2019年9月8日の礼拝宣教から 

『神に愛されている者たち』 テサロニケ信徒への手紙一1章1-10節

牧師 津村春英

英誌エコノミストの調査部門EIUが発表した世界の都市の住みやすさランキングでは、ウィーンが1位、メルボルンが2位で、何と大阪は4位(東京は7位)でした。

さて、今日のテクストのテサロニケは、当時ローマ帝国マケドニア州の首都で、今日でもギリシアの第二の都市です。パウロが第二次伝道旅行でフィリピからこの町に移り、宣教した結果、イエス・キリストを信じる群れができました。後にパウロは、「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。」(1:4) 「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、」(同6)と書きました。

原文では、「あなたがたこそ、主に倣う者です」と表現されています。また、原語の「倣う者」は、まねる者、模倣する者、見習う者を意味しています。では、キリスト者であるあなたは、どのように主をまねていますか。主とどこが似ていますか。トマス・ア・ケンピス『キリストに倣いて』に、「今やイエスの天国をしたう者は多い。しかしその十字架をになう者は少ない。」(池谷敏雄訳、91頁)とあります。多くの苦難の中にあっても、御言葉を受け入れ、「あなたがたこそ、主に倣う者です」と言われたいものです。

2019年9月1日の礼拝宣教から 

『主のみ声を聞こう』 列王記上19章9-18節

牧師 津村春英

孤独の預言者と言われるエリヤはイスラエル分裂王国時代の預言者でした。彼は偶像のバアル神の預言者たちと戦い、孤軍奮闘して大勝利を得ましたが、王の妃で、バアル崇拝推進者であったイゼベルが激怒し、エリヤの命を狙います。それを聞いたエリヤは逃げ出し、何とイスラエルからユダの国を経て南の神の山ホレブ(シナイ)山にまでやって来て、そこにあったほら穴に身を隠したのです。その時、「エリヤよ、ここで何をしているのか。」という主の言葉があり、彼は言い訳をします。すると主は、「そこを出て山の中で主の前に立ちなさい」と言われると、大風があり、地震があり、火が起こりました。やがて静寂の中から、ささやく声(恐らく、エリヤに呼びかける主のみ声)があり、「エリヤよ、ここで何をしているのか。」という御声を聞き、またしても言い訳をしますが、主は、恐れていないで預言者としての務めを全うよう、エリヤを諭し励まされたのです。

この話から教えられるように、わたしたちは、決して孤独ではありません。孤立もしていません。主イエスは言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。楽しい時も喜びの時も、悲しみの時も苦しみの時も、主のみ声を聞き、自分の務めを果たしましょう。

2019年8月25日の礼拝宣教から

『キリストは生きておられる』 コリントの信徒への手紙二13章1-13節

牧師 津村春英

イエス・キリストは死んでしまった神ではありません。当時の人々の内に、そして歴史を貫いて信じる者の内に生きておられ、今、私(たち)の内にも生きておられます。クリスチャンと自称する人の中にも、「キリストは立派なお方」でとどまっている人がいるかもしれません。キリストが私の内に生きておられると証言するクリスチャンはどれくらいいるでしょうか。そんなことを言うのは高慢だと非難されるでしょうか。しかし、パウロの言う、私たしたちは土の器の中に宝を納めている(4:7)という観点からすると、ますます謙虚になり、感謝することができます。

パウロは、「わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。」「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」(13:9, 11)と書いています。「完全な者になる」が二度繰り返されています。原語では、前は名詞、後ろは動詞ですが、「破れが繕われ、ふさわしい者に整えられる」ことを意味しています。キリストの十字架の苦難と復活に共にあずかり、共に生きることを通して、そうなれるように励みましょう。

2019年8月18日の礼拝宣教から

『あなたがたを造り上げるため』 コリントの信徒への手紙二12章11-21節

主幹牧師 津村春英

戦後74年が経過しました。今日の繁栄は多くの犠牲によって造られたとよく言われます。戦争体験の語り部が年々減少していると聞きますが、私たちは、その犠牲を決して忘れてはならず、また、悲惨な戦争を二度と引き起こしてはなりません。

コリントという都市にある教会の人々が、真のキリスト者として造り上げられるために、パウロたちは犠牲を払いました。「わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。…わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。」(12:14, 15)とあります。また、そのようにする目的は、「愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。」(12:19)とあります。「造り上げる」と訳されている単語は「家」と「建てる」ということばの合成語です(新改訳2017の「成長する」の訳は不適当)。また、「造る」は「作る」と違って、「成し遂げる」という意味合いがあります。

 年頭に「愛に生きる教会をめざして」というスローガンを掲げました。悔い改めるべきところは悔い改め、主によって造り上げていただけることを期待して進みたいものです。

2019年8月11日の礼拝宣教から 

『恵みは十分ですか』コリントの信徒への手紙二12章1-10節

主幹牧師 津村春英

「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現われるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(12:9)とパウロは書いています。

他方、「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。」(12:2)とありますが、この人物は、他の誰でもないパウロ自身であると解されています。なお、第三の天については、旧約聖書外典・偽典に第五層、第七層が出てきます(津村春英「黙示文学」『新キリスト教辞典』、いのちのことば社)。当時の人々は、天は幾層にもなっていると考えていたようです(主の祈りの「天」も複数形)。パウロは、そんな素晴らしい自らの神秘体験を誇ることができましたが、「弱さを誇る」と断言しているのです。実は、パウロは自分の身体の「とげ」(先のとがった杭の意で、思い上がらないように与えられたサタンの使いと説明)を抜いてほしいと、主に三度願った結果、与えられたのが冒頭のみことばだったからです。

あなたは今、どのような状況に置かれていますか。あなたにとってキリストの恵みは十分ですか。わたしたちの「弱さ」の中に、キリストの力が完全に現われるという、みことばを信じましょう。