2022年7月24日の礼拝宣教から         

「聞き入れられる祈り」  ルカ福音書18章9-14節

津村春英 牧師

陸上の世界選手権の女子やり投げで日本人選手が銅メダルを獲得されました。やり(槍)投げはいいですが、投げやり(遣り)はいけません。主イエスは、神に受け入れられる祈りのたとえとして、二人の人の話をされました。

祈るために神殿に上った一人はファリサイ派の人であり、もう一人は徴税人でした。当時の世間一般の常識では、前者は立派で敬虔な人、後者は罪人と並び称される悪評の人でした。しかし、自分は正しい(正確には、義しい)とうぬぼれるファリサイ派の人の高慢な祈りではなく、罪を悔い改め、胸を打ち、神の憐れみを求める(原語は罪の贖いの「いけにえ」と同じ語源)徴税人の祈りこそが、神に聞き入れられる祈りであるという話でした。

白川静『字解』によると、「義」は羊と我(のこぎり)の組み合わせで、いけにえとしてささげられる羊をのこぎりで切って、内臓にも問題がないということを示しているのだそうです。つまり「義」こそ神に受け入れられるいけにえなのです。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(18:14、傍線筆者)。主はどこに立っておられますか。そうです。この徴税人のそばです。悔い改めて祈る私たちのそばです。

2022年7月17日の礼拝宣教から

「回復と癒しの時」    エレミヤ33章1-9節

津村春英 牧師

コロナ禍の中、各地で久しぶりに夏祭りが行われているようです。多くは、もともと無病息災を祈念する行事だと言われます。他方、過日、奈良で起きた凶悪事件は犯人の、ある宗教団体への怨恨が原因だと報じられています。今、改めて、キリストの教会とは、毎週の礼拝とは何かを考えさせられます。

エレミヤは、紀元前7世紀の南ユダ王国末期に、預言者として活動しました。彼は、人々の悪行と背信の罪ゆえに、都エルサレムはおびただしい死体で溢れ、崩壊し、人々はバビロンに捕囚されるが、やがて回復の時が訪れる、と預言しました。「しかし、私はこの都に回復と癒やしをもたらし、彼らを癒やして、確かな平和を豊かに示す。」(エレミヤ33章6節・聖書協会共同訳)とありますが、原語では、「回復」は「傷の癒し」を意味し、「癒し」は「破れの繕い、国家に対する赦し」などを意味します。このように、時を経て、都とその人々は神に癒され、真実の平和が実現するとエレミヤは預言したのです。

キリストの教会は、主イエス・キリストの十字架によって贖われています。キリストによって、罪からきよめられ、罪を赦されるのです。礼拝の中で、私たちの傷が癒され、破れが繕われることを実感するのです。上記のみことばの「都」を「教会」に置き換えてみましょう…。心から感謝します。

2022年7月10日の礼拝宣教から

祝福の言葉 申命記33章1-12節

津村春英 牧師

自らの人生の終わりを知り、ことばを残せる人は幸いだと思います。「神の人モーセが生涯を終えるに先立って」(申命記33:1・直訳:自らの死を目前にして)、イスラエルの民に対して、祝福のことばを与えました。まず、ヤコブ(イスラエル)の長子ルベン族から始め、ユダ、レビ、ベニヤミンへと続きます。「ベニヤミンについて彼は言った。/「主に愛される者はその傍らに安らかに住まう。/主は日夜盾で彼を守り/彼は主の肩の間に住む」(33:12・聖書協会共同訳)。「主の肩の間」とは、シオンとその北のモリヤの山との間と解され、彼らは、神の都の最も近いところに住み、「主に愛される者」と呼ばれるという、何と素晴らしいことでしょうか。

主イエスも、弟子たちとお別れになる際、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました(マタイ28:20)。使徒パウロも「愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」(コリント二13:11)とことばを送りました。これらは私たちへのメッセージでもあります。どんな時も、主が共にいてくださることが何よりの祝福です。「この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:5・聖書協会共同訳)。心から感謝しましょう。

2022年7月3日の礼拝宣教から

「主の愛のゆえに」 申命記7章6-8節

津村春英 牧師

古代イスラエルの民は、出エジプトの後、40年間という過酷な旅を経て、ついに約束の地を目前にしました。そこで、主はモーセを通して民に改めて語られます。「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、…あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」(7:6-8)、そして、「わたしが今日 命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。」(30:16)と。偶像礼拝のはびこる地で、主を愛し続けることが彼らのミッションでした。

キリスト者は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、…わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)という主イエスの言葉に存在の根拠をおいています。今、コロナ禍で、礼拝に出席することだけで精いっぱいの状況が続いていますが、主に愛されている私たちは、主から託されている教会のミッション、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(テモテ二4:2)、を忘れてはなりません。

2022年6月26日の礼拝宣教から

「自分の蒔いたものを刈り取る」 ガラテヤ6章1-10節

津村春英 牧師

 19世紀のフランスの画家ジャン・フランソワ・ミレーの作品に、「種まく人」がありますが、私たちは、今までにどのような種を蒔いてきましたか。また、これからどのような種を蒔きますか。

パウロは、ガラテヤの諸教会の信徒に対して、彼らが主イエスを信じて救われた「霊の人」であるなら、「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(6:7, 8)と書いています。

「自分の肉に蒔く」とは、先の5:19-21の、肉の業、つまり、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴」などで、「刈り取り」の時、つまり、「最後の審判」の時には、それは「滅び」に至るというのです。

それに対して、「霊に蒔く」とは、続く5:22-23の、霊の結ぶ実、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という実をもたらす、神に受け入れられる行為で、それは「善を行う」(6:9-10)とも表現され、「永遠の命」に至るというのです。今一度、よく考えてみましょう。