2021年1月10日の礼拝宣教から   

『主をほめたたえよ』 士師記5章1-5節

牧師 津村春英

人生は駅伝のようです。自分に与えられた距離を走りぬき、次に襷を繋ぐのです。ただし、体調の変化、風雨、坂のアップダウン、山上り、山下りなどに左右されます。また、他のランナーとの戦いであり自分との戦いでもあります。

ヨシュアの死後、約束の地でその後何があったかは士師記に記されています。場所と敵は異なりますが、13人の士師(裁き人)たちによってヨシュアの襷は繋がれていきました。女預言者デボラと、彼女に呼び寄せられたバラクが敵に勝利したとき、「イスラエルにおいて民が髪を伸ばし/進んで身をささげるがとき/主をほめたたえよ。」と歌いました(5:2)。「髪を伸ばす」のは、主に対する誓いと関係があり、「進んで身をささげる」のは戦いに出る意と解釈されます。戦いに際し、主をほめたたえることから始めよというのです。さらに、「もろもろの王よ、聞け/君主らよ、耳を傾けよ。わたしは主に向かって歌う。イスラエルの神、主に向かって/わたしは賛美の歌をうたう。」(同3)とあるように、異国の王たち、君主たちに向かって、「わたし」は主をほめ歌うと強調しています。イスラエルは主から離れたときに堕落し、敵に屈しました。私たちも「主にある」という生き方が重要です。この新しい一年、主をほめたたえながら、襷を次に繋ぐ働きに努めましょう。

2021年1月3日の礼拝宣教から 

『主にあっていつも喜びなさい』 フィリピ4章2-9節

牧師 津村春英

ネズミの寿命は2-3年、象は80-100年と言われます。ところがどちらも一生の間に心臓は約20億回打つそうです。ゾウはのっしのっしと動いているのに対して、ネズミはチョロチョロと小忙しそうに動いているのです(『ゾウの時間ネズミの時間』本川達雄、1992)。では、私たちはあとどれくらい生かされるのでしょうか。2021年の教会カレンダーの下欄に、「主にあっていつも喜びなさい」(聖書協会共同訳フィリピ4章4節)のみことばを印刷してもらいました。この「主にあって」の「あって」はギリシア語の前置詞で、親しい人格的な関係を意味します。すなわち、自分的には喜べないと思うことも、主イエス・キリストの十字架と復活に照らし合わせることによって、喜ぶことができると解せます。

54年間にわたって日本の教育畑で奉仕され、骨を埋められたドイツ人司祭、へルマン・ホイヴェルスは、「すべての喜びは外から心の中に入る。外から、その材料や種が入って来ないなら誰も喜びません。…この喜びの材料は無数でもあります。」(『人生の秋に』)と書いています。コロナ禍で未だ先が見えませんし、受け入れがたいことも多くありますが、すべてのことに感謝し、主にあっていつも喜びたいものです。 

2020年12月20日の礼拝宣教から

『民を罪から救う方』 マタイによる福音書1章21-23節

牧師 津村春英

選択的夫婦別氏(うじ)制度の導入の声が高まってきています。確かに「名」は重要です。聖書にイエスという名の由来が書かれています。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(1:21)。イエスという名は、旧約聖書ヘブライ語「ヨシュア」(主(ヤハウエ)は救いの意)の訳語です。その名のごとく、ご自分の民を罪から救われるのです。民(ギリシア語ラオス)は直接的にはイスラエルの民をさしていますが、マタイ福音書では「すべての人々」がその射程に入っています(28:19「すべての民」の民はギリシア語エスネーですべての民族)。では、その方法、手段は何でしょうか。それは十字架刑によってです。

先週から米国では新型コロナウイルスのワクチン接種が始まっているようですが、それは「毒をもって毒を制す」という考え方です。同様に、人間の罪の問題は罪を十字架で負われることによって解決されるのです。さらに、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(同23)とあるように、この方はそのご生涯を通してインマヌエル(神は我々と共におられる)を現してくださいました。このように、この方がわたしたちを救い、いつも神が共にいてくださることを教えてくださるのです。感謝して、そのご降誕を心からお祝いしましょう。

2020年12月13日の礼拝宣教か 

『神を示された方』 ヨハネに書よる福音書1章14-18節

牧師 津村春英

小惑星リュウグウの砂がカプセルに入れられて地球に届きました。小惑星が地球に衝突して生命の材料をもたらしたという仮説に立ち、生命の起源が解明されるかもしれないと言っています。ヨハネ福音書の序章に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)とあります。この「示す」と訳された原語は「解き明かす」という意味で、その名詞形は「釈義」と訳されます。主イエスはそのご生涯を通して神を解き明かされた方なのです。

松田明三郎師の「星を動かした少女」に、クリスマス生誕劇で、博士たちを導く星を動かす役をもらった少女の話が出てきます。「『お母さん、私は今夜星を動かすの。見ていて頂戴ね―』その夜、堂に満ちた会衆は ベツレヘムの星を動かしたものが 誰であるか気づかなかったけれど、彼女の母だけは知っていた。そこに少女のよろこびがあった。」   

私たち一人一人は、神が主人公の遠大な物語の中に登場する人物の一人で、それぞれ役を担っています。しかも、それは主人公を引き立てるためになくてはならない役なのです。神を解き明かされた主イエスに倣い、自分の人生を通して、最後までその役を演じ切りたいものです。

2020年12月6日の礼拝宣教から

『すべての人を照らす光』 ヨハネによる福音書1章9-13節

牧師 津村春英

御堂筋イルミネーション2020のテーマ―は「希望の光」だそうです。LEDは素晴らしい光を演出しますが、それは人がつくり出す色です。本当の光、真実の光については聖書に書かれてあります。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9)と。光(イエス・キリスト)はすべての人を照らしますが、すべての人が救われるのではありません。続く10,11節に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」とありますが、言、つまり光を受け入れた人だけが救われるのです。そして、「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(同12)とあります。

三浦綾子さんは次のように書いています。「…過去はいいのです。今からの一歩を、あなたもキリストの愛の手に導かれて歩みたいとお思いになりませんか。そのことがどんなにむずかしく見えても、神が助けてくださるのです。キリストはこう言っておられます。『人にはできないことも、神にはできる』と。光あるうちに光の中を歩もうではないか。」(三浦綾子『光あるうちに』)。真の光であるイエス・キリストを受け入れ、神の子とされて恵みと愛に満たされて歩みましょう。