2022年3月6日の礼拝宣教から

「主の日」    マラキ書3章19-24節

津村春英 牧師

今や世界中の人々が、ロシアの攻撃が激化するウクライナの成り行きを、 固唾を呑んで見ていると思われます。このままでは首都が陥落してしまいそ うですが、その日までに、何とか救われる道はないものかと祈ります。

旧約聖書の最後の書、マラキ書は、「わたしはあなたを愛してきた」(1:2) で始まりますが、紀元前 5 世紀頃のイスラエルの民は宗教的、倫理的に退廃 していたようです。祭司たちも堕落していました。彼らが救われる道は、正 しい祭儀の確立と律法に従った生活を取り戻すことでした。「見よ、その日が 来る/ 炉のように燃える日が。/ 高慢な者、悪を行う者は/ すべてわらのよ うになる。……しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/ 義の太陽が昇る。/ その翼にはいやす力がある。/ あなたたちは牛舎の子牛のように/ 躍り出て跳 び回る。」(3:19, 20)とあります。「その日」(主の日)は、神に背を向ける 者たちには厳粛な裁きの日であり、他方、神を信じる者たちには救いの日で、 いやされるというのです(太陽の翼とは太陽光線)。だからこそ、「わが僕モ ーセの教えを思い起こせ。」(同 22)と命じられているのです。私たちは神に 愛されています。毎日が主の日です。主のみことばをいつも思い起こし、そ のみことばに自らをゆだねていく歩みをしたいものです。

2022年2月27日の礼拝宣教から

「神の御旨に従う」  コロサイの信徒への手紙 1章 9-14節

津村春英 牧師

ロシアのウクライナ軍事侵攻で世界中が騒然としています。プーチン氏のウクライナに対する歴史認識にも疑問が投げかけられています。ところで、私たちの神に対する歴史認識はどうでしょうか。

パウロ一行は、コロサイの教会の兄姉たちのために祈りました。「どうか、”霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように」(1:9-11)と。下線部の原語は、エピグノーシス(深く知る)で、二度繰り返されているように、キーワードと考えられます。人に従うためには、その人を良く知る必要があるように、神に従うためには、歴史の中にあらわされた神の御旨を知らねばなりません。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(同19-20)が重要な出来事です。歴史を通して私たちを愛し続けてくださっているお方の御旨を深く知って、御旨に従って歩むことをこの朝、決意しましょう。

2022年2月20日の礼拝宣教から

「主こそわが光」  ミカ書7:8-10節

津村春英 牧師

今回の冬季オリンピックで、競技者の実力もさることながら、コーチとの関係が重要だということを考えさせられました。コーチcoachとは1500年代の馬車であり、「大切な人をその人が望むところまで送り届ける」という意味だそうです。聖書に登場する真の預言者は、神から遣わされた人物ですが、古代イスラエルの民の、そして私たち信仰者の人生のコーチ的存在です。

ミカは紀元前8世紀に、エルサレムから遠く離れたペリシテに近い田舎町ガト)で活動した預言者でした。彼が見た幻に、「わたしは主に罪を犯したので/主の怒りを負わねばならない/ついに、主がわたしの訴えを取り上げ/わたしの求めを実現されるまで。主はわたしを光に導かれ/わたしは主の恵みの御業を見る。」(7:9)とあります。「わたし」、つまりイスラエルの民は、罪(神から離れ、闇と称される社会的退廃)ゆえに、主の怒りを身に受けなければなりませんでしたが、「たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光」(同8)とあります。この光は人の心の内を照らし、罪を明らかにし、悔い改めが求められますが、それとともに救いの道をも照らし、そこに導いてくださるのです。コロナ禍をはじめ、私たちの苦境のときも「主こそ光」であることを忘れてはなりません。

2022年2月13日の礼拝宣教から

「思い直される神」  ヨナ書3章1-10節

津村春英 牧師

2022冬季オリンピックが北京で開催中ですが、選手のスーツ規定違反問題、ドーピング問題、採点内容など、「ジャッジの妥当性」が問われています。

旧約聖書に出てくる預言者ヨナは、悪のはびこる大国アッシリアの首都ニネベに行って、神様の審判を宣告するよう命じられますが、それに逆らって逃亡します。しかし、結局、ニネベに向かうことになり、その命令を実行しました。ところが以外にも、ニネベの人々は、王さえも、すぐさま悔い改めに至ったのです。これをご覧になられた神様は思い直され、災いをくだすのをおやめになりました。

この「ジャッジ」に不満のヨナは主に訴えました。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」(4:2)と。救いが異邦人に及ぶことを承服できない偏狭な選民意識が本当の理由だと考えられますが、私たちは、どうせ御心がなるという、あきらめや投げやりの思いではなく、必ず最善の御心がなるという積極的信仰をもって進みたいものです。

2022年2月6日の礼拝宣教から

「神と共に歩む」  創世記6章9-22節

津村春英 牧師

「ノアの箱舟」の話は一般社会でもよく知られています。その趣旨は、箱舟の解説ではなく、「人類の罪からくる滅び、そして回復」なのです。アダムとエバから幾世代が過ぎ、地上に人が増え、人々が主なる神を無視して生きるようになり、そのありさまをご覧になった主が、洪水をもって裁きを下されるというストーリーです。ところが一人、「ノアは主の好意を得た。」(6:8)とあり、「ノアは正しく、かつ全き人であった。神と共に歩んだのがノアであった。」(聖書協会・共同訳6:9)とあります。「全き人」とは「神と共に歩む」ということにおいてのことであり(cf.ヨブ1:1は道徳的な意味合い)、「歩む」のヘブライ語の動詞は、反復動作や強意を表す形態で、「確かに歩んだ、繰り返し歩んだ」と読むことができます。「共に歩む」とは、全幅の信頼をおいて自らを投げ出す生き方です。こうして、大きな試練の中、「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」(6:22, cf.7:5)のです。 私たちが経験する自然現象を、人間の罪が原因だと短絡的に結び付けるのは妥当だと思えませんが、今、私たちはコロナ禍という試練に見舞われ、まだ出口を見出すことができていません。しかし、どのような状況に置かれても、ノアのように、神と共に歩み続ける信仰者でありたいものです。