2020年1月5日の礼拝宣教から 

『安息日を覚えて聖別しなさい』  出エジプト記20章8-11節

牧師 津村春英

 2020年は、初代牧師の河邊貞吉師の家訓「聖日厳守」にならい、主日礼拝に励むように導かれています。十戒の第四戒、「安息日を覚えて、これを聖別しなさい。」(出エジプト記20:8、聖書協会共同訳)は、その前の第一、二、三戒を実行するための極めて有効な方法/手段(服部嘉明)であり、「聖別する」(カーダシュ)は世俗一般からの分離を意味します。その根拠は、①創造の業(わざ・出エジプト記20:11)であり、②贖いの業(申命記5:15)によります。  

 キリスト教会は主が復活された日曜日を安息日とします。この日は、神が創造の業を休まれたことから、私たちも身体と心を休め、その成し遂げられた創造の業を賛美する日です。また、出エジプトによる民の救いから、主イエス・キリストの十字架と復活による救いに感謝する日です。

人類最初の動力飛行を成功させたライト兄弟は、日曜日には飛行しなかったと言われ、また、映画『炎のランナー』のエリックは、日曜日の陸上短距離走の予選が日曜日であったので、種目を変更したにもかかわらず、優勝できたという話など、主日を大切にしたエピソードは数多くあります。多様化した忙しい現代にあっても、主日礼拝に励みたいものです。仕事などで、どうしようもないときは、僅かな時間でも聖別する時を持ちましょう。

2019年12月29日の礼拝宣教から

『感謝、感謝』   申命記26章5-11節

牧師 津村春英

 Life is a journey. journeyはtrip(短い旅)、travel(長い旅)、tour(巡る旅)と違い、苦労の長旅というプロセスを表現していると言われます。モーセはイスラエルの民が約束の地を目前にしているとき、次のように命じました。「あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。『わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。…エジプト人はこのわたしたちを虐げ…主に助けを求めると、…わたしたちをエジプトから導き出し、…乳と蜜の流れるこの地をわれわれに賜わりました。…』」(申命記26:5-9)。これは信仰告白です。下線部の「滅びゆく」は、新しい翻訳聖書(聖書協会共同訳、新改訳2017、フランシスコ会訳)ではいずれも「さすらいの」と訳されています。「さすらいのアラム人」、それはアラム人ラバンのもとで長い間仕えたヤコブを指していますが、原語のヘブライ語「アーバド」は、申命記では殆ど「滅びる」と訳されています。いつも危険と隣り合わせの旅人を表現しているのです。

 2019年の旅はいかがでしたか。わたしたちが、今日、この様に無事で礼拝を献げることができるのは、なんと有り難いことでしょうか。感謝、感謝です。わたしたちも信仰告白を確かにして、新しい年に入っていきましょう。

2019年12月22日の礼拝宣教から

『世界一の飼い葉桶』 ルカによる福音書2章8-20節

牧師 津村春英

クリスマスソングの定番はやはり、「きよしこの夜」(由木康・訳)です。原曲のドイツ語Stille Nachtにも、それを訳した英語Silent Nightにも、「まぶね(馬槽)・飼い葉桶」という言葉は出てきませんが、「まぶね」は日本語の歌詞として定着しています。

ルカ福音書の誕生物語には、「飼い葉桶」が3回(2:7; 2:12,16)出てきます。「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(2:6, 7)とあります。どうして、神様は彼らに暖かい客間を用意してくださらなかったのでしょうか…。しかし、「飼い葉桶」に寝かされたメシアだからこそ、どんな人をも救うことができるのかもしれません。救い主、メシアが寝かせられたそのベッドは、宮殿の豪華な部屋のものではなく、外側が宝石で飾られたものでも、純金製でもありません。むしろ、家畜用の「飼い葉桶」でした。メシアすなわちキリストは、「飼い葉桶」に寝かされていたと繰り返されます。ただし、この「飼い葉桶」は、その中におられるキリストが重要なのです。このお方が、すべての人を罪から救ってくださるお方なのです。ですから、このキリストを抱いた飼い葉桶は世界一の飼い葉桶ではないでしょうか。

2019年12月15日の礼拝宣教から

『レプトン銅貨二枚の信仰』 ルカによる福音書20章45-21章4節

牧師 津村春英

エルサレム神殿の「婦人の庭」にある献金箱に、お金持ちたちとある貧しいやもめが、献金している様子を主イエスはご覧になり、弟子たちに言われました。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」(ルカ20:3,4)。ただし、彼女が献げたのはわずか少額銅貨二枚でありました。しかし、主に絶賛されたのです。少額であっても、神への信頼なくして、生活費のすべてを献げることはできません。

 イエスの母マリアは歌います。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。」(1:47, 48)。マリアと先のやもめは、全く別の人物です。しかし、神が目を留められた、主イエスが目を留められたという点においては同じです。そして、すべてを献げたということにおいても同じです。このやもめの「レプトン銅貨二枚の信仰」は、マリアの信仰でもあります。それでは、私たちはどうでしょうか。心を開いて、神様のメッセージを受け入れ、神に全幅の信頼を置いて歩みましょう。神は私たちに目を留めてくださっています。

2019年12月8日の第2部礼拝宣教から  

『涙が喜びに変わる時』 詩編126篇1‐6節

主幹牧師 津村春英

 先週、アフガニスタンの地で凶弾に倒れた中村哲医師は、医療活動が原点でした。やがて支援の次元を広げて井戸堀に精を出され、砂漠を緑化する大きな貢献をされました。

 詩編の都上りの歌といわれる126篇には、「主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。」(126:4)とあります。下線部は「繁栄を再びもたらしてください」(聖書協会共同訳)とも訳されています。ネゲブ(南の意)の乾燥地帯が潤う時があります。雨季にはその渇ききった地に雨水が激しく流れる、そのように、イスラエルが回復されるよう祈っているのです。さらに続いて、「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(126:5, 6)とあります。

クリスマス、それは涙が喜びに変わる時です。回復の時です。救い主の誕生に、民は希望を抱きました。ただし、生み出されるまでのマリアやヨセフの苦闘なくしては実現しなかったことも忘れてはなりません。種を蒔くことは福音宣教にも例えられます。先の中村氏は、「あの山のすそまで水を引くんですよ」と言われたそうです。このクリスマスの良き日、私たちも宣教に励みましょう。