者なのか」 詩編8篇1-5節

牧師 津村春英

アメリカ国籍を持つ日本人の真鍋淑郎(90歳)さんがノーベル物理学賞を受賞されました。その会見の席上で、「日本に戻りたくない理由の一つは、周囲に同調して生きる能力がないからです」と、謙遜とともに日本社会を風刺されました。確かに、私たちは関係の中で生きています。水平の人間関係とともに垂直の関係はいかがでしょうか。

詩人は、天における神の偉大さを歌った後に、「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。/の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。」(8:5)と歌っています。下線部の「人間」は、ヘブライ語ではエノーシュで、弱く死ぬべき存在、必ず消滅する存在を意味し、「人の子」の「人」アダムは、アダマー「土」と同義で、人は土から造られ、土に帰る存在であることを意味しています。そのような「ひと」をどうして偉大な神は「御心に留めて」(直訳は、覚えて)いてくださり、「顧みて」(直訳は、訪れて)くださるのでしょうか。ある注解者は「人間に対する神のかかわりは、はかり知れぬ恵みにほかならない」と書いています(A・ヴァイザー『詩篇上』安達忠夫訳、ATD旧約聖書註解(2)、1983、p.170)。私たちは、これほどまでにも神に愛されているのですから、心から感謝し、自分がどうのように状況にあっても、ポジティブに受け止め、いつも前向きでありたいものです。

2021年10月3日の礼拝宣教から

「走り抜こう」 ヘブライ人への手紙12章1-3節

牧師 津村春英

10月は運動会の季節です。背後で流れるクラシックの定番はオッフェンバックの「天国と地獄」、ハチャトゥリアンの「剣の舞」などです。これらは応援歌となっていますが、キリスト者も競技者に例えられ、ヘブライ書12章冒頭には励ましの言葉があります。「こういうわけで、私たちもまた、このように多くの証人に雲のように囲まれているのですから、すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。」(聖書協会共同訳12:1,2)。

雲のように囲む多くの証人は11章で縷々述べられた人々であり、信仰の先達たちです。特に下線部の「走り抜こう」が重要です。途上で困難や苦痛に見舞われますが最後までやり遂げる意味合いが込められています。また、「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら」ということも重要です。信仰を始めてくださったお方は、私たちと共にいてくださる導き手であり、完成まで導いてくださるお方なのです。目をそらせてはなりません。なぜなら、このお方こそ、前述の雲のように取り囲む人々以上に、私たちが生活に疲れ、弱り果ててしまわないように、神である喜びを捨てて人となり、恥をもいとわないで十字架を耐え忍ばれたからです。さて、私たちはどのように走っていますか。

2021年9月26日の礼拝宣教から

「豊かになるために」  コリント信徒への手紙二8章1-9節

牧師 津村春英

野球で外国人選手が天を指さす行為は感謝の表現だと言われます。教会では礼拝で感謝の献金をします。教会員はそれ以外に月定献金をします。これは教会の働きを維持するためで、会員としての最小限の義務ですが、主の恵みに感謝して献げるものであって、決して月謝や会費ではありません。

パウロの宣教活動によって生まれた教会は、パウロの勧めにより母なるエルサレム教会を支える献金をしたようです(ローマ15:25、コリント一16:1等参照)。コリント後書に出ているギリシア語で、感謝する・エウカリステオー(1:11)、感謝・エウカリスティア(4:15; 9:11, 12)という単語は、文字通り、恵み・カリスに関係しています。また、カリスだけで「感謝」と訳している箇所(2:14; 8:16; 9:15)もあります。つまり、恵みと感謝は表裏一体です。エルサレム教会への献金の根拠を、「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(8:9)と書いていますが、神であるお方が人となり、十字架におかかりになったこと、それが主の貧しさであり、それが主の恵みです。こうして私たちは救われ、豊かなものとされるのです。私たちは主の恵みにどれだけ感謝しているでしょうか。