2021年7月4日の礼拝宣教から

『福音を告げ知らせるために』 使徒言行録16章6-10節

牧師 津村春英

雨水の蓄積により熱海の伊豆山で土石流が発生し大きな被害出ていると報じられました。想定外の出来事です。人命救助と復旧が急がれます。私たちの人生にも、予想もしなかったことが突如発生します。そのときに支えになるのが不動のみ言葉です。

 ルカが記したと考えられている使徒言行録の大半はパウロの伝道旅行です。ルカもその一行の中にいたと思われます。15章36節から第二次伝道旅行が始まりますが、彼らの進もうと思うルートが閉ざされたことが幾度かありました。ルカはそれを、「聖霊から禁じられた」(6)「イエスの霊がそれを許さなかった」(7)と表現しています。そして、パウロとその一行がたどり着いたトロアスで、「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。」(9)とあります。かれらはそれを神からの福音宣教の召しと確信するに至り、かくしてマケドニア(ヨーロッパ)へと向かいます。ただし、これが神の召しと言っても、試練はあったのです。

さて、キリスト者の私たちを抜きにして、一体誰が福音を告げ知らせるのでしょうか。それぞれ与えられている場があるのではないでしょうか。

2021年6月27日の礼拝宣教から

『何を蒔いてきたか』 ガラテヤ書6章1-10節

牧師 津村春英

使徒パウロは、ガラテヤ地方に住むキリスト者たちに、割礼のような律法によってではなく、信仰によって人は救われると説き、「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」(6:2)と勧めています。重荷(バロス)は日常生活の苦労です。「キリストの律法」とは5:13の「隣人を自分のように愛しなさい」に表されています。さらに、「各自で、自分の行いを吟味してみなさい。…めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」(6:4,5)とありますが、この重荷(フォルティオン)は、自分が現在、負っているものであり、また、神さまから与えられている使命でもあります。次に、「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」(同7)とあり、「肉に蒔くか、善に蒔くか」(同8)と問われています。これらは5:16-25の肉の業、霊の結ぶ実と響き合っています。

さて、私たちは過去に何を蒔いてきましたか。現在は何を蒔いていますか。そして、これから未来に向かって何を蒔きますか。いずれも自分で刈り取ることになるのです。その刈り取りの日が来るまで、失望せずに霊に導かれて良いもの(=善、すなわち霊の結ぶ実)を蒔き続けましょう! 

2021年6月20日の礼拝宣教から

『みことばをください』 ルカ福音書7章1-10節

牧師 津村春英

今日は「父の日」です。母の日も父の日もアメリカの教会から始まったと言われます。ルカ福音書に登場するある百人隊長から「重んじられている」(尊い、大事な、敬愛する)僕(しもべ)が病気で死にかけていました。主人である百人隊長は、イエス様に僕の癒しをお願いしたのです。「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください」(協会共同訳・ルカ7:7)と。ただし、この「しもべ」という原語は、2,3,8,10節の「部下」と訳されている「僕(しもべ)」(協会共同訳、新改訳2017)ではなく、「こども」とも訳せる語で、百人隊長は僕の主人であり、父のような存在でした。

さて私たちは、父なる神が御子イエス・キリストを通して表してくださった愛を,毎日の生活の中で、確かに感じ取ることはできます。でもそれだけでは不安定です。私たちの体調や心の持ちようで変化してしまうからです。確かなのは、「みことば」なのです。イザヤも言っています。「草は枯れ花はしぼむが、私の神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40:8)。また、「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが足の光です」(口語訳・詩編119:105)。みことばは、私の力です。慰めです。希望です。そして自分だけでなく、このみことばを他の人に伝えることができるなら、もっと幸いです。

2021年6月13日の礼拝宣教から

『砕かれた霊』 詩編51篇12-19節

牧師 津村春英

「あなたはいけにえを好まれません。/焼き尽くすいけにえを献げても/あなたは喜ばれません。神の求めるいけにえは砕かれた霊。/神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮りません。」(協会共同訳・詩編51:18,19)

内村鑑三はこの箇所について次のように書いています。「事業とはわれらが神にささぐる感謝の献げ物なり。されど神は事業にまさる献げ物をわれらより要求したもうなり。これすなわち砕けたる心、小児のごとき心、ありのままの心なり。」(内村鑑三『一日一生』角川文庫、p.15)。これは解釈の一つですが、勿論、幼児の、感情をそのままぶっつけるという本性ではなく、偽りのないピュアな心を言っているのでしょう。

 では、なぜ、砕かれた霊、砕かれた心が神に受け入れられるのでしょうか。それは、砕かれた心には、みことばがしみこむからです。今は梅雨の季節です。降った雨は地面にしみこみます。ただし、アスファルトやコンクリートのようなところでは殆どしみこみません。他方、土や砂には、粒子の隙間があるので、よくしみこみます。それと同じように、私たちの心が砕かれない限り、神様のみことばは心の中にはしみこみません。心砕かれて、神のみことばが、神の愛が、キリストの恵みが、心にしみこむように祈りましょう。

2021年6月6日の礼拝宣教から

『教会はキリストの体』 エフェソ1章15-23節

牧師 津村春英

1903年大阪天王寺界隈で開かれた第5回内国勧業博覧会を伝道の絶好の機会ととらえて集結した伝道者の一人河邉貞吉師により私たちの教会は始められました。次の1970年大阪万博では、日本基督教団内に起こった反万博闘争が全国に飛び火した辛い時代でした。来る2025年大阪・関西万博ではキリスト教会はどう関わりますか。その前にコロナ禍で消失してはなりませんが。

エフェソ1:15-23は新共同訳の小見出しでは「パウロの祈り」となっています。それは、①聖霊の導きによって「神を深く知ること」ができるように(同17)、②神に召されている者の希望が、受け継ぐべきものがいかに素晴らしいか(同18)、③信仰者に働く神の力がいかに絶大か(同19)、を悟ることができるようにとあります。神はその力によってキリストを死者の中から復活させ、全ての名にまさる名をお与えになり、教会の頭とされました。つまり、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(同23)とあります。体(からだ)のギリシア語ソーマは「見える形」(テサロニケ一5:23)の意で、見える私たちキリストの体は質的に成長しなければなりません(エフェソ4:12)。成熟を目指し、主から与えられているつとめに今日も励みましょう。