2022年6月12日の礼拝宣教から

「最も小さいものの一人にしたのは」 マタイ福音書25章31-40節

津村春英 牧師

最近は、学校の運動会が秋ではなく、この5月~6月に行われることもあるようです。そこでは、いくつかの組に分かれて競います。

主イエスは、弟子たちに、やがて、ご自分が王として再臨されるとき、人々は、羊組と山羊組に分けられて裁かれると話されました。後者には恐ろしい結末が待っていますが、前者は正しい人たちと呼ばれ(25:37)、御国を受け継ぐと約束されました。その理由は、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(同35, 36)と言われました。しかし、羊組の人々にはその記憶がありませんでしたが、主は続けて、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(同40)と言われました。「この最も小さい者」とは、上述の当時の困窮者、弱者を指していて、彼らへの行為は、実は主に対して成したことだと言われたのです。

私たちは善い行いをすることで、救われるのでは決してありません。主に愛されているからこそ、主を愛するように、「この最も小さい者たち」を愛するようにと勧められているのです。

2022年6月5日の礼拝宣教から

「愛によって働く信仰」 ガラテヤの信徒への手紙5章2-6節

津村春英 牧師

サンフランシスコから小型ヨットで太平洋横断単独無寄港の偉業を最高齢で達成された堀江健一氏(83歳)の航海中の通信手段は、衛星電話とアマチュア無線だったそうです。自分が今どこにいて、どこに進むべきか。キリスト者は、聖霊によって日々教えていただくことが必要です。

 パウロは、ガラテヤの教会に宛てて、「私たちは、霊により、信仰に基づいて義とされる希望を、心から待ち望んでいます。キリスト・イエスにあっては、割礼の有無は問題ではなく、愛によって働く信仰こそが大事なのです。」(5:5, 6・聖書協会共同訳、下線部は「聖霊により」の意)と書きました。神のみ前で「義とされる」ためには、割礼の有無が問題でなく、イエス・キリストの十字架の愛によって働く信仰こそが重要だというのです。

私たちは、今日、ペンテコステ(聖霊降臨)礼拝と創立119周年の記念礼拝を献げています。当教会の創立者・河邊貞吉師は、「聖霊を一度受けた者でも、満たされていなければ駄目である。…尊い大使命を全うするためには、聖霊なくして絶対不可能である…。」(『河邊貞吉説教集(1)』、昭和9年、pp.328-329)と説いておられます。聖霊に満たされて、キリストの愛をもっと深く知り、宣教の業に励むよう努めましょう!

2022年5月29日の礼拝宣教から

「みなしごにはしておかない」 ヨハネ福音書14章15-24節

津村春英 牧師

2022年5月6日の東京新聞社説「戦争と平和を考える トルストイを読み直す」に、「プーチン大統領よ、今すぐ読み直せ、と言いたい。」とありました。では、私たちは聖書をどのように読んでいますか。

 ヨハネ福音書研究で、書の成立の背景に会堂追放(9:22; 12:42; 16:2)という迫害があったとみる仮説(J.L.マーティン)があります。つまり、自分たちの厳しい状況と主イエスの出来事とを重ね合わせたと考えるのです。ヨハネ福音書では早くも13章から最後の晩餐が始まっていますが、ご自分が去ったあとに残される弟子たちに対して、「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである」(14:15・聖書協会共同訳)と語りかけられます。それは21、23節(私の言葉を守る)にも繰り返されていますが、この間に二つの約束があります。一つは、別の弁護者(真理の霊:聖霊、cf.イエスは弁護者(ヨハネ手紙一2:1))を遣わしてくださるよう、父に願われることであり、もう一つは、「あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたの所に戻って来る」(14:18、再臨)という約束です。これは、今日(こんにち)の私たちへのメッセージでもあります。繰り返しますが、私たちは聖書をどのように読んでいますか。

2022年5月22日の礼拝宣教から  

「信仰によって」 ヘブライ人への手紙11章17-22節

津村春英 牧師

アブラハムは独り子イサクを献げるように、神に命じられ、行動に移しました(創世記22章1-13節参照)。その理由を、ヘブライ書の著者は、「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。…アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。」(11:18-19)と表現しています。これは軽々しい言葉ではありません。下線部の原語のギリシア語「ロギゾマイ」は「ロゴス」が語源で、「信じた」というより、「よく考えた」の意味で、熟考の末、考えに考え抜いた結果、受け入れたということです。なぜなら、イサクは、長年の念願の息子であり、そこから子孫が生じるという約束を受けていた子だったからです。それはアブラハムにとって、極めて厳しい試練の時でしたが、最善をなさる神に全幅の信頼をおいて、前進したのです。勿論、神は、アブラハムが息子を屠ろうとしたその瞬間に助けてくださいました。

ヤコブ書では、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょう。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」(2:14)と告げています。アブラハムの信仰に倣い、今、一歩前進することができるよう、共に祈りましょう。

2022年5月15日の礼拝宣教から

「見捨てられることはない」 ルカ福音書15章1-7節

津村春英 牧師

 今日は沖縄の本土復帰50年の日です。焦土と化した地獄絵のような沖縄戦で、ある人々は、「見捨てられた」と思ったそうです…。

 ルカ福音書15章には、99匹の羊と見失った1匹の羊のたとえ話があります。前者は主イエスの時代のファリサイ派の人々や律法学者たちを指し、後者は徴税人や罪人と呼ばれる人々を指しています。当時の罪人とは罪を犯した人々だけでなく、娼婦たちや落ちぶれた人々(cf.放蕩息子)も含んでいたと考えられ、徴税人は、ローマ帝国のために同胞から税金を徴収した人々で罪人と同等でした。しかし、主は、この罪人、見失った1匹の羊を、見つけ出すまで探して歩くというのです。それは、まるで迷子になったわが子を必死で探す親のようです。見失った羊の発見は、罪人が悔い改めることを意味します。徴税人と罪人は、ファリサイ派や律法学者から軽蔑され見放されますが、主からは決して見捨てられることはないというたとえです。

9歳の時、赤痢の後遺症で目と耳以外の機能が奪われ、ほとんど一生、6畳一間で生活された水野源三さんも、主に見出され、悔い改めて主を信じ、「神さまの大きな御手の中で 私は私らしく生きる」と歌っています。見捨てられていない、神さまから愛されていると証言しているのです。