2022年4月17日 の礼拝宣教から

「思い起こしなさい」 テモテへの手紙二2章8-13節

津村春英 牧師

イースター、おめでとうございます。使徒パウロは、福音宣教のために苦難を強いられていましたが、次のように勧めています。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。」(2:8)と。イエス・キリストをいつも「思い起こす」ことが苦難の中を生き抜く鍵であり、希望の源だというのです。そして、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」(同11)と言っています。「死ぬ」とは主の十字架であり、「生きる」とは主の復活を意味しています。

コブクロの歌、「共に歩き 共に探し 共に笑い … 共に感じ…共に泣き 共に背負い 共に抱き … 共に築き 共に願い」のように、主と共に生きることが、キリスト者に求められているのです。そのためには、いつも「主を思い起こすこと」が重要なのです。哲学者の故中村雄二郎は、現代人の著しく弱まっている人間的能力は、想起し再認する能力であると指摘し、この想起のための場所やイメージ作りが必要だと述べています(「記憶」『術語集Ⅱ』岩波新書)。自分なりのイメージ作りをしながら、いつも主を思い起こすことができるように努め、希望をもって進みましょう。

2022年4月10日の礼拝宣教から  

「契約の血」 マルコ福音書14章22-26節

津村春英 牧師

 四月に入り、さまざまなものの値上げが続き、光熱費も上がっています。これは、原油価格の高騰に起因する物流費や原材料費の値上がり、円安、それにロシアのウクライナ軍事侵攻が原因だと考えられますが、三つ目については、私たちは口先だけでなく、「痛みを分かち合う」という意味で、受け入れる必要があると思われます。

旧約聖書で、モーセは血を取り、民に振りかけて言いました。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」(出エジプト24:8)と。他方、主イエスは、この出エジプトを記念する過越の食事のときに、杯を取り、弟子たちに与えて約束されたのです。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マルコ14:24)と。この新しい契約は、主が身をもって十字架におかかりになり、罪を贖うことによって実証されるのです。ここに、今日の私たちの救いがあるのです。讃美歌第二編231番のように、私たちの「罪、とが、不義、やみ、はじ、けがれ」という足かせ、手かせ、首かせは、主の十字架によって打ち砕かれ、私たちは痛み、苦しみから解放されるのです。心から主に感謝し、苦難の中でも希望を持って歩みたいと思います。

2022年4月3日の礼拝宣教から

「満ち溢れる恵み」 ローマ信徒への手紙5章15-21節

津村春英 牧師

最近、フェイクfake(でっち上げ、見せかけ)という言葉をよく耳にします。これはデジタル時代になり、アナログの文字、音、画像などほとんどのものがデジタルで表現でき、模造も容易になったからだと思われます。あの惨状を極めるウクライナ情勢に関する西欧側のニュースも、ロシア側ではフェイクだと発信しているようです。一体、何が真実なのでしょうか。

キリスト者は聖書に真実を求めます。私たち人間は何者なのでしょうか。使徒パウロは言っています。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(5:19, 20)と。

この「従順」というギリシア語は「下+聞く」の合成語ですが、人間の原点であるアダムは神の御声に聞き従わず、罪を犯しました。そして、モーセに授与された律法により、その罪は深く認識されるようになりましたが、主イエス・キリストの、十字架に至るほどの、神に対する従順によってもたらされた「恵み」は、罪を深く認識すればするほど、人に満ち溢れるというのです。自らを見つめ直し、満ち溢れる主の恵みに感謝したいものです。

2022年3月27日の礼拝宣教から  

「主は私たちのために」   イザヤ53章4-6節

2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻して約1か月が経過しました。破壊された建物と人々の犠牲は悲惨ですさまじいものです。祈らねばなりません。昨日3月26日は、1945年(昭和20年)に連合国軍が沖縄に上陸した日で、戦闘は3か月にも及び、多くの人々の命が奪われ、地形が変わるほど破壊されました。今日の平和は、その犠牲の上に成り立っています。

さて、旧約聖書では、「罪」についておおよそ次の三つの語が使われています。ハッタート(誤り、的外れ)、アーオーン(咎、不義)、ペシャ(背き、反逆)です。初期教会の人々が信仰の土台としたイザヤ書の「四つの僕の歌」の一つ、53章には、「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背き(ペシャ)のためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎(アーオーン)のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(53:5)とあります。「彼」を主イエス・キリストと理解し、自分たちの罪の身代わりとして、主は苦しみをお受けになり、その打たれた傷によって、私たちは癒された、とキリスト者は信仰告白したのです(cf.ペトロ一2:24-25)。私たちの人生という道には、上り、下り、カーブがいくもあります。私たちの心の平安は、癒しは、どこにあるのでしょうか。この主イエス・キリスト以外にありません。

2022年3月20日の礼拝宣教から

「主にゆだねる」   創世記15章1-6節

津村春英 牧師

毎日伝えられるウクライナの惨状に心を痛めています。一日も早く平和が訪れるように、そして荒廃した国土が再建できるように祈らねばなりません。

旧約聖書のアブラハム(アブラム)は波乱万丈の人生を送りました。不可解な事柄も経験しました。本日の聖書の箇所では、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(15:6)がキーワードです。下線部のヘブライ語原文を英語に訳せば、believed in the Lord となります。つまり、前置詞inに相当するヘブライ語「べー」が「主」に接頭されていて、「主を深く信じた」という意味合いになります。「あなたの子孫は数えきれない空の星のようになる」との神からの約束を信じたのです。アブラハムは、最初、妻が差し出した僕女ハガルによって男児イシュマエルもうけますが、離れなければならなくなります。その後、やっと妻サラとの間に男児イサクが与えられますが、その息子を献げるよう神に命じられ、その子に向かって刀を下ろす寸前に救われます。森有正は、「いかに失敗を重ねても、アブラハムには神に対する本当の信仰というものが根底においてあったからです。」と評しています(『光と闇』p.33)。アブラハムは、主にすべてをゆだねることができるほどに主を信じていたのです。私たちもそういう信仰をもちたいものです。