2021年8月1日の礼拝宣教から

『最後まで耐え忍ぶ人』 マタイ福音書24章3-14節

牧師 津村春英

東京オリンピック2020、最後まであきらめないで頑張るアスリートの姿に励まされます。主イエスは弟子たちに、やがて起こる出来事について話されました。人に惑わされないように、戦争の騒ぎやうわさを聞いても慌てないように気をつけなさいと。また、飢餓や地震が起こるが、それらは産みの苦しみの始まりである。彼ら自身に迫害が臨み、キリスト者の多くはつまずき、互いに裏切りあい、憎み合うようになる。また、偽預言者も現れ、多くのキリスト者が惑わされ、自己中心的になり人々への愛、神への愛が冷える。しかし、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(13)と言われました。

ナチスの強制収容所経験者であり精神科医であったビクトール・フランクルは、極度の苦難の中を耐えて生き延びることのできた人は、待っている仕事がある人、待っている愛する人がいると考えていた人であったと書いています(V.E.フランクル『それでも人生にイエスと言う』山田邦男、松田美佳訳、春秋社、2014、p.174)。つまり、厳しい苦しみの中にあっても近未来の希望をもっていた人なのです。私たちはどうですか。コロナ禍の中にあって、希望をもっていますか。究極の希望は主にお会いすることです。最後まで耐え忍ぶ人でありたいものです。

2021年7月25日の礼拝宣教から

『ほかの人を遣わしてください』 出エジプト記4章10-17節

牧師 津村春英

昨今のコロナ禍で、開催の是非が問われた中、東京オリンピック2020が始まりました。かつて、「参加することに意義がある」といわれたオリンピズムでなく、やはり金(きん)を目指す戦いです。また、アスリートには気の毒ですが、コマーシャリズムのオリンピックは一考を要すると思います。

さて、あの偉大なモーセは、神から任務を与えられたとき、考えに考えました。それは彼の人生の大問題だったからです。「私は言葉の人ではなく口が重く舌も重いのです」という言い訳に対し、主が共にいてくださる、しかも雄弁な兄のアロンの助けがあると諭されます。しかし、「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」(13)と執拗に拒絶します。

服部嘉明師は、ギデオン、イザヤ、エレミヤなどを挙げ、「神が使命を与えて人間を召し、お用いになる場合、…人間としての弱さや欠点をよくご存じでありながら…用いられることがしばしばである。」と書いています(『出エジプト記に聞く』pp.36-37』)。私たちにも弱さや欠点がありますが、主のご用に召されているのです。最後にモーセは、「あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」(17)と送り出されます。モーセは杖をもって、私たちは信仰をもって、さあ一歩を踏み出しましょう!

2021年7月18日の礼拝宣教から

一人も失うことがない』 ヨハネ福音書6章34-40節

牧師 津村春英

サッカーのFIFAワールドカップに出場したミャンマーの選手が、母国のクーデターに抗議の意思を示して帰国拒否をし、難民申請をしています。日本政府はどう対応するのでしょうか。

主イエスは、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(6:37)と言われました。どういうことでしょうか。群衆が主イエスのもとにやって来て問答をします。主は、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(32)と言われたのに対し、彼らは「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(34)と言うと、主は、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して乾くことがない。」(35)と言われ、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(39)と言われました。この「失わない」という語は、有名な3:16の「滅びない」と同じ語で、これらは響き合っています。 ウイリアム・バークレーは、人が神を信じるのは、神は偉大で、すべてを超越して賢いからという理由だけでなく、わたしたちを理解する愛を持っておられるから、と書いています(『希望と信頼に生きる』柳生直行訳、pp.257-258)。「一人も失うことがない」、それは愛ゆえです。

2021年7月11日の礼拝宣教から

『安らぎが得られる』 マタイ福音書11章25-30節

牧師 津村春英

家の中でずっと動いているものは時計です。たまには休ませてあげたいと思います。エアコンや冷蔵庫は設定温度により時々止まります。私たちの心臓は生まれた時からずっと動きっぱなしですが、心身の休養は必要です。

主は言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(11:28)と。原語から想像すると、「疲れた者」とは、一生懸命働いて疲れ果てた人であり、「重荷を負う者」とは、ずっと荷を負わされっぱなしの人です。さらに、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(29)と続けられました。確かに、柔和な人と接すると自分も柔和になることを教えられ、また、謙遜な人に出会うと謙遜を教えられます。「安らぎを得られる」と訳されているのは、休養を意味します。つまり、前の「休ませて上げよう」(28)という語と響き合っているのです。

このように、安らぎを得るためには主イエスの軛を負う必要があります。この方は十字架、復活、昇天を経て、やがて再臨されるのです。この方と軛を共にすることにより、その十字架により罪が赦され、その復活により永遠の命の約束にあずかるのです。あなたの軛は、主とつながっていますか。緩んではいませんか。しっかりと結びつけ、安らぎを得ましょう。

2021年7月4日の礼拝宣教から

『福音を告げ知らせるために』 使徒言行録16章6-10節

牧師 津村春英

雨水の蓄積により熱海の伊豆山で土石流が発生し大きな被害出ていると報じられました。想定外の出来事です。人命救助と復旧が急がれます。私たちの人生にも、予想もしなかったことが突如発生します。そのときに支えになるのが不動のみ言葉です。

 ルカが記したと考えられている使徒言行録の大半はパウロの伝道旅行です。ルカもその一行の中にいたと思われます。15章36節から第二次伝道旅行が始まりますが、彼らの進もうと思うルートが閉ざされたことが幾度かありました。ルカはそれを、「聖霊から禁じられた」(6)「イエスの霊がそれを許さなかった」(7)と表現しています。そして、パウロとその一行がたどり着いたトロアスで、「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。」(9)とあります。かれらはそれを神からの福音宣教の召しと確信するに至り、かくしてマケドニア(ヨーロッパ)へと向かいます。ただし、これが神の召しと言っても、試練はあったのです。

さて、キリスト者の私たちを抜きにして、一体誰が福音を告げ知らせるのでしょうか。それぞれ与えられている場があるのではないでしょうか。