「自分の蒔いたものを刈り取る」 ガラテヤ6章1-10節
津村春英 牧師
19世紀のフランスの画家ジャン・フランソワ・ミレーの作品に、「種まく人」がありますが、私たちは、今までにどのような種を蒔いてきましたか。また、これからどのような種を蒔きますか。
パウロは、ガラテヤの諸教会の信徒に対して、彼らが主イエスを信じて救われた「霊の人」であるなら、「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(6:7, 8)と書いています。
「自分の肉に蒔く」とは、先の5:19-21の、肉の業、つまり、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴」などで、「刈り取り」の時、つまり、「最後の審判」の時には、それは「滅び」に至るというのです。
それに対して、「霊に蒔く」とは、続く5:22-23の、霊の結ぶ実、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という実をもたらす、神に受け入れられる行為で、それは「善を行う」(6:9-10)とも表現され、「永遠の命」に至るというのです。今一度、よく考えてみましょう。