2022年12月18日の礼拝宣教から 

「主の救いを見る」  ルカによる福音書2章22-32節  

津村春英牧師

主イエスの時代のエルサレム神殿(境内)はおおよそ南北500メートル、東西300メートルの面積で、東京ドーム約3個分の大きさと考えられます。そこに集まる人々を相手に売り買いする人々、両替人、いけにえの鳩を売る人々もいて、そんな中で人を探すのは至難の業です。ただし、シメオンには聖霊が留まり(2:25)、救い主に会うまで決して死なないとのお告げを聖霊から受け(同26)、聖霊に導かれて神殿の境内にやって来たとあります(同27)。そしてついに、「わたしはこの目であなたの救いを見た」(同30)と言うのです。この話のキーワードは「聖霊」(神の霊)です。

 聖書(直接的には旧約聖書をさす)は神の霊の導きの下に書かれた(2テモテ3:16)とあり、ルカ福音書のはじめには、「すべてのことをはじめから詳しく調べ、順序正しく書いている」とあるように、「聖霊に導かれる」とは、夢遊病者のような神がかりになることを必ずしも意味しません。時には冷静に物事を判断できるように導かれます。シメオンは救い主の誕生のニュースを聞き、母マリアの清めの期間40日を数え、神殿にやって来る貧しい夫婦にターゲットを絞り、救いを見たのです。私たちにも救いが必要です。聖霊の導きにより、今日、ここで、「救い主」にお会いしたいと思います。

2022年12月11日の第2部礼拝宣教から

「土の器は主の器」 コリント信徒への手紙二 4章7-11節

津村春英牧師

パウロは、「私たちは、この宝を土の器に納めています。」(2コリント4:7・聖書協会共同訳)と書きました。「宝」とは6節の「キリストの御顔にある神の栄光を悟る光」でしょうか。当時、金や銀や木の器(2テモテ2:20)、銅や、鉄や、大理石の器(ヨハネ黙示録18:12)などがありましたので、土の器では宝を入れるには、あまりにも不釣り合いです。それは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)とへりくだったマリアが、その胎に御子を宿して文字通り「主の器」となり、主の栄光を表したことと重なります。

さらに、土の器であるというパウロは、「私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです」(2コリント4:10、聖書協会共同訳)と続けました。下線部は、「死」(同11)という一点でなく「死にゆく」プロセスを強調し、キリストの福音を宣べ伝える者の苦しみは、主の復活という命につながる(ローマ6:4)と説いています。

私たちは土の器であり、主の器です。この主の器の「の」は①主のもの、主が憐れんでくださる器であり、また、②主のために用いられる器を意味します。私たちに、どんな欠けがあっても主の器です。主の愛を受ける器であるとともに、主の栄光を表す器なのです。

2022年12月4 日の礼拝宣教から  

「全ての人のための救い主」  ルカによる福音書2章8-20節

川﨑真奈神学生

12月に突入し、2022年も残すところあと1ケ月となりました。

さて今回の主人公は、羊飼いです。当時羊飼いは、社会の中で疎外され、貧しい身分に置かれていました。そんな羊飼いたちに、誰よりも早く救い主の誕生の知らせが届いたのです。

10節、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

このメシアなる救い主がもたらした「救い」とは、政治的な支配からの救いや、身体的・精神的な救いよりもはるかにスケールの大きいものでした。それは、人間の存在の根幹に関わる、霊的な死からの救いです。

イエス・キリストの誕生によって、人が罪の滅びから救われる道が開かれたのです。そして、その救いは私たち全ての人に与えられたものである。だから私たちは、自分たちに差し出されているこの救いの豊かさに感謝し、礼拝するのです。今、アドベントの時、私たちはこの”福音”を共に味わっていきましょう!

2022年11月27日の礼拝宣教から

「その日がやってくる」  イザヤ書12章1-6節

津村春英牧師

ロシアのウクライナ軍事侵攻から9か月経過しました。また、新型コロナウイルス(COVID-19)感染が報告されてから12月で3年になります。この苦しみから解放される日はいつくるのでしょうか。

旧約聖書に登場する預言者イザヤは、紀元前740-690年頃に南ユダ王国で活動し、北イスラエル王国と南ユダ王国について預言しました。そして、722年のアッシリアによる北イスラエル王国サマリア陥落を経験し、南ユダ王国についても、150年も後の586年のエルサレム陥落からバビロン捕囚、エルサレム帰還を預言しました。「その日に、あなたは言うであろう。/『1主よ、私はあなたに感謝します。/あなたは私に怒りを向けられましたが/その怒りを去らせ、慰めてくださいました。2見よ、神は私の救い/私は信頼して、恐れない。/主こそ私の力、私の歌。/私の救いとなってくださった。』…4その日に、あなたがたは言うであろう。/『主に感謝せよ、御名を呼べ。/もろもろの民にその業を知らせ/その名が崇められていることを告げよ。」(12:1-2, 4・聖書協会共同訳)とあります。私たちにとっては、「その日」はクリスマスです。主イエスこそ、私の力、私の歌、私の救いとなってくださったお方です。心から感謝し、主を賛美し、この喜びを全地(同5)に知らせましょう!

2022年11月20日の礼拝宣教から

「み言葉の力」  マタイ福音書8章5-13節  

津村春英牧師

ユーモアや笑いは私たちのストレスを軽減し免疫力を高めると言われます。「いのちの言葉」は私たちを癒し、養い、希望を与えてくれます。それは主イエスの言葉です。

紀元一世紀に、その「いのちの言葉」を求めた人がいました。彼は、ガリラヤ湖北西岸の町カファルナウムに駐留するローマ帝国の百人隊長でした。傭兵と思われますが、イスラエルの民(8:12御国の子ら)から見ると異邦人でした。実は彼のパイース(しもべ、あるいは男の子)は、体が麻痺していて(聖書協会共同訳以外は「中風」と表記するが死語)、ひどく苦しんでいました。彼は主イエスの権威(力)あるみ言葉を信じていたので、「ただお言葉をください。そうすれば私の子は癒されます。」(同8・聖書協会共同訳)と懇願したのです。主イエスは彼の信仰を称賛され、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」(同13)と言われ、その時、彼のパイースは癒されたのです。

詩編に、「あなたの御言葉(みことば)は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」(119:105)とあります。厳しい現実ですが、日々、み言葉を信じ、み言葉によって歩みましょう。