2022年2月6日の礼拝宣教から

「神と共に歩む」  創世記6章9-22節

津村春英 牧師

「ノアの箱舟」の話は一般社会でもよく知られています。その趣旨は、箱舟の解説ではなく、「人類の罪からくる滅び、そして回復」なのです。アダムとエバから幾世代が過ぎ、地上に人が増え、人々が主なる神を無視して生きるようになり、そのありさまをご覧になった主が、洪水をもって裁きを下されるというストーリーです。ところが一人、「ノアは主の好意を得た。」(6:8)とあり、「ノアは正しく、かつ全き人であった。神と共に歩んだのがノアであった。」(聖書協会・共同訳6:9)とあります。「全き人」とは「神と共に歩む」ということにおいてのことであり(cf.ヨブ1:1は道徳的な意味合い)、「歩む」のヘブライ語の動詞は、反復動作や強意を表す形態で、「確かに歩んだ、繰り返し歩んだ」と読むことができます。「共に歩む」とは、全幅の信頼をおいて自らを投げ出す生き方です。こうして、大きな試練の中、「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」(6:22, cf.7:5)のです。 私たちが経験する自然現象を、人間の罪が原因だと短絡的に結び付けるのは妥当だと思えませんが、今、私たちはコロナ禍という試練に見舞われ、まだ出口を見出すことができていません。しかし、どのような状況に置かれても、ノアのように、神と共に歩み続ける信仰者でありたいものです。

2022年1月30日の礼拝宣教から  

「信仰による祈り」ヤコブの手紙5章13-18節

津村春英 牧師

受験生への励ましの言葉を英語で言う場合、Fight!(相手をけしかける表現で普段は使わないそうです)より、Good luck!(幸運を祈っています)が良いそうです。やはり「祈り」なのです。

新約聖書のヤコブ書には、「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」(5:15)とあります。「信仰に基づく」とは、最善をなしてくださる神への信頼に基づく信仰による祈りであり、「病人」は「疲れ果てた人」を意味し、主は、彼に起死回生を与えてくださるのです。しかも、その人が罪を告白するなら、主が、その罪さえも赦してくださるというのです。 その例証として、旧約聖書から、「エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。」(同17節、列王記上17-18章参照)が引用されています。「同じような人間」の原語は、わたしたちと「同じ苦難を経験する人間」を意味しますが、エリヤが熱心に祈ったところ、考えられないことが起こったというのです。そして再び祈ると、天から雨が降り、地は実りをもたらしたのです。神に全幅の信頼をおいて祈ることの重要性を教えられます。

2022年1月23日の礼拝宣教から  

「感謝と祈り」  フィリピ信徒への手紙4章4-7節

津村春英 牧師

パウロはフィリピの教会の兄姉に、「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」(4:5)と書きました。「広い心」は「寛容」とも訳されますが、私にとっては痛いことばです。通ってきた競争社会では、なかなか寛容になれなかったことを反省しています。この寛容の根拠は、「主はすぐ近くにおられます」であり、主の再臨が近いという意識が積極性を与えるのです。テサロニケ一5:16-18の背景と同じです。

次に、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(同6,7)とあります。「思い煩い」をもたらす原因は一体何でしょうか…。どんな問題でも、神に知っていただくことが大切だというのです。「感謝を込めて祈る」とき、自分の求めが神の御心と融合して一つとなり、御心がなされていくのです。こうして、思い煩いに代わって、神の平和が、心を支配するようになるのです。その保証は、「キリスト・イエスのよって」という主の十字架と復活の出来事にあると教えられます。感謝しつつ祈りましょう。

2022年1月16日の礼拝宣教から

「熱心な祈り」  使徒言行録12章1-11節

津村春英 牧師

南太平洋のトンガ王国の火山島爆発で日本を含む環太平洋沿岸に津波が発生していると早朝にニュースが流れました。この世の中、一体何が起こるかわかりませんし、防ぎようがないこともあります。使徒言行録には、初期教会を襲った迫害が記されています(5-8章、12章他)。主の十字架と復活から10年以上経過していた考えられるAD41年に、ヘロデ・アグリッパⅠ世はローマ帝国の後ろ盾で祖父ヘロデ大王と同じ地域を治める王に就任しますが、主イエスの側近であり当時の教会の指導的立場にあったヤコブを殺害し、ついにペテロまで捕らえて投獄したのです。

しかし、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」(12:5)のです。その結果、厳重な管理体制にもかかわらず、ペトロは主の使いによって助け出されます。教会の祈りは、ペテロが出獄後に訪れた家で、「大勢の人が集まって祈っていた」(同12節)とあるように継続されていました。5節も12節も直訳は「祈りがなされ続けていた」「祈り続けていた」となります。また、ここの「熱心」のギリシア語は、「緊張感をもった」という意味で、その切実さが表わされています。わたしたちの祈りはどうでしょうか。聖霊の導きにより、熱心に祈る者でありたいと思います。 

2022年1月9日の礼拝宣教から

「誘惑に陥らないように祈りなさい」  ルカ福音書22章39-46節

津村春英 牧師

オリーブ山での主イエスの最後の祈りのシーンで、ルカ福音書は、マルコ、マタイ福音書とは異なり、「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」と弟子たちに二度言われたことを記しています(22:40, 46)。「誘惑」と訳されているギリシア語ペイラスモスは、聖書の中では「誘惑」または「試練」と訳されます。つまりここは、「試練に屈しないよう」と読むことも可能です。それは、先の主イエスのシモン・ペトロへのことば、「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」(同31)からも理解できます。また、主イエスが弟子たちと少し離れて祈っておられたときに弟子たちは眠り込んでいたとありますが、その理由を、ルカ福音書では、他の福音書の「肉体の弱さ」ではなく、「悲しみの果てに」(同45)と書かれています。どうして主の苦しみを共有できたかのように表現されているのでしょうか。それは、「石を投げて届くほどの所に離れ」(同41)という表現から、主イエスの祈りが聞こえたか、またはその祈りの切実さ深刻さを察知できたからでしょうか。

コロナ禍で行動が制限され、それぞれが抱える問題の厳しい現実の中で、「あなたの信仰がなくならないように祈った」との主のみことばに感謝するとともに、誘惑に陥らぬよう祈らねばなりません。