2022年7月3日の礼拝宣教から

「主の愛のゆえに」 申命記7章6-8節

津村春英 牧師

古代イスラエルの民は、出エジプトの後、40年間という過酷な旅を経て、ついに約束の地を目前にしました。そこで、主はモーセを通して民に改めて語られます。「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、…あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」(7:6-8)、そして、「わたしが今日 命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。」(30:16)と。偶像礼拝のはびこる地で、主を愛し続けることが彼らのミッションでした。

キリスト者は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、…わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)という主イエスの言葉に存在の根拠をおいています。今、コロナ禍で、礼拝に出席することだけで精いっぱいの状況が続いていますが、主に愛されている私たちは、主から託されている教会のミッション、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(テモテ二4:2)、を忘れてはなりません。

2022年6月26日の礼拝宣教から

「自分の蒔いたものを刈り取る」 ガラテヤ6章1-10節

津村春英 牧師

 19世紀のフランスの画家ジャン・フランソワ・ミレーの作品に、「種まく人」がありますが、私たちは、今までにどのような種を蒔いてきましたか。また、これからどのような種を蒔きますか。

パウロは、ガラテヤの諸教会の信徒に対して、彼らが主イエスを信じて救われた「霊の人」であるなら、「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(6:7, 8)と書いています。

「自分の肉に蒔く」とは、先の5:19-21の、肉の業、つまり、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴」などで、「刈り取り」の時、つまり、「最後の審判」の時には、それは「滅び」に至るというのです。

それに対して、「霊に蒔く」とは、続く5:22-23の、霊の結ぶ実、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という実をもたらす、神に受け入れられる行為で、それは「善を行う」(6:9-10)とも表現され、「永遠の命」に至るというのです。今一度、よく考えてみましょう。

2022年6月19日の礼拝宣教から

「信仰を問い直す」 ヨブ記42章1-6節

津村春英 牧師

 NHKの宗教調査(2018年)によると、近年、宗教離れが進み、宗教に癒しを求める人は減少し、むしろ、宗教に危険性を感じる人が多くなったというのです。人はどのようにして信仰の道に入り、それを全うするのでしょうか。

 旧約聖書の義人ヨブに、突然の不幸が襲いかかります。すべての財産と子どもたちを失い、自分も全身皮膚病に罹り、おまけに妻からも愛想をつかされてしまします。友達三人が遠路はるばるやってきて、因果応報論を説き、ヨブに悔い改めを迫りますが、ヨブは断固として自分の正しさを主張し、義人が苦しむ不条理を訴えます。最後に神から、ヨブに対する答えがあります。ヨブの知らない被造物の世界があり、その中には人間には制御できない力も存在するが、それらは神の創造の業の偉大さを示していると。ヨブは、自己の義に固執するあまりに神の御顔を見失っていましたが、「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」(42:5)と、神を再発見し、御前における自己を見出すに至ったのです。それは新約聖書のパウロの心境にも通じます(コリント二12:9, 10など)。現状はどうであれ、神の愛は変わらない。そこから来る平安と希望が、私たちの信仰生活を導くのです。今一度、自らの信仰を問い直したいものです。

 

2022年6月12日の礼拝宣教から

「最も小さいものの一人にしたのは」 マタイ福音書25章31-40節

津村春英 牧師

最近は、学校の運動会が秋ではなく、この5月~6月に行われることもあるようです。そこでは、いくつかの組に分かれて競います。

主イエスは、弟子たちに、やがて、ご自分が王として再臨されるとき、人々は、羊組と山羊組に分けられて裁かれると話されました。後者には恐ろしい結末が待っていますが、前者は正しい人たちと呼ばれ(25:37)、御国を受け継ぐと約束されました。その理由は、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(同35, 36)と言われました。しかし、羊組の人々にはその記憶がありませんでしたが、主は続けて、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(同40)と言われました。「この最も小さい者」とは、上述の当時の困窮者、弱者を指していて、彼らへの行為は、実は主に対して成したことだと言われたのです。

私たちは善い行いをすることで、救われるのでは決してありません。主に愛されているからこそ、主を愛するように、「この最も小さい者たち」を愛するようにと勧められているのです。

2022年6月5日の礼拝宣教から

「愛によって働く信仰」 ガラテヤの信徒への手紙5章2-6節

津村春英 牧師

サンフランシスコから小型ヨットで太平洋横断単独無寄港の偉業を最高齢で達成された堀江健一氏(83歳)の航海中の通信手段は、衛星電話とアマチュア無線だったそうです。自分が今どこにいて、どこに進むべきか。キリスト者は、聖霊によって日々教えていただくことが必要です。

 パウロは、ガラテヤの教会に宛てて、「私たちは、霊により、信仰に基づいて義とされる希望を、心から待ち望んでいます。キリスト・イエスにあっては、割礼の有無は問題ではなく、愛によって働く信仰こそが大事なのです。」(5:5, 6・聖書協会共同訳、下線部は「聖霊により」の意)と書きました。神のみ前で「義とされる」ためには、割礼の有無が問題でなく、イエス・キリストの十字架の愛によって働く信仰こそが重要だというのです。

私たちは、今日、ペンテコステ(聖霊降臨)礼拝と創立119周年の記念礼拝を献げています。当教会の創立者・河邊貞吉師は、「聖霊を一度受けた者でも、満たされていなければ駄目である。…尊い大使命を全うするためには、聖霊なくして絶対不可能である…。」(『河邊貞吉説教集(1)』、昭和9年、pp.328-329)と説いておられます。聖霊に満たされて、キリストの愛をもっと深く知り、宣教の業に励むよう努めましょう!