2023年4月2日の礼拝宣教から

「この人を見よ」 ヨハネによる福音書19章4‐7節

津村春英牧師

一日何回、鏡を見ますか。スマホも顔認証で開きます。顔はその人物を表す最も重要なところです。人というギリシア語にはアネール(人、夫、男)とアンスローポス(アネール+オープス・顔)があります。ポンティオ・ピラトが、荊の冠をつけ、紫の衣を着た主イエスをユダヤ人たちの前に引き出し、「見よ、この人(アンスローポス)だ」(ほらごらん、この人だ)というくだりがあります。ラテン語では、エッケ・ホモーと言いますが、この名の絵画はたくさんあります。どんな顔に描かれているのか興味深いことですが、玉川直重本ではこの箇所は「みじめな人」と解しています。

私たちはこの悲惨を味わわれた主イエスからから目を離してはいけません。ただし、十字架上の主イエスをただ眺めているだけではいけないのです。そのままではキリスト教は終わってしまうからです。弟子たちは、やがて墓に葬られ三日目によみがえられた主に再び出会い、宣教の業に遣わされていくのです。私たちも、主の十字架をただ偲んでいるだけであれば、大阪日本橋キリスト教会は終わってしまいます。みことばを宣べ伝えなければ、御言葉を行う人にならなければ、この教会は終わってしまいます。十字架の出来事を生涯かけて宣べ伝える者とならせていただきましょう。

2023年3月26日の礼拝宣教から 

「キリストの真実による義」 ガラテヤ信徒への手紙2章15-21節

津村春英牧師

高校や大学の入学試験の結果が出ました。合格者には進む将来が少し開けましたが、入学後は学校の学生に相応しい学びをするよう期待されています。

聖書には、神がおのおのの行いに従って裁きを行われる日があると書かれています(ローマ2:5, 6)。それはまるで御国に入る試験のようで、この合格のことを、「義とされる」と表現しています。紀元1世紀の初期教会には、ユダヤ人と、ギリシア人をはじめとする異邦人がいて、ユダヤ人は異邦人に対して、律法に則って、割礼を受けてからでないと義とされないと主張しました。それに対して、パウロはユダヤ人でありながら、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。」(ガラテヤ2:16a聖書協会共同訳)と、異邦人にも開かれた「義」を力説しました。イエス・キリストの真実とは、神に対する真実であり、私たち人間に対する真実であり、神がイエス・キリストを通して示してくださった真実で、それは十字架によって現わされました。私たちを愛して、ご自身を献げてくださったキリストの真実の十字架、このキリストの真実によって生かされていることを「恵み」というのです(同20)。心から感謝し、期待に応えるべく揺るがない信仰を持ち続けたいものです。

2023年3月19日の礼拝宣教から 

『わたしはある』というお方」 出エジプト記3章13-15節

川﨑真奈神学生

今日の主人公はモーセです。彼は、エジプトの地でヘブライ人として生まれ、王宮で育ちました。成人になった頃、彼は一人のエジプト人を殺したことにより、逃げるようにしてミディアンの地へ向かい、そこで羊飼いとして暮らすようになりました。それから40年が過ぎたある日、神はモーセに、エジプトにいる同胞たちを導き出すように、と語られました。「わたしは何者でしょう」と自分の小ささを嘆くモーセに、神は「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われました。そして、神の名を聞かれたら何と答えたら良いだろうかと問うモーセに、神は「『わたしはある』という者だ」と言われました。

この「わたしはある」という神の名は、非常にダイナミックです。神は、あらゆるものの存在の根源であり、また永遠に、世界全てを治める偉大なお方です。イエス・キリストご自身こそ、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブライ人への手紙13:8)です。

私たちの人生も、この世界も、全ては永遠に変わることのない主の御手の中にあるのです。自分や人を見るのでなく、この全能なる主を見上げる時、深い平安がやってきます。そして私たちと絶えず共にいてくださるこの主に、日々の歩みを委ねていこうではありませんか。

2023年3月12日の礼拝宣教から 

「恵みの座に近づこう」 ヘブライ人への手紙4章14-16節

津村春英牧師

昨日3月11日(2011年)は東日本大震災の日で、明日3月13日(1945年)は大阪大空襲の日です。いつかどこかで必ず災害が起こり、ウクライナの惨状が物語るように戦争も絶えることがありません。これらの中で、親しい人との突然の死別もあります。この試練を乗り越えるすべはあるのでしょうか。

ヘブライ書の背景には厳しい苦難が想像されます。信仰者は試練の中にありましたが、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(4:15, 16)と励まされています。へブライ書の語るこの「大祭司」とは、イエス・キリストであり、人として、試練に遭われた後、十字架の血をもって人々の罪の贖いをなされました。「恵みの座」とは、贖いがなされる場所(出エジプト25:22)であり、従来は、大祭司以外は近づくことができなかった(民数記18:7)のですが、大祭司イエスの贖いにより、すべての人がそこに近づくことが可能になったのです。その「恵みの座」には、憐れみがあり、時宜を得た助けの恵みがあるというのです。信仰をもって、大胆に近づこうではありませんか。

2023年3月5日の礼拝宣教から

「いちじくの木のたとえ」 ルカによる福音書13章1-9節

津村春英牧師

卒業式のシーズンです。教師は卒業生に対して何を求め期待するのでしょうか。主イエスは弟子たちはじめ、聴衆に向かって繰り返し、悔い改めを求めました。ルカの福音書にはそれが顕著に表されています。悔い改めなければ恐ろしい結果になると迫りました。それは紀元70年のエルサレム崩壊を暗示していました。主イエスは、それをいちじくの木のたとえでもって説明されました。3年たっても実を結ばないいちじくの木に対して、切ってしまえとオーナーから命じられた園の管理人は、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」(13:5)と答えました。管理人は主イエスであって、主は、なんと十字架の死をもって、信じる者を救い、人生で実を結ぶようにしてくださったのです。

悔い改める必要なんかない、などという人はいませんか。大変残念ですが、その人は神の恵みからもれていると言わざるを得ません。悔い改めることは、ルカ15章の三つのたとえにあるように、まず、自分が本来あるところから失われていることに気づくこと、しかし、そんな自分を知っていて待っていてくださる方がいることに気づくこと、そして、そのお方のもとに向かうことです。悔い改めは前向きです。前進のための希望です。