2022年8月21日の礼拝宣教から         

「信じて命を得る者」  ヘブライ人への手紙10章32-39節

津村春英 牧師

源頼朝は北条義時のことを「他日必ず子孫の補佐たらん」「義時をもって家臣の最となす」と称して信頼したそうですが、やがてその子孫は北条家に取って代わられ、義時は二代目の執権となります。「人間に頼るのをやめよ 鼻で息をしているだけの者に。」(イザヤ2:22)とあるとおりですね。私たちが直面している厳しい現実の中で、私たちが信頼できるお方は、神のみです。
ヘブライ書は一世紀末までにヘレニスト(ギリシア語を話す)・ユダヤ人を対象に書かれたと考えられます。彼らは、信仰の幼稚さ(5:12)を指摘されますが、何らかの迫害下にありました(10:32-34)。そこで、この書では、「互いに励ましあう」(3:13; 10:25)や、1人称複数形の「私たちは~しましょう」が特徴的で、みんなで信仰によって前進しようというスタンスが貫かれています(12:1)。「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」(10:36)、「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」(同39)とあります。困難な状況の中にあっても、ひるむことなく、みんなで祈りあい、支えあい、忍耐をもって最後まで主を信じ抜き、名実ともに永遠の命を得たいものです。

2022年8月14日の礼拝宣教から

「キリストが土台」  コリント一3章10-17節

津村春英 牧師

キリストの使徒パウロは、古代ローマ帝国支配下のアカイア州の大都市コリントで福音を宣教し、そこに教会が生まれました。しかし、パウロが去った後、一致が危ぶまれ、土地柄、不道徳も忍び込んできました(5~6章)。パウロは手紙を送り、こう言います。「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」(3:10, 11)と。下線部の「熟練した」は「知恵のある」、「土台を据える」は「基礎石を置く」、「土台」は「基礎石」、「無視して」は「反して」の意味です。つまり、パウロが、神から知恵をいただいて据えたキリストという礎の上には、その礎にふさわしい、最後の審判にも耐え得る建物(教会)を建てることが求められ、これは、私たちにも適用されます。

ただし、この教会はキリスト者の集まりであって、目に見える建物を指していません。そして、驚くべきことに、その中に神の霊、聖霊が住んでくださる(同16)というのです。感謝とともに、私たち一人一人が聖霊に満たされ、キリストという礎にふさわしい教会づくりに励まねばなりません。

2022年8月7日の礼拝宣教から

「人知を超える神の平和」  フィリピ4章1-7節

津村春英 牧師

今は不安に満ちた時代です。先週は記録的大雨で山形、新潟、北陸で甚大な災害が発生しました。昨日は77回目の広島の原爆記念日で核兵器の廃絶が叫ばれました。コロナ禍もなかなか収束しません。癌などの病気や老いも深刻です。このように不安が尽きません。そのせいか、テレビで保険のCMが多すぎるように思います。保険は危険を保証するもので、人は安心を買うのですが、一番大丈夫な保険は何でしょうか。聖書に聞いてみましょう。

フィリピ書4章4-6節には、「天に国籍をもつ」(3:20)キリスト者が安心した生活を送るために、次の三つのことが勧められています。1)主にあって(主の十字架の罪の贖いのゆえに)、いつも喜んでいなさい。2)狭い心でなく、熟慮した広い心を周りの人に知られるように、3)何事も思い煩わないで、感謝を込めて祈りと願いを神に知っていただくことです。「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(4:7)と著者パウロは結んでいます。人知を超える平和(平安)を与えてくださる神が、キリスト・イエスにあって、私たちを「守って」(見守って)くださるのです。これが私たちにとって最も安心な保険なのです。

2022年7月31日の礼拝宣教から         

「自分の救いの達成に努めなさい」  フィリピ2章12-16節

津村春英 牧師

ロシアによるウクライナ軍事侵攻や円安によって物価高騰が進んでいます。おまけにコロナ禍という、避けられない厳しい現実を経験しています。

 使徒パウロの宣教によって生み出されたフィリピ教会は、パウロが去った後、迫害のもとにありました(1:27-30)。しかしパウロは、キリストが十字架の死に至るまで従順であられたように、「わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、

いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」(2:12)と勧めました。「従順」のギリシア語は「下」と「聞く」の合成語で、従順とは、神に、キリストに聞くことなのです。「あなたがた自身の救いを達成する」(直訳)とは、個人的というより、教会の救いの達成と考えられます(2:1-5)。

 その根拠は、保証は、「神」ご自身がその御心にそって、決意を与え、行動へと働きかけてくださるからだと言っています(同13)。だから、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。…こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」(同14-16)と結んでいます。キリストにあるなら、無駄なことは何もないというのです。そんな素晴らしい人生を送りたいものです。

2022年7月24日の礼拝宣教から         

「聞き入れられる祈り」  ルカ福音書18章9-14節

津村春英 牧師

陸上の世界選手権の女子やり投げで日本人選手が銅メダルを獲得されました。やり(槍)投げはいいですが、投げやり(遣り)はいけません。主イエスは、神に受け入れられる祈りのたとえとして、二人の人の話をされました。

祈るために神殿に上った一人はファリサイ派の人であり、もう一人は徴税人でした。当時の世間一般の常識では、前者は立派で敬虔な人、後者は罪人と並び称される悪評の人でした。しかし、自分は正しい(正確には、義しい)とうぬぼれるファリサイ派の人の高慢な祈りではなく、罪を悔い改め、胸を打ち、神の憐れみを求める(原語は罪の贖いの「いけにえ」と同じ語源)徴税人の祈りこそが、神に聞き入れられる祈りであるという話でした。

白川静『字解』によると、「義」は羊と我(のこぎり)の組み合わせで、いけにえとしてささげられる羊をのこぎりで切って、内臓にも問題がないということを示しているのだそうです。つまり「義」こそ神に受け入れられるいけにえなのです。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(18:14、傍線筆者)。主はどこに立っておられますか。そうです。この徴税人のそばです。悔い改めて祈る私たちのそばです。