2022年11月13日の礼拝宣教から 

「祈ってください」  コロサイの信徒への手紙4章2-6節

津村春英牧師

2022年のみ言葉は、「絶えず祈りなさい」(テサロニケ一5:17)ですね。

毎日の生活の中で、どれほど祈っていますか。「一人祈るのは寝る前の数秒、ともに祈るのは集会か食事前のこれも数秒という信者がいかに多いか。これでは活発な主の御業を期待する方が無理であろう」(佐藤雅文『祈祷の生涯』、159頁)とは痛烈な批判です。

 パウロは、異邦人の多いコロサイのキリスト者に対して、「たゆまず祈りなさい。感謝のうちに、目を覚まして祈りなさい。同時に、私たちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、私たちがキリストの秘義を語ることができますように。」(4:2-3・聖書協会共同訳)と書きました。「たゆまず」は忍耐強く続けること、「目を覚まして」は油断なく注意することを意味しています。「キリストの秘義(ミュステーリオン)」(新共同訳:キリストの隠された計画、新改訳2017:キリストの奥義)とは、キリストの十字架、復活(高挙)による救いです(1:26, 27や2:2参照)。

私たちは、祈り、祈られて、互いに成長していくのです。成長する教会はよく祈る教会です。祈らない教会は消滅してしまうかもしれません。祈ることに熱心な教会を目指しましょう。

2022年11月6日の礼拝宣教から

「愛はすべてを完全に結ぶ帯」  コロサイ人への手紙3章12~14節

津村春英 牧師

エフェソから、東の内陸に直線距離で150kmあまり進んだところのコロサイという町(標高約350m)のキリスト者にパウロは手紙を書きました。そこは、世を支配する霊、飲食や暦に関係した禁欲を主張する人、天使礼拝者とその体験で思い上がる人などがいて、悪影響を受けていると聞いたからです(2:6-23)。パウロは、キリスト者は神に選ばれた者、聖なる、愛されている者だから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け、互いに赦し合いなさいと勧め、「さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。」(3:14聖書協会共同訳)と説きました。この「愛」は「キリストの愛」です。最後は「愛」でしっかりと結ぶのですよと命じたのです。

今、「宗教2世」が取りざたされています。教会ではどうでしょうか。今日は合同召天者記念礼拝でご遺族の方々が多く来られています。親に無理強いされ、仕方なく礼拝に来られたこともあったかもしれません。子どもたちは犠牲者なのでしょうか…。親はわが子に、この厳しい現実を生き抜くため、救い主イエス様を知り、受け入れ、どんなときにも希望を失わない、そんな人生を歩んでほしい、その一念で勧めるのです。問題は、そこに「愛」があるかどうかです。また、「愛」があってもそれに気づくかどうかです。

2022年10月23日の礼拝宣教から

「かぐわしい香り」   フィリピの信徒への手紙4章15~20節

津村春英 牧師

金木犀のよい香りが漂っています。この香りにはリラックス効果があると言われます。旧約聖書の時代には、信仰者は神にいけにえを献げ、その香りが天に届くように願いました。

 パウロは、主イエス・キリストの福音宣教のために、迫害を受け、投獄もされますが、いつも喜んでいました(フィリピ1:4, 18; 2:17; 4:10)。ヨーロッパ宣教の初穂、フィリピで救われた人々は、このパウロの働きを背後から支援しました。「また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。」(4:16)と感謝しています。そしてパウロは、「私はあらゆるものを受けており、有り余るほどです。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って、満ち足りています。それはかぐわしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」(同18・聖書協会共同訳)と書いています。彼らの行いは単なる善行ではなく、キリストがまず愛してくださって、ご自分をいけにえとして、よい香りの供え物として神にささげてくださった(エフェソ5:2)ことが動機であり、その放つ香りは神に献げられるキリストのかぐわしい香りなのです(コリント二2:14)。私たちの香りはキリストのかぐわしい香りですか。

2022年10月9日の礼拝宣教から

「宣教者」      使徒言行録28章23-31節

津村春英 牧師

 ノーベル賞受賞者が連日発表されています。貴重な研究や働きが評価されたのです。主イエスの福音を宣教する使徒パウロは当時の人々からどのように評価されたのでしょうか。エルサレムの同胞のユダヤ人から、いわれなき理由で暴力を受け、訴えられます。紆余曲折を経て、皇帝に上訴するためにローマに護送されます。ところがローマに着くと、待ち構えていたように、「ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。」(28:23 )とあります。二つの下線部の訳は、ユダヤ人が拠って立つ旧約聖書を用いて、「納得するように説明を続けた」のであって、説き伏せようとしたのではありません。それに対し、「ある者は話を聞いて納得したが、他の者は信じようとはしなかった。」(同24・共同訳)という評価でした(イザヤ6:9-10)。

 宣教者は命を懸け、息の続く限り、語り続けるのです。私たちの中にも宣教者が必要です。たとい自分が直接そうならなくても、宣教者のサポートはできます。宣教者が生まれるように祈ることもできるのではないでしょうか。今朝、聖霊はあなたにどのように語りかけておられるでしょうか。