2023年2月5日の礼拝宣教から         

「神の愛から引き離すことはできない」ローマ信徒への手紙8章31-39節

津村春英牧師

紀元一世紀の大都市ローマにいるキリスト者も例にもれず、信仰の戦いの中にありました。パウロは彼らに、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(8:35)と問いかけます。現代的に言うなら、「病気か、老いか」も追加されることでしょう。なお、下線部の原語は「狭い」を意味し、精神的な行き詰まりが想像できます。これは架空の話などではなく、パウロの実体験でもあります(コリント二11:23-27)。「しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります…高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」(8:37-39・聖書協会共同訳)と断言しています。

たとい自分がボロボロの状態にあると思っても、十字架と復活と執成しをもって愛してくださる主イエス・キリストによって、私たちは勝利者なのです。どんなものも、神の愛から私たちを引き離すことなどできないのです!

「勝利者はいつでも 傷つき悩みながら それでも前に向かう」(♪小坂忠「勝利者」)

2023年1月29日の礼拝宣教から

「試練の中の希望」 コリント信徒への手紙一10章11-13節

津村春英牧師

厳しい寒波が日本列島を襲っています。先週、札幌がマイナス13度を記録したということですが、私の息子は、そのような中、シベリヤ抑留に耐えた祖父を思い起こし、心励まされ歩いたとメールをよこしました。

一世紀のコリントというローマ元老院直轄の州都には、女神の大神殿があり、その影響下にあるキリスト者に対して、パウロは、彼らの偶像礼拝、淫行、不信仰、不平(10:7, 8)などの状況を知るに及び、出エジプトの出来事と主イエス・キリストとを重ね合わせながら、それらの出来事は、私たちを戒めるための前例テュポイ(英語ではtypeの複数形)(同6)であり、彼らに前例テュピコース(英語ではtypical)として起こった」(同11)と繰り返し、信仰に堅く立つよう励ましました。そして、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(13)と加えました。

この逃れる道(出口の意)は、村岡花子訳『少女パレアナ』の「喜び探し」のようなものだと思います…。希望をもって歩みましょう。

2023年1月22日の礼拝宣教から 

「信仰によってもう一歩」 マタイによる福音書14章22-23節

津村春英牧師

人生の嵐に遭遇したことがありますか。主イエスの弟子たちはガリラヤ湖で、舟で目的地に向かう途上、嵐に遭遇し、夜明けまで格闘しました。その時、主イエスは水上を歩いて弟子たちのところに来られたのです。悩む弟子たちに、「安心しなさいわたしだ。恐れ

ることはない。」(14:27)と言われました。前の下線部は、「しっかりしなさい」の意で、後の下線部は、旧約聖書以来の安全保障の言葉でありました(創世記15:1など)。ペトロは何を思ったのか、自分も水上を歩くことを主に求め、歩き出しましたが、風を見て(主から目を離し)、沈みそうになりました。そのペトロに対し、「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。」(14:31)とあります。下線部の「疑う」の原語ディスタゾーのディスは二度を意味し、文字通り、二の足を踏んでもう一歩が出なかったのです。

人生、生まれてから死に至るまで、不安がない時などありません。いつも不安が付きまといます。しかし、「しっかりしなさい。恐れることはない。私がいるではないか」と声をかけてくださる方が、傍にいてくださるのは、なんと心強いことでしょうか。困難の中にあっても、主イエスを救い主と信じる信仰によってもう一歩踏み出しましょう。

2023年1月15日の礼拝宣教から 

「この人による以外に救いはない」 使徒言行録4章5-14節

津村春英牧師

生まれながら足の不自由な人が、神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていました。自分ではどうしようもない現実です。これ以外に生きるすべがなかったのです。そこを通りがかったペトロは、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言って彼を立ち上がらせました。この奇跡的な出来事が、当時のユダヤ当局者の逆鱗に触れ、ペトロとヨハネは最高法院に引き出され尋問されました。ところが、ペトロは聖霊に満たされて、「この人が良くなって、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人イエス・キリストの名によるものです。…この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(4:10-12・聖書協会共同訳)と答えたのです。

三浦綾子さんは「人は皆、奇跡的な存在です」と書いておられます。私たちが今日あること自体が奇跡です。いくら強がりを言っても自分ではどうしようもない状況に陥ります。しかし、心配はいりません。主イエス・キリストが支えてくださいます。みことばを信じ、希望をもって進みましょう。

2023年1月8日の礼拝宣教から 

「恐れることはない」 マタイによる福音書10章26-31節

津村春英牧師

京都で初詣の長蛇の列に出くわしました。人がご利益を求めるのは、何が起こるかわからない不安が暗黙裡にあるからです。

マタイ福音書の背景には、迫害による苦難が想像され、そこから主イエスの時代を見ていると考えられます(5:10-12; 10:17-22; 3:34-36)。「人々を恐れてはならない。…わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」(10:26-27)とあり、弟子たちは恐れないで福音を語ることが求められています。その保障は、「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」(同29, 30)とのことばにあります。

旧約聖書のモーセは後継者ヨシュアに、「主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。」(申命記31:8)と告げました。また、主はパウロを幻の中で、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。」(使徒言行録18:10)と励ましました。私たちキリスト者が語らずして、一体だれが福音を伝えるのでしょうか。