2022年9月11日の礼拝宣教から         

「罪人の頭(かしら)」   Ⅰテモテ1章12-17節

津村 春英 牧師

先週、英国のエリザベス女王が崩御され、国際社会から追悼の声が相次いでいるようです。そして、王位は継承順第一位のチャールズ3世に引き継がれました。

使徒パウロは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」(1:15)と書きました。つまり、パウロ自身が、罪人の順位では第一位(頭:かしら)だと表明したのです。なぜなら、キリストに出会う前は、神を冒涜する者、迫害者、傲慢な者(共同訳)であったからだと言うのです。しかし、知らずに行ったので、憐れみを受け(同13)、「わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」(同16)と続けています。パウロは自分が、「こんな者でも救われる」という見本(先例)となるために、主キリスト・イエスが、限りない忍耐(寛容:時間をかけるの意)をもって見守ってくださったと書いているのです。パウロが受けた主の憐れみは、私たちにも及んでいるのです。あふれる感謝を主にささげ、私たちも伝道に励みましょう。

2022年9月4日の礼拝宣教から

「永遠の栄光に招かれた者」  ペトロの手紙一5章8-11節

津村 春英 牧師

19世紀のクリミヤ戦争で名をはせたナイチンゲールは、当時の陸軍病院での死亡の大半は、負傷よりも感染症が原因であることを突き止めたと言われます。現在、私たちは新型コロナウイルスの感染防止に努めていますが、一般的に、感染は病原体の感染力と人の免疫力に関係するそうです。

ペトロの手紙一は、迫害をはじめ、いろいろな苦しみの中にいるキリスト者を励ますために書かれたと考えられます。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」(5:9)とありますが、主イエスを信じる信仰という免疫力によって、ぐらつかないで、悪魔に対峙しなさいと励ましています。獲物を探し回っているライオン(悪魔の比喩)に対して、少しでも隙(すき)を見せると襲いかかられます。勇ましく言っても、とても勝てる相手ではありません。なお、上記の下線部の原語は、「抵抗する」(新共同訳)や「対抗する」(新改訳2017)ではなく、「向き合って立つ」という語です。

こうして、「キリストを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で癒やし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」(同10)とあるように、キリストによって永遠の栄光に招かれた者として、信仰によって歩みましょう。

2022年8月28日の礼拝宣教から

「将来と希望を与えるもの」  エレミヤ書29章10-14節

安 喆寓信徒伝道師

新型コロナウイルスと戦い続けた3年間、私たちの生活は様々な変化がありました。行動制限の影響による外出の禁止、マスクの着用、手の消毒など人との接触が制限される、考えたこともない事態を迎えていました。いつこのような状況が終わるのか、我々の限界が見えていく時期でもあります。エルサレム神殿が破壊され、バビロンに連れて行かれたイスラエルの民はいつ自分たちの地に戻れるのか将来がわからないまま不安の日々を過ごしていきました。その人々に神様は預言者エレミヤを遣わし、「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(29:11)とあなたたちを本来の場所に戻す神様のご計画をよく知っていると伝えました。

そのためには、条件がありました。一つは、「わたしを呼び、来て祈ること」もう一つは、「心を尽くしてわたしを求める」ことでした。まさに今日、私たちが成すべき姿勢であります。私たちは常に神様を求め、祈り続けなければならないです。いつ終わるか先が見えないコロナ禍の中、皆様にとって将来と希望を与えるものは何でしょうか。普段の生活に戻れるように回復の希望を持って祈りましょう。必ず神様は私たちを助け、力づけてくださいます。

2022年8月21日の礼拝宣教から         

「信じて命を得る者」  ヘブライ人への手紙10章32-39節

津村春英 牧師

源頼朝は北条義時のことを「他日必ず子孫の補佐たらん」「義時をもって家臣の最となす」と称して信頼したそうですが、やがてその子孫は北条家に取って代わられ、義時は二代目の執権となります。「人間に頼るのをやめよ 鼻で息をしているだけの者に。」(イザヤ2:22)とあるとおりですね。私たちが直面している厳しい現実の中で、私たちが信頼できるお方は、神のみです。
ヘブライ書は一世紀末までにヘレニスト(ギリシア語を話す)・ユダヤ人を対象に書かれたと考えられます。彼らは、信仰の幼稚さ(5:12)を指摘されますが、何らかの迫害下にありました(10:32-34)。そこで、この書では、「互いに励ましあう」(3:13; 10:25)や、1人称複数形の「私たちは~しましょう」が特徴的で、みんなで信仰によって前進しようというスタンスが貫かれています(12:1)。「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」(10:36)、「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」(同39)とあります。困難な状況の中にあっても、ひるむことなく、みんなで祈りあい、支えあい、忍耐をもって最後まで主を信じ抜き、名実ともに永遠の命を得たいものです。

2022年8月14日の礼拝宣教から

「キリストが土台」  コリント一3章10-17節

津村春英 牧師

キリストの使徒パウロは、古代ローマ帝国支配下のアカイア州の大都市コリントで福音を宣教し、そこに教会が生まれました。しかし、パウロが去った後、一致が危ぶまれ、土地柄、不道徳も忍び込んできました(5~6章)。パウロは手紙を送り、こう言います。「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」(3:10, 11)と。下線部の「熟練した」は「知恵のある」、「土台を据える」は「基礎石を置く」、「土台」は「基礎石」、「無視して」は「反して」の意味です。つまり、パウロが、神から知恵をいただいて据えたキリストという礎の上には、その礎にふさわしい、最後の審判にも耐え得る建物(教会)を建てることが求められ、これは、私たちにも適用されます。

ただし、この教会はキリスト者の集まりであって、目に見える建物を指していません。そして、驚くべきことに、その中に神の霊、聖霊が住んでくださる(同16)というのです。感謝とともに、私たち一人一人が聖霊に満たされ、キリストという礎にふさわしい教会づくりに励まねばなりません。