2022年5月8日の礼拝宣教から

「あなたの父と母を敬いなさい」  出エジプト記20章12節

津村春英 牧師

5月第2主日は「母の日」です。「十戒」の第5戒として知られている、「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」(出エジプト記20:12など)は、人間関係の倫理的な戒め(第6-10戒)というより、前の四つの戒めと同様に神との関係で解釈すべきだという見解があります。「敬う」のヘブライ語カーベードは「重い」の意味合いがあり、軽んじてはいけない、大切にしなさいという意味です。英語でもhonorという訳語が当てられ、尊敬の念を持ち、高く評価することで、respect(例えば、老人を敬う)とは区別されています。

マルコ福音書7:10-13には、神への供え物と偽って、父母を軽視する例がありますが、それに続く24-30には、ギリシア人の女が、わが子の病の癒しを主イエスに懇願するシーンが出てきます。異邦人でも、選民イスラエルの食卓から落ちるパンくずはいただけると言う、彼女の信仰と知恵と粘り強さに、ついに主は、彼女の娘の癒しを宣言されるのです。これがわが子を愛する母の姿です。父母を軽んじてはいけません。特に、神との関係において、父母を大切にし、その愛に応える生き方が、わたしたちに求められているのではないでしょうか。

2022年5月1日の礼拝宣教から

「立ち帰って、生きよ」 エゼキエル書18章30-32節

津村春英 牧師

知床の観光船遭難事故の懸命な捜索と原因究明が続けられていますが、天災以前の人災が問われています。事故は、死は、避けられなかったのでしょうか。再発防止のためには、古いやり方を一新する必要があると思われます。

 エゼキエルは、前5世紀末に捕囚の地で立てられた預言者と考えられますが、当時のイスラエルの民は、神の御心に背き、偶像礼拝に興じて宗教的に退廃し、倫理的にも乱れ、犯罪という悪に走っていました。エゼキエルは、その罪に対する神の裁きと避難の道を伝えました。「『それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、…悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。…お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。…お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」(18:30-32)と。「生きる」ことがポイントです。そのためには、罪を悔い改め(神へのあらゆる背きを投げ捨て、神に立ち帰り)、新しくされなければなりません。それは、「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」(聖書協会共同訳・コリント二5:17)に通じます。日々、悔い改め、キリストにあって新しくされて、生き甲斐のある人生を歩みましょう。

2022年4月24日の礼拝宣教から

「最善の道」 出エジプト記13章17-22節

津村春英 牧師

毎日伝えられるウクライナ情勢。今こうしている間にも命が失われていっているやもし
れません。祈らねばなりません。それに比べ私たちには、つらいことがあってもミサイル
は飛んできません。こうして礼拝できることを感謝しなければなりません。
 古代イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放せられましたが、「ファラオが民を
去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦
わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからで
ある。神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。」(13:17、18a)とありま
す。民の心境については、後続の民数記13:17-14:4などに見られるように、神は見抜い
ておられたのでしょう。恩師、服部嘉明師は「全知全能の主権者である神は、必要な場合
には、私たち人間の常識では考えられない方向、方法で私たちを導かれる。神が導かれる
その道はどんなに困難であっても、究極的には最善なのである。」(『出エジプト記に聞
く』p.110からの要約的引用)と書いておられます。
 私たちの歩みはどうでしょうか。遠回りと思える時もあるでしょうが、神がなされる最
善(ローマ8:28)を信じて進みましょう。

2022年4月17日 の礼拝宣教から

「思い起こしなさい」 テモテへの手紙二2章8-13節

津村春英 牧師

イースター、おめでとうございます。使徒パウロは、福音宣教のために苦難を強いられていましたが、次のように勧めています。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。」(2:8)と。イエス・キリストをいつも「思い起こす」ことが苦難の中を生き抜く鍵であり、希望の源だというのです。そして、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」(同11)と言っています。「死ぬ」とは主の十字架であり、「生きる」とは主の復活を意味しています。

コブクロの歌、「共に歩き 共に探し 共に笑い … 共に感じ…共に泣き 共に背負い 共に抱き … 共に築き 共に願い」のように、主と共に生きることが、キリスト者に求められているのです。そのためには、いつも「主を思い起こすこと」が重要なのです。哲学者の故中村雄二郎は、現代人の著しく弱まっている人間的能力は、想起し再認する能力であると指摘し、この想起のための場所やイメージ作りが必要だと述べています(「記憶」『術語集Ⅱ』岩波新書)。自分なりのイメージ作りをしながら、いつも主を思い起こすことができるように努め、希望をもって進みましょう。

2022年4月10日の礼拝宣教から  

「契約の血」 マルコ福音書14章22-26節

津村春英 牧師

 四月に入り、さまざまなものの値上げが続き、光熱費も上がっています。これは、原油価格の高騰に起因する物流費や原材料費の値上がり、円安、それにロシアのウクライナ軍事侵攻が原因だと考えられますが、三つ目については、私たちは口先だけでなく、「痛みを分かち合う」という意味で、受け入れる必要があると思われます。

旧約聖書で、モーセは血を取り、民に振りかけて言いました。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」(出エジプト24:8)と。他方、主イエスは、この出エジプトを記念する過越の食事のときに、杯を取り、弟子たちに与えて約束されたのです。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マルコ14:24)と。この新しい契約は、主が身をもって十字架におかかりになり、罪を贖うことによって実証されるのです。ここに、今日の私たちの救いがあるのです。讃美歌第二編231番のように、私たちの「罪、とが、不義、やみ、はじ、けがれ」という足かせ、手かせ、首かせは、主の十字架によって打ち砕かれ、私たちは痛み、苦しみから解放されるのです。心から主に感謝し、苦難の中でも希望を持って歩みたいと思います。